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猛毒スノーホワイト  作者: 氏原ゆかり
Sky of Daybreak
6/14

第5話『蒼空』

ChapteR.5 Spring of blue 

 

※暴力描写有

 四月二十一日、火曜日。

 その日、俺は毎朝の日課だったジョギングを休んだ。これまでだって天気の悪い日は中止することもあったが、体調不良で休むというのはこの三年間で初めてのことだった。

 体調不良といっても、大したことではない。いつもは寝起きがいいのに今朝はほんの少しだけ身体がだるく、なんとなく体温計で測ってみればいつもよりほんの少し熱があった。ただ、それだけのことだ。

 それでも、顔色が悪いと母さんに心配されるほどには体調が悪かったらしい。そう言われて鏡を見てみたが、そこに映る自分はいつもと変わらないように見えた。

 だからこそいつものようにジョギングの準備をしようとしたところで、母さんに無理やりベッドへと連行された。すぐ戻るから一旦外に出させてくれ、と主張しても彼女は首を縦に振らない。反対に外に出たがる理由を問われてしまい、俺のほうが黙ることになった。通り魔が門の前で待っているなんて、言えるわけがない。

 通り魔——黒神桜夜。

 きっと桜夜は、今も俺のことを待っているはずだ。今日は付き合うことができないと、もう帰ってもいいのだと伝えなくてはならないが、それを伝える術をもっていない。

 連絡先を交換しておけばよかった。そんなことを考えながら、意識を手放す。

 それから目を覚ましたのは、十一時ごろだった。

 身体のだるさや熱は落ち着き、母さん曰く、顔色もいつもの俺に戻ったらしい。最近疲れるようなことが多かったから、たまたま今朝それが体調のほうに表れただけのことなのだろう。

 授業は午後から受けることにした。昼食を済ませ、制服に着替えて自宅を後にする。当たり前だが、門の前に彼女はいなかった。

 教室の扉を開けたのは、五限の予鈴が鳴る十分前だった。一斉に向けられるクラスメイトたちの視線を黙殺しながら自分の席に着くと、ひとつ前の席に座っている白夜がこちらを振り向く。


「お、重役出勤ご苦労さん。体調は大丈夫か?」


 そう言って笑いかけてくる彼の言葉に首肯し、そのとき、はたと気がついた。

 白夜の前の席。出席番号八番の、黒神桜夜の席。しかしそこに彼女は座っていなかった。教室の中を見渡してみても、桜夜の姿はどこにもない。


「……桜夜は?」

「早退。気持ち悪いつって、さっき帰ったよ」

「……早退? 大丈夫なのか?」

「あー……、……まあ、兄貴が迎えに来たし、きっと大丈夫だろ」

「そうか……」

「心配すんなって。明日にはぴんぴんしてっからさ! な!」


 そう言いながら、彼は俺の肩をたたいた。妙にテンションが高い。たぶん、こちらを安心させようとわざと明るく振る舞っているのだろう。心の中では双子の妹のことを心配しているはずなのだから。

 白夜がそうしたいのであれば、あえて掘り下げることもない。それ以上彼女のことには触れず、話題を変えることにした。


「兄貴って、黒神先生のことか?」

「んにゃ、大学生の次男。うち四人兄弟なんだよ」


 四人兄弟。兄弟が四人もいるというのはどういう感覚なのだろうか。ひとりっ子である俺にはあまり想像できないなと、リュックサックから教科書やノートを取り出しながらなんとなく考えていた。


「あ、そうだ。伝言預かってるぜ」

「伝言? 誰からだ?」

「三年の雪村月見から。本のレンタルは一週間だから、今週の金曜までに返却しろってさ」


 教科書を机の中に入れようとしていた手を、思わず止めた。


「三年、の……」

「雪村月見。知ってるだろ? 図書委員会のお姉さんだよ」

「いや、知ってはいるが……白夜とはどんな関係なんだ?」

「親戚」


 彼はあっさりと答えを口にする。


「いとこのいとこ……だった、はず」

「……それは他人じゃないのか」

「赤の他人だよ。あ、でもひい爺さんかその前の爺さんが繋がってるんだっけ。俺もよく知らんけど。まあ、黒神家と雪村家は親戚ってこった」


 本家と分家ということなのだろうか。そう思って尋ねてみると、そんな仰々しいもんじゃない、と白夜は笑った。

 机に教科書を入れる作業を再開しながら、先ほど名前が出た彼女のことを思い浮かべた。

 雪村月見。図書室にいた、あの先輩の姿を。

 彼女と黒神兄妹の間には、そういう関係があったのか。世間は狭いというかなんというか、どこでどういう風に人の縁が繋がっているのか、わからないものだ。

 親戚、と白夜は言った。俺にもたくさん親戚がいるが、彼ら彼女らは血縁と呼ぶには遠すぎるので親戚とも家族とも思うことができない。

 家族。その単語に、ふとあることを思い出した。


「ああ、そうだ。ひとつ気になってたことがあったんだ」

「なんだ?」

「桜夜から聞いたんだが……」


 あのとき、桜の下で桜夜と交わした会話を思い返しながら言った。


「ふたりは、昔は葛城町に住んでたんだよな」

「ん? 小六まではそうだったけど」

「でも、黒神の家はずっと古鷹じゃないか」


 たまにではあるが、親戚の大人から黒神家の噂を聞かされることがある。黒神の家は古鷹町にあり、立派な日本家屋をしていると聞いたのも彼らからの情報だ。

 しかし、黒神家がもともと葛城町にあり、最近古鷹に引っ越したという噂は耳にしていない。彼らの家は俺や双子が生まれるずっと前から、古鷹にあったということだ。

 それは、桜夜が言っていたことと矛盾する。

 教科書を机に入れ終え、顔を上げた。視界に入った白夜はきょとんとした表情を浮かべている。どうやら質問の意図がうまく伝わらなかったらしい。


「母親のほうの家に住んでたのか?」

「——、……母親?」

「葛城の人なんだろ? 桜夜がそう言って」

「サクが」


 俺の言葉を遮るように、彼は言った。


「サクが、言ったのか」

「え? ……ああ。そう、だな?」

「母さんのことを、話したのか」

「そうだが……」


 白夜の言葉に気圧されたように、少しためらいながらも頷いた。彼は先ほどまで浮かべていた笑顔を消し、心なしかたれ目を鋭くさせ、じっとこちらを見つめている。

 まるで、詰問でも受けているようだ。


「ほかは?」

「え?」

「ほかに、サクはお前に何を話した?」

「ほかには……名前くらい、だったと思う」


 名前? と彼は繰り返すので、俺は頷いた。


「ふたりの名前の由来と、あと、母親の名前」

「母さんの名前?」

「つつみさん、って……」


 つつみさん。

 あのとき、彼女はそう呟いていた。

 黒神つつみ。漢字はわからない。もしかしたらひらがなそのままの名前なのかもしれないと考えながら、あらためて白夜に視線を向ける。

 彼は——無表情だった。

 表情がない。感情がない。無愛想というわけでも、仏頂面なわけでもなく。喜怒哀楽のすべてが失われたかのような、人間味に欠けた顔。

 それは白夜らしくないと、そう思わずにはいられなかった。


「……は、白夜?」

「イツキ」


 名前を呼ばれ、思わず口をつぐむ。

 そのとき同時に、五限の開始を告げるチャイムが教室に鳴り響いた。扉の開かれる音、五限を担当する教師の声、それぞれの席へと戻っていくクラスメイトたちの足音、床板や椅子の軋むような物音。様々な音が洪水のように、教室を満たし始める。

 そして彼は、ゆっくりと口を開く。


「何も知らないなら、そのままでいい」


 静かに放たれたその言葉は、教室の喧騒に埋没するように——沈んで消えた。



* * * * *



 授業は早々に終了した。

 通常であれば授業時間は五十分なのだが、今日からしばらくは四十分で様子を見るようだ。今朝行われたらしい臨時の全校集会で——つまり、俺がベッドで横になっている間にそれが決定した。

 授業は短縮し、部活動もすべて禁止、放課後のアルバイトもできるだけしないこと。生徒はホームルームが終わり次第すぐに下校しなさい。

 それが先生たちからの指示だと、白夜から聞いた。

 そのような指示が出された理由は、言うまでもない。集会に参加していない俺でも想像に難くないことだ。

 伊東先生。昨日殺害された、あの人の件を受けての判断だ。古鷹高校は既に、先月に照井という名前の教師も失っている。その決定は、むしろ少し遅かったくらいだ。

 きっと、誰もが思っていたのだ。

 通り魔は人を殺さない、と。

 自分が次の被害者になるわけがない。なったとしても、殺されることはない。痛いのも、病院送りにされるのも嫌だけど、それでも死ぬことだけはありえない。百歩譲って次の被害者が自分だとしても、それでも生き残ることはできるはずだ——と。

 誰しもがそんな風に願い、そしてその祈りは完膚なきまでに破壊された。

 通り魔は、人を殺す。

 そしてそれを証明してしまったのは、自分たちの学校に勤めている教師なのだ。身近にいる人間が亡くなる。通り魔に殺される。その事実は、それまで現実味を感じることができなかった生徒たちに恐怖を与えるには十分過ぎた。

 それを責めることは誰にもできないだろう。通り魔の共犯者である俺でさえ、彼女は人を殺すことだけはしないと、どこか楽観的に考えていたのだから。

 黒神桜夜。

 白いマフラーを首に巻く彼女の姿を思い浮かべた。午前中に早退したという桜夜。白夜には確認していないが、きっと彼女はいつも通り兄と一緒に登校し、そしてほかの生徒と同じように全校集会に参加したはずだ。

 伊東先生の死を告げる先生たちの言葉を聞いて、桜夜は何を思ったのだろう。

 彼女は、何を考えているのだろうか。


「……わからない」


 わかるわけがないのだ。桜夜だから、ではない。人が何をどのように考えているのかなんて、他人に理解できるはずがないのだ。

 だから俺は頭を振り、思考を切り替えることにした。今向き合わなくてはならないのは彼女ではなく、目の前のことなのだから。

 時刻は午後三時五十分。場所はスーパーマーケットである。

 そして目の前にあるのは、商品棚に丁寧に並べられた大量のワイン。

 ひとつため息をつきながら、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。イヤホンが繋がれているそれは、数年前に流行した曲を耳に流してくれている。アプリケーションを切り替え、とあるチャットアプリを起動させた。

 液晶に表示されたのは母さんからのメッセージである。体調が悪いのにごめんね、とか、無理そうだったらいいのよ、とかの謝罪の言葉を省略して要約すると『夕飯に使うから、学校の帰りに赤ワインを買ってきて』という——まあ、つまりはおつかいを頼まれたのだ。

 前半部分を無視して買い物を了解したのはいいものの、大量のワインを目の前に、俺は困っていた。

 種類が多すぎてどれにしようか迷っている、というわけではない。もっと単純なことだ。


「未成年、なんだよな」


 そう。

 俺は高校一年生の十五歳。

 たとえ親に頼まれた買い物だとしても、未成年に対して酒類を販売することは法律で禁止されているのだ。

 アウトだ。駄目なものは駄目なのだから、仕方がない。無理そうだったらいい、という彼女の言葉に甘えさせてもらうことにしよう。

 そう判断して帰ろうとしたところで——唐突に、ブレザーの袖を引かれた。

 振り向くと、そこには少女が立っていた。身長も体格も平均くらい。真っ黒な制服姿だったことから、同じ古鷹高校の生徒だということがわかる。右手で俺の肘のあたりを掴み、もう片方はショッピングカートに手をかけていた。

 長い黒髪がひと房、肩から流れ落ちるのが目に入る。視線を移動させて彼女の顔を見た。そこでようやく、その女子生徒が丸い眼鏡をかけていることに気がつく。

 その眼鏡は、見覚えのあるものだった。


「……藤咲? お前、藤咲か。どうしたんだ」

「……紅野さん」


 何故かいつものポニーテールをほどき、髪を下ろしている藤咲蒼海。

 彼女はとても真剣な表情で、こう言ったのだった。


「助けてください」



* * * * *



「助かりました~! 本当にありがとうございますっ!」

「いや……お前の役に立てたのなら何よりだ」


 そんな会話をしながら、俺たちは並ぶように自転車を押して歩いていた。

 藤咲の自転車の前籠には、先ほどスーパーで買ったばかりの食料品や日用品が大量に詰め込まれ、後ろの荷台には十キログラムの米袋がビニールテープでくくられている。自転車も含めた総重量を考えると女子が押して歩くにはつらいのではないかと思うのだが、しかし彼女の表情はとても晴れやかなものだった。

 ちなみに、同じ米袋がもうひとつ、俺の自転車の籠にも入っていたりする。


「お米十キロがおひとり様二十五パーオフ! 四分の一オフですよ、四分の一! たまたま紅野さんがいてくれて本当に助かりました。おかげでしばらくはお米に困りませんから!」


 やっぱり日本人といえばお米ですよ、お米! と、藤咲ははしゃぐように笑った。

 あれから。

 彼女が真面目な顔で助けを求めてからのこと。

 結論を先に述べると、俺は特売戦争に巻き込まれたのだった。

 おひとり様ひとつ限り二十五パーセントオフ。そんな広告の下に集まる、主婦たちの群れ。都会の満員電車のように混み合っているその景色は、俺の目にはただただ異様に映ったのだった。

 俺よりも体格が小さいのに何故か妙に力の強い女性たちになんとか勝利し、戦利品を手にその人だかりから脱出することに成功したときには、制服のブレザーが半分ほど脱げかかっていた。事前にスマホとイヤホンをリュックの中に避難させておいてよかったと本気で思う。そしてそんな俺の姿を見て、とっくに戦線を離脱していた藤咲はおかしそうに笑ったのだった。

 そして現在、特売戦争に勝利した俺たちは戦利品を自転車に積み、家路についていた——ちなみに。彼女曰く、未成年でも料理酒であれば普通に購入できるらしく、ラベルに料理用と書かれた赤ワインは今背負っているリュックの中に入っている。

 ふんふん、と。藤咲は機嫌がよさそうに、少し昔のアイドルソングをハミングしている。いつもなら彼女が一歩を踏み出すたびに後頭部でポニーテールが揺れるのだが、今は肩の上に流れている髪が少し弾む程度だった。


「髪」

「はい?」

「髪、ほどいたのか」


 藤咲は一瞬きょとんとした表情を浮かべて首をかしげたが、すぐに言いたいことを理解してくれたのか小さく頷いた。


「ポニテは学校限定なのです。プライベートではいつも下ろしてますよ」

「ふうん」

「んん? まさか紅野さん、ポニテフェチですか?」

「フェチ? フェチズムかどうかはよくわからないが、ポニーテールは好ましいと思う」

「あら、予想外なリアクション」


 へーえ、ふーん。と呟いて、彼女はどうしてかいたずらっぽい表情を浮かべた。どこかにやにやとしているように見えなくもない。どうしてそんな顔をしているのかよくわからず、こちらのほうが首をかしげたくなった。


「まあ、いいか。で、どうして学校限定なんだ?」

「ポニテって、実は少し痛いんですよね。髪が一日崩れないように、きつめに結んでるので。なので下校中にほどいちゃうんです」

「じゃあ、どうして学校では結んでるんだ?」

「だって優等生に見えるじゃないですか」


 自転車を押しながら、藤咲はそう言った。


「三つ編みはもう古いです。平成も終わったこの時代、今時の優等生といえばポニテですよ、ポニテ。私、形から入るタイプなんですよ」

「そんなことしなくても、藤咲はもともと優等生じゃないか」


 そう言うと、何故か彼女は、ふふふ、と笑ってみせる。


「俺は何かおかしいことを言っただろうか」

「いえいえいえいえ……ふふっ。紅野さんって人を見る目がないんですね」

「どういう意味だ?」

「うふふ、なんでもありませんよ」


 藤咲は楽しそうに笑う。よくわからないが、彼女がなんでもないと言うのなら本当になんでもないことなのだろう。

 俺と藤咲はそのまま自転車を押し続け、とある交差点を曲がる。先週の金曜日、彼女を送ったときもこのあたりで別れたのだ。本当のところ、藤咲の家はもっと奥のほうにあるらしいのだが、方向音痴である俺がきちんと自宅に戻れるようにという、彼女なりの配慮のようだ。


「今日は私の我儘に付き合ってくださってすみませんでした。体調もよろしくないでしょうに」

「それは別に構わないんだが、家まで送らなくて大丈夫か」

「大丈夫ですよ。……しかし」


 藤咲はそこで言葉を区切り、目を伏せた。


「まさか、伊東先生が亡くなってしまうとは」

「…………」

「予想外……いえ、計算外でした」


 彼女はまぶたを閉じ、静かに首を横に振る。今は亡き伊東先生のことを、悼んでいるのだろう。

 彼の死を予想していなかったのは、藤咲だけではない。誰だって、俺だって予想外だった。何より先生本人が一番想定外だっただろう。

 生徒の中に通り魔がいるなんて、思うわけがない。

 ただひとり。

 彼を殺した黒神桜夜だけが、すべてを知っている。


「しかし、先生が殺害されたのは日没ごろみたいですし、この時間ならきっと大丈夫ですよ」

「いや、通り魔の件もあるんだが、俺が言いたいのはこれのことだ」


 言いながら、自転車の籠の中を指差した。

 米袋十キログラム。

 彼女の自転車にくくられているものと合わせて二十キロ。藤咲が購入していたほかの食料品や日用品のことも考えると、総重量は女子にとって絶望的なものになるだろう。男である俺だって、できることなら遠慮したい重さだ。


「…………」

「…………」

「……紅野さん」

「ああ」

「……家まで、お願いします」

「うん」


 頷いて、俺たちは再び自転車を押し始める。それでも彼女はしばらく悩んでいたようだが、最終的に諦めたかのように大きなため息をつく。もしかしたら住所を知られるのが嫌なのかもしれない。

 通り魔のせいで、この町はどこか不穏な空気を纏っている。クラスメイトとはいえ、男に対して警戒心を強めるのはいいことだろう。

 歩き続けて住宅街へと入る。閑静、と言えば聞こえはいいかもしれないが、なんとなく妙な静寂に満ちているような気がした。人通りが少ない、というより、人気がないと表現したほうが正しいとさえ思えてくる。

 道路の両側に並ぶ家々も、俺の近所とはそもそも建築の種類が違うようだった。このあたりは古い町なのか、築年数の経っていそうな家が多い印象だった。

 藤咲に先導されて角を曲がる。そこで、はたと気がついた。曲がったその先の道には、どこか見覚えがある。それは、方向音痴である俺にしては珍しいことだった。

 思わず、住所を確認する。そこは確かに最近——正確にはつい昨日、桜夜に案内されて通ったばかりの道だった。

 周囲をきょろきょろと見回しながらも、藤咲の後ろをついていく。そうしているうちに、少し広い道に出た。そこで、ああ、と思う。やはり、この通りには見覚えがあった。

 通りの向こうには踏切と——そして、大きな桜の木があった。

 夜明け頃に桜夜と一緒に見た、あの桜の木が。


「あの桜……」

「桜? ああ、あれですか。無駄に大きくて困ってますよ」

「困ってるのか?」

「地面に落ちた花びらや葉っぱの掃除は、町内での当番制ですからね。面倒臭いことこの上ありません。いっそのこと切り落としてくれればいいんですけど」


 そんなことを言う彼女に、せっかく綺麗なのに勿体ない、と返しそうになった口をつぐむ。地元に暮らす人とそうじゃない人間とだと、たとえ同じものを見たとしてもそれに抱く印象には差異があるものだ。

 藤咲に導かれるまま近くのアパートの敷地内に入り、自転車を駐輪場に置かせてもらう。彼女の部屋は最上階の三階らしい。エレベーターもないような古い建物だ。やはりついてきてよかったと思った。

 米袋の片方を右肩に、もう片方を左の脇に抱えたところで、ふと視界の端に映った白い何かに目が奪われた。思わず、それがある駐車場のほうへと視線を向ける。

 白と黒のツートンカラーで塗装された車体。その車はつい最近——そう、通り魔と邂逅した日に見たばかりのものだった。

 パトロールカー。世間一般的には略してパトカーと呼ばれているそれはサイレンを鳴らすこともなく、ただ静かに駐車していた。

 車の前には、制服姿の警官がふたり。どちらも男性で、壮年の人と若い人の組み合わせだった。前者は何か資料のようなものを読んでいるようで、後者は無線でどこかの誰かと話している様子だ。

 不意に、壮年の男性が顔を上げた。目が合ったので軽く会釈をすると、彼も同じように一礼をして再び手元の資料に目を落とす。

 どこかの部屋で何かあったのだろうか。ただでさえ最近は連続通り魔事件の捜査で忙しいだろうに、警察という仕事は本当に大変そうだ。

 そんなことを考えながらアパートの階段を昇る。それは鉄製で、一歩上がるたびにカンカンと乾いた音を響かせた。

 藤咲が住んでいる部屋は三階の一番奥にあった。彼女に招かれ、藤咲家にお邪魔させてもらう。通学用の革靴を脱ぎながらまず抱いたのは、物の多い家だな、という感想だった。全体を見れば決して散らかっているわけではないのだが、どこか乱雑としている印象は否めない。

 人の家をじろじろと観察するのも失礼なので、藤咲にお願いされるがまま米をダイニングへと運ぶ。ついでに彼女が買ってきたものの整理もいくつか手伝ったところで椅子を勧められ、安物ですけど、という謙遜の言葉とともに差し出された麦茶を飲んだ。よく冷えているそれは、ちょっとした労働の後に飲むとまたおいしく感じられる気がする。グラスを半分ほど減らしたところで、向かい側の席に藤咲が座った。


「今日は本当にありがとうございました。いつかお礼させてくださいね」

「俺がしたいからやっただけだ」

「貸し借りはゼロにしたいんです」

「そういうことなら、先週図書室に案内してくれただろ。あのときの恩返しだ」

「そうきましたか。では、それでイーブンということで」


 彼女は笑い、お茶をひと口飲む。そして、ことりとグラスを机に置いた。


「このこと、誰にも言わないでくださいね」

「このことって……荷物持ちのことか?」

「いえ、その件はまあいいんですけど、紅野さんが私の家に上がったことのほうです。見ての通り、あまり綺麗な家ではありませんので……特に、白夜さんにだけは絶対に言わないでください」

「藤咲が言ってほしくないのなら俺は黙っておくが……どうして白夜限定なんだ?」

「ど……どうしても、です!」


 藤咲は頬を膨らませてそう言った。どうして突然感情的になったのかはよくわからないが、とにかく俺の態度が彼女を怒らせていることだけは確かなようなので、とりあえず頷いておく。

 彼女はほっと胸を撫で下ろし、再び麦茶を口にした。安心してくれたようで何よりだが、しかしどうして彼にだけは言ってほしくないのだろう。

 白夜と藤咲はクラス委員同士だ。しかしそういう縁がなくても馬が合うのか、仲がよさそうに話しているところをよく見かける。

 そういえば。藤咲は白夜とは仲がよさそうだが、その妹である桜夜と話している姿はあまり見ないように思う。入学してからの数日は彼女のマフラーを注意していたような気がするが、最近はもう諦めてしまっているのか放置しているようだ。

 もともと、彼女は兄以外のクラスメイトとはあまり話さない。声をかけられても会話はほとんど彼に任せているし、挨拶されても軽く会釈を返すだけだ。兄が教室にいないときは、まるで話しかけるなと言わんばかりに机に突っ伏して居眠りをしている。

 常に兄と行動をともにし、兄の後ろをついていき、クラスメイトとは言葉も交わさず、自分の周りに透明な壁を築いている。季節外れのマフラー姿というのが悪目立ちしているというのもあり、彼とは対照的に教室の中で浮いた存在となってしまっていた。

 そんな彼女が初めて俺に挨拶をしたとき、白夜はとても驚いたような表情を浮かべていたが……今思えば、あれは当然のリアクションだったのかもしれない。

 友達は、いないのだろうか。それとも兄さえいればそれでいいのだろうか。

 そんなことを考えながらグラスを空けた。そろそろお暇しようと、床に置いていたリュックを手に取る。

 そのとき。

 カン、カン、カン、カン、という音が響いた。

 それは、アパートの階段を誰かが昇ってくる音だった。どこかの部屋の住人が帰ってきたのだろう。かつん、かつんという乾いた足音はこの三階に上がり、そして徐々に近付いてくる。


「紅野さん」


 藤咲は俺の名前を呼ぶと、唐突に立ち上がる。そして、いつもと変わらない微笑みをこちらに向けてきた。


「どうか私のこと、助けないでくださいね」


 それは、どういう意味なんだ。

 そう尋ねようと口を開きかけたとき——玄関から、鍵の開かれるような音が響いた。

 気がつけば、足音はこの部屋の前で止まっていた。錆びた蝶番が軋むような音を鳴らしながら扉が開かれ、そして重い物音を立てて閉じられる。ぎっ、ぎっと。古い木目の床は誰かが一歩を踏み出すたびにそんな音を響かせた。

 そしてその誰かが、ダイニングの扉を開けた。


「お帰りなさい、お母さん」


 お母さん、と。

 藤咲にそう呼ばれた女性の身長は、彼女と同じくらいだった。しかし体格のほうはよく言えばスレンダー、悪く言えば病みあがりなのではないかと思うほどに痩せている。華やかなデザインのブラウスとタイトスカートという服装が、より細さを際立たせているようだった。

 女性はぼうっとした表情で、こちらをじっと見つめていた。その表情のせいだろうか、娘とはあまり似ていないように思える。化粧をしているからか、あるいはただ単に、藤咲が父親似というだけのことなのかもしれないが。


「彼はクラスメイトの紅野さんです」


 彼女にそう紹介され、お邪魔しています、と慌てて挨拶をした。頭を下げながら、藤咲は母親相手にも敬語を使うんだな、となんとなく思った。

 藤咲母の反応は乏しい。ほんの少しだけ眉間に皺を寄せたが、それだけだった。何も言わず、扉の前からも動かない。ただただ、じとりとした目つきで俺のことを観察しているようだった。

 まあ、そんな表情をするのも当然だろう。自分が留守にしている間に見知らぬ男が家に上がり込み、娘とふたりきりだったのだ。母親としていい気はしないはずだ。


「お母さん。紅野さんはですね」

「——あは」


 突然。

 彼女は笑った。

 それは、なんというか、俺の語彙では形容しがたい表情で。それでもしいて言うのであれば——心のない、笑顔だった。


「あは、あはは、あははは、あっははは、あははははは、あは、あははは、は、あはははは、あは、あははは、あははははははははは!」


 力の限り、口を大きく開けて、狂ったように笑い出す。その笑顔に、口裂け女という都市伝説を思い出した。

 思わず声が喉から漏れそうになり、慌ててそれを抑える。

 そして。


「あんたって子は!」


 母親は叫び、自分の娘を強く突き飛ばした。藤咲は先ほどまで座っていた椅子を巻き込みながら、床に強く腰を打ちつける。

 激しい音が、室内に響いた。


「嫌なとこばっか父親に似てるって思えば、()()()()()()はあたしに似たようね! あはは! 血は争えないわね!」

「お母さん」


 笑い続けている彼女に対し、娘のほうは冷静だった。

 いつもと変わらない微笑み。いつもと変わらない声色。

 いつも通りの藤咲蒼海が、そこに存在していた。

 俺は本能的に、椅子を引いていた。彼女たちから距離を置いた。

 心臓が痛いくらいに脈打つ。嫌な汗が滲み出てくる。

 今、床に座り込んでいる少女は——俺の知っている藤咲と同一人物なのだろうか。


「違いますよ。彼はクラスメイトの、ただのお友達です。同じ中学校で——」

「うるさい!」


 母親は喚くように怒鳴りながら藤咲の前にしゃがみ、制服の胸倉を掴む。そして、ばしん、と娘の頬を打った。乾いた音が室内に響く。

 頬を張られたことにより、藤咲の眼鏡が床に転がる。彼女はそれに構うこともなく、ただひたすらに平手打ちを続けていた。


「黙れ、黙りなさい! 喋るな口を開くな耳障りなのよ黙れ!」


 感情をヒステリックに爆発させ、母親は錯乱したように叫ぶ。叫びながらも、娘の頬をはたく手は止まらない。

 藤咲は。

 藤咲蒼海は——無抵抗だった。

 抵抗ひとつせず、されるがまま、彼女の暴力を受け入れている。

 はっと、そこでようやく俺は我に返り、慌てて藤咲母の腕を掴む。

 彼女の手首は少し力を込めるだけで簡単に折れてしまいそうなほどに細く、思わず気が引けたものの、だからと言って手を放したりはしない。

 藤咲母はしばらくこちらを罵倒したのち、ちっと舌を打つ。そして諦めたように腕から力を抜いたので、俺はこわごわと手を放した。

 解放された彼女は勢いよく立ち上がり、ばたばたと足音を鳴らせて隣の部屋に入る。そして春用の薄いコートを羽織って部屋から出てくると、そのまま何も言わずに玄関へと向かおうとしていた。

 お母さん、と。

 今にもリビングを出ていこうとしている藤咲母を引きとめたのは、彼女の娘だった。

 藤咲はやはり、いつも通りの微笑を顔に浮かべていた。


「夕食は召し上がりますか?」

「……いらない」

「朝食は?」

「いらないっつってんだろ!」


 藤咲母は最後にそう言い捨て、激しい音を立てながら扉を閉めた。その閉じられた扉に向けて、


「行ってらっしゃい、お母さん」


 と、娘は言った。

 その声はきっと、彼女の母には届いていないのだと、そう思った。

 藤咲は眼鏡を拾うとすっと立ち上がり——まるで何事もなかったかのように椅子を直し、再びそれに座る。


「どうぞ、紅野さんも座ってください」

「あ、ああ……」


 言われた通り、彼女の向かい側の席に座る。正面にいる藤咲は顔に薄い微笑みを浮かべながら、眼鏡クリーナーでレンズを拭いていた。ときどき天井の蛍光灯にレンズを透かせたり、息を吹きかけたりしながら彼女は口を開く。


「ごめんなさい。びっくりしましたよね」

「……え、あ」

「お母さん、いつもはあんなじゃないんですよ。今日は……というか、昨夜はたまたま男の人と寝てたみたいで」

「は、…………」

「男の人とそういうことすると、次の日はいらいらしてるんです。ホルモンバランスが崩れるんでしょうか。閉経も近い年齢ですし、更年期障害なのかもしれません。……しかし、あんなおばさんにも需要ってあるんですね。熟女フェチ? それとも経産婦マニアでしょうか。ただ単に若い子よりも安いだけだったりして」

「……何を、言って」

「お母さん、私たちのこと勘違いしてましたね。ふふ、つい笑っちゃいました。ああ、あとできちんと訂正しておくのでご安心ください。紅野さんも、私なんかとそういう仲だって思われたくありませんよね」


 ごめんなさいね、と藤咲は謝る。申し訳なさそうに眉を下げ、困ったように笑っていた。

 俺はここで流してしまえばよかったのだ。適当に取り繕い、さっさとこの家を出ればいい。きっと、それが最善だった。

 しかし悲しいことに——そして愚かなことに、俺はそれほどに察しのいい人間ではなかった。無意識のうちに、どうして、という言葉が漏れる。


「はい? どうしてって、何がですか?」

「どうして——お前は、普通なんだ」


 彼女は笑っていた。いつも通りに、優しく微笑んでいる。

 普段と変わらないその表情が、不気味に思えてならなかった。

 母親が夫ではない男と一緒にベッドに入ったという話を平然と、笑いながらするなんて、普通ではない。しかもつい先ほどまで、その母親に殴られていたというのに、だ。

 藤咲らしくない。一瞬そう思ったが——じゃあ、彼女らしさとはなんだろう。

 そもそも、目の前にいる少女は、本当に藤咲蒼海なのだろうか。

 彼女はようやくレンズを拭き終えたのか、眼鏡をかけようとして——しかし、それを机に置いた。

 そして、


「言ったじゃない」


 微笑みながら、


「私、形から入るタイプだって」


 と、そう言った。


「普通でいれば、いい子でい続けたら——いつかきっと、お母さんも『普通の母親』になってくれるかもしれないじゃない?」


 気がつけば、彼女の口調が変わっていた。

 いつもの敬語が崩れた喋り方。今の藤咲はチャームポイントであるポニーテールと眼鏡、そのどちらも失っている。それもあってか、まるで別人のように見えた。

 事実、別人なのだろう。

 少なくとも、俺が知っている藤咲蒼海とは。


「だから、自分を優等生に見せようとしたのか?」

「ちょっと惜しい。国語の試験なら丸じゃなくて三角ね」


 彼女は薄く微笑み、人差し指を立てる。それは先ほどまで浮かべていたものとは違う、少しシニカルな笑顔だった。


「ちなみに、模範解答はこう。——『優等生に見せていれば、誰も藤咲蒼海を偏見の目で見ないから』」

「…………」

「嫌なの、そういうの。優等生だろうが不良だろうが『あの子がああいう子なのは家庭環境が悪いから』って言われるのが。紅野さんなら……わからなくはないでしょう?」


 既にわかりきっていることをそれでも確認するかのように、藤咲はそう問いかけた。それに対して、俺は無言で頷く。

 わからなくはない、どころではない。

 彼女の言う通りだと思った。


「だから私は眼鏡をかけて、髪をきちんと結って、制服を着崩さないの。すべてはいい子に見せるために。だって、不良は家庭環境のせいにされるパターンが多いけど——優等生は、そもそも家庭環境に疑問をもたれないでしょう?」


 まあ、視力は本当に悪いのだけれど。と、藤咲はつけ加えた。


「母子家庭ってことは妥協するしかないわね。書類上、どうしたってごまかしようがないもの。まあ、今の時代そう珍しいものではないし、私としてはお母さんの職業さえばれなければいいって感じかしら」

「……父親は、亡くなったのか」

「生きてるわよ。豚箱の中で」


 そのとき、彼女は初めて表情から笑みを消した。そしてさげすむような声でそう吐き捨てる。


「実はね。私が中学のときから紅野さんに構ってるのは、藤咲蒼海の優等生プロジェクトのひとつなの。赤毛の不良を更生させてあげようなんて、いかにもそれっぽいでしょう?」

「……ああ、なるほど」


 すべてが腑に落ちた気分だった。

 正直なところ、ずっとわからなかった。理由を考えてみたことは、一度や二度だけではない。

 どうして彼女のような善良な生徒が、俺のような人間を気にかけ続けてくれていたのか。

 教室の中で自分の存在が異質であることは自覚している。この国では——特に、田舎町の社会の中では個性というものはつぶされやすい。みんなと一緒ではない俺が距離を置かれるのは当然のことだ。

 しかしそんな距離を、藤咲は初めて会ったその日から簡単に詰めてきた。一年目はよく面倒を見てくれて、二年目にクラス替えで離れて以降もよく話しかけてきたことを覚えている。俺はそれを、彼女が世話焼きだからだと思い込んでいた。

 しかし、違った。

 ただ単に、俺を利用していただけだったのだ。

 あーあ、と。藤咲は天井を仰ぎ、つまらなそうな声を上げた。


「迂闊だったわ。クラスメイトの、しかも同じ中学出身の男子を家に上げるリスクを計算してなかった」

「…………」

「まさかお母さんがこんな時間に帰ってくるだなんて、思いもしなかったもの。ううん、家にいなかった時点で察しておくべきだったのね」


 それで、と彼女は再び俺と目を合わせた。


「私は何をすればいいのかしら」

「……どういう意味だ?」

「言葉通りの意味よ。紅野さんに私の秘密を黙っててもらうために、私は何をすればいいのかしら」


 藤咲は両手を広げて、ダイニングを指し示した。あらためて室内を観察すると、古い壁にはかびが生えており、床の隅にはほこりがたまっている。物が多いせいだろうか、部屋全体がどこか影がかっているように感じてしまった。


「見ての通り、うちにお金はないわ。あなたに差し出せるものなんて、そうね、この身体くらいしかないのかも」

「…………」

「お母さんの言う通りね。血って争えないわ」


 そう言って、彼女は自嘲の笑みを浮かべた。

 俺は何も言わず床に転がっているリュックを手に取り、そして椅子から立ち上がる。


「あら、どこへ行くの?」

「家に帰るんだよ」

「は?」


 藤咲は驚いたように目を丸くする。普段は眼鏡をかけているからわかりにくかったが、彼女の目は結構涼しげな形をしていた。


「お前が誰にも言ってほしくないのなら、俺は誰にも言わない」

「……その言葉を信じろって?」

「信じてもいいし、信じなくてもいい……が、口の堅さには自信がある」


 通り魔の折り紙付きだ、とは言えないが。


「俺は何もいらない。だから、藤咲は何も差し出さなくていい。これまで通り、これからも『普通』であり続ければいい」


 明日からも、昨日までと同じ藤咲蒼海であればいい。

 藤咲はしばらくの間こちらをじとりと睨みつけていたが、俺がそう言うと冷ややかな微笑を顔に浮かべた。


「器の大きいことね。優等生の裏の顔を知って、よく平然としてられるわね。そのメンタルの強さがうらやましいわ」

「そうか」

「……そもそも。あなたが言いふらしたところで、みんながどちらを信じるかなんて想像するまでもないものね」

「それもそうだな。お前の言う通りだ」


 頷きながらリュックを背負う。そしてダイニングの扉に手をかけたとき、紅野さん、と名前を呼ばれた。

 振り向いた視界に入った彼女は、ちょうど眼鏡をかけようとしているところだった。


「私、ちゃんと優等生できてました?」

「……ああ。俺はお前のこと、何も知らなかったんだって思い知らされたよ」


 扉に向き直り、ドアノブを引いた。そして一歩、廊下に足を踏み出す。


「無知とは罪です。知らなかった、では許されません」


 最後に。

 独り言のように、藤咲は呟いた。


「いつかきっと——私には、罰がくだされるのでしょうね」


 美々(みみ)さんのように。

 彼女はそんなことを呟いていたような気がするが、俺は振り返らずに廊下を進み、玄関を後にした。

 鉄製の階段を下りながら、スマホの液晶に電源を入れた。まず表示されたのは、母さんから届いたメッセージの通知だった。おびただしい量のそれに少し引きながら、時刻を確認する。思っていたよりも時間が経っていた。色々とあったのだから仕方がない。

 今から帰ると返信しつつ、地図アプリを起動した。ルートを確認しながら駐輪場に向かい、籠の中にリュックを入れる。


「君」


 突然、背後から見知らぬ男性の声がした。振り向くと、先ほど見かけた制服警官——その、若いほうだった。

 彼は警察手帳を開き、こちらに掲げてみせる。


「少し訊きたいことがあるんだけど、いいかい」

「はあ」


 警察がなんの用があるのだろう。ひょっとして、歩きスマホを注意されるのだろうか。そんなことを考えながら頷いた。


「君はあの子の友達なのかな。それとも彼氏?」

「あの子?」

「眼鏡のあの子だよ。三〇四号室の藤咲さんちの娘さん。さっき彼女の家にお邪魔していただろう」


 その問いかけに、思わず首をかしげた。何故そんなことを俺に訊くのだろうか。

 質問の意図がよくわからなかったものの、とりあえずただのクラスメイトだと正直に答えた。警官の男性は少し考え込むような仕草を見せたのち、再び口を開く。


「最近、何かあったかい?」

「何か?」

「なんでもいいんだ。ああ、でもできれば通り魔に関係しているとうれしいな。連続通り魔。テレビで見ただろう?」


 そう訊かれて、俺は頷いた。テレビで見るまでもなく、よく知っている。


「何か、ですか……えっと、学校の先生が、亡くなりました。通り魔に殺されて」

「ん? ……ああ。その制服、鷹高(タカコー)のだね。じゃあ、亡くなったというのは伊東智晴さんのことか……、……あれ? いやいや、彼を殺したのは例の通り魔じゃないよ」

「…………は?」


 今。

 この人は今、なんと言った。

 伊東先生を殺したのは、通り魔じゃない。

 それは、つまり——


「こら」

「あだっ」


 突然、ごん、という鈍い音がして彼の顔が痛みに歪む。

 いつの間にか、ふたり組のもう片方、壮年の男性警官がすぐそばに立っていた。握られた拳を見るに、彼を殴ったのはこの人なのだろう。

 男性警官は拳をほどき、こちらに視線を向けた。そして苦い笑みを浮かべると、


「聞かなかったことにしてくれ……っつっても、無理だよなあ」


 と呟き、大きなため息をついた。しばらくの間、ううむ、と悩むような声を上げていたが、やがて諦めたように語り始める。


「これまでの被害者たちはすべて、日の出前の時間帯に襲われている。凶器は日本刀のような——まあ、さすがにマジの刀じゃあないだろうが、とにかく刃渡りの長い刃物だ」


 桜夜が使っているのは本物の日本刀だがな。そう思ったが、俺は静かに次の言葉を待つ。


「対して、伊東氏が殺害された時刻は日没ごろ。凶器は刃渡りのある刃物じゃない。もっと短くて幅のある、鉈のようなものだ」


 犯行時刻が違う。凶器も異なっている。

 伊東先生を殺したのは、通り魔ではない。

 黒神桜夜は——人を殺してなんていなかった。


「少年。この情報はまだ我々警察のところで止まっている。この馬鹿のせいで申し訳ないが、どうか黙っておいてくれないか」

「……あの」


 男性警官の瞳を見つめて、口を開いた。


「ひとつ、訊きたいことが」

「ほう? 黙っておいてやるから質問に答えろって?」

「あ、いえ、そんなつもりじゃなくて」


 慌てて否定すると、冗談だよ、と彼は笑った。そして流れるような仕草で煙草を唇に挟む。電子タバコ、というものなのだろうか。煙の代わりに水蒸気を吸い込んでいるらしい。


「で? 訊きたいことってのは?」

「えっと……どうして、通り魔を逃がしているんですか」

「どういう意味だ?」

「被害者は全員生きていて、とっくに彼らの話も聞いていると思いますが……六人分の証言があるのに、いまだに逮捕できていないというのは、その……」


 不思議に思って。そう言うと、警官の男性は思考するような素振りを見せた。

 警察が通り魔に後れをとっている。それだけならまだ納得できた。通り魔が尻尾を出していないとか、逃げ足が速いとか、理由はいくらでもこじつけられる。

 しかし桜夜はただ女子高生だ。暴力のほかになんの力ももっていない——彼女の体格を考えると、これまで年上の男たちを病院送りにしてきたことだって不思議なほどに無力な存在だ。どうしてそんな少女に、警察が後手に回っているのか。

 可能性として考えられるのは闇討ちだ。例えば、夜明け前の薄暗闇に紛れ、背後から襲う。そうすれば被害者に顔を見られることもないだろう。

 しかし、被害者は六人だ——六人も、いるのだ。その全員が桜夜の顔を見ていないなんて、はたしてありえるだろうか。たとえ顔を見ていなくとも、身長や体格……そう、あの季節外れのマフラーだけでも証言すれば、彼女の特定なんて簡単にできるだろう。

 そこまで思考して、はたと気付いた。

 それじゃあ、まるで——


「直接俺が事情聴取したわけじゃないから、これは又聞きの情報なんだが」


 壮年の警官は蒸気を吸いながら、そう言った。


「被害者たちは口をそろえてこう言ったらしい——『何も知らない』とな」

「……何も、知らない?」

「何も知らない、何も覚えていない。だから答えることは何もない。念のため鎌をかけてみても無駄。六人全員が、まるで事前に口裏を合わせていたかのように黙秘権を行使してやがる。あれは——」


 彼はそこで一度言葉を区切り、水蒸気をゆっくりと吐いた。白い煙は空に昇り、やがて溶けるように消える。


「あれは、犯人を庇っているな」



* * * * *



 家に帰る。

 帰りが遅かったことを母さんに心配されたような気がするが、適当にごまかしながら買ってきたものを渡し、そのままリビングを後にした。

 自室に入り、制服も着替えずに俺はベッドに横になる。

 俺は灰色の天井を見つめ、そして目を閉じる。意識して頭を空っぽにしないと、思考がぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。

 日本刀を携える、通り魔の少女。

 伊東先生を殺した顔も知らない殺人鬼。

 犯人を庇っているという六人の被害者たち。

 優等生という仮面に飾られた中学からの同級生。

 何も知らないままでいいと言ったクラスメイト。

 そのすべてを、今は考えない。

 もう何も、考えたくなかった。

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