第8話『黒い夢』
ChapteR.8 As black as the dream
※少女S視線
また同じ夢だ。
これは夢だって自分でわかっている夢のことを、なんていうんだっけな。
そんなことを考えていたら突然目の前が眩しくなって、私は目を覚ました。
もう何度も同じ夢を見ているけれど、夢の中で起きるって感覚は、今でも少し不思議な気持ちになる。
布団の上で、ゆっくりと身体を起こす。部屋の電気はついていないけれど、代わりにカーテンの隙間から明るい光が差し込んでいた。さっき眩しいって思ったのはこれのせいだったみたい。
そこは畳が五枚分くらいの広さの部屋だった。布団と、押し入れと、勉強用のちゃぶ台くらいしかないような小さな部屋。
私とハクの部屋だった。
「あーあ……こっちかー」
思わず、そんな声が漏れる。
夢のパターンはいくつかあるけれど、決まって見るのは嫌な思い出ばかり。特に『これ』は目覚めが最悪な気分になるから一番苦手だった。
今の私は小学校の三年生か四年生くらい。そしてここは、葛城町に住んでいたときの家だ。
私がまだ——堤桜夜って名前だったときの記憶。
おうちは普通のアパート。もしかしたらマンションかもしれない。アパートとマンションの違いなんてよくわからないけれど、とにかく集合住宅の三階だった。
この部屋は、私とハクの子供部屋。布団を二枚並べたら、それだけでぎゅうぎゅうになってしまうくらいには狭い部屋だった。
ふと、隣の布団で寝返りを打つ気配を感じて、そっちに視線を向けてみた。そうだ、このころはハクのほうがお寝坊さんだったんだっけ。
枕元の目覚まし時計を見てみる。
ああ、もうすぐ起こされる時間だ。
「——ふざけるな!!」
突然。
男の人の怒号が響いた。
それと同時に、隣で寝ていたハクが飛び起きる。
「……今の、父さんか?」
ささやくように小さな声で、ハクはひそひそと話しかけてくる。当たり前だけど、それは小学生の声だった。声変わりをする前の少し高い声に、なんとなく懐かしい気持ちになる。
こくりと頷いてみせると、突然、ハクはぎゅっと私を抱き締めてきた。
「サクは、俺が守るから」
大丈夫だから。そう言いながら、ハクは抱き締めてくる力をぎゅうっと強くする。
扉の向こうでは、お父さんとお母さんがけんかをしている。その怒鳴り声や激しい物音をどこか遠くに聞きながら、私もハクのことを抱き締め返した。
このころ。
お母さんは、悪い宗教にはまっていた。
お金をたくさん貢いで、悪いところからもお金を借りてきて、お父さんはそのお金を返すためにがんばって働いていた。
ふたりともこの家にはめったに帰ってこなかったけれど、帰ってくるタイミングが合うと、今みたいにひどいけんかばかりしていた。
お父さんはいつもいらいらしていたし、お母さんは会うたびにおかしくなっていく。
あの人がそんな宗教にのめり込んでしまった理由は、今でもわからない。
普通の家族だったと思う。少なくとも、それまでは。
だから、どうしてお母さんが虚飾の神様に心の拠り所を求めたのか、私には想像もできなかった。
家のことは、ほとんどハクがしていた。
買い物も、料理も、洗濯も、掃除も。ふたりの代わりに、ハクがしていた。
私も手伝おうとしたけれど、洗濯物は落として汚してしまうし、お皿を洗おうとしたら割ってしまうしで、ハクの足を引っ張ってばかりだった。
私には、何もできない。
それでも、俺は兄ちゃんだからな、とハクは笑ってくれた。双子なのに、同い年なのに、ほんの少し早く生まれたというだけで、ハクは私の兄さんであろうとしてくれた。
妹を守ろうと、がんばってくれていた。
お母さんは。
悪い宗教にはまっても、お金をたくさん貢いでも、めったに家に帰ってこなくても……それでもあの人は、私たちの母親だった。
気まぐれに帰ってきたと思ったら、私とハクが好きだったご飯を作ってくれたり、お菓子を買ってきたりしてくれていた。
だから私は、たとえ嘘の神様を信じていても、頭のおかしなことを言うようになっても——それでも、あの人のことをお母さんだと思っていた。
あのときまでは。
「お前は」
ある日。
お父さんはどこか遠くを見つめながら、独り言のように呟いた。
「俺の子供の癖に、俺と似ていない」
その言葉の続きを聞きたくなくて、耳をふさいだ。
でも、私はそれを知っていて——忘れる日は一日だってなかったくらいには、記憶に焼きついていて。
だからお父さんのその言葉は、刃物みたいにまっすぐ私の心を斬り裂く。
「お前は——俺の子供じゃない」
痛い。
夢の中なのに、痛いって感じた。
お父さんはこのとき、きっととても疲れていたんだと思う。
毎日毎日夜遅くまで働いて、それでも自分の奥さんはどんどんおかしくなっていくし、借金は増えていくばかり。
だから、お父さんは自分に似ているほうだけを愛することにした……というより、お母さんに似ているほうを愛せなくなった、と言ったほうがいいのかもしれない。
そうすることでお父さんは楽になりたかったんだと、今では思う。
でも。
それは全部、今更なことだ。
お父さんがその言葉を口にした瞬間、私の中で彼はお父さんじゃなくなった——同時に、お母さんのことも、もう母親だとは思えなくなった。
ふたりは私の両親じゃなくて、ただの幹也さんと美咲さんになってしまった。
血が繋がっていなくても家族にはなれる、なんて頭のいい人は言うけれど——それはとても正しいことだと思うけれど——逆に言えば、血が繋がっていても家族じゃなくなることだってあると思う。
もしも。
もしも私が男の子だったら、そんなことにはならなかったのかなって考えるときがある。
私が女で、二卵性だったことが悪いのだから、ハクとうりふたつな弟として生まれてくることができたらお父さんはそんなことを思わなかったんじゃないかって。
この夢を繰り返すたびに、そんなことを考えてしまう。
不意に、目の前の風景がいつの間にか変わっていることに気がついた。
もうすぐ、この夢も終わる。
それは夏の朝のこと。
夜遅く帰ってきて、少し眠ったらまた仕事に行くような生活をしているミキヤさんが、珍しく朝から居間でのんびりとお茶を飲んでいた。
面倒なことを全部、もう終わらせようと思うんだ。
だからその前に、ゆっくり休むんだよ。
ミキヤさんはそう言って微笑む。
私にはその言葉の意味がよくわからなかったけれど、きっとお仕事の話なのだと思った。
だから私たちはその日もいつも通り学校に行って、放課後は普通に家に帰ってきた。
玄関には、ミキヤさんとミサキさんの靴が綺麗に並べて置かれている。
けれど台所にも、居間にも、ダイニングにも、ミキヤさんの部屋にもミサキさんの部屋にも——どこにもふたりの姿は見えなくて。
だからハクは、最後のドアに手をかける。
ちゃぶ台しか置いていない、布団を二枚並べたらそれだけでぎゅうぎゅうになってしまうくらいに小さな部屋に続くドアに、手をかけた。
駄目。
嫌。
やめて。
お願い、そのドアは——
「——開けないで!」
そんな自分の声に、目を覚ました。
布団の上で、ゆっくりと身体を起こす。そこは畳が五枚分くらいの部屋——じゃなくて、その倍はありそうな広い和室だった。
置かれている家具だって、もうちゃぶ台だけじゃない。クローゼット、箪笥、本棚、勉強机、ふかふかのクッション……あの部屋になかったものが、ここにはたくさんある。
ここは私の部屋。
黒神さんちの子供として、私に与えられた部屋だった。
「……うあー」
私は体育座りをして、その膝に頭を押しつける。
やっぱり、最悪な目の覚まし方をしてしまった。
顔を上げて、時計を見る。午前三時五十分。イツキくんがジョギングをするのは五時からだから、目覚まし時計はいつも四時に設定していたのだけれど、それより少し早く目を覚ましたみたい。
中学のときはトレーニングのために早起きをしていたけれど、最近はあまりよく眠れなくて、めっきり朝に弱くなっている。この間の土曜日も起きられなくて、結局学校をさぼってしまった。
夢は昔からよく見ている。でも、中学校を卒業したころから、ほぼ毎日のように悪い夢を見ていた。
嫌なことを思い出させてくるような、黒い夢を。
朝起きることができないのも、きっとこれが原因なのだと思う。
私はあくびをしながらジャージに着替えて、髪をくくる。いつものマフラーを首に巻くと、クローゼットの奥に隠している靴を取り出した。そして窓から外に出ると、抜き足差し足で蔵に行く。
黒神さんちの蔵は、下のほうに換気用の小さな窓がある。そのうちのひとつに鍵が壊れているものがあることを、たぶん大人たちは知らない。
蔵の中は暗くて、少しほこりっぽい。私はマフラーを引き上げて鼻を覆いながら、竹刀や木刀がたくさん差し込まれているスタンドに向かう。そのうちのひとつ、革製の竹刀袋に入っているそれを私は手に取った。
中身は日本刀。
本来なら大切に仕舞われていたはずのその刀は、中学を卒業したころからこの中に入っていた木刀と入れ替えられていた。
黒神さんたちには、言っていない。言えるわけがない。
家族に隠し事をしている。そう思うと、口の中が苦くなる。
黒神の人たちは、みんないい人だ。私たちのことをまるで本当の弟や妹みたいに愛してくれているし、私もそんなあの人たちのことを家族だと思っている。
それでも、私にとっての兄さんと呼べる人はハクだけだ。
私にとっての兄さんは、ハクしかいない。
古鷹高校の入学説明会。ぱらぱらとパンフレットを捲っていたハクの顔が凍りついた瞬間を、私は思い出す。
堤の家を壊した原因——照井先生の存在に気がついたときのハクの表情を、私は忘れられない。
大丈夫。
大丈夫だよ。
ハクのことは、私が守るからね。
ハクの足を引っ張ってばかりで、何もできなかった私だけど、それだけはやり遂げてみせるから。
だからお願い、と。刀を抱き締めながら、私は祈る。
「——どうかそのまま、何も知らないままでいて」
* * * * *
「あ、桜夜。おはよう。先週ぶりだな」
「…………」
「……? 俺の顔に何かついてるか?」
「あー……」
しいて言えば笑顔がついているかな。
そう言おうと思ったけれど、なんとなく気兼ねを覚えたからやめておいた。
先週ぶり。
目の前にいる彼——イツキくんと最後にあったのは四月二十二日の朝で、今日は二十七日の月曜日だから、数字でいうと五日ぶりになる。
水曜日からずっと、彼は学校を休んでいた。長く患っていた病気が突然治ったから、検査のために病院に入院しているんだって担任の浮橋先生は説明してくれた。
先生は病気についてあまり詳しく言わなかったけれど、目の病気ということだけは教えてくれた。そういえば白露大橋の上で、イツキくんは世界が灰色に見えると言っていた。ひょっとしたら、あれは本当に視界が白黒に見えているって意味だったのかもしれない。だとしたら、私は本当に意味のわからない話をしたことになる。そう思うとちょっと恥ずかしかった。
そして昨日。いろんな検査が終わったみたいで、イツキくんは病院から解放された。明日から——つまりは今日だけど——ジョギングを再開しようと思う。そんな連絡がきたから、私は久しぶりに彼の家に訪れる。
黒いジャージ姿のイツキくん。そんな彼を見るのも、なんだか久しぶりな感じがした。なんとなくだけど、前より表情が明るくなったように見える。私と目が合うと、イツキくんはどうしてか優しげな笑顔を浮かべた。彼はどちらかと言えば仏頂面な人だから、そんな表情をするのは珍しいなって思う。
「元気そうだね」
「健康優良くらいしか俺には取り柄がないからな」
「そんなことはないと思うけど」
「ん? ああ、そうか。ここ最近はそれほどでもないかもな」
そういう意味でもないんだけどな、と思った。
イツキくんは私と違って頭がいいし、運動神経もある。そういう人のことを、難しい言葉で『ぶんぶりょーどー』って呼ぶらしい。弱点っていう弱点なんて、彼には方向音痴くらいしかないのかもしれない。
だからイツキくんの取り柄は健康だけじゃないって思うのだけれど、それをうまく伝えられる言葉が思いつかなかった。
世間話もそこそこに、私たちは夜明け前の町へと駆け出す。イツキくんは病院にいたし、その間は私ものんびり寝坊していたから、こんな風に走るのはふたりとも久々だった。
しばらくぶりに履いた靴は、やっぱり少し走りにくい。もともと走るための靴じゃないから当たり前なのだけれど。
隣を走る彼の表情は、やっぱりどこか明るいように感じた。それを見て、私は入学式のときのことを思い出す。
紅野樹月くんを初めて見たとき、生きにくそうな男の子だな、というのが第一印象だった。
イツキくんは、いつもひとりで音楽を聴いていた。両耳にイヤホンをつけて、視線はそれが繋がれているスマートフォンに向けている。昼休みだけじゃなくて、ホームルームが始まる前の空き時間とか、授業合間の休憩時間とかでもそんな感じだった。
まるで、自分には話しかけるなって、クラスのみんなに主張しているように感じた。
クラスのみんなはみんなで、彼からは遠ざかっているみたいだった。髪色の暗い人ばかりの教室だと、イツキくんの見た目はみんなとは外れているように見えるのかもしれない。
私は馬鹿だから、みんなのそういう気持ちはよくわからない。
世の中には肌の色が黒い人もいれば白い人もいる。髪の色が暗い人もいれば明るい人もいる。だったら、彼みたいに赤い人がいても、別に不思議なことじゃないって思う。
色なんて、所詮色でしかないのに。
どうしてみんな、そんな小さなことにこだわるんだろう。
イツキくんはみんなから仲間外れにされているわけでも、疎まれているわけでもなかったけれど、それでも私の目には、やっぱり生きにくそうに見えた。
最近は、そんなイメージも変わりつつあるけれど。
「思ったんだが」
不意に、イツキくんは口を開いた。
「桜夜が通り魔をしてるのは、堤さん——両親の復讐、なんだよな?」
「んー、まあ、そうだね」
「つまり、無差別というわけじゃないんだな」
「うん」
私は頷く。
誰でもいいってわけじゃない。それは確かなことだったから。
「じゃあ、俺とこうして早朝に町を回る意味はないんじゃないか?」
「え。だって、これイツキくんを見張るためだし」
そう答えたら、彼はどうしてかぽかんとした表情を浮かべた。
「見張るって……」
「ついでに運動不足を解消しようっていうのもあるけどね。あれ、私最初に言わなかったっけ?」
言ったような気がするんだけどな。そう言ったら、確かに言ってはいたが……と、イツキくんは呟いた。頷きはしたけれど、納得はしかねているみたいだった。
私にとっては、イツキくんが私の目の届く範囲にいるというのが何よりも大切なこと。だから共犯者になってもらうっていうのは、ことのついででしかなかった。
「つまり、えっと……これまでのはただの散歩だったということでいいのか?」
「そう思ってくれてもいいよ」
「そうか……」
そうだったかのか……、と彼はため息をつく。ほっと安心しているような、でもどこか呆れているかのような息の吐き方だった。
「まあいいか。それじゃあ、今日はどこに連れていってくれるんだ?」
「どこにって?」
「この間の朝焼けとか、その前の桜の穴場とか……色々なものを見せてくれただろ。今日はそういうところには行かないのか?」
そう言うと、イツキくんはこちらに視線を向けた。なんとなく、その目は期待に輝いているように感じる。
白露大橋にしても、あの桜の木にしても。ただ単にいつものルートから道を変えたくて、そのついでに教えてあげただけだったのだけれど。
「イツキくんはお花が好きなの?」
「好きだよ。最近、好きになった」
イツキくんがそう答えたのを聞いて、やっぱりそうなんだって私は納得した。
どこかいい場所あったかなって、少し考えてみる。
「夏だったら向日葵がいっぱい咲くとこあるんだけどなあ。気持ち悪いくらい」
「き、気持ち悪いのか……」
「初めて見るとちょっと引くよ。秋は彼岸花とか……あ、由良山の紅葉は綺麗だよ。知る人ぞ知る、紅葉狩りの穴場」
「へえ、それは初めて聞いたな」
「冬は……このあたり雪降らないし、星が綺麗に見られるとこしか知らないや」
「星か。星もいいな」
そんな風に、私の話に対して楽しそうに相槌を打ってくれていた彼は、不意に、
「俺の知らない素敵なものを、桜夜はたくさん知ってるんだな」
と、そう言って微笑んだ。
その笑顔はとても優しくて、胸のあたりが温かくなると同時に、どうしてかむずむずとかゆくなる。
やっぱりイツキくんは変わった。病気が治ったから、というのもあるかもしれないけれど、その前から少し様子が変だったような気はする。
それまでのイツキくんは、考えていることが読みにくい人だった。わかるのは嘘をついていないということだけ。私との約束を守ってくれているということだけは、読み取ることができた。
だからこそ私は、彼にだけは嘘つきだって思われたくなかった。
イツキくんにだけは疑われたくないって、そう思った。
葉鶏頭——伊東先生が殺されたって集会で聞いたとき、頭に浮かべたのは彼のことだった。
もしもイツキくんが、私のことを疑っていたらどうしよう。
私じゃないと言ってみても、信じてくれなかったらどうしよう。
そう思うと怖くて、不安で……どうしようもなく気持ち悪くなってしまったから、その日はお迎えを呼んでもらって早退してしまった。
「…………」
けれど、今の彼は違う。嘘をつかないだけじゃなくて、その言葉がまっすぐなものだっていうことが伝わってくる。
本当のイツキくんにようやく会えたような、そんな不思議な気分だった。
「桜はもう散り始めちゃってるし、ほかのお花が咲いてるとこも少し遠いし……今日のところは、特に思いつかないかな」
「じゃあ、いつものルートでいいか?」
「んー……そうだね。ここらであえて元に戻ってもいいと思う」
少しだけスピードを緩めて、一瞬、背後に視線を向けた。そこに広がっているのは誰もいない町の風景。それを確認して、私はまた前を向く。
「桜夜」
イツキくんが私の名前を呼ぶ。
それはさっきまでとは違う雰囲気の、真面目な声だった。
「通り魔なんて、もうやめたほうがいい」
「あれ、その話はこないだ終わらなかったっけ」
「終わらせない」
終わらせなんてしない。そう言って彼が立ち止まるから、私も足を止めた。
イツキくんがこちらを見ている。その瞳が鏡みたいに私の姿を映しているのは、きっと彼が、視線だけじゃなくて心もまっすぐに私と向き合おうとしているから。
あ、と思う。
苦い。
苦いものが、口の中に広がった。
「復讐からは、何も生まれない」
「月並みだね」
「茶化すな」
「生まれるものはきっとあるよ。少なくとも、通り魔はひとり生まれた」
私がそう言うと、イツキくんはきゅっと眉間に皺を寄せた。そして、少し困った風に目を伏せる。
ああ、本当に、感情がわかりやすくなったなあ。
言葉で、表情で、仕草のひとつひとつで、私のことを止めたいと思ってくれていることが伝わってくる。
それがわかるからこそ、余計に呼吸が苦しくなるんだ。
「……親が娘に、そんなことを望むわけがない」
「いやあ……それはどうかなあ」
それは、本当にどうなんだろう。
ミサキさんは望まないかもしれないけれど、あの人はそもそも復讐しようとすら考えないと思う。彼女は自分から望んで騙されにいったようなものだから。
ミキヤさんのほうはどうだろう。あの人はそんなことを考えているかもしれない。むしろ彼の立ち位置なら報復することを考えていても不思議じゃないと思う。
まあ。
どっちにしろ、それを堤さんたちに訊くことはできないのだけれど。
やがて、お別れの時間が訪れた。
イツキくんと別れる、いつもの交差点。彼は私に背を向けて、朝の風に髪を揺らしながらおうちに帰っていく。
林檎みたいに赤い髪をしている男の子。
イツキくんの隣は温かくて、そばにいるだけで少し寒さを忘れられそうになるけれど——同時に、喉の奥から苦いものが込み上げてくる。
それはきっと、罪悪感の味。
そしてそれは毒へと形を変えて、私の呼吸を止めようとしてくる。
白雪姫の林檎から得られる教訓は、甘い蜜には猛毒がある、ということ。
彼と言葉を交わすたびに、それは私のことを侵していく。
それでもそばにいたいと思ってしまうのは、きっと、イツキくんの隣が誰よりも温かいから。
だから今日も、私はこの苦味を我慢して息をする。
「…………」
思考を切り替えて、私は軽く背を伸ばした。腕を振ったり、脚を曲げたりして、簡単なストレッチをしたあと、
「——よし」
と呟いて、軽く頬をたたく。
右肩にかけていた竹刀袋を斜めがけに背負って、マフラーの両端を首の後ろで結ぶ。これなら本気で走っても、あまり邪魔にならないから。
靴紐を結び直そうとして屈む——振りをして、背後を確認した。
視線。
気配。
露骨なくらいにわかりやすい尾行。
最近——正確にはイツキくんとジョギングをするようになってから、視線を感じることが多くなった。
だからルートを特定されないように、ここ最近はわざと道をランダムにしていたのだけれど……そのおかげで、わかったことがある。
この尾行者の目的は私だ。
私を狙って、跡をつけている。隣にいる彼には目もくれずに。
屈んだ姿勢のまま、アスファルトの歩道に手をつけた。靴は脱いだほうがいいかな。正直、裸足のほうがまだ走りやすいような気がする。一瞬そう思ったけれど、これから走る道のことを頭に浮かべてやめることにした。裸足で怪我をして、それで時間を取られでもしたら最悪だもの。
それに。
少しくらい走りにくくても大丈夫。きっと、大丈夫。
もともと、私は長距離よりも短距離のほうが得意だ。持久力よりも、瞬発力のほうに自信がある。
短期決戦。
スタートダッシュで勝負を決めなくちゃ。
「よーい……」
深く息を吸いながら足に体重をかけて。
ゆっくりと吐きながら腰を上げる。
そして——
「——どんっ」
家とは違う道へと、全力で駆け出した。
同時に、気配が慌てて追いかけてくる。
でも遅い。
距離は開いていく。
私は道を直角に曲がって路地に入る。遅れて、気配もついてきた。
狭い道をジグザグに進む。
走って、駆けて、全力で疾走して。
そうして路地を抜けたときには、尾行者の気配は消えていた。
「——はっ……はあっ……!」
息が苦しい。
しんどい。
やっぱり長距離は苦手だ。
私はその場に座り込んで、激しく乱れた呼吸を整えようとした。汗がだらだら流れて、髪や服が身体に貼りついている感じがして気持ち悪い。
「……あー、どうしようかなあ」
そんなことを呟いても、答えを教えてくれる人なんていない。
それに、どうすべきかなんて、考えるまでもなかった。
尾行者の気配を感じるのは、イツキくんと走っているこのときだけ。昼間……特に通学路では一度もない。
つまり、黒神の家や学校はまだ特定されていないってこと。
なら、いい。
これは、私だけの問題だから。
「……帰ろ」
私は竹刀袋を肩にかけ直して立ち上がる。
帰るべき家に帰るために。
おかえり、と言ってくれる人たちがいる家に。
ここにいてもいいよって許される場所を居場所と呼ぶのなら。
黒神の家は、確かに私たちの帰るべき場所だから。
* * * * *
「サク」
「なあに、ハク」
お昼休み。
窓の外に広がっている空は灰色で、明日には雨が降るかもしれないって天気予報のお姉さんが言っていた。
桜は、もう全部散っちゃうかもしれないな。
そんなことを思いながら、ハクと一緒にお昼ご飯を食べようとリュックからお弁当の包みを取り出したとき、その本人に名前を呼ばれた。
「今日の昼飯は藤咲も一緒でいいか?」
「藤咲さん?」
高校生になってからは、お昼ご飯はハクとふたりきりで食べていた。だから、彼の口から出たその名前に、私は少しびっくりする。
「来月の中旬に林間学校あるだろ?」
「へえ、そうなんだ」
「入学式に年間スケジュール配られただろうが……で、その話を進めときたいんだ」
ちらり、と藤咲さんのほうに視線を向けてみた。席順は入学式のときのままだから、彼女の席は出席番号が後ろのほうにある。
タイミングがよかったみたいで、藤咲さんのほうもこっちを見ていた。目が合うと、にっこりと微笑んで軽くお辞儀をされる。
「ふうん。まあ、わかったよ」
「おお、ありがとう」
「ご飯はふたりで食べるといいよ。私いてもハクの役には立てないと思うし。今日はイツキくんと食べるから」
「ああ、了解した……、——って、ちょっと待て」
お弁当を手に席を移動しようとすると、ハクに待ったをかけられた。
「なんでそこでイツキの名前が出るんだよ」
あ、ちょっと怒った。
ハクは頭の固い人……というか、少し古い考え方をする人だから、私が男の子と仲良くしようとするとわかりやすく不機嫌になるのだ。
「ほら、私もあの人も友達いないから、ぼっちはぼっち同士でつるんだほうが平和でしょ? ぼっち飯同盟だよ」
「寂しいこと言うなよ……」
私の言葉を聞いたハクは、少し悲しそうな表情を浮かべた。なんでだろう。
首をかしげている私に気付かないまま、ハクはほんの少しだけ考え込むような仕草をすると、
「よし、いいこと考えた」
と言って、ぱんっ、と手を鳴らした。
そんなやり取りが十分前のこと。
「……これはどういう状況なんだ」
呆れるような声でそう言ったのはイツキくんだった。
イツキくんの正面、ハクの席を後ろ向きにして彼の机とくっつけていた。その席には当たり前のように——実際、当たり前だけど——ハクが座っている。その隣には藤咲さんが、クラスの子から借りた机を同じようにくっつけて座っていた。
説明してくれって言いたそうに、イツキくんは少し困ったような目でこっちを見つめてきた。そんな視線を向けられた私はというと、彼の右側の席に着いている。
「ぼっち飯のイツキくんをハクが憐れんだんだよ」
「え」
「違うからな」
「うふふ」
ハクが考えた『いいこと』というのは、四人で一緒にご飯を食べよう、という簡単なものだった。
そうすればふたりは話し合いを進めることができるし、私たちはぼっち同士でご飯を食べるという寂しいことをしなくてもよくなるから——と、ハクは言っていた。
イツキくんは少し呆気にとられていたようだけど、ハクの説明を聞くと、そうか、とひと言だけ呟いて頷いた。みんなとご飯を食べるのは、特に嫌ってわけじゃないみたい。
藤咲さんがそれを承諾したことは少し意外だったけれど、考えてみたら、彼女は断らない可能性のほうが高いのかもしれない。
「あ、私左利きだから席交換して」
「ん? ああ、わかった」
イツキくんは頷いて、すぐに席を立ってくれる。入れ替わった席に座り直すと、その椅子はほんのりと温かかった。
「双子でも利き手は違うんだな」
「二卵性だもん」
「利き手に遺伝って関係あんのか?」
「アメリカの研究者たちの中では、利き手は遺伝によって決まるという見解でほぼ一致しているそうですよ」
藤咲さんが言った遺伝という単語に、私は思わず、ミキヤさんとミサキさんのことを頭に浮かべた。
「……そういえば、堤さんも左利きだったなあ」
「ご親戚ですか?」
「そんなとこ」
そうですか、と藤咲さんは頷いてお弁当の包みを開けようとしていた。
こっそりハクの様子をうかがってみた。彼は特に気にした風もなく、いただきます、と手を合わせている。それを見て、私は少しほっとした。
なるべく、ハクの前で堤さんたちの話をしたくはなかった。きっと忘れることはできないと思うけれど、それでも彼にはあの人たちのことをあまり思い出してほしくない。
今度からは気をつけよう。私はそう思いながらお弁当の蓋を開けた。お昼ご飯はいつもハクが作っている。奥さんのサオリさんは仕事の都合でおうちを留守にしていて、ほかの家族はみんな料理ができないから。
隣にいるイツキくんもお弁当のサンドイッチを口に入れようとしているところだったみたいだけれど、彼はどうしてか、目の前にいるふたりのことをじっと見つめていた。
その目の先にいるハクと藤咲さんは、最初に言っていた通り何かの話し合いをしているみたいだった。机の上にプリントを広げて、真面目な顔と声で相談し合っている。
不意に、イツキくんの視線に気付いた藤咲さんが、どうかしました? と尋ねた。彼は少し考え込むような仕草をすると、しばらくしてから口を開く。
「お前たち、座高が同じなんだな」
あ、言っちゃった。
そう言いかけた口を慌ててつぐむ。そして静かにハクの表情をうかがってみた。
ハクは下を向いて、ぷるぷると全身を震わせている。
あー、これはやばい。完璧に地雷ぶち抜いた。
これから落とされる雷を想像して、そっと身構える。
うつむいていた彼はばっと顔を上げると、びしっと、イツキくんに向けて箸の先を突きつけた。行儀の悪い仕草だったけれど、それを誰かが注意する前に、教室に怒鳴り声が響く。
「傷ついた、俺は傷ついたぞ! 誰もがお前みたいにタッパあるわけじゃねえんだ、てめえ身長何センチだ!」
「一七六だが」
撃沈。
さっきまで怒っていた態度とは百八十度変わって、ハクは机に突っ伏した。
クラスの視線が私たちのほうに集まったけれど、なんでもないですよーって藤咲さんが言うと、みんなすぐに友達とのお喋りに戻る。
藤咲さんは隣のハクに視線を戻すと、ふむ、と顎に指を当てた。
「身長チェックのお時間です。一番藤咲蒼海、一六〇ジャスト。桜夜さんは?」
「一五八」
「くっ……」
「ハクは一六二」
「ばらすなよ!」
机に顔を伏せたまま、ハクは叫ぶ。彼にとっては言っちゃ駄目なことだったみたいだけど、たぶんみんな察していると思う。
あー、という声を漏らしながら、藤咲さんは苦笑いを浮かべてハクの背中を撫でた。
「まあ、元気を出してください。ほら、この四人で並ぶと紅野さんだけ頭が出ちゃうじゃないですか。仲間外れは彼のほうですよ。ね?」
「うれしくないフォローをありがとう……」
とうとうハクは両手で顔を覆ってしまった。なんだかかわいそうに思えてくる。
仲間外れって呼ばれたイツキくんのほうはというと、それに対して特に気にした風もなくて、ただ首をかしげているだけだった。
「白夜と桜夜は同じくらいの身長だと思ってたんだがな」
「どんだけ俺の身長を下に見てたんだよ!」
「いや、桜夜のほうがもう少し高いイメージだった。藤咲より上だと思ってたんだが……」
俺の気のせいだったようだ、というイツキくんの言葉にハクは一応落ち着いてくれたみたいで、そうかよ、とだけ呟いて顔を上げる。私はそんな様子を、何も言わずにただ見つめていた。
ハクは仕切り直すように咳払いをすると、藤咲さんとの話し合いの続きを始めた。私とイツキくんもお昼ご飯を再開する。
おかずの卵焼きを口に運ぼうとしたとき、横側の髪が流れてきた。思わず、おっと、という言葉が口から出る。箸を持っていない右手で髪を耳にかけ直しながら、あらためて卵焼きを口に入れた。
「そういえば、桜夜はもうポニーテールにはしないのか?」
突然、隣の彼がそんな風に話しかけてきた。
その質問に、ポニーテール? と、反射的に首をかしげる。
いつもの髪型はふたつ結びだけど、ポニーテールにするときもある。例えば体育のとき。髪が邪魔にならないように、ひとつに結び直していた。くくる位置は少し低めだから、尻尾って感じじゃないかもしれないけれど。
そういえば、中学のときはよくポニーテールにしていた。きちんと高めの位置にくくった、尻尾って感じのポニーテール。特に早朝トレーニングのときはよくそんな髪型にしていたっけ。
考えていてもよくわからなかったから、体育のときだけかな、と正直に言ってみた。そんな私の答えに対してイツキくんは、
「そうか」
と、特に表情も変えずに頷いた。表情は変わらなかったけれど、声色のほうはほんの少しだけしょんぼりしていたような気がする。
そんなお喋りを最後に、私たちは会話をやめる。
お昼休みの教室はにぎやかだ。あっちこっちのグループで、みんな楽しげにお喋りをしている。目の前にいるハクは真剣な顔をしてプリントとにらめっこをしているし、その隣にいる藤咲さんは少しご機嫌そうに笑っていた。
私と隣の彼との間には沈黙が漂っていたけれど、そのことを特に気まずいだなんて思わなかった。どうしてだろう。イツキくんと走るようになってから、隣にいることが当たり前になってきているのかもしれない。
「…………」
思わず、箸を止めた。
いつもみたいに制服を着て、当たり前みたいに学校に通って、ハクやイツキくんたちとお喋りをして、こんな風に机をくっつけて、おいしいお弁当を食べて、お昼休みを一緒に過ごして。
こんな日常を、あとどれくらい過ごすことができるのだろう。
あと何度夜を眠って、朝日を迎えられたら。
いつになったら——みんな、通り魔のことを忘れてくれるのかな。
「……、……」
こんなこと、いつまで続けなくちゃいけないんだろう。
退屈で、つまらなくて、だからこそ尊い日々。
眩しすぎるそれに、私も、いつかは戻ることができるのかな。
「…………このまま、何事もなく過ぎていけばいいのになあ」
そう願わずにはいられなかった。
* * * * *
「サク」
「なあに、ハク」
放課後。
下校時刻が早くなっているから、窓の外に広がっている空はまだそんなに暗くない。けれど今日の天気はくもりだから、いつもよりは少しどんよりとしていると思う。
ハクと一緒におうちに帰ろうと荷物をまとめているとき、その本人に名前を呼ばれた。
なんだかこのやり取り、一度やったような気がするな。そんなことを思いながら私は返事をする。
「今朝、俺が言ったことを覚えてるか」
「そもそも何か言ってたっけ?」
「因果ごと忘れるな」
言いながら、ハクはリュックサックを背負って、手の中で自転車の鍵をくるりと回した。
あれ、自転車の鍵?
黒神さんちのおうちはそんなに遠くないから、私たちは徒歩通学だった。今日だってそう。
どうして自転車の鍵なんて持っているんだろう。
「毎週月曜日、午後四時よりスーパーアキツにてタイムセール」
「うん」
「いつもは学校があるせいで戦わずして敗北をしていたが、下校時刻が早まってる今! 満を持しての参戦だ! この日のために、あらかじめチャリは学校に置いていた!」
「あ、だから鍵持ってるんだね」
「というわけで行ってきます」
「行ってらっしゃい」
手を振ってお別れすると、ハクは教室から飛び出した。その背中を見送ってから、私も家に帰るために荷物を背負う。
なんていうか、あれだなあ。
最近のハク、どんどん主夫みたいになっているなあ。
ハクは家事が好きだ。もう趣味みたいなものなんだと思う。休みの日とか、それはもう楽しそうに洗濯物を干したり、おうちの隅から隅まで掃除したりしているくらいなのだから。
ハクが趣味を見つけたのはうれしいけれど、それはそれとして、私的にはちょっと微妙な気持ちにならなくもないっていうか。
そんなことを考えながら、私は校舎を後にした。竹刀袋を肩にかけ直して、どうしようかなって少し悩む。
このままおうちに帰ってもいいけれど、ハクもいないし、せっかくだから少し寄り道しちゃおうかな。先生たちは早く家に帰れって言っていたけれど、私が通り魔に襲われるなんてことはありえないのだし。
いつもは正門から帰るのだけど、今日は裏門側から出てみることにした。そっちのほうが通学路よりお店がたくさんあったはずだから。
裏門に向かって歩いていると、
「……あれ」
門の前に見覚えのある人影と見覚えのない人影が目に入って、思わず足を止めた。
見覚えのあるほうはクラスメイトの女の子。長い黒髪をポニーテールにくくっている。私の角度からは見えないけれど、たぶん丸い眼鏡をかけているあの子のはず。自転車から下りたところなのか、ハンドルを持つことでそれを支えている。
見覚えのない人影はふたり。どちらも大人の男の人で、おじさんとお兄さんの組み合わせだった。
そんな三人は、門の前で何か話し込んでいるようだった。
「あなたがたとお話することは何もありません。警察を呼びますよ」
「面白いジョークだな、お嬢ちゃん」
あれ、なんだか会話が不穏だ。
「おじさんたちとお茶しようぜ。何でもおごってやるよ」
うわ。
うわあ、これはあれだ。ナンパとかいうあれだ。
おじさんが女子高生をナンパしている。この状況は難しい言葉で『じあん』とかいうやつだ。ツキミが教えてくれたから間違いない。
彼女のほうは心から嫌そうな顔をしていた。こんなにわかりやすく嫌悪感を表情に浮かべているのは初めて見るなって思いながら、私はその集団に歩みを進める。
「藤咲さん」
「えっ、あ……桜夜さん?」
声をかけると、藤咲さんはびっくりしたように振り返った。その勢いでずれた眼鏡を慌ててかけ直している。
男の人たちも少し驚いたような表情で私のことを見つめていた。若いお兄さんのほうが、あー、という声を漏らしながら、困った風に頬をかく。
「あ、ええっと……お兄さんたちは怪しい者じゃないよ?」
「うわー、怪しい人が言う台詞だあ」
「え、そう? ……あでっ」
唐突に、隣のおじさんがお兄さんの頭を殴った。ごんって音が響いて、お兄さんが痛そうに頭を抱える。
その場にしゃがみ込んでしまった彼を無視して、おじさんは私と向かい合うように立つ。ため息をつきながら後ろ頭をかいているおじさんは、ボールペンみたいな細い管を口にくわえていた。おいしいのかな。
首をかしげつつも視線を上げて、彼と目を合わせてみた。瞬間、あ、と思う。
似ている。
この人の目は、あの人と似ていた。
こちらのすべてを見透かそうとしてくるような——ツキミの目と。
ほんの少しだけ、私は警戒する。
「おじさんたちは蒼海ちゃんのお母さん……藤咲翠空さんの知り合いなんだよ。今日はお母さんのことでちょっと話が合ったんだ」
「……ふうん」
嘘はついていない、と思う。
けれど、この人は何かを隠している。それだけはわかった。
でも、それが何かまでは私にはわからない。
なあ? と、おじさんは藤咲さんに同意を求めるような視線を向けた。彼女は少し戸惑ったみたいだったけれど、
「——ええ、そうですね」
と、微笑んで頷く。いつも教室で向けているような笑顔だった。
じわり。
口の中に、苦いものが広がる。
じわり、じわり、じわり。
私は必死に奥歯を噛み締める。そうしないと、喉の奥から何かを吐き出してしまいそうだった。
「心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫ですよ。えっと、この人たちはですね」
「……ダウト」
苦い、苦しい。
息が詰まりそうで、思わずマフラーを掴む。
呼吸が荒くなってきているのが、自分でもわかった。
「え、あの、どうしました?」
藤咲さんが心配そうに覗き込んできて、こちらに手を伸ばす——その手を、私は思い切り振り払う。
ぱしっ、という乾いた音が響いた。
目の前の女の子が息を飲んだのがわかる。その後ろにいるふたりも、驚いた表情を浮かべていることは想像できた。
けれど。
そんなことに構っていられる、余裕なんてなかった。
「——嘘つき」
それだけ吐いて、踵を返した。
小走りで正門のほうに駆けながら、まるで捨て台詞みたいだ、と考える。いや、まるで、じゃなくてそのものだ。捨て台詞を残して、尻尾を巻くみたいに逃げ帰って、自分で自分が情けなく思えてくる。
苦い。苦しい。気持ち悪い。吐きそうだ。死にたくなってきた。
正門にたどり着いて、その場に座り込む。煙草を吸う先生たちが灰皿代わりにしている汚れた一斗缶がすぐ隣にあったけれど、そんなことを気にするような心のゆとりはなかった。
嘘をつかれるのは嫌だ。嘘をつくのも嫌い。嘘なんて言われたくない。嘘なんか吐きたくない。
毒で、呼吸が止まりそうになるから。
「……会いたいなあ」
ふと。
まっかな髪をもつあの男の子と、話がしたいと思った。
誰よりも温かいあの人が、今、そばにいたらいいのになって。
そんなことを考えて、ため息をつく。
二回殺されても、小人たちとの約束を破ることになっても、それでも白雪姫が扉を開けた理由が、今ならわかる気がした。
みんな、苦いよりは甘いほうが好きだもの。
私だって、そっちがいい。
「……なんてね」
独り言を呟いて立ち上がる。肩からずれたマフラーを巻き直しながら、私は笑い出しそうになった。笑顔なんてへたくそな癖に。
そういえば、最後に心から笑えたのはいつだったっけ。そんなことを、ぼんやりとした頭で考える。
白雪姫。
猛毒の果実を口にして、命を落としたヒロイン。
何もしていないお姫様。何もできなかったお姫様。
それでも彼女がハッピーエンドを迎えられたのは、彼女を助けてくれる王子様がいたからだ。
「——馬鹿みたい」
こんな私を助けてくれるような人なんて。
どこにもいるわけがないのに。
* * * * *
四月二十八日、火曜日。
私はいつも通り、イツキくんのおうちの前で彼のことを待っていた。
イツキくんは時間通りに玄関から出てきた。一瞬私と目が合ったけれど、彼はすぐに上を見上げる。それは別に視線を逸らしたというわけじゃなくて、単に空の様子に気がついただけなんだと思う。
町の上には低く垂れ込めた灰色の雲が広がっている。今にも雨が降り出しそうな曇り空。実際、空気からはなんとなく雨の臭いがするような気がする。土っぽいっていうか、カビっぽいっていうか、そんな感じの臭いが。
「昨日から天気がよくないな」
「今日は雨みたいだよ。今はまだ降ってないけど……どうする? やめとく?」
「いや。とっとと行って、さっさと帰れば大丈夫だろ」
「じゃあ、そういうことで」
今日のルートは遊歩道を通るいつもの道。ほかに思いつかなかったっていうのもあるけれど、今日はなんとなく、いつも通りがいいなって思ったから。
隣を走るイツキくんは普段と変わらないように見えた。勿論、初めて教室で話したときと比べたら、やっぱり表情は柔らかくなっていると思う。それでも、難しいけれど……彼は根本的なところというか、一番大切なところは最初からずっと変わっていないような気がした。
イツキくんのそういう『変わらなさ』加減に、私は少しほっとしていた。
ハクが変わっても、藤咲さんが変わっても、ほかの色んな人たちが変わっても——極論、私のほうが変わってしまっても。
イツキくんだけはいつもと変わらないまま、私に嘘をつかないままそばにいてくれるんじゃないかって。
そんな身勝手な期待をしてしまう。
考え事をしながら走り続けていたら、いつの間にか遊歩道のすぐ近くまできていた。道路に沿って街灯と木が交互に並べられている歩道。この道の先にある曲がり角を右に行くと、桜並木の遊歩道への入口が見えてくる。
隣を走っているイツキくんと軽く目配せをした。大丈夫。私は長距離よりも短距離のほうが得意だけど、これくらいの距離なら慣れてきた。もう半月くらい一緒に走り続けてきたのだから。
今日は休憩なしでも完走できそう。そう考えながら、右に曲がって——
「そこのおふたりさん」
急ブレーキをかける。
スニーカーの裏面と歩道のアスファルトが擦れたみたいで、きゅっという音が足元から聞こえてきた。
ややあって、イツキくんも足を止めた。そして少し不思議そうに目を丸くして、街灯の明かり——その向こう側の陰に立っているその人を見つめている。
そこにいたのは、二十歳くらいの男の人だった。がっしりしているわけでも痩せているわけでもない、中肉中背みたいな、普通の体型。服装もありふれたシャツとパンツ姿。暗くてよく見えないけど、肩掛けの鞄みたいなものを背負っている。
染めていない黒髪と、優しそうな目元。そして穏やかな笑顔。まるでその辺の大学に通っていそうな、人混みに紛れたらそのまま溶け込んで見失ってしまいそうなくらいに、その人は普通の男の人に見えた。
「何をしているんだい、こんな時間に」
「えっと、ジョギングを兼ねた散歩……ですかね」
「あー、なるほどねー。僕は夜勤帰りなんだ」
イツキくんの言葉に、彼は明るく笑った。
私は荒くなった呼吸を整える。意識的に、意図的に息を深く吸って、吐くことを繰り返した。そうやって無理やり、呼吸を落ち着かせる。
冷たい汗が止まらない。足が棒みたいに固まっているのに、かたかたと小刻みに震えているのがわかった。ふたりに気付かれないように、静かに膝を揺らして足踏みをする。そうやって、呼吸を落ち着かせるように、震えも、そして頭も無理やり落ち着かせようと思った。
そうして冷静になった脳みそで、なんで、と考える。
なんで、このタイミングで——
「最近の若い子は新聞を読まないのかい? ひょっとして通り魔のこと知らないのかな? 危ないなあ」
「えっと……知ってますよ、一応」
一応、と言いながら、イツキくんはほんの一瞬だけこちらに視線を向けた。私はその視線を無視して、竹刀袋を肩にかけ直す。
目の前にいる男の人は微笑みを浮かべながら、鞄の肩紐を撫でるように弄っていた。そして、その手を後ろにもっていく。
「……イツキくん」
小さな声で名前を呼ぶと、ん? とイツキくんは振り返った。
「どうした」
「先に謝っておくね」
ごめんね、と。
そう言ったと同時に——私はイツキくんの膝の裏を、思いっきり蹴り上げた。
「うわっ……と!」
少し間抜けな声を上げて、イツキくんは体勢を崩す。膝かっくんの要領だ。うまく決まれば、簡単に相手の姿勢を倒すことができる。実際、彼は私なんかの蹴りでもあっさりと歩道の上に尻餅をついた。
同時に。
——がんっ!
という音が、静かな町に響いた。
街灯の光を受けて、きらり、とそれは白く輝く。
「え、あ……は?」
「あれっ」
戸惑うようなイツキくんの声と、驚いたような男の人の声。
そんなふたりの視線は、同じ場所に向けられていた。
歩道に沿って植えられた街路樹。
正確には、その幹に深々と突き刺さったものへと。
ようやくそれを鉈だと理解することができたのか、イツキくんの目は大きく見開かれた。
「ん、んん? あれ、抜けないな?」
ぐっと、その人は鉈を引き抜こうとするけれど、幹に深く突き刺さっているその刃物はなかなか抜けないようだった。
「走って!」
アスファルトに座り込んでいるイツキくんの腕を掴んで、無理やりに駆け出した。彼はまだ混乱しているのか、私に引きずられるまま一緒に走る。
さっきの男はまだ鉈と格闘していた。今のうちに、早く、遠く、振り切らなくちゃ。
ぽつり、と。
頬にひとつ、雫が落ちた。
ああ——雨が降る。
走りながら、そんなことを思った。