#実神鷹 ―くのいち― 0
上谷上千鳥も、乗越くん同様、僕に会ったことが無いと言っていた。やはり、世界が違えば人も違うんだろう。要するに、別人だということなので、奴との絡みは割愛。
これは、明くる日の話だ。
ふむ。にしても、あの体格と目つきは健在だな。根はいい奴っぽかったから、友達になれそうだ。喧嘩になったら間違いなく僕が負けるんだろうなぁ、と悲壮感を胸に抱き、駅前から舞魅の家に向かう。なるべく早く、足を高速に動かし、照準を合わせる。
タッタッタッタッタッタッタッタッタッ―――。
うん、今日は何か体が軽いぞ。平日の割には睡眠時間が昼寝分ほど多かったせいか。
ちらと上を見上げる。僕の癖だが、今日は雲がぽつぽつと青のキャンパスに点在している。大きく深呼吸すると、朝のひんやりした空気と、街中の喧騒、その他排気ガスなどが含まれた気体が僕の肺に進入してきた。まぁ、気分は悪くない。
続いて、横目で辺りを見渡す。と言っても軽く走っているので、風景が流れているのが見えるだけで、きちんと人の姿を捉えることは難しい。舞魅なら、脳が勝手に判断してくれそうだけど。
おお、今の学生、マフラーしてたな。そろそろ寒くなる季節だっけ。可愛いピンク色のヘッドホンをしていて、音楽に耳を傾けている、のであろう。
続いて男子学生が一瞬、視界に入る。涼しそうな半袖の制服のシャツを着ていて、見ているだけで夏だなぁと感じさせられる。その後に来る、アスファルトからの熱反射が僕の肌をなまぬるく温める。意識しだしたらすぐこれだもんな。所詮人間は意識の問題で、大抵の物事は解決してしまうんだろう。
「ん?えっと、今、7月だっけ」
ピコーン、とバカみたいな擬音語が、僕の頭の中で流れなかった。流れたのは伝達信号。振り返って、お目当ての人間を目で追う。
「7月にマフラー?」
日本は南半球じゃないぞ。
日本が夏で7月の時、同経度のオーストラリアは何月でしょう?という低レベルな引っ掛け問題を思い出した。あのバカは、自信満々に1月!って答えたな。
正解は各自、来週までに考えておくように。小学生の君は、両親に聞いてみよう。
結局、特定の人物の発見には至らなかった。あの半袖学生のせいで、暑さと不快感を胸に宿してしまった。今度見つけたら呪ってやる。
もう一度吸い込んだ空気は、さっきより冷たかった。理由は不明。きっと誰にも分からない。
ガラスが割れた。
ガラスは概念的には液体らしい、という知識が僕の脳にあったが、今回役に立つことはなかった。
目の前でガラスが割れた。
こちら向きに、飛んでくる破片。網膜で捉えるには早すぎる。僕は呆気なくその液体の破片を浴びる。くそ、痛い。頭に刺さって無いだろうな。
「舞魅………岡後さん、大丈夫?」
僕の3,40センチ程後ろに居た舞魅に、僕と同じ被害を受けてないはずが無い。咄嗟に庇ったのは言うまでも無いけど、全然間に合ってない。つい名前で呼んでしまうのは僕のお茶目なところ。
「だ、だ、大丈夫?な、なな、何が起こって、キャーッ」
「岡後さん、落ち着いて!」
奇声を発する舞魅を制する。動かないで、ゆっくり、ゆっくり、と具体的な指示を出し、舞魅を立ち上がらせ、割れた窓ガラスから少しずつ距離を置く。一歩、二歩、三歩と、少しずつ。途中、僕が大きなガラスの破片を踏んだけど、靴が足を護ってくれた。
「暴れないでよ、制服の中にも破片が入ってるかもしれない」
「痛っ――」
「どうしたの?」
「右足、何か、刺さってる……?」
とにかく、二人仲良く保健室に行くことになった。勿論、怪我の手当ての為。
僕の左足には液体の破片が食い込んでいたが、不思議と痛みを感じなかった。傷口ではなく、久しぶりに見た自分の血液とその量が痛々しかった。
「久しぶりに血見たな……。あんな赤色してたっけ、もっと黒かったような」
独り言だ。
大きな病院に患者として来るのは久しぶりだった。それに、外科医の世話になるのも初めてだった。僕は今までで一番大きな怪我が捻挫で、骨折もしたことなかったというのが自慢だったのに。
ましてや、足に包帯を巻いてもらうなんて経験あるはずもなかった。
「痛みますか?」
「ええ、今はちょっと」
「今はって、刺さってた時は痛くなかったって事?」
「ああ、はい。それより、自分の血液を見るのが痛々しかったです」
「………………」
ああ。
語りではよくても口に出したらいけない言葉だったのか。
確かに聞く側からすれば、少し、いやかなり変な人だという印象を受けることが予測される。20代半ばくらいに見える看護師さんは、僕の左足に丁寧に白い布を巻きつけていく。何かくすぐったいな。
「1週間は走らないで下さい。それから、体育とかもダメ。水泳も。もし腫れてきたらすぐに病院に来ること。菌が入ってるかもしれないからね」
優しい声で話す看護師さんの胸には、平仮名でこがねいと書かれていた。エスパー少女のことを思い出したけど、別人のはず。別人であって欲しい。こんな女性らしい人と、小金井が血縁関係があるわけ無いというぼくの決め付け。
「あの、舞魅、一緒に来た女の子は大丈夫なんですか?」
「ああ、あの子は大丈夫。むしろ君のほうが重傷だよ」
「で、その子はもう学校に戻ったんですか?」
「んー多分戻ってると思うけど……」白い布を一時停止させ、顎に手をやり探偵ポーズを取る。
「気になるの?」
「プライベートで付き合ってますから」
「へぇ~………はい、お終い。立ってみて、歩ける?」
立ち上がって、足踏みをしてみる。左に体重を掛けると、若干傷口が痛む。そう説明すると、右足のトレーニングだよ、こがねいさんは言った。好感の持てる冗談だった。
右に体重を預けながら治療室を出ると、舞魅が待っていてくれた。ま、何となくそんな気がしてたんだけどね。
「全治1週間」
「私は全治3日」
「ガラス割ったのって誰だったんだ?」
「さぁ、女の取り合いで喧嘩とか言ってたけど」
「バカらしいな」
始めから台本が用意されていたかのように、スムーズに会話を終えた。
お互い、傷を負いながら笑顔を浮かべた。