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猛毒スノーホワイト  作者: 氏原ゆかり
Sky of Daybreak
8/14

第7話『東雲色』

ChapteR.7 Dawn

 俺の世界が灰色になったのは小学生のころだ。

 四年か、五年ほど前。小学五年生だったか六年生だったかのときに、そうなった。

 これは今でも変わらないことなのだが、そのころの俺はクラスになじむことができない生徒だった。

 理由は、語るまでもない。

 みんなと違う俺は、みんなからしてみれば異端だった。ただ、それだけのことだ。

 母方の祖母は赤毛のイギリス人で、隔世遺伝で彼女の髪色を受け継いだ俺は生まれつき髪の色が赤かった。

 この国は異端分子に厳しい。特に地方都市や田舎町は『普通』という枠から外れたものは許されないという空気があるように思う。

 その空気は葛城町も例外ではなく、俺は周囲から普通ではないと言われ続ける幼少期を過ごした。

 お前はみんなとは違うのだと、呪いのように言われ続けてきた。

 クラスになじめなかったのもそれが理由だ。いじめというほどではなかったにしても、迫害のようなものは受けてきた。

 好きこのんで生まれてきたわけじゃないのに、と思った。好きこのむどころか、かえって、だからこそ嫌いになった。赤色なんて見たくもないと、自分の髪に対してわかりやすくコンプレックスを抱いていた。

 こんな色、見えなくなってしまえばいい。

 そんなことを毎日のように考えていた——ある朝。

 目が覚めたら、世界が灰色になっていた。


「色覚異常ですね」


 その日、医師はそう言った。


「いわゆる、色盲と呼ばれる症状です。息子さんの場合は後天性の色覚障害と分類されるでしょう。ただ……その原因は、精神的なものだと考えられますので、カウンセリングを受けることをお勧めします」


 彼が並べるように口にした単語は、当時小学生だった俺には理解できないものばかりだった。それを察したのだろう、難しいお話をするから廊下で待っていてねと、母さんにそうお願いされて俺は診察室を後にした。


「お母さん。息子さんのことを心配なされるお気持ちはよくわかります。しかしどうか見守ってあげてください。息子さんには、ご両親の支えが必要です」


 薄い壁を隔てた向こう側。優しく言い聞かせるような口調の医者と、それに対して相槌を打つ母さんの会話が小さく聞こえた。

 ええ、はい、わかりました。そんな母さんの言葉の間に、嗚咽のようなものがときどき挟まれていたのを、今でもはっきりと覚えている。しばらくして診察室から出てきた彼女はいつもと変わらない笑顔を浮かべていたけれど、当時の俺は、母さんに迷惑をかけてしまったな、とそう思ったのだ。

 中学生になってすぐ、生徒指導室に呼び出された。両親は俺の髪のことを学校に説明してくれたが、そんなことは関係ないだとか、黒く染めてもらわなければ困るだとか、そんな言葉を返された。教師たちに呼び出されては見せ物のように取り囲まれ問いただされる、そんな日々を過ごしていた。

 あるときから、俺は抵抗することをやめた。すべてが面倒で、どうでもよくなった。申し訳ありません。以後気をつけます。ご指導ありがとうございました。そう言って頭を下げるだけで彼らは満足してくれるのだから、そのほうが楽だった。

 謝るということは自分の非を認めるということでもあり、その後は教師からも生徒からも不良のような扱いを受けることが多くなった。あるときは両親の人格を否定されるような暴言を吐かれたこともある。それだけは少し悲しかった。

 そんな俺を見兼ねたのか、丸眼鏡をかけた女子生徒に髪を染めたほうがいいと勧められたことがある。

 大きなお世話かもしれませんが、そのほうがあなたのためだと思います——と。

 その夜に両親に相談してみたけれど、生まれもったものを無理やり変えることはないと反対された。

 日本を離れ、祖母と一緒に暮らすことも考えた。しかしそれも火宮の親戚たちに否定された。後から聞いたところによると、紅野家のひとり息子である俺を外国へやるのは避けたかったからだそうだ。

 両親には反対され、教師たちには強要され、この国から逃げることも本家の大人たちが許してくれなかった。ああ、これが板挟みというものかと、中学生の俺はそう考えていた。

 それでも両親は変わらず愛してくれた。俺は何も悪くないと、自分たちだけは味方だと言ってくれた。

 けれどそれに対して、黒く染めれば全部解決するのに、としか思えなかった。そんなことを言える勇気もなく、彼らへの罪悪感は募っていくばかりだった。

 そのころ、俺はカウンセリングに通っていた。しかしそれは半ば無駄だと思いつつのことでもあった。この病を患った当時よりも環境は悪化しているのに、医師と話すだけで治るとは思えなかったのだ。

 だからそんな板挟みの日々にも、終わらないカウンセリングにも嫌気が差して——ある日、俺は家出した。中学一年の秋か冬のことだ。

 夜が明ける前の時間帯。早起きな母さんよりも先に起きて、音を立てないように玄関の扉を開けた。空気が冷たくて、吐いた息が白く染まっては溶けるように消えていく。

 俺は音楽プレイヤーの電源ボタンを押して、イヤホンを耳に当てた。そして上着のフードを深く被る。顔を隠すためという理由もあるが、どちらかといえば誰にも赤毛を見られたくなかったからだ。

 町は暗く染まっていた。街灯だけが点々と、朧にきらめいている。その光景はいつも見慣れた町の風景とは違う世界のように思えた。

 人通りがない、というのがまたよかったのだと思う。俺を見る人は誰もいない。今この瞬間だけは、自分の赤毛のことを忘れることができそうだった。コンプレックスとか、ダブルバインドとか。そういった面倒なあれやこれやを考えず、好きな音楽を聴きながらの散歩は、俺にとっては久しぶりに心から楽しいと思える時間だった。

 しかし、楽しいと思えたのは少しだけだった。もともとこれは目的地やアテなんてない家出だ。ただ遠くに行きたい、どこかへ逃げ出してしまいたいという気持ちだけで、計画性なんてない。

 だからというか、やはりというか。すぐに俺は道に迷ってしまった。とにかくまずは大きな駅に行こうとしたけれど、当時はスマートフォンなんて持っていなかったので適当に歩き続けるしかない。家出中の身で交番に道を訊くわけにもいかなかった。

 歩き続けて、どこかの町の交差点についた。車ひとつない静かな交差点だったけれど、そこで初めて、横断歩道の向こう側に人のシルエットを見かける。

 その人物は俺と同年代くらいの女の子だった。厚い生地のジャージを着て、長い黒髪をポニーテールにくくっている。朝練中の運動部なのだろうか、と思った。

 ときどき、白い息を両手に吐きかけたり、肩をすくめて両腕をさすったりしている。マフラーや手袋みたいな防寒具をしていない姿は、見ているだけで寒そうだった。

 ふと、彼女が不思議そうな瞳でこちらを見つめてきた。目が合ってしまったので、思わずフードを深く被り直す。

 信号が『止まれ』から『進め』に変わる。灰色の視界にはもう慣れたけれど、こういうときは少し気をつけなくてはならない。交通事故になれば家族に迷惑をかけてしまう。ただでさえ、これまでたくさんの面倒をかけてきたのだ。これ以上の迷惑はかけられない。

 そんなことを考えながら、俺はゆっくりとモノクロのボーダーの上を歩き出した。


「ねえねえ」


 不意に。

 イヤホンから流れる音楽越しに、声をかけられたような気がした。

 反射的に耳からコードを外して顔を上げると、先ほどの女の子が目と鼻の先に立っていた。


「今、暇かな?」

「……は?」

「時間ある?」


 暇だと言われたら暇ではあるし、時間があるのかと問われれば時間はある。しかし、どうしてそんなことを見知らぬ他人である俺に尋ねるのだろうか。質問の意図が全然わからない。


「いいものを見つけたの。一緒においで」

「……はあ」

「すぐそこだから。すぐそこの×××橋なの。ね? ね?」


 どうして俺が彼女についていかなくてはいけないんだろう。と、思ったけれど、そんなことを言えるほど俺は強気な性格ではない。そんな風に気の強い人格をしていれば、今こうして家出をするようなこともなかったのだ。

 彼女はお願いとでも言いたげに両手を合わせて、こてんと小首をかしげた。その仕草に合わせて、後頭部のポニーテールが少し揺れたのが見える。

 どうしようかと少し考えたが、少女のお願いに流されてやることにした。どうせ暇だし、それに、彼女の言う『いいもの』にも少し興味があった。

 無言で頷いてみせると、少女は小さく笑った。そして自然に俺の手を取って、少し急ぎ足で歩き出す。場所はすぐそこで合っているけれど、時間のほうがあまりないのだと手を引かれながら説明された。

 別に手を繋がなくても逃げたりはしないのだが。そう言おうとも考えたけれど、彼女の手のひらが少しひんやりとしていて、そのときの俺は少しでも温めてやりたいと思ったのだ。

 手を引かれるまま歩き続けて、くだんの橋についた。

 その橋の名前は、今となってはもう覚えていない。確か、片側二車線の大きな橋で、歩道は車道とは別の段に備えられていたはずだ。俺と彼女はそのとき、川下側の歩道を進んだように思う。

 橋を真ん中まで渡ったところで、見て、と少女に声をかけられた。

 その声に顔を上げると、東の空を指差している彼女の姿が視界に入る。その先は川下で、確か河口があるだけのはずだ。

 鳥の群れでもいるのだろうか。もしもそれがいいものだとすれば、少し拍子抜けだ。

 そんなことを考えながら、言われるがまま視線を向けた。

 そして——


「————あ」


 赤。

 もう見たくもないと思っていたはずの赤色が、視界のすべてに、余すところなく広がっていた。

 水平線から昇ろうとしている太陽はまるで炎のようで、けれどその光は決して強すぎるものではなく、インクが紙の上で滲むように、空に赤色を広げていた。上を見れば、それがだんだんと薄い紫へと変わっていき、やがて濃い青へと染まっていっているのがわかる。

 海と川に空が反射して、より深い色がそこには広がっていた。その上に立つ漣のひとつひとつが朝日を受けて、光が乱れて、砕けて、混じって……そのたびに、水面がきらきらと光っている。

 夜から朝へと、世界が鮮やかに変化していく瞬間だった。


「ここ、ついさっき見つけたんだけど、どうしても誰かに見てほしくてね」


 だからあなたを引っ張ってきちゃった。そんなことを言う少女に再び視線を戻す。彼女は眩しそうに目を細めて、朝焼けを見つめていた。その横顔を潮風が優しくなぞる。風に舞うポニーテールが朝日に照らされて、そこで初めて、少女の髪の色が黒ではなく茶髪なのだと知った。

 いいもの。

 ああ、確かに、こんなにいいものはないだろう。

 なんだか、嫌なことをすべて忘れてしまえそうだった。


「瑠璃色と東雲色のグラデーションが、とっても綺麗だよね」

「瑠璃色、と……東雲、色……」

「水平線は深紅で、川のこっち側は二人静かなあ」


 彼女はそう言って、景色を指差しながら見える限りの色を教えてくれた。紅梅。竜胆。珊瑚。カナリア。少女は次々と俺の知らない単語を並べていく。その言葉のひとつひとつで、灰色だったはずの俺の世界は目まぐるしく変化していった。

 目が、痛くなってきた。視界が霞んで、ぼやけて、よく見えなくなってくる。太陽を見続けたからだろうか。痛くて、熱くて、目を閉じなければいけないとわかっているけれど、それでももう少し、あの朝日を見ていたいと思った。

 ふと、彼女がこちらに視線を向けて、そして驚いたように目を丸くした。


「どうしたの?」

「……どうしたって?」

「泣いてるよ? どこか痛いの?」


 その言葉に、俺は自分が泣いていることに気がつく。

 一度自覚してしまうと、もう我慢なんてできそうになかった。涙が込み上げてきて、堰を切って溢れ出す。鼻の奥が痺れそうなくらいに、熱い涙が頬を伝った。

 もう、すべてがどうでもよくなった。赤色なんて見えなくなってしまえばいいと願ったあの日から、俺の世界はモノクロになった。そのはずだ。だというのに、どうして俺の瞳は今、鮮やかな色彩を映しているのだろう。

 治ったのか、それともこれはただの幻なのだろうか。何もわからない。思考がぐちゃぐちゃで、もう何も考えたくなかった。

 ただ、もしもこれが夢だというのなら——それが終わる瞬間まで、この景色を目に焼きつけていたい。それだけを願っていた。

 唐突に泣き出してしまった俺に、少女はおろおろしていた。どこが痛いの、とか、何が悲しいの、とか。そんなことを訊かれたような気がする。

 それに対して、


「違うよ」


 と、目尻の涙を拭いながら、小さく首を振る。

 そして彼女に安心してもらおうと思って、無理やり笑った。


「こんなに綺麗な朝焼け、生まれて初めて見たんだ」


 その日、俺は——

 世界の美しさを、知ったのだった。



* * * * *



 目を覚ました。懐かしい夢を見たような気がする。

 いや、違う。夢ではなく、きっと回想だ。心の中に墓を作り、二度と思い出さないように土をかけて埋めてしまった——大切な、思い出だった。

 それが今、掘り出されてしまった。きっかけはおそらく、あの先輩の言葉だろう。目を逸らし続けていた現実を容赦なく目の前に差し出してきた、あのひと言のせいだ。

 あれから——俺は、あの女の子と別れた。家出をする気もなくなってしまって、普通に家に帰ったような記憶がある。確か、彼女に自宅の近所まで案内してもらったはずだ。

 目が治ったのは一時的だったようで、気がついたときには俺の視界は再び灰色に戻った。だから、もしかしたらもう一度同じ経験をすれば治るかもしれないと考え、再びあの夜明けを見ようとして翌朝から町を走り回るようになった。

 ああ、そうだ。だんだんと思い出してきた。

 俺がジョギングを始めたきっかけは、きっとそれだったのだ。

 あの少女と一緒に橋の上で見た朝焼けを、もう一度見たいと思ってしまった。ただそれだけの、些細なこと。

 しかし、毎日のように走り続けても、俺はあの橋へ行くことはできなかった。行けなかった、というよりは、たどり着けなかった、と表現するべきだろうか。俺が方向音痴というのも理由のひとつだが、橋の名前を忘れてしまったから調べることもできなかったのだ。

 それでも、ひょっとすると彼女には会えるかもしれないと期待して走り続けた。どこかの中学校の運動部に所属していたようだから、いつかどこかで、運がよければまた朝練のときにでも会うことができると思ったのだ。

 けれど、いつまでも少女には会えなかった。

 三年間ずっと、彼女には会うことができないままだ。

 あの出来事は夢だったのだと思った。見えなくなってしまえばいいなんて願った癖に、鮮やかな世界を求めた俺が見た、都合のいい幻。

 だから、夢は夢のまま終わらせることにした。

 すべてを忘れてしまうことにしたのだ。

 あの朝焼けのことも、少女のことも。自分の目が異常であることさえ全部忘れて目を逸らしてしまえば、とても心が安らいで、楽になることができた。

 そういう風に生きないと、俺は——


「——ああ、起きたのか。夕霧先生、紅野くんが目を覚ましました」


 唐突に。

 カーテンの引かれるような音がしたかと思うと、見覚えのある男性の顔が視界に入る。確か、そう、ちょうど一週間前に会った人だった。


「カウンセラーの……えっと……」

「ん? ああ、名乗ってなかったか。俺のことはユキムラ先生と呼んでくれ」


 教師じゃないんだがよくそう呼ばれるんだ、と彼は笑う。

 ユキムラ——雪村?

 あの先輩と、同じ名字。親戚だろうか、それとも偶然なのだろうか。

 どちらにしても、俺にとってはどうでもいいことだ。彼女のことを強制的に思い出してしまうから、あまり耳にしたくない名字だとは思うが。

 黒髪の男性——雪村先生から視線を移動させると、モノクロの天井が目に入る。背中には柔らかいものがあり、腹部には薄い布団がかけられていた。どうやら俺はベッドで眠っていたらしい。


「ここは、保健室ですか……あの、俺は……」

「図書室で倒れたんだ。過呼吸を起こしたそうだが……覚えてないか?」


 そう問いかけられて、俺は無言で首肯した。全然覚えていない。

 過呼吸、か。地雷を踏まれた程度で倒れてしまうとは、我ながら情けない。


「たまたま通りがかった野球部の生徒がここまで運んでくれたんだ。君と同じ中学出身の同級生と言っていたが、知ってるか?」

「……野球部? ……、……ああ、あの名字が珍しい……」

「ははは、そうそう。初見じゃ読めないよな、あの名前」


 そういえばそんなやつもいたな、と少し懐かしいような感慨を覚える。同じクラスになったことはないが、何故か彼は俺のことを知っていたらしく、たまたま擦れ違ったりするとよく絡んできた男だ。

 状況をある程度把握して、俺は全身から力を抜いた。すると何を勘違いしたのか、眠いのか? と先生は尋ねてくる。


「眠いなら少し寝てもいいぞ。大丈夫、保健の先生がおうちのかたに連絡してくれているからな。少し待てばお迎えが来る」


 そのときは起こしてやるからな、と言いながら、彼は優しい手つきで俺の頭を撫でてきた。その袖口からは、やはり苦い香りが漂っている。

 まるで子供扱いをされている気分になる。煙草を嗜むような社会人から見れば高校生なんて子供にしか思えないのだろうが、俺としては少し気恥ずかしかった。

 しかし、その手のひらは本当に優しくて、幼少期に触れた父さんの手を、思わず連想してしまう。


「何も怖がることはない。俺はここにいる。そばにいてやるからな」

「……あの」


 そう口を開くと、ん? と雪村先生は首をかしげてきた。その仕草や表情のすべてが優しくて、父さんのことを思い起こさせて、少し甘えても許されるだろうかと、そんなことを考えてしまう。


「独り言を、聞いてくれますか」


 そんなことを言って、すぐに後悔する。おかしな頼みごとをしてしまった。

 しかし彼は数回目を瞬いたかと思うと、


「じゃあ、俺は本でも読んでようか」


 と、ベッドの脇に置いてある椅子に腰かけ、どこかから文庫本を取り出した。ダンテ・アリギエーリの『神曲』、その煉獄篇である。頭のよさそうな本だった。

 先生はそのままページを開き、小説を読み始めた。どうやら本当に俺の『独り言』を聞いてくれるつもりらしい。

 彼は手元の本に視線を落としている。俺は一度天井を見て、まぶたを閉じ、再び目を開けて——


「——本当は、ずっと怖かったんだ」


 と、口にした。

 本当の思いを、嘘偽りのない自分の気持ちを。

 認めた。認めてしまった。

 俺は——

 俺は、黒神桜夜のことが——怖かった。 


「全部、先輩の言う通りだった」


 心の奥底のほうに無理やり押さえつけていた本音。それが言葉となり、次から次へと溢れ出してきた。

 ああ、ひょっとすればあの先輩は、本当に何でも知っているのかもしれない。

 白雪姫の、鏡のように。


「何も知らないのは怖くて、怖くて怖くて仕方がなかったから……俺は、彼女を知ろうとしてたんだ」


 四月十四日。黒神桜夜と巡り合ったあの瞬間から、俺は彼女のことが怖くてたまらなかった。

 返り血に染まり、日本刀を振るい、六人もの人間を病院送りにした通り魔。そんな人物がクラスメイトなのだ、恐怖を感じるのが当たり前で、誰もそれを責めることはできないだろう。

 誰かに言えば殺されるかもしれない。嘘をついたらあの刀で斬りつけられるかもしれない。桜夜に従わなければ、七人目の被害者は自分になってしまうかもしれない——そう考えると怖くて、手が震えそうだった。

 だから俺は彼女を知ろうとした。どうして通り魔をしているのか、その動機は、目的はいったい何なのか。桜夜のことを何も知らなくて、何もわからないのが怖いからこそ、少しでも彼女を理解しようと精一杯だった。

 考えてみれば、この数日、俺は桜夜のことばかり考えていたように思う。


「メンタルが強いとか、器が大きいとか言われてきたけれど……本当は、その逆だった。俺はただ弱くて、脆かっただけだ」


 先輩は、その弱さから目を逸らすことを許さなかった。

 自分の脆さを見ようとしなかった俺を、彼女は看過しなかった。

 諦めるって、そんなに気持ちがいい?

 あの絶対零度のような声を、忘れてしまいたかったあの問いかけを——それでも、はっきりと思い出すことができる。


「気持ちがいい、わけがない」


 俺は腕を上げて顔を隠す。雪村先生はこちらを見ていないとわかっているが、それでも今の表情を見られたくはなかった。

 彼は相槌ひとつ打たず、静かにページを捲っている。ごちゃついた感情を心に浮かぶまま言葉にしているのだ。彼からしてみれば意味がわからないだろう。俺も自分が何を言っているのかわからなくなってきたから、先生のそういう態度を、少しありがたいと思う。


「でも、そうしないと……俺は、俺を守ることができなかった。全部諦めて、抗うことをやめて、無意識と無自覚を演じて——そんなことでしか、俺は、自分の心の守り方すらわからなかったんだ」


 それが、俺の処世術だった。

 別に、世渡りがうまくなりたいわけじゃない。ただ、楽に生きたかった。心を楽にして生きることさえできれば、それでよかったんだ。

 だから、無意識に自分を偽ろうとした。

 自分の心に嘘をついた。

 そういう風に生きないと、俺は——脆い俺の心は、折れてしまいそうだったから。

 嘘は嫌いだと、桜夜は言っていた。ああ、だとすれば、俺は彼女に嫌われてしまうのかもしれないな。

 そんなことを、ぼんやりと考えた。


「これは独り言なんだが」


 それまで俺の独り言を静かに聞いてくれていた雪村先生が、そこで初めて口を開いた。腕の隙間から視線を向ける。彼の目は、手元の本に落とされたままだった。


「実は、ずっと前から……君が入学する前から、俺は紅野樹月という少年のことを知ってたんだ」

「…………」

「彼を担当していたカウンセラーは、俺の知人でな。少年がこの高校に進学するにあたり、もしかしたら俺を訪ねることもあるかもしれないからと、色々と話を聞いていた。だから——彼の目のことも、俺は知ってる」


 まるで懺悔をする罪人のような口調で、先生はそう告白する。


「だからこそ俺は、彼が訪ねてくるまでは静観しておこうと思っていたんだが……ある日の少年の顔が、ひどく疲れていたように見えたから——つい、な」


 その言葉に、先週の水曜日のことを思い浮かべた。

 確かに、あの日は疲れていた。黒神先生に呼び出されたり、伊東先生に注意されたりしたこともあるが……それ以上に、桜夜に脅迫されたことや彼女の共犯者となったことに、俺の精神は自分でも知らない間に疲弊していたのだと思う。

 いや、違う、と静かに首を振る。知らない間に、ではないのだ。きっとそれすらも、俺が自分から目を逸らしていただけのことなのだろう。

 もしかすると、彼はそんな俺にも気付いたうえで声をかけてきたのかもしれない。カウンセラーという職業上、人の心を見通すことは得意なのだろう。

 同じ名前をもつ、あの先輩のように。

 そんなことを考えていると、がらり、と扉が開かれるような音が室内に響いた。同時に先生は本を閉じ、椅子から立ち上がる。


「お疲れさまです。保護者のかたと連絡はつきましたか?」

「ええ、先ほどお母様がいらっしゃいました。紅野くんのことを見てくださってありがとうございます」

「いえ、お役に立てたのなら何よりです。えっと、通学鞄とかは教室ですかね?」

「紅野くんのリュックなら、さっき野球部のお友達が持ってきてくれましたよ。その辺にありませんか?」


 ベッドのカーテンの向こう側で、雪村先生と中年の女性——たぶん、養護教諭の夕霧先生だろう——が言葉を交わす。彼はその場に屈み込むと、何かを探すように視線を動かし始めた。やがて、あー、あったあった、と声を上げて立ち上がる。先生が手にしているのは、確かに俺のリュックだった。


「と、いうわけでお迎えだ。歩けそうか?」

「……はい。ありがとうございました」


 礼を言いながら、ベッドから身体を起こした。横になったことで少し乱れた制服を整えると、ブレザーに少し皺が寄っているのが目に入る。これは母さんに怒られるかもしれないな、と思った。そしてすぐに、そんな楽観的ことを考える自分に対し、自己嫌悪のような感情が湧く。

 既に制服の皺どころではない迷惑をかけてしまっている。母さんだけではない。雪村先生にも、夕霧先生にも……中学からの、あの同級生のことだってそうだ。図書室から保健室まで運んでくれたうえに、俺の荷物まで持ってきてくれている。

 俺は昔から、色々な人たちに迷惑をかけてばかりだ。

 本当に、嫌になる。

 そのとき、口の中に苦いものが広がっていくような気がした。それはただの錯覚だということはわかっているが、舌の上にはいつまでもえぐいものが残っているように思う。

 ああ、罪悪感とはこういう味がするものなのか。確信に近い感想を抱きながらリュックを受け取り、俺は立ち上がる。


「最後にひとつだけ、質問してもいいか」


 リュックを背負い、保健室を出ようと扉に手をかけたところで、彼にそう声をかけられた。振り向くと、先生は先ほどの椅子に座り直しており、こちらを真っすぐに見つめ、


「——助けるべきか?」


 と、真剣な口調でそう問いかけてきた。


「俺は君の目のことは知ってるが、今置かれている状況については何も知らない。君が俺に助けてほしいと願うのなら、俺は大人として——全力を尽くそう」


 今置かれている状況。その言葉に、そういえば、と先週のことを思い出した。色々なことがあったとか、しかしそれについては誰にも言うなと言われているとか、桜夜のことを匂わせるようなことを口にしたような気がする。

 そのうえで今日、本当は怖かったという本音を吐露したのだ。断片的な情報ではあるが、雪村先生が俺のことを慮ってくれるのも順当だろう。

 こちらを見つめる彼の眼差しは鋭い。心の裏側まで看破するかのような視線は、同じ名前をもつあの先輩と少し似ているように思えて、思わずうろたえてしまう。

 しかし、だからこそ俺は、その瞳を真っすぐに見つめ返して先生の問いに答えようと思った。


「大丈夫です」

「…………」

「本当に、大丈夫ですから」


 嘘ではない。

 自分から目を逸らすためのごまかしでもない。

 虚飾なんかじゃない、俺の本当の言葉だ。


「自分の弱さも、脆さも。嫌になるくらい思い知りました。だから——俺はもう、大丈夫です」


 彼はしばらく無言だったが、やがて、そうか、と呟いて表情を穏やかにした。


「それでも、何かあれば俺のところに来ていいからな。そうだ、今度は甘くない茶請けを用意しようか。甘いもの、苦手なんだろ?」

「あれ、どうしてわかったんですか」

「これでも心理学の専門家だからな。そうじゃなくても、煎餅しか口にしなかったら誰だってわかるさ」


 俺と同じだな、と雪村先生は言った。そういえばあのとき、彼は紅茶をストレートで飲んでいたし、大量の茶菓子にも手をつけようとはしていなかったような気がする。本人の言う通り、甘いものはあまり好きではないのだろう。それはなんというか、苦い香りを漂わせているこの人らしいように思えた。

 俺はあらためて礼を言い、扉を開ける。夕霧先生曰く、母さんは駐車場で俺のことを待っているらしい。このあとどんなお説教を受けることになるのだろうか、想像すると少しだけ憂鬱な気分になる。

 ため息をつきながら扉を閉めようとした間際、


「俺はいつでも、いつまでも——楽園で君たちを待っている」


 と。

 そう言って優しく微笑んだ、先生の姿が見えた。



* * * * *



「——あれ?」


 四月二十二日の朝は、桜夜が首をかしげるところから始まった。

 いつも通りの時間に玄関の扉を開けると、やはり彼女もいつも通り門の前で俺のことを待っていた。しかし俺の顔を見るなり何故か不思議そうな表情を浮かべ、丸い目をより丸くする。


「どうした?」

「あれ、えっと……ううん、なんでもない。ただの気のせいだったのかも」

「……? そうか」


 桜夜が何をどう思い過ごしたのか気にはなったが、本人がなんでもないというのであれば、それは本当になんでもないことなのだろう。特に問いただす必要性も感じられなかったので、俺は流すことにした。


「今日はどこに行くんだ?」

「えっと、白露大橋のほう」

「ああ、昨日行かなかったところか」

「そうだね。今日も天気がいいみたいだから」


 よかった、と呟いて桜夜は空を見上げた。それにつられて、俺も上を仰ぐ。彼女は天気がいいと言ったが、俺の視界ではやはり暗い灰色にしか見えなくて、晴れているのか曇っているのかさえ自分にはよくわからなかった。

 しかし、ふと、その灰色の中に小さな星が瞬いているのが見えた。どうやら本当に天気はいいらしい、と桜夜の言葉を遅れて理解する。

 俺の目は視界をモノクロに映しているだけで、視力が落ちたというわけではない。だから、よくよく目を凝らしてみれば、灰色の空を曇り空と思い込むこともなかったのだ。

 無意識のうちにそう思い込もうとしたのも、俺が自分から目を逸らし続けていたがゆえのことなのだろう。

 我ながら、自分に都合のよすぎる解釈をしたものだ。そんなことを考えながら、そろそろ行こうか、と視線を戻す。

 そして俺たちはいつもと同じように、夜明け前の町へと駆け出した。

 視界に映る町の風景は相も変わらず灰色にしか見えないが、あらためてこの視界と向き合ってみると、昨日までとはどことなく世界が違うように思えた。

 映画にせよ写真にせよ、モノクロにはモノクロの魅力があるなどと言う大人もいるが、それは現実が鮮やかだからこそ惹かれるものなのだろう。俺からしてみれば、色彩のない世界なんてただただつまらないだけだ。

 ああ、けれど。そもそものきっかけは俺が赤色を見たくないと願ったからか。

 なんだ、ただの自業自得じゃないか。思わず自嘲してしまう。

 それでも。

 もう一度あの朝焼けを見ることができれば、赤色のことも好きになれるんじゃないかと——そうだったらいいと、そんな希望的な観測を捨てることはできなかった。

 あの日夢見た朝焼けの色も、もうほとんど覚えてはいないけれど。


「ねえ」


 思考しながら走り続けていると、不意に、先導していた桜夜が声を上げた。


「やっぱり、体調悪いの?」

「ん? いや、そんなことはないが……そういう風に見えたか?」

「うん」


 彼女は走るスピードを落とさないまま、ちらりとこちらに視線を寄越した。数秒間俺のことを見つめたかと思うと、嘘はついてないね、と呟いて再び前を向く。ふたつに結んでいる黒髪が、一連の動きに合わせて揺れていた。


「それでも、しんどくなったらすぐ言ってね」

「大丈夫だ」

「嘘ついて無理したら怒るからね」

「ああ、わかったよ」


 嘘をついたら殺すんじゃなかったのか、と一瞬思ったが、命が惜しいので黙って頷いておくことにした。

 命が惜しい。

 そんなことを考えた自分自身に対して、思わず自虐的な笑みを浮かべてしまう。

 あの日——桜夜と邂逅した、四月十四日。放課後の教室のことを、俺は思い出した。

 殺されようが殺されまいがどちらでもいいとか、ついでに生かされるならそれでいいとか……そんなことを彼女に言っておいて、結局のところ、俺はただ死にたくなかっただけだ。

 黒神桜夜のことが怖かった。通り魔で、何を考えているのかわからなくて、次に何をするのか想像もできない。そんな彼女のことが怖くてたまらなかった。

 しかし、実のところ桜夜に対する恐怖心は、今はもうそれほどでもなかったりする。

 この数日、ずっと彼女のそばにいたからだろうか。黒神桜夜という人となりが、俺にもなんとなくわかってきたからだ。

 彼女は笑わない。しかし、無表情というわけでもない。目は口ほどに物を言うという言葉があるが、確かに、桜夜の感情はその丸い瞳によく表れているように感じた。驚いたときは見開いて、呆れたときには、どこかじとりとした目つきに変わる。

 それと、と俺はある出来事を思い浮かべた。

 伊東先生に絡まれていたとき、誰よりも真っ先にそばに来てくれたのは桜夜だ。

 校則違反じゃないのに、と。

 紅野くんのためなんて嘘だ、と。

 そんな風に、反論してくれた。

 そのときの彼女が何を考え、何故そんな行動を起こしたのかまではわからない。ただの気まぐれだったのかもしれない。しかしそれでも、誰しもが関わりたくないと目を逸らしていた中で、桜夜は確かに、俺の味方になってくれた。

 それは、うれしかった。

 彼女に対する恐怖が消えてしまうくらいには、本当に、うれしかったのだ。

 朝に弱かったりとか、名前で呼び合ったりとか、綺麗な桜の穴場を教えてくれたりとか。

 そんな、まるで普通の女子高生みたいな桜夜の一面を目にしたり、普通の友達同士みたいなやり取りを交わしたり……そのひとつひとつがうれしくて、楽しくて——それが積み重なったせいで、彼女のことを怖いなんて思えなくなってしまった。

 ともすれば、桜夜が巷で噂の通り魔だということを、忘れてしまいそうになるほどに。


「…………」


 連続通り魔事件。

 あの公園で出会ったときから、ずっと考えていた。

 彼女はどうして通り魔をしているのか。その目的は——動機は、いったい何なのか。

 そしてその疑問に対するアンサーは、何でも知っていると謳う先輩が、つい昨日出したばかりだ。


「——復讐、だったのか?」


 そう問いかけると、目の前を走っていた桜夜はこちらを振り向いた。その顔にはきょとんとした表情を浮かべ、ぱちくりと目を瞬いている。

 少し唐突すぎただろうか。そう考えていると、彼女は少しずつ走るペースを落としていき、やがて俺の隣に並んだ。


「えっと、何が?」

「通り魔の動機のことだ」


 桜夜は数秒ほど考え込むような仕草を見せると、


「あ、照井先生たちのことを調べたんだね。で、情報源はツキミか。図書室、行ったんだっけ」


 と言った。

 その言葉に、俺は少し驚く。

 雪村先輩の名前は一度も出していない。俺が図書室へ行ったという情報は先輩本人から、あるいは兄の白夜から聞いていたのかもしれないが、彼女の手元にある材料はそれだけのはずだ。

 だというのに、桜夜はたったそれだけの情報から、雪村先輩が俺に通り魔の情報を与えたことに気付いた。そして同時に、その内容がかつて葛城町で起きた詐欺事件であることも悟ったのだろう。

 やはり、彼女は頭の回転が早いほうらしい。


「……気を、悪くしたか」

「どうして?」

「詮索されるのは、気分がよくないだろ」

「別に?」


 桜夜はあっけらかんと否定した。けろりとした表情で、本当に少しも気にしていないのだろうその様子に、俺のほうがうろたえてしまう。


「や、まあ、よくはないけどね。でも私もイツキくんのこと色々ツキミに聞いたから、おあいこだもん」

「俺のこと?」

「あなたの家族のこととか。お祖母ちゃんは外国の人で、イツキくんの髪の色はその人譲りだとか……ほんと、何でも知ってるよね、あの人。わりと真面目に引く」

「白雪姫の鏡を自称してたな」

「あー、なるほどねー」


 でも、と彼女は一度言葉を区切ると、


「私にとって、ツキミは鏡じゃなくて狩人かな」


 と言った。

 狩人——白雪姫の狩人といえば、さて、どんなキャラクターだっただろうか。

 女王に白雪姫を殺すように命じられ、しかし姫を不憫に思った彼は結局殺すことができず、女王に嘘をついて獣の臓器を持ち帰った……先日読んだ原作では、大体そのように描写されていたはずだ。

 なるほど。言われてみれば、確かに嘘つきな彼女らしい。

 そんなことを考えていると、不意に、桜夜はこちらと向かい合うように足を止めた。呼吸は少し乱れ、額に汗が滲んでいる。それでも彼女は真っすぐに俺のことを見つめ、そして口を開いた。


「イツキくんの言う通りだよ。これは、堤さんたちのための復讐なんだ」


 彼女は——通り魔は、澄んだ声でそう言った。

 復讐……そういえば、白雪姫は復讐劇だと、藤咲は評価していた。

 何もしていない主人公が、唯一、自分の意志で行ったこと。

 原作では真っ赤に焼いた鉄を履かせ、女王が倒れて死ぬまで踊らせたと書いてあった。この方法はかつて、魔女裁判においても似たような拷問が実際に行われていたらしい。

 よほどの激しい感情でもない限り、そんな惨いことは思いつかないだろうし、そもそも考えようともしないだろう。

 だから。

 それほどの恨みがあれば、人間とは、どこまでも残酷になれるものなのだろう。

 例えば——詐欺師たちのせいで両親と離れなくてはならなくなった、とか。


「……こういうことを言うのは、月並みなのかもしれないが」

「うん」

「桜夜の両親は、そんなことを望んではいないんじゃないか」


 我ながら本当に陳腐な言葉だと思うが、それが本心なのだから仕方がない。

 問いかけられた桜夜はどこか遠くの空を見つめているように見えたが、やがて静かな声で、そうかな、と呟きながらまぶたを伏せた。


「そうなのかも、しれないね」


 そう呟きながら、彼女はくるりと回れ右をした。そしてそのままゆっくりと歩き出したので、俺は何も言わずその後ろをついていく。

 桜夜は、わかってくれたのだろうか。

 復讐では何も生まれないことを……そんな行為にはなんの意味もなく、誰も幸せにならないということを。

 どうか、本当に道を踏み外してしまう前に通り魔なんてやめてほしい。そう願わずにはいられなかった。


「…………」


 気がつけば、周囲には知らない景色が広がっていた。いや、正確にはデジャヴのような既視感はある。しかし田舎町なんてどこへ行っても似たような風景なのだから、特に不思議なことではないのかもしれない。

 交差点の横断歩道を渡っていると、不意に強い風が道路を吹き抜けた。その冷たい風に混じっている磯の香りが、ほんの少し強くなったのを感じる。河口に近付いたのだろう。彼女が言っていた白露大橋とやらも、もうすぐそこにあるのかもしれない。


「ねえねえ。ツキミとはほかに、どんなお話をしたの?」

「ほかには……あれ、えっと……世間話をいくつかしたような気はするんだが、最後の印象が強すぎてほかはうろ覚えだな」

「最後って?」

「俺の目の話——いや、会話というよりは、一方的に地雷を踏まれたようなものなんだが……」


 目? と、桜夜が小首をかしげたので、俺は


「世界が、灰色に見えるんだ」


 と答えた。

 言いながら、そういえば、と思う。

 俺の目のことを、自分から誰かに話すというのは、初めてのことかもしれない。

 今まで誰かに話そうと思ったことはないし、むしろ可能な限り誰にも話したくないと思っていた。この病と向き合いたくなくて、忘れてしまいたかったから、誰にも知られることのないように振る舞ってきたように思う。

 だというのに、どうしてだろうか。彼女には知ってほしいと、なんとなく思ったのだ。


「昔の映画とか写真って白黒だろ。あれみたいな感じなんだ。あんな風に、全部モノクロに見える」


 説明しつつ、しまった、と少し後悔をした。視界がモノクロに映っているというのは本当のことだが、健常的な目をもっている桜夜には理解がしにくいだろう。


「悪い。意味のわからない話をしたな。忘れてくれ」

「私、馬鹿なんだ」


 と、何故か彼女は唐突にそんなことを言った。


「だからイツキくんの言いたいこと、よくわかってないかもだけど……でも、その感覚はわからなくもないから」


 俺は少し驚いた。桜夜はこちらを憐れんでそんなことを言っているわけではない。それは彼女の表情や声色から読み取ることができる。

 同情も憐憫もなく。

 さも当たり前のように共感されたのも、初めてのことだった。


「私もね、そんなときがあったよ」

「……そう、なのか?」

「寒くて、凍え死にそうで……世界からどんどん色がなくなってくの」


 彼女はうつむき、自分の身体を抱き締めるように左手で反対側の腕を掴んだ。


「そのときの私は、きっとさみしかったんだ。誰かに隣にいてほしくて、でも誰もいなくて、ずっとひとりぼっちだった」

「……寂しい、か」

「ここ一か月くらい、ずっと寒いの。だからこんなマフラーしてるんだけどね」


 口元を覆うようにマフラーを引き上げながら、桜夜はそう言った。その言葉に、俺はすべてが腑に落ちる。

 彼女が季節外れのマフラーを巻いているのは、そういう理由だったのか。

 寒いから防寒具を身に着ける。ただそれだけの、単純な話だ。

 桜夜が話していることは、おそらくイデアリズムに近いものなのだろう。目を患っている俺のように、本当に世界から色がなくなっているわけではない。

 それでも彼女なりに俺の話を理解しようとしてくれていることはこちらに伝わってくるし、それは俺としてもうれしいことだった。


「このマフラー、ツキミがくれたんだよ」

「そうだったのか」

「ツキミと初めて会ったとき、寒がってた私にくれたの。そしたらね、びっくりするくらいあったかくなったんだよ」


 でも、と。桜夜はそこで一旦言葉を切る。


「最近はあまり意味ないんだ。先月くらいから私がツキミのこと避けちゃってるからかな……あの人と話すと全部見透かされちゃいそうで、怖いんだもん」

「……今も寂しいのか?」


 彼女の歩みに合わせて揺れる白いマフラー。桜夜はそれを、大切な人にもらった大切なものだと言っていた。その大切な人というのは、つまり雪村先輩のことなのだろう。

 すべてが見透かされそうで怖い、という気持ちはよくわかる。わかりすぎるほどに、めちゃくちゃよくわかる。

 だからこそ、彼女が先輩のことを避けたがる理由もまた、理解できた。

 通り魔の犯人を九十パーセントは特定できている、と雪村先輩は言っていた。その容疑者の中には黒神桜夜も含まれているのだろう。彼女が復讐の鬼と化しても不思議ではない動機をもっていることは、先輩も知っているのだから。

 雪村先輩が、本当は通り魔の正体に気付いているのか否かわからない。何でも知っている彼女が真相にたどり着いたとしても、不思議ではないのだから。

 けれど。

 そういった理由はあるかもしれないが、雪村先輩は桜夜にとって宝物をくれたとても大事な人だ。そんな彼女を避けざるをえない現状は、きっと桜夜には辛いものなのだろう。

 そうかもしれないね。そう彼女は肯定しながら、とんとんとん、とリズミカルに三歩、スキップするかのように前に出ると桜夜は歩道の境界線を越えた。

 境界線。

 それは俺たちが今まで歩いてきた歩道と、橋の歩道を切り替える境目の線だった。

 親柱には『白露川』と書かれていた。この下に流れている川の名前が白露というのであれば、ここが彼女の言っていたくだんの白露大橋なのだろう。

 あれ、と思う。

 その橋に、激しい違和感があったのだ。

 片側二車線の、大きな橋。西から東へと流れている川——その先にあるのは河口で、遠くには海が、水平線が見える。

 ああ、これは違和感ではなく、既視感なのだ。

 それはいつかの昔に、夢の中で来た覚えのある場所。

 中学一年のとき——寒い日の夜明け頃に出会った、あの少女に導かれた場所だ。

 橋を渡りながら、東の空へと視線を向けた。日はまだ昇っていない。暗いグレーの空が、水平線にかけてだんだんと白くなっている。その光景を目にして、俺はため息をついた。

 あの朝焼けをもう一度見ることができれば、きっとこの目は治る。そんな期待をしていた。しかし俺の世界はモノクロのままで、結局、何も変わってなどいない。

 この灰色の空を、無彩色の水平線を——あの少女はなんと呼んでいたのだったか。

 それすらもう、思い出せそうになかった。


「でもね」


 不意に、耳に届いた柔らかい声。その方向に視線を向けると、俺の数歩前を行く桜夜はいつの間にかこちらと向き合っており、後ろ向きに歩いていた。

 彼女の目は水平線へと向けられていた。潮風が桜夜の黒く艶のある前髪を乱し、その下に浮かべている表情を隠している。


「イツキくんの隣にいると、ちょっとだけ寒くないの」

「俺の、隣……?」


 それは風除けにされているという意味だろうか。桜夜の身長は双子の兄である白夜とほぼ変わらない。対して俺のほうは高校一年にしては少し高めの部類にカテゴライズされるだろう。壁として役には立つかもしれない。

 そう考えて問いかけてみたが、彼女は静かに首を横に振る。


「私は知ってる。あなたは私に嘘をつかないって、だから信じて隣にいられる。それは少し苦くて、正直、とても苦しいけど——それ以上に、あなたの手は、あなたの隣はあったかいんだ」


 と言うと、桜夜はこちらに近付き、そして俺の手を取る。小さく、細く——氷のように冷たい手のひら。そんな両手で、彼女はこちらの右手を包み込むように握る。


「イツキくんも、きっとさみしいんだって、私はそう思うよ」

「……俺、が?」

「ハクでもいい。藤咲さんでもいい。ツキミでも、ツルギさんでもいい。隣にいてくれるだけで温もりをくれる人が、あなたにもいるといいね」


 あなたの味方は、あなたが思ってるよりもずっと多いから。

 桜夜はそう言った。


「でも今は私しかいないから……そうだ、これ貸したげるよ」


 そんなことを言うと同時に彼女は俺の手を離し、自分の首に巻いていたマフラーをするりとゆるめた。そして踵を上げて爪先立ちをしたかと思うと——大事なものだと言っていたそれを、流れるような手つきでこちらの首にかけてくる。

 そのマフラーに桜夜の体温が移ったのか、冷たい手のひらに反して、柔らかく頭を包み込むそれは温かい。

 ふわり、と甘い香りを感じる。それは彼女の名前によく似合う、春の花の匂いだった。


「あったかいでしょ」


 桜夜は。

 黒神桜夜は——そこで初めて笑った。

 まるで普通の女の子のような、あどけない笑顔。

 想定外だった彼女の微笑に、不覚にも、俺は見とれてしまった。

 瞬間。

 世界が、揺れた。


「あ」


 突然、桜夜は声を上げる。


「見て!」


 と言って、彼女は水平線を指差した。つられるように、俺もそちらへと目を移動させる。

 そこには。

 そこに広がっていたのは——赤色だった。

 炎のように燃える太陽が、海の彼方から昇ろうとしているところだった。そしてその眩しい光は、水面に揺れる波を、きらきらと輝かせている。

 灰色だった空の上に、赤色が広がっていく。インクが滲むように、絵の具で塗りつぶすかのように、世界は息つく暇もなく鮮やかに染まっていっていた。

 それは——

 あの日見た朝焼けと、同じ空だった。


「昔、トレーニング中に迷子になったことがあって、そのときに見つけたんだよ。ハクにも教えてない、私の秘密の場所なの。瑠璃色と東雲色のグラデーションがとっても綺麗でしょ」

「————え」


 桜夜は夜明けの空を見つめたまま、そういえば、と言葉を続けた。


「ここを見つけたのは中学のときなんだけど、私すっごく感動しちゃって、どうしても誰かに見てほしくて、気持ちを共有したくって……そんなとき、たまたま会った男の子に教えたことがあったっけ。フードを深く被ってて、顔も名前も知らない子だったんだけど——イツキくん?」


 不意に、彼女が俺の名前を呼んだ。きっと、丸い瞳をもっと丸くさせて、こちらを見つめているのだろう。

 けれど、それに返事をしてやることは、できそうになかった。


「どうして泣いてるの? どこか痛いの?」


 涙で霞む視界の中、目の前の少女があたふたと慌てているのがわかる。ぼやけてよく見えないけれど、その様子は見るまでもなく想像できることだった。

 だってその台詞は、あの日と同じものだったから。


「——違う、よ」


 だから俺も、あの日と変わらない言葉を口にした。

 俺は涙を無理やり拭い、桜夜と目を合わせた。すると、不安そうにこちらを見つめている彼女の顔が目に映る。そしてそんな桜夜のことを、朝日が横から照らしていた。

 その光を受けて、潮風に揺れる彼女の髪は、セピア色にきらめいていた。


「……桜夜は、そんな髪の色をしてたんだな」

「え? あ、うん。私の髪は、ハクより明るいほうだと思うけど」


 どうして今更? と訊きたげに桜夜は首をかしげた。きっとそれは彼女にとっても、彼女の兄にとっても、クラスメイトにとっても……誰にとっても、今更なことなのだろう。

 けれど俺は、そんな今更なことにも、気付くことができなかったんだ。


「大丈夫だよ。痛くもないし、悲しいわけでもないから。ただ、うれしいだけなんだ」

「うれしい、の? ほんとに、どこも痛くない?」

「ああ。本当に」


 嘘はつかないって約束だろ。そう笑ってみせると、桜夜は少し目を見開いたのち、安心したように表情をほころばせた。

 その微笑も、記憶の中の少女と同じもので。

 ああ、そうか。

 あの日の出来事は、自己満足の夢でも、都合のいい幻でもなかったんだ。


「桜夜」


 名前を呼べば、ん? と彼女は目を瞬いた。たまらなくなって、俺は思わず桜夜の手を握り締める。寒がりなのに自分の温もりを分け与えようとする彼女に、どうか俺の体温が少しでも移ってくれればいい。そう願いながら、手のひらに力を込めた。

 そして、万感の想いを込めて——俺は、こう言ったのだ。


「この朝焼けを教えてくれて、色彩を教えてくれて——この世界の美しさを教えてくれて、本当に、ありがとう」


 ありがとう、と。

 繰り返し、彼女に伝えた。

 君のおかげで。

 俺は、この世界を好きになることができたんだ。



* * * * *



「いっくん、お帰りなさい。今日も遅かったのね」


 ダイニングの扉を開けると同時に、エプロン姿の母さんがキッチンから顔を覗かせた。その表情には微笑みを浮かべているものの、息子のことを心配しているという様子は隠しきれていない。ここ最近心配をかけるような出来事ばかりだったのだから、仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。

 何かあったの? と食器を洗う手を止めないまま彼女は尋ねてきた。その質問を適当にごまかしつつ、予定通りシャワーを浴びるためにダイニングを後にする——と、そのとき。カウンターの上に置かれているあるものが目に入った。

 それはいつかの放課後、雪村先輩のコンタクト探しを手伝った際にもらった飴の小瓶だった。その中身は既に半分ほど減っているように見える。


「あ、それね、とってもおいしかったわ! まるで本物のフルーツみたいな味と香りが口の中いっぱいにふわって広がるの。パパやいっくんが甘いもの苦手なのがちょっと残念だわ」


 ほっぺたが落ちちゃいそう、と母さんは自分の頬を押さえた。それに対して、ふうん、と相槌を打ちながらその瓶を手に取る。ころん、と音を立てて動く飴を天井のLEDに透かしてみる。赤や青など、色とりどりの飴玉がきらめくその様子は、なるほど、宝石に見えなくもない。


「なあ、この青いのは何味なんだ? こんな色の果物はないだろ」

「青色は、確かブルーベリーじゃなかったかしら。ラベルに説明書きみたいな、の、が——」


 母さんが何かを言い切るより先に、がしゃん、という音が部屋に響いた。慌てて彼女のそばに寄ると、シンクの中でグラスが割れているのが視界に入る。どうやら石鹸で手を滑らせてしまったらしい。

 その手についている白い泡の中に、赤い血が混ざっているのが見えた。飛び散ったグラスの破片で指を切ったのだろう。


「消毒液と絆創膏もってくる。母さんは指を洗って」

「樹月」


 洗っていてくれ、と言おうとしたこちらの言葉を断ち切るように、母さんは俺の名前を呼んだ。その声に、彼女の手に向けていた目を上げる。

 母さんは、泣いていた。

 声も上げない、嗚咽ひとつ漏らさない。

 ただただ静かに、涙を流している。

 俺は戸惑った。母さんが泣いているところを見たのは初めてのことだったのだ。色覚異常を患ったときも、彼女は息子である俺にだけは涙を見せようとはしなかった。

 樹月、と。母さんは俺の名前を繰り返す。


「今日の空は、何色かしら」


 それは放課後の図書室で、雪村先輩に投げかけられたものと。同じ問いかけだった。

 だから俺は、


「青だよ」


 花見日和の青空だ、と。そう答えた。

 途端、母さんは泣き出してしまった。小さな子供のように声を上げ、嗚咽に合わせて肩を震わせる。泡だらけなうえに血を流している両手で顔を覆おうとしたので、それだけは急いで止めた。

 昔から、たまに疑問に思っていたことがある。

 どうして表情が豊かな母さんから、こんな無愛想な息子が生まれたのだろう、と。

 けれど、もしかしたら。

 俺の涙腺の弱さは、この人譲りだったのかもしれない。

 泣きじゃくる母さんの背中をさすりながら、そんなことを考えていたのだった。

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