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猛毒スノーホワイト  作者: 氏原ゆかり
Sky of Daybreak
5/14

第4話『灰雲』

ChapteR.4 Blind of gray

 四月二十日、月曜日。

 三日ぶりに会った黒神は俺と顔を合わせるなり、あ、という声を上げた。


「傷、綺麗に治ってるね」

「ん? ああ、そうだな」

「紅野くん、肌綺麗だもんね。大事にしたほうがいいと思うよ」


 彼女は素知らぬ表情でそんなことを言った。その大事にしたほうがいい肌を傷つけたのはどこの誰だと思っているのだろうか。

 そんなことを考えながら空を仰いだ。相変わらず空は灰色で、今日も曇りなのかと、そんな感想をぼんやりと抱く。

 緩やかに深呼吸をすると、夜明け前の澄んだ空気が肺を満たすような感覚がした。


「今日は道を変えよう」


 革製の竹刀袋を肩にかけ直しながら、唐突に黒神はそう切り出した。

 普段走っているルートは、俺が三年間走り続けてきた道だ。一応は彼女の通り魔に俺が共犯者として付き合っていることになっているものの、黒神が最初に言っていた通り、人斬りのついでにジョギングに付き合うということなのか、ルートはこちらに任されている。

 そんな彼女が唐突に道を変えようと言ってきた訳は、なんとなく察することができた。

 いつものルートは人通りが少ない——どころか零だ。もともとこのあたりは閑静な住宅地というもので、昼間でも人気が少ない。だから人を襲うことができないのだ。

 おそらく黒神は、道を変えることで遭遇率を上げようと考えているのだろう。


「あまり遠くには連れていかないでくれれば、俺はそれでいいが」

「ああ、うん。大丈夫だよ。紅野くんがおうちに帰る時間、ちゃんと計算するから」

「違う。俺が方向音痴だからだ」


 そう言うと、彼女はきょとんと目を丸くして首をかしげた。


「私、紅野くんは何でもできる万能の人だって思ってた。頭いいし」

「できることだけだ。何でもはできない」


 そう言葉を返すと、黒神は首の角度をさらに傾けた。やがて興味を失ったかのように、ふうん、と呟く。

 そんなやり取りを終え、俺たちはどちらからともなく走り出した。やや斜め前を駆ける彼女に導かれるように、黒神の後ろをついていく。

 彼女は人通りの多そうな大通りではなく、人ひとり通らなそうな路地や小道を選んでいるようだった。大きな通りは人通りが多いものの、同時に監視カメラなどのリスクがあるからだろう。


「次、そこを曲がって」


 澄んだ声に言われるまま、おとなしく角を曲がる。

 先週ぶりに耳にした黒神の声。たったの三日だというのに、俺の鼓膜を震わせるそれは、やはりなんとなく懐かしいものに思えたのだった。

 三日。

 土日の間、彼女は俺の家の前には現れなかった。特に連絡があったわけでもないので、俺はこの週末、黒神の通り魔には付き合っていない。新しい被害者が出たという報道がなかったことを考えると、彼女も新たに人を斬ってはいないのだろう。

 黒神がいようがいまいが、俺の日課は変わらない。彼女がこちらに姿を現さないのなら、それまで通りの日常を過ごすだけだ。俺は久しぶりにヘッドホンを手に、音楽を聴きながらひとり夜明け前の町を駆けたのだった。

 静かな町、誰もいない道、好きな音楽。それは確かに、黒神と巡り合う以前に繰り返し続けた日常だったのだが、俺は既に彼女の存在に慣れてしまっていたのだろう。何かが違うと、どこかに違和感を覚えながら走っていた。


「土日は、来なかったんだな」

「休みの日くらいゆっくり寝たいもん」

「……土曜は授業があったんだが」

「起きれなかった」


 ふあ、と。小さなあくびをする黒神を見て、なるほどと納得した。

 土曜日の授業、彼女は欠席していた。担任の浮橋先生に理由を訊かれていた黒神兄が、少し気まずそうに、困ったように苦笑していたのを思い出す。とうとう警察に捕まったのかという可能性さえ考えていたのだが、どうやらただの寝坊だったらしい。

 黒神は再び、眠そうにあくびを繰り返した。


「平日はどうしてるんだ?」

「早く寝て、がんばって起きてる。帰ったら制汗シートで汗拭いて、ハクに起こしてもらうまで二度寝」

「へえ、黒神兄に起こしてもらってるのか」


 そして土曜の授業に参加したのが黒神兄だけだということを考えると、おそらく彼は妹を起こすことに失敗してしまったのだろう。

 できることなら、彼女とは土曜日に会って話をしたかったのだが——と、そこまで考えて、ふと疑問に思う。

 どうして俺は、黒神に会いたかったのだろう。

 何故、話をしたいだなんて思ったのだろうか。

 土曜日に会うことができなくてもどうせ二日後には会えるのだ。クラスメイトである以上、学校では確実に顔を合わせるのだから。その日にこだわる理由なんてないはずだ。

 その前日。金曜日に、はたして何かあっただろうか——


「前から思ってたんだけど、それ、何?」

「ん? それって、なんのことだ?」

「ハクの呼び方だよ。黒神兄って何?」


 質問の意図をはかりかね、思わず首をかしげてしまう。


「黒神の兄だから、黒神兄だが」

「じゃあ、どうして私は黒神妹じゃないの?」

「語呂が悪いだろ。文字数も多い」


 黒神兄は六文字だが、黒神妹は八文字だ。なら、そのまま黒神と呼べば四文字も省略することが可能だし、そちらのほうが呼びやすいと思う。

 そう答えるが、彼女はよくわからないと言いたげな表情を浮かべた。


「つまり、なんとなくってこと?」

「まあ、そう言われてしまえば……そうなのかもしれないな」

「それなら、名前で呼んでもいいよ」

「……ん? どういう意味だ?」

「名前だよ。私の名前」


 黒神の名前、と言葉を反芻すると、彼女はこくりと頷いた。


「だって普通、双子は名前で呼び分けするでしょ? 名字呼びはややこしいから」

「そうかな」

「そうだよ」

「そうか……」


 そういうものなのか。知人に双子がいないので、そのような常識があることは知らなかった。

 しかし、名前呼びか。

 俺は友達が少ない。というか、ほぼいないと言ってしまっても誤りではない。藤咲のように世話を焼きたがる同級生や親戚は数人いたものの、彼らを含めなければ零人になる。

 誰かを名前で呼ぶなんて、そんな経験はしたことがなかった。


「名前で呼ぶのは苦手?」

「まあ、経験がないからな」

「それなら、私も紅野くんのことを名前で呼ぶことにするよ」

「え」

「イツキくん」


 柔らかい声が、俺の名前を呼ぶ。その声に思わず立ち止まると、黒神も同じように足を止めてこちらを振り向いた。


「これで、おあいこなんだよ」


 両親や親戚たち以外に名前で呼ばれるのは初めてのことで、きっと驚いたのだろう。胸のあたりが絞めつけられるような感覚を覚えた。

 おあいこ、と。彼女はそう言った。

 黒神が俺のことをそういう風に呼ぶのなら、こちらも対等に、名前で呼び返してもいいということなのだろうか。

 彼女はこちらの言葉を待つように、じっとこちらの瞳を見つめてくる。その真っすぐな視線に少し躊躇をしてしまい、声にならない空気が喉から漏れる——それでも、目の前に立つ少女のように、俺もその名前を呼んでみたのだった。


「——桜夜」


 思っていたよりもずっと自然に言葉を出すことができた。その声と反比例するように、肋骨の下の臓器がどうしてか鼓動を上げている。走ったせいで心拍数が上がっているのだろう。

 目前にいる彼女は、


「うん」


 と。

 まるでなんでもないことのように表情を変えず、しかしどこか満足そうに黒神は——桜夜は、頷いたのだった。

 彼女はくるりと回れ右をし、そのままゆっくりと歩き始めた。俺はその横に並ぶように足を進める。


「ハクのことを黒神って呼んで、私のことを名前で呼ぶ。これで呼び分けができて、ややこしくない」

「それは別に、黒神兄のままでもいいと思うんだが」

「よくないよ。その呼び方変だもん」


 怒られるよ、と桜夜は言った。そうか、変だったのか。彼に黒神兄と呼びかける前に教えてくれてよかった。


「あれ? ここ……」


 彼女は不意に立ち止まり、きょろきょろと周囲を見渡し始めた。


「適当に走ってきただけなんだけど……うん、いいとこに来ちゃった」

「……え、適当だったのか?」

「イツキくん、このあたり初めて?」


 こちらの言葉を軽く一蹴し、桜夜はそんな問いをかけてきた。

 住所を確認してみると、ここはかつて通っていた小学校の近くだったようだ。しかし我が家とは正反対の方向なので、俺はこのあたりに来たことはないはずだ。

 頷いてみせると、そっか、と彼女は頷いた。


「じゃあ、いいもの見せたげるよ」


 そう言ったかと思うと、桜夜は唐突に駆け出した。俺は驚いて一瞬足を止めるが、すぐにその背中を追う。

 建物と建物の間に挟まれた、薄暗くて狭い道。通ってもいいのだろうかとさえ考えてしまうような細い通りを、しかし彼女は迷いなく、足早に進んでいく。薄暗闇に包まれた道のせいで視界のピントが合わない中、その細い後ろ姿を見失わないようにすることで精一杯だった。

 古いアパートの裏を通っている小道は、ちょうどそのアパートの影が落とされていたので、まるで墨で塗りつぶされたかのような真っ暗がりだった。桜夜はその道を駆け抜け、そして出口へと向かう。俺はその後に続いた。

 路地を抜けると、突然、視界が白い光に満たされた。

 やがて瞳が明順応を始め、眩んだ目が光に慣れてくる。どうやらそこは公道で、眩しいと感じたのは街灯の光だったようだ。

 俺は立ち止まり、空を見上げた。西の空は濃いグレーの色で、東にいくにつれて徐々に白いグラデーションが広がっていっているように見える。夜明けが、もうそこまで近付いてきているのだと思った。

 彼女はどこに行ったのだろう。そう考えると同時に、こっちだよ、という声が耳に届いた。

 そちらに視線を向けると、目に入ったのは風に揺れる白いマフラーと——そして、大きな桜の木だった。

 アスファルトを横切るように並べられたレールと、遮断機の上がった踏切。桜の木はその手前側に植えられ、空に向けて枝を伸ばしている。もう四月の半ばを過ぎた時期だというのに花びらを開かせているその桜は、街灯の光を含んでほのかに白く輝き、まるで灰色の町に浮かび上がっているかのように思えた。

 桜夜は、その下にいた。

 さあ、という音を立てて風が吹くと、白い花びらがざわめきながら舞い上がる。雪のように揺れながら落ちてくるそれは彼女の髪や肩を撫で、やがてアスファルトに降り積もっていった。雪のようで、しかし決して溶けはしない花びらに構うことなく、少女はただ桜を見上げている。


「——綺麗だな」


 桜夜の隣に並び、俺はそう言った。それに対して彼女はひと言、うん、と相槌を打つ。

 近所の遊歩道よりも、通り魔と邂逅した公園よりも立派な桜の木。線路に入らないように剪定されている枝が少し残念だったが、それでも曇り空を覆うように咲き誇る花々は美しかった。

 いいものを見せてあげる、と桜夜は言っていた。

 ああ、確かに。素敵なものを教えてもらった。


「綺麗だよね、この桜。もしも死に場所を選んでいいって言われたら、私はここがいいかな」

「いや、確かに綺麗ではあるんだが……そこまでは思わない」


 そう? と桜を見つめたまま彼女はそう言った。


「桜夜」

「え?」

「私の名前。桜の夜」


 唐突に、彼女は自分の名前を繰り返す。


「お母さんがね、ここの桜、好きだったんだ。特に、夜の桜が。今は早朝だけど、夜になるとそこの街灯でいい感じにライトアップされるみたいで、もっと綺麗なんだよ」


 桜を見上げながら自身の名前の由来を語る彼女から、そっと目を逸らした。

 お母さん。

 桜夜の口から、彼女の兄以外の家族が出たのは初めてのことだった。


「女の子が生まれたら、桜夜って名前にしたかったんだって」

「黒神あ……黒神は?」


 つい黒神兄と呼びそうになり、すぐに名字で言い直した。


「ハクの名前の由来は、なんだったっけな。光が沈まないように、いつもみんなに光を与えられる子になりますように……とかなんとか、そんな感じだったかな」

「へえ……黒神に似合ってるな」


 クラスの委員長を務め、お人好しで世話焼きな彼らしい名前だと思った。

 ただ単に語呂を私に合わせただけかもしれないけどね、と少し皮肉を含んだような声で桜夜は言った。しかし、その声にマイナスの響きはない。


「お母さんはこのあたりの人なのか?」

「うん。というか、昔は私も葛城(かつらぎ)の人だったんだよ。小学校の……六年生くらい、に、なるのかな」


 卒業式の前だったと思うから、と彼女は呟いた。


「素敵な考え方をする人だな」


 白夜と桜夜。双子の名前に込められた意味を心の中で反芻しながらそう言った。

 夜の桜が好きだから、桜夜。単純なネーミングのように感じられるが、しかしその名前は彼女に相応しいと思う。

 艶のある黒髪は夜空のようで、彼女を包むマフラーは桜のように風によく揺れる。声は花びらのように柔らかいし、こうして隣に立てばほのかに甘い香りもする。

 再び、俺は桜に視線を戻した。優しく花を散らすその木に目をやり、やはり桜夜みたいだという感想を抱く。


「つつみさんのこと、私、好きだったよ」


 そのときの。

 黒神桜夜がどんな表情をしていたのか——俺は、見逃してしまった。


「今でも、嫌いにはなれないや」


 彼女は、そう呟いた。

 つつみさん。

 つつみさんというのは、桜夜の母親の名前だろうか。

 俺は視線を、桜から隣に立つ彼女へと移動させた。花を見つめ続けている桜夜の表情はいつものように乏しく、瞳にはなんの感情も含まれていないように見える。

 しかしどこか、何かを悟ってしまっているかのようだった。

 白い花の欠片が一枚、彼女の頬に落ちた。桜夜は眉ひとつ動かさない。まるで時が止まっているかのように動かない彼女と、反比例するように降り注ぐ花びら。

 不意に、桜の木を見上げている少女の姿が、一瞬霞んだように見えた。舞い続ける白い花びらの下、桜夜の輪郭が徐々に朧になっていくような、そんな錯覚を起こしそうになる。

 無意識のうちに、俺は彼女の手を取っていた。そうすると、ようやく時間が流れ始めたかのように桜夜の肩が小さく跳ねる。彼女は少し驚いたように目を見開き、繋がれた手と俺のことを交互に見つめたかと思うと、不思議そうな顔をして小首をかしげた。

 驚いたのはこちらのほうだ。俺よりもずっと小さくて細い手のひらは——雪のように、冷たかった。

 俺の体温が移ればいいのにと、桜夜の手を握る指に思わず力を入れる。


「……えっと、どうしたの?」

「……いや」


 どうしたの、と訊かれても答えに悩む。本当に、どうしてしまったのだろう。どうして彼女の手を取ったのだろうか。

 理由を考えてみても、無意識の行動だったのだから答えはわからない。なんでもない、と言って手を離そうとすると、何故か桜夜は右手の小指を握ってくる。まるで、幼い子供のような仕草だった。


「えっと……桜夜?」

「……イツキくんの手、あったかいんだね」

「ん? ああ、体温は高いほうなんだ。お前は冷たいな」


 寒いから、と言いながら彼女は左手の指先でこちらの手を撫でてきた。冷たい手のひらでゆるゆると握ったり、手首の脈のあたりに指を這わせたり。何が面白いのか、それとも暖をとろうとしているのか。しばらくそうしてもてあそんでくるので、俺はされるがまま手を提供していた。

 そのときだった。


「————っ」


 突然、桜夜は俺の手を放した。同時に、ばっと背後を振り返る。

 右肩にかけている竹刀袋。そのファスナーに、いつの間にか指をかけている。いつでも中の日本刀を素早く取り出せるよう、備えているようだった。

 唐突に変わった彼女の雰囲気に、わけもわからずにうろたえてしまう。


「あら、おはよう」


 背中にかけられた女性の声に、後ろを振り向いた。

 そこにいたのは、見知らぬ中年の女性だった。身長は桜夜と同じほどに見えるが、身体つきは彼女よりもずっとふっくらとしている。手にしているリードの先は、足元で行儀よく座っている柴犬の首輪へと繋がれていた。

 彼女は人のよさそうな笑顔を浮かべていた。隣の桜夜はそれを見たのか、ほっと息を吐いて竹刀袋から手を離す。どこか安心したような様子だった。


「ふたりでお散歩? それとも運動部?」

「えっと……そんなところです」

「仲良しさんね。私もこの子のお散歩ついでの運動よ。旦那ったらひどいのよ。自分の嫁に向かってドラム缶みたいだって」

「ねえねえ、撫でてもいい?」


 砕けた言葉遣いで質問する桜夜に、女性は特に気にするでもなく微笑んで頷いた。

 わんこー、と間延びするような声で言いながら、桜夜は犬の目線に合わせてしゃがみ込む。頭を撫でたり、ほっぺを少し伸ばしたりしている彼女のことを、女性は微笑ましそうに見つめている。

 しかし、ふと真面目な表情を浮かべ、俺と目を合わせた。


「ふたりとも、通り魔のニュースは知っているでしょう? 気をつけておうちに帰るのよ。特にあなたは男の子で、彼氏なんだから。彼女さんのことはちゃんと守ってあげなくちゃ駄目よ」


 俺と桜夜はそういう関係ではないのだが、否定したところで本当のことは言えないから黙って頷いておく。

 くだんの通り魔とその共犯者だなんて、言ってみたところで子供の冗談だと思われるだけかもしれないが。

 きゃん、と。犬が小さく鳴いた。見れば、ぶんぶんと丸めた尻尾を振りながら彼女にじゃれている。人懐っこい犬なのか、それとも桜夜が動物に好かれやすいのだろうか。どちらにせよ、仲良くなったところを引き離して申し訳ない気持ちはあるが、そろそろ時間に余裕がなくなってきた。


「桜夜、悪いがもう帰らないか。お前もこれから二度寝するんだろ?」

「あ、そうだね。そろそろ帰らなきゃな時間だね」


 そう言って、彼女は自分にじゃれてくる犬から手を離した。


「……桜夜?」


 不意に、女性が桜夜の名前を呼ぶ。


「桜夜って……あなた、もしかしてあの桜夜ちゃん?」

「……私のこと、知ってるの」


 視線を下げると、いつの間にか彼女は膝立ちの構えをとり、竹刀袋を右の腰に提げていた。既にファスナーは半分ほど開かれ、左手は日本刀の柄に手をかけている。まるで居合い抜きの構えのようだった。

 ぐるる、と。犬は唸り出した。先ほどまで尻尾を振りながらじゃれていたはずの桜夜に対し、威嚇をしている。

 女性はそんな犬を叱る。彼女は何も知らないのだ。自分のペットが己を敵から守ろうとしていることも、目の前の少女が巷で恐れられている通り魔だということも。

 そして今、音も立てずに鯉口を切ったことさえも。

 何も知らないからこそ浮かべられる笑顔で、彼女は桜夜に言った。


「覚えてないかしら。小学校の近くの、駄菓子屋のおばちゃんよ。お兄ちゃんと一緒に、よく来ていたでしょう」


 その言葉を聞いた彼女はしばらくの間沈黙していたが、あそこか、とやがて小さく頷いた。どうやら女性のことを思い出したらしい。そんな桜夜の様子を見て、彼女はさらに笑みを深くした。


「何年も見かけないと思っていたけれど、大きくなったわね。そのマフラーなあに? 今時の若い子のお洒落?」


 今時のお洒落はわからないわねえ、と女性はくすくす笑う。桜夜はそれには言葉を返さず、無言でファスナーを閉めると竹刀袋を肩にかけて立ち上がった。犬はもう落ち着いているようだったが、じっと彼女のことを見上げている。


「お父さんは元気? 昔はなんだか忙しそうだったけれど」

「あの人は——」


 桜夜は、そこで一度言葉を止めると、


「——面倒なことが全部終わってね、今はゆっくり休んでるよ」


 と、そう答えた。

 その後、桜夜と女性はいくつかやり取りをして、そして別れた。踏切を渡ってその向こう側へと去っていく彼女の背中を、俺と桜夜はお互い何も言わずに見送る。徐々に小さくなっていく背中が見えなくなったところで、ようやく俺は口を開いた。


「よかったのか?」

「何が?」

「斬らなくて」


 そう尋ねてみると、彼女は黙って頷いた。


「あの人は……いいんだよ」

「いいのか」

「いいの。あの人は違うからね」


 通り魔は答える。

 それはとても静かな、透き通るような声だった。


「『先生』じゃない人を、斬ったりなんかしないよ」



* * * * *



 放課後。下校しようと廊下に出たところで黒神——兄のほうに呼び止められた。

 彼から俺に話しかけてくるのはあまりないので、珍しいな、となんとなく考える。


「何か用か?」

「よ、用っていうか……」


 黒神は少し困ったような表情を浮かべて言い淀む。やがてきりっと眉を吊り上げると、口を開いた。


「お前、いつからサクのこと呼び捨てにしてんだよ」


 その言葉に思わず首をかしげた。しかしすぐに、ああ、と察する。彼からしてみれば、それまで名字で呼んでいたクラスメイトの男が自分の妹のことを突然名前で飛び始めたのだ。きっと不思議に思ったのだろう。

 学校で桜夜と会話をしたのは昼休みの一度だけだが——ちなみに内容は先生からの伝言。欠席していた土曜日の授業内容についてである——思い返せば、そのとき黒神は少し驚いたような顔でこちらを見つめていたようだった。


「今朝からだが」

「ふうん……あれ、お前ら今朝会話してたっけ」


 今度は彼のほうが首をかしげたが、それでも納得はしてくれたらしい。正確には今朝は今朝でも早朝だし、学校ですらないのだが、それは訂正せずに黙っておくことにした。


「理由は」

「え」

「り・ゆ・う・は」


 一文字一文字区切るように、黒神は言った。その言葉に妙な迫力を感じてつい気後れしてしまう。


「えっと、呼び方がややこしいから、名前で呼んでいいって言われて」

「あー、なるほどね。俺たちのこと名字で呼んでたよな、お前」


 あーねあーね、と言いながら彼はうんうんと繰り返し頷いた。これまでに黒神のことを名字で呼ぶ機会はなかったし、心の中では黒神兄と呼んでいたのだが、それも黙っておく。


「そう。だから兄のことは黒神、妹のことは桜夜って呼ぼうと」

「なんでだよ!」


 俺の言葉を遮るように彼は怒鳴る。その怒鳴り声に驚き、思わず喉から変な音が出た。


「や……ややこしくないだろ?」

「そういう意味じゃねえよ、なんで俺のことは名字呼びのままなんだよ!」


 黒神は両手の握り拳を荒々しく上下に振りながら怒っている。どうやら俺の言葉のどれかが彼の逆鱗に触れてしまったようだ。


「サクのことは親しげに名前で呼ぶ癖に! ふたりして俺をはぶるんじゃねえ!」

「ご、ごめん……」


 わけもわからないまま反射的に謝る。とにかく一度黒神に落ち着いてほしくて、俺はおろおろと次の言葉を探していた。

 そのときだった。


「——何を騒いでいるのですか」


 それは男性にしては甲高く、表現の難しい独特な声で——それを、俺は知っていた。

 振り返ると、そこにいたのは見覚えのある男性だった。痩せた体格で、俺よりも背が低い。くい、と眼鏡をかけ直すたびに、頭に被せているかつらがわずかにずれる。

 この人の名前は、確か、伊東先生だったか。


「紅野サン」


 彼は甲高い声で俺の名前を呼び、


「今週までに髪を黒く染めてくるよう、言っていたはずですが」


 直後、そんな言葉を続けた。

 先生の言う通り、先週の水曜日に黒染めするように指導されたものの、結局俺は髪を染めなかった。だからこうして、再び指導に現れたのだろう。

 それは生徒指導の……あの異様に目つきの悪い先生の役目ではないのかと思うのだが、それを指摘すると彼は声をさらに高くするだろうと想像できるので言わないでおいた。


「両親に、反対されたので」

「『両親に反対されたので』……フン。ご両親の顔が目に浮かぶようですね」


 伊東先生は鼻で笑う。その言葉には、わかりやすい嫌みが込められていた。

 俺のせいで両親が悪く言われてしまうというのは、さすがに少し、嫌だと思う。


「いいですか。ヒトリを許可すれば、アナタを真似して髪を染める生徒が増えて収拾がつきません」

「はい」

「学生は学生らしく、フツウであるべきです。わかりますね」

「はい。申し訳ありません、以後気をつけます」


 ご指導ありがとうございました、と頭を下げる。これで今日のところは見逃してくれると思った。

 しかし、突然ワイシャツの後ろ襟を掴まれ、ぐいっと勢いよく後ろに引かれた。無理やり姿勢を正されたせいで足元がよろける。

 首を捻って背後を見る。視界に入ったのは少しハネぎみの黒髪と、こちらの襟を強く引いている小柄な少年の姿だった。


「『普通』ってなんだよ」


 俺たちのやりとりを静観していた黒神は、低い声でそう言った。先ほどまでの怒鳴り声とは違う。ぞっとするほどに静かで、感情をあえて押し殺しているかのように重いものだった。

 怒っている、と思った。

 彼は本気で怒っていた。つい先ほども俺に対して怒っていたが、それとは違う怒りの感情が背中から伝わってくる。そしてその激しい怒りを瞳に込め、目の前の先生を鋭く睨みつけていた。

 どうして怒っているのだろう。

 どうして、黒神が伊東先生に怒っているのだろうか。

 これは俺の問題で、彼とは何も関係がないのに。


「ああ……例の弟サンですか」


 俺の背中にいる黒神のことを視認して、先生はそのようなことを言った。

 弟。

 彼は双子ではあるものの、確かに桜夜の兄だったはずだ。伊東先生は勘違いしているようだったが、黒神は訂正しようとしない。ただ無言で、先生のことをじっと睨んでいた。

 睨まれている彼は、そんな視線を受け流して口を開いた。


「ちょうどいい。アナタの双子の片割れにマフラーを外すよう、アナタからも言っておいてください」

「……まあ、あれに関してはサクが十割悪いけど」


 そう言いながら、黒神は俺の襟から手を離す。


「でもこいつは違う」


 先生との間に割り込むように、小柄な身体が目の前に立つ。黒神は凛とした声に力を入れ、さらに言葉を続けた。


「こいつは校則を違反してない。悪いことなんて何もしてない。むしろ黒染めするほうが校則違反だろうが」

「だから、目上の者には敬語を使いなさいと……やはり、黒神の人間は野蛮ですね」


 やれやれ、とでも言いたげに彼は首を左右に振る。そしておもむろに、伊東先生はこちらに手を伸ばした。


「地域の方々の目もあるんですよ。髪色の派手な生徒は我が校の評判を落とします。茶髪ならまだ許容もできますが、こんな色——」


 言いながら、彼は俺の髪を掴んだ。先生のほうがこちらより背が低いということもあり、髪を掴まれると、自然、俺はうつむくような姿勢になる。

 それは決して強い力ではなかったのだが、頭皮を引かれたことで鈍い痛みを感じた。


「——こんな赤毛、たとえ生まれつきだろうとも許可できません」


 吐き捨てるようにそう言って彼は髪から手を離した。しかし俺は顔を上げない。時間が止まってしまったかのように、うつむいたその体勢から動くことができなかった。

 ああ、そうか

 そうだよな。

 自分でも驚くほどに落ち着いた頭で、そう考えていた。こういうとき、物事にあまり動じない自分のメンタルがありがたいと思う。

 伊東先生の言うことは正しい。俺みたいな生徒がいれば学校の評価を落としかねないし、周囲からどう思われるかも想像に難くない。祖母から受け継いだ色ではあるが、許されないものは許されないのだ。

 それが、普通のことなのだから。

 しかしどうしてだろうか。髪はもう掴まれていないというのに、脳は今でも痛覚を訴え続けているような気がした。頬の傷だってもうとっくに治り、今はどこも怪我をしていないというのに。

 どうして、俺は——


「——ざっけんなや!!」


 突然の怒号にはっとして、顔を上げた。

 見れば、目の前にいる先生はとても驚いたように目を見開いていた。驚いている、というよりは戸惑っていると表現したほうがいいような顔。きっと、俺も同じような表情を浮かべていることだろう、と他人事のように思った。

 気がつけば、放課後の廊下はしんと静まりかえっていた。下校しようとしている生徒たちの視線が、こちらに集まっている。

 この状況は覚えている。先週の水曜日にも、俺は似たような経験をした。

 状況はあのときと似ているようで、しかし百八十度異なっている。

 何故なら、その怒鳴り声は先生の甲高いそれではなく、むしろ低い、凛々しいものだったのだから。


「なに、アホなこと言ってやがんだ」


 黒神は。

 黒神白夜は、やはり怒っていた。

 地を這うようなその声を聞いてようやく理解する。

 無関係な彼が、どうして彼に対して激しい感情をあらわにしているのか、やっとわかった。

 全部、俺のためだったのだ。

 俺のために、黒神は怒ってくれていたんだ。


「ふざけんなよ、てめえ!」

「く、黒神!」


 伊東先生に殴りかかろうとする黒神を慌てて羽交い締めにした。彼は双子の妹とそう変わらない体格をしている。小柄だし、筋肉のつきも薄い。両腕で拘束すれば、簡単に動きを封じることはできた。

 しかし身体は止められても、感情は止まらないのだろう。自由な両足をばたばたと暴れさせ、黒神は腕から逃げようともがく。


「黒神、落ち着いてくれ。俺が悪いんだ。俺が全部悪いから、だから黒神が怒ることなんて——」

「お前が怒らねえから俺が怒ってんだろうが、このアホ! お前は何も悪くねえつってんだろうが、謝るんじゃねえ! 謝るくらいなら黙ってろ!」


 黙っていろという言葉に、反射的に口を閉じた。

 腕の中にいる黒神は、力任せに抜け出そうとしていた。俺は少しうろたえながらも、より腕に力を込める。ここで腕を離してしまえば、彼は先生に殴りかかってしまうかもしれない。

 それは駄目だ。暴力だけは、駄目だ。教師に暴力なんて振るえば、入学からひと月も経たずに退学にされてしまうかもしれない。俺のせいで黒神の学歴に傷がつくようなことだけは、それだけは止めなければならない。

 黒神は暴れながらも目の前の彼を睨みつけ、吠えるように声を上げた。


「こいつの赤毛より、お前のヅラのほうが目立ってんだよ! この葉鶏頭!」

「は、葉鶏頭?」


 不意に飛び出してきた単語を、思わず繰り返した。どうして黒神は唐突に植物の名前を叫んだのだろうか。

 わけのわからないまま、その言葉を浴びせられた伊東先生のほうに視線を移動させる。すると驚いたことに、彼は唇をわなわなと震わせていた。唇だけではない。全身で、怒りに震えている。


「そ、その呼び方は、一年生は知らないはず……誰から教えられたんですか!」

「三年D組の雪村月見だよ!」


 黒神が出したその名前に対し、


「また……また、あの生徒ですか!」


 と、先生は叫ぶ。

 三年生の、雪村月見。

 先週の金曜日、図書室で会った彼女の姿を思い浮かべた。あのときどんな会話をしたのかさえももう忘れてしまったが、その名前だけは正確に脳に焼きついている。

 またあの生徒ですか。どういう意味なのだろう。いや、そもそもどうして——どうして、黒神が彼女のことを知っているのだろうか。

 そんな疑問を浮かべていると、先生は眉を吊り上げて口を開いた。


「黒神白夜! 生徒指導室に来なさい!」

「上等だコラ! 指導室の床に正座をしろ、俺が説教してやる! その腐った性根をたたき直してやらあ!」


 高い喚き声と低い叫び声が廊下でぶつかる。ふたりとも、完全に冷静さを失っていた。

 俺はどうすればいいのかわからず、周囲を見渡す。しかし通りがかった生徒たちは気まずそうにこちらから目を逸らすだけだった。

 誰だって面倒事には関わりたくないだろう。その気持ちはよくわかる。けれど、せめて誰か教師を呼んでくれればいいのだが、と思った——そのときだった。


「……お前は何をしているんだ」


 唐突に耳に入ったのは、男性の静かな声だった。

 声の方向に視線を向けると、そこにいたのは背の高い男性だった。濡羽のような黒髪と、精悍な顔立ち。そして、目つきの悪い三白眼。

 生徒指導の先生が、そこに立っていた。

 突然現れたその人に、俺は戸惑った。伊東先生も、驚いたように目を見開いている。

 男性はその鋭い視線をこちらに向ける——いや、俺に向けているのではない。正確には少し下のほうを見つめていた。

 腕の中で、小柄な身体がびくりと跳ねた。


「殴ったのか」


 そう黒神に問いかけた彼の声は、想像していたよりもずっと穏やかなものだった。


「殴っては……ないです。ヅラとは言ったけど」

「本当に?」

「本当に。……でも、こいつが止めてくれなかったら、きっと殴ってた」

「殴っていないのならよし。だが、中年男性にその言葉は禁句だ。そこは反省しろ」


 本当のことでも、言っていいことと悪いことがあるだろう。淡々とした口調で彼はそう言った。

 さらりとしたその言葉を受け、伊東先生の額に青筋が浮かんだように見えた。本人の前でも言っていいことと悪いことがあるだろう、と思いながら羽交い締めにしていた黒神を解放する。彼はもう落ち着いてくれているようで、腕を離しても暴れたりはしなかった。

 男性は今日も手にしていた木刀を肩に乗せると、わかりやすく不機嫌な様子の伊東先生と向き合う。


「一連の経緯は生徒から聞きました、伊東先生。白夜の暴言に関しては俺が謝罪します。だが、生徒指導を校長に任されているのは俺だ。これは俺の仕事であって、あなたの仕事ではない」

「……フン、校長先生が何故アナタを選んだのか理解できませんね——黒神先生」


 身内に甘い、と眼鏡をかけ直しながら彼は吐き捨てた。嘲るように口元を歪めて笑っている。どうやら皮肉な笑みを浮かべられる程度には冷静さを取り戻したようだが、しかし俺の意識は既に伊東先生から離れ、長身の彼へと向いていた。

 黒神先生。

 先生は、男性のことを確かにそう呼んだ。

 双子と同じ名字をもつその人は自分を呼ぶ声に込められた皮肉に気がついていないのか、あるいは気付いたうえで黙殺しているのかはわからないが、表情を変えないまま言葉を続けた。


「白夜の言う通りです。紅野は校則を違反していません。指導する必要も、髪を染める必要もありません」

「必要はあります。カレを真似する生徒が出てきますよ、黒神先生」

「ならばそいつらを指導すればいい。彼に染髪を強要するのは間違っている」


 黒神先生は事務的な口調で、しかしどこか熱が入っているようにも感じられる声でそう言った。

 その言葉に、自分の中で例えようのない感情が沸いたのがわかる。名前すらもわからないその感情は胸のあたりにまで込み上がり、油断をするとすぐにでも溢れてしまいそうだった。

 そんな錯覚を起こしながらも、さもやれやれと言わんばかりに伊東先生が肩をすくめた姿が目に入る。


「ワタシはですね、この古鷹高校のことを考えて言っているのですよ。こんな目立つ髪、地域の方々からどう思われ——」


 その言葉の先にどのような台詞を続けようとしたのか、俺にはわからない。伊東先生はそこで口をつぐみ、そしてそれ以上言葉を続けなかったのだ。

 続けなかったというよりは、続けることができなかった、と表現するべきなのだろう。

 彼が台詞を言い切るより先に——黒神先生が、その胸倉を掴んだからだ。


「……他人からどう思われようが、そんなもの、関係ない」


 ドスの効いた声、というのはこのことを言うのだろう。そう思ってしまうほどに、彼の声帯から発せられたそれは低く、太く、そして重い声だった。凄みの込められた低音を至近距離で浴び、ひっ、という情けない音が男の喉から漏れる。

 長身の黒神先生と、それほど背の高くない伊東先生。身長差は十センチメートル以上あるだろう。黒神先生が胸元を掴んで少し持ち上げるだけで、肉つきの薄い身体はやすやすと浮かび上がる。


「世界中の全人類が敵に回ったとしても、俺たちだけは生徒の味方であるべきだ——それが、教師の使命だろうが」


 違うか、と黒神先生が胸倉を軽く揺さぶると、伊東先生はぶんぶんと何度も頷いた。その首肯に満足したのか、彼は長く深いため息をつき、そしてゆっくりと先生の身体を降ろす。

 ふと、黒神先生はこちらを振り向く。やはり目つきは悪いものの、先ほどまでの声に反してその表情は穏やかなものだった。


「話は終わりだ。お前たちはもう帰っていい」

「ワ、ワタシは……」

「あなたは俺と一緒に職員室だ。……ああ、そうだ」


 彼はそこで一度言葉を区切ると、紅野、と俺の名前を呼ぶ。


「教師として、生徒のお前に助言をする。よく聞け。そして覚えておけ」

「は、はあ……なんですか」

「お前の味方は、お前が思っているよりもずっと多い」

「…………」

「それと、よく白夜を止めてくれた。礼を言う。……それで、紅野さえよければ、なんだが」


 これからも、うちの馬鹿どもをよろしく頼む。黒神先生は穏やかな声でそう言うと、伊東先生とともに廊下の奥へと去っていく。ふたりの教師の背中がだんだん小さくなっていくのを、俺と黒神はしばらく無言で見つめていた。

 沈黙を先に破ったのは彼のほうだった。あ、という声を上げたかと思うと、黒神は制服のポケットからスマートフォンを取り出してその液晶を見つめる。


「あー……このあと用事あるから、俺はもう行くな。先生に呼び出されてたんだ。委員長って大変だぜ」

「……ああ、そうだったのか。俺のせいで時間を取らせて悪かった。一緒に謝りに行ったほうがいいか」

「いや、別にいいだろ。そんなことで怒るような人じゃないだろうし、そもそも俺がいなくたって藤咲がいるし……つうか、謝るなって何度言えばわかんだよ、このアホ。何度言ってもわかんないのか、このダァホ。イツキの大アホ野郎」

「そ、そんなにアホって……、——ん?」


 そんなにアホと言われるようなことなのか。そう言いかけたとき、彼の言葉にふと違和感を覚えて思わず黙る。

 あれ。今、俺のことを名前で呼んだように聞こえたが。

 気のせいだろうかと首をかしげていると、黒神はゆっくりとこちらに視線を向けてくる。その目つきは、どこかじとりと睨みつけているように感じた。

 あー、とか、うー、といった音を漏らし、やがて彼は口を開くと、


「俺もお前を呼び捨てにするから、お前も俺のことを名前で呼べよな」


 と、そう言った。そして俺の鼻先に、びしっと人差指を突きつけてくる。


「今度ははぶんなよ。友達と妹にはぶられるとか、寂しくて死ぬからな! 俺が!」


 仲間外れにしたら怒るからな、と声を張った黒神の表情は少し決まりが悪そうで、なんというか、ただ単に拗ねているだけのように見えた。そんな表情をしている彼のことを、つい微笑ましく思ってしまうのも仕方のないことだろう。

 そんなことを考えていると、黒神はどうしてかたれ目を丸くし、きょとんとした顔を浮かべた。しかし次の瞬間には口元を緩めて白い歯を零す。それは本当に、楽しそうな笑顔だった。


「じゃあな、イツキ。また明日」

「ああ、また明日。俺のために怒ってくれてありがとう——白夜」

「よせやい。照れるじゃねえか、アホ」


 彼は最後にそうののしる。しかしその言葉に悪意はほんの少しも含まれておらず、照れ隠しのようなものなのだろうということは俺でも察することができた。

 じゃあな、ともう一度繰り返し、白夜は後ろ手に手を振りながら去っていく。その背中を見送り、さて俺も帰ろうかとリュックを背負い直した。


「笑ってる」


 唐突に。

 澄んだ声が、鼓膜を震わせた。


「笑顔、初めて見た」


 気がつけば、桜夜が至近距離で俺の顔を覗き込んでいた。いつからいたのだろうか、と考えながら一歩引いて距離を取る。彼女は不思議そうな表情を浮かべ、こてんと小首をかしげた。

 笑っている。桜夜にそう指摘され、思わず自分の頬に手を当てた。言われてみれば少し口角が上がっているような気がしなくもない。

 彼女には笑顔を初めて見たと言われたが、そういう桜夜のほうこそ笑った顔を見たことがないと、なんとなく思った。

 そんなことを考えていると、お疲れさまなんだよ、と彼女はねぎらいの言葉をかけてきた。


「葉鶏頭先生って、先輩たちに嫌われてるらしいよ。理由は……あー、言うまでもないことかな」

「まあ、なんとなく察しはするが……その葉鶏頭先生っていうのは、いったい何なんだ」

「あのおじさんのあだ名。三年生が考えたんだって」

「どうして葉鶏頭なんだ? 植物の名前だろ、それ」

「ハゲてる伊東さんだからじゃないかな」


 ひどいネーミングセンスだ。いったい、どこの誰が考えたあだ名なのだろう。

 それはさておき、今のやりとりから察するに、どうやら桜夜は一連の出来事を初めのほうから見ていたらしい。教室のすぐ横で、自分の兄が教師と言い争いをしていたのだ。それを無視して帰ったりはしないだろう。

 もしかして、と思った。


「桜夜。先生を呼んでくれたのは、お前だったのか?」

「うん」


 彼女は頷いた。ごく自然に、それが当たり前のことのように。

 そうか。

 誰も彼もが関わりたくないと俺たちのことを避けていたのに、桜夜は動いてくれたのか。


「……ありがとう」

「いいよ、別に。私のほうこそ、ハクのこと止めてくれてありがとね」

「それこそ、俺が礼を言われるようなことじゃない」

「じゃあ、これでおあいこってことにしよう」


 今朝にも聞いた『おあいこ』という言葉で、彼女は会話を締めくくる。

 不意にあることを思い出し、そういえば、と俺は口を開いた。


「あの先生、お前たちの親戚なのか?」

「そうだよ。黒神(ツルギ)。一番上のお兄さん」


 黒神剣。変わった名前だ。しかし木刀を手にする姿は妙にマッチしているというか、彼に似つかわしいと思うのでその名前は彼に相応しいものなのだろう。

 兄弟というにはあまり似ていないように見えた。白夜と桜夜は二卵性だが、兄妹と言われれば納得できる顔立ちをしている。しかしあの先生は兄弟よりも親戚、むしろたまたま同じ名字をもつ赤の他人と紹介されたほうが納得できるように思えた。

 まあ、そういうこともあるだろう。俺も両親より祖母のほうに似ているとよく言われるし、その自覚もある。遺伝なんてそんなものだ。


「——殺してやろうかと思った」


 それは、透き通るような声だった。隣にいる少女の言葉が振動となり、俺の耳を打つ。

 その声に、それまでつらつらと続けていた思考が、思わず止まる。

 ゆっくりと桜夜に視線を移動させた。彼女はいつも通りの無表情でそこに立っている。


「黒神家は野蛮だってさ。否定はしないけどね……それでも、私の家族の悪口を言われるのは、少し——いや、めちゃくちゃ、腹立たしいかな」


 桜夜はそこで一度言葉を区切り、


「嘘だけどね」


 と、言い捨てるように己の言葉を否定し、そのまま振り向くこともなく立ち去る。その言葉にどう返せばよかったのかわからず、だんだんと遠ざかっていくその後ろ姿を、ぼんやりとした頭でただ眺めていた。

 嘘だけどね。

 その言葉はまるで。

 図書室で会った、あの少女のようだった。



* * * * *



 その日の夜、俺はニュース番組を見た。

 たまたま父さんがテレビを眺めており、その横を通りがかった俺を彼が呼び止めたのだ。

 その内容は、無差別連続通り魔事件の新たな被害者についてだった。

 七人目の被害者。

 それに対しては特に驚かない。俺は桜夜に『お願い』されて彼女に協力はしているものの、桜夜にとって共犯者は必要な存在ではない。ただ、監視と口封じのために隣に置いていただけの話。だから、いつかひとりで誰かを斬ることもあるだろう、という予測はしていた。

 だから、俺が驚いたのはそこではない。

 液晶の中のアナウンサーは、機械的に事実だけを読み上げていた。

 被害者は自宅付近の路地で倒れているところを発見され——その時点で、既に死亡していた。凶器は大きな刃物だと予想され、背中には深々とした傷跡が残っていたらしい。

 犯人は、いまだ捕まっていない。

 淡々とした口調で、液晶の中の女性はそう言った。その声は耳には届いているのだが、脳がうまく処理できていないのか、彼女が何を言っているのかよくわからない。まるで外国の言葉を聞いているような気分だった。

 被害者は死亡した。

 通り魔が殺した。

 黒神桜夜は——人を、殺したのだ。

 このとき、俺の頭は冷静だった。ようやく脳の処理が終わったのだろう。自分でも不思議なほどに、桜夜が殺人を犯したという事実を受け入れていた。

 この人、樹月の学校の先生じゃないのか。

 父さんの声には答えず、無言で顔を上げる。そして視界に入った液晶には、被害者の名前が表示されていた。

 伊東智晴(ともはる)

 その名前を見た瞬間、彼女の言葉がフラッシュバックする。

 ——あの人は違うからね。

 ——先生じゃない人を、斬ったりなんかしないよ。

 ——殺してやろうかと思った。

 あの透き通るような声を、鮮明に思い出す。

 俺は。

 俺は————

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