王子は追い求める
婚約者のエルザとは、最初からうまくいっていなかったと思う。
彼女は王子である私と釣り合う家格で、能力も申し分なかった。見目は麗しく、初対面のときには見惚れたほどだ。
それでも私と彼女が、いいや、私が彼女を受け付けなかったのはその目だ。私を見ているようで、見ていない。物語に出てくる理想の王子様として、どうやら認識しているようなのだ。
本当の私を見てくれない。
その事実が理想の王子様としてでないと受け入れられないのだと、幼き日からずっと苦しんできた。
偶然似た王子然とした性格はそう簡単に変えられるものでもなく、民を慈しみ導いていくためにもそのようにあるべきと教育された。
そんなエルザにとって都合よく理想の王子様でいた私に、学園で一つの出会いがもたらされる。
「殿下はとても優しいんですね!」
庶民の出のアリスは他意などなかっただろう。私としては床に散らばっていたプリントを拾って渡しただけなのだが、無邪気で素直な笑顔がそれを証明している。
「優しいなんて、誰にでもできることだよ」
そんなアリスだから心の内に留めていた感情が漏れた。貴族でないから、気が緩んでしまった。
今となってはそれが良かった。
アリスは本当の私を見てくれる。愚痴混じりに事情を話しても、王子にあるまじき弱さや甘さがあっても受け入れてくれる。
アリスといると肩肘張らなくて済み、気が楽だった。なによりそのままの自分でいられる。
アリスの見目は婚約者のエルザのように麗しさはないものの、別方面の魅力として愛らしく親しみやすい。また、プリントを落としていたようなそそっかしさもあって、ついつい世話を焼いてしまう。貴族が大多数を占める学園では庶民が過ごすには常識の違いや身分差の苦労があるらしいことも、それを助長させた。
いけないとは分かっていた。婚約者がいる立場で、一人の女性に肩入れすべきではない。どのように貴族に見て取られてしまうか。
言われるまでもなかった。それでも変わらず理想の王子様と見ながら、エルザに正論を突き付けられると到底受け入れられなくなる。エルザは私に話しても無駄だと思ったのか、アリスを学園から退学させるように嫌がらせを始める。私はアリスを守るため共にいることが多くなって、その中で想いを通じ合えたこともあり、欲に従順になって抗えなくなる。
「エルザ。もう君とはやっていけない」
だから、このようになってしまったのは自然なことだろう。
学園の行事で開かれた夜会で、エルザをバルコニーに連れていって話を切り出す。幼い頃に交わした婚約の破棄を告げるつもりだった。
言葉通り、エルザとはやっていけない。彼女はよくても、私には長い将来を共にすることはできないと判断した。
エルザが行った嫌がらせは王妃になるべき身としては問題だと捉えられるが、なにも婚約破棄をするほどではない。これは私の勝手な都合であり、元々私がアリスことアリーと親しくしなければ起こることはなかった。
一方的に婚約破棄はするが、穏便に済ませる。そのために人目のない、それでいて騒ぎ立てられることになっても、そのことによって彼女に非があるように印象付けて貴族の味方が得られるようバルコニーに誘導した。
だが、罪悪感によって肝心の言葉が出てこない。それを焦れったく思ったらしい。
「アリー」
「シリル様……」
親友のセザールの手を借りてやってきたアリーが心配そうに私の名を呼ぶ。切なさも混じっていて、セザールが非難するように睨みつけてくる。
私の代わりにエスコートを任せているセザールは、同じようにアリーを好ましく想っている。アリーが私を選んでくれたのでその想いを秘して応援してくれるが、絶対に幸せにしろと私にはとても手厳しかった。
そんなことなど露知らず、アリーはセザールの手を簡単に手放して身を寄せてくれる。
ああ、やはり私には君が必要だ。
罪悪感に勝る、婚約破棄を告げる勇気が出てくる。
私はどうあっても王子で、アリーは庶民だ。セザールの言う幸せは、直ぐには難しいだろう。
それでも最悪は全ての非難や罰を受け入れてでも、君を幸せにしてみせる。
アリーの体に腕を回し、目と目を合わせて想いを確かめ合う。最後に腕に力を入れて更なる勇気を貰い、婚約破棄を告げる。
だが、その前に「ああ、そういうこと」と冷ややかな声を浴びせられた。
「エルザ……?」
棘のある、鋭い雰囲気を纏っている。
そんなエルザの態度は初めてで戸惑う。そういえば彼女は私のことを常に理想の王子様として見ていたため、いつも悪意なく嫋やかに接していた。
「汚ならしい」
ゾクリと肌が粟立つ。同時に、ドクンと心臓が飛び跳ねた。
初めて向けられた不快という悪意。その強い感情に怖気立ち、それ以上に期待と喜びが心を占めた。
ねえ、エルザ。もしかして………………やっと理想の王子様でない、本当の私を見てくれた?
「わたくしは、お二人の行く末を祝福しますわ」
エルザの態度が一変し、貴族らしい上品な笑顔を向けられる。
あれ……違った?
騒ぎ立てられると想定していたこともあって、愕然として咄嗟に言葉が出ない。その隙にエルザが素早く去ってしまうのを、セザールがとめてくれた。
「お前、アリーにしてきたことを忘れたとでもいうのか!」
アリー優先のセザールなので、第一声にはふさわしくない頓珍漢なことを言う。
一応通じはするが、話が飛躍しているだろう。まずはどういった心境の変化だ、とか聞いてくれればいいのに。
そんなのんきな思考でいつつも、私はエルザを引き留めるのに加わろうと一歩踏み出していた。セザールは見るからに激昂していて、頓珍漢な言葉もあってどうにも信用ならなかった。
だから、セザールの影に隠れて、バルコニーの欄干を乗り越えて落ちようとするエルザに手を伸ばすことができた。
「エルザっ!」
間に合うはずだった。彼女も助かるために手を伸ばしていて、私の手を振り払えるなら握ることもできた。
それなのに、なぜ。
鈍くも小さくない音が耳に届くも、遠い出来事のようだった。混乱する頭ではあるが落下したエルザを探すことはでき、だが、夜の暗さに紛れていてよく見えない。
「シリル、どこに行くんだ!」
大声で叫ばれ、意識を揺さぶられることでハッと現実的になる。私は下に落ちたエルザを、無自覚に探しに行こうとしていたらしい。
「シリル様…………行かないで」
連鎖的に手を取られていることも知る。行かないで、という言葉は掠れていた。
「ああ、アリー。セザールも…………ちょっとごめんね」
縋る言葉は聞こえなかったことにする。
弱弱しい手からそっと抜け出して、私は今度こそエルザを探しに行く。怒り余ってエルザを突き飛ばしてしまったらしいセザールは特に混乱していたため、力づくで止められることはなかった。
夜会を楽しんでいた学園の生徒は、急ぐ私のために道を開けてくれる。どのように見られているかなんて、今はどうでもよかった。
ふわふわとした夢の心地の中、手の痺れが現実だと教えてくれる。私が不快だと拒否された確かな証拠だ。
そしてもう一つ、最後に見えたエルザの表情を思い出す。二階という高さから落ちるのに、恐怖もなく邪悪に嗤っていた。
「確認、しないと……」
そんな記憶という不確かな証拠を、確かなものにと手繰り寄せるために走っていた。好ましかったアリーも、幸せにすると誓ったセザールも置いて、ようやく本当の私を見てくれたエルザを追い求める。
……生きているといいんだけど。
生きてさえいれば、なんとしてでも助けてみせる。
今度はきっと、私たちはうまくいくよ。君はどうだか分からないけど、こうなった責任はとらないといけないよね。
そして、私は誰よりも先にエルザの元に辿り着く。後から聞いた話だが、彼女を想って走っていた私の表情は歪で、同じように嗤っていたらしかった。