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猛毒スノーホワイト  作者: 氏原ゆかり
Sky of Daybreak
4/14

第3話『スノーホワイト』

ChapteR.3 White poison

「紅野くんってさー」


 ジョギングの最中、どうでもよさそうに間延びをした口調で、黒神は言った。


「どうして私に嘘をつかないの?」

「お前が殺すって言ったんだろうが」


 そんな会話から始まった、四月十七日の金曜日。

 時刻は午前五時を過ぎたころである。

 通り魔は、昨日も人を襲わなかった。今日も人を斬らなければ俺は彼女と三日間散歩をしただけになる。それはそれで構わないが——というかそれに越したことはないのだが——脅された立場からすると、正直、そう簡単に割り切ることはできないというのが本音だ。

 ちなみに、次は慣れるからという宣言通り、黒神はこの二日間安定して走っている。思いのほか運動神経がいいのかもしれない。

 そんな彼女は、ふあ、と小さなあくびをしながら隣を走っていた。


「そうなんだけど、そうじゃなくて……えーと、なんていうか……んー、言葉にするのは難しいな。面倒だからやめていい?」

「別にいいが……」


 黒神がひと言、そう、と呟いたのを最後に再び沈黙が続く。その中で、俺は彼女の問いかけを反芻していた。

 どうして私に嘘をつかないの。

 その問いかけに対する答えは先ほど言った通りだが、もともと、俺が嘘をつくことを苦手としているというのもある。何かを偽るという行為自体があまりよくないものだと思うし、それに対する罪悪感も大きいからだ。

 嘘といえば、と。ふと、あることを思い出した。


「じゃあ、黒神。俺もお前に訊きたいことがあったんだ」

「なあに?」

「毒ってなんだ?」


 私に嘘をつかないこと。

 毒は嫌いなの。

 あの日、あの放課後の教室で、零れるように呟いた言葉。耳に残っているその声を思い浮かべる。

 黒神が嫌う毒——苦いと言っていたそれが何を指しているのか、俺は知りたかった。


「ふわふわした話になるんだけど、それでもいいかな」


 彼女の言葉に、俺は頷く。黒神はしばらく、んー、という音を漏らすと、やがて口を開き、


「嘘をつかれるとね、苦くなるんだよ。口の中が」


 と、そう言った。その表情は、だいぶ言葉を迷っているように見える。


「……苦い」

「ほんとは苦しいのかも。一緒だもんね、漢字」


 彼女は珍しく、そんな風におどけるようなことを言った。そして、徐々に走るスピードを落としていく。


「息がね」

「息? 呼吸のことか?」

「止まりそうになるんだ」


 黒神は自分の首に両手をかける。まるで、己の首を自ら絞めるような、そんな仕草だった。

 白いマフラーに、彼女の指が沈む。


「首が絞められてるっていうか、喉に詰まってるって感じかな」

「ふうん……白雪姫みたいだな」


 黒神の話は本人の宣言通りふわふわで曖昧なものだったが、つまり要約すると、口の中に広がる苦みや息が詰まりそうになる感覚のことを彼女は毒と呼んでいるらしい。

 そこで『毒』という単語を選んだセンスはよくわからないものの、黒神桜夜のことを、ほんの少し理解できたような気がした。

 苦くて苦しい、その感覚は俺にも既視感がある。

 それは、いつかの——


「どういう意味?」

「え?」

「白雪姫みたいって」


 ああ、と。俺は頷いた。


「喉が詰まってる、みたいな感覚って言っただろ。毒を喉に詰まらせるって聞いて、白雪姫を連想しただけだ」

「……ふうん」

「ああ、でも林檎は苦くないよな」


 先日もらった飴の味を思い出しながらそう言った。そういえば、あのやたらメルヘンなデザインをしている飴の瓶は部屋に置きっぱなしにしていたか。帰ったら母さんにでもやろう。


「私、白雪姫ってあんまり好きじゃないな」

「ん?」

「ていうか、嫌い。大嫌い」


 横目で黒神の顔色を見てみると、彼女はどこか、少し複雑そうな表情を浮かべていた。


「だって、白雪姫って何もしてないじゃん」

「そうか?」

「そうだよ」


 黒神にそう断言され、俺は白雪姫のあらすじを思い出してみる。王女として生まれるところから始まり、成長するとその美貌から継母に嫉妬されてしまう。継母から守るため狩人は森へと逃がし、そこで七人のドワーフの家に匿われる。しかしある日継母に毒殺されてしまうが、王子の口付けで生き返り……そしてふたりは結ばれて物語は幕を閉じる。うろ覚えだが、大体そんな感じの内容だったはずだ。

 本当だ。言われてみれば、姫本人は何もしていない。

 いわゆる、巻き込まれることで物語を展開するタイプの主人公なのだろうが、しかしそれにしても白雪姫には主体性がなさすぎるように思える。

 あの童話にはそういう解釈もあるのか、とそんなことを漠然と考えていた。


「何もしてない癖に、何も知らない癖に。王子様に助けられて、ハッピーエンド。めでたしめでたし——ほんと、腹立たしいよね。こういうのを同族嫌悪っていうのかな」


 彼女は苦虫を噛みつぶしたかのように、眉間に皺を寄せて渋い顔をしていた。黒神はあまり感情が表に出ないタイプだと思っていたが、意外と表情は豊かなほうらしい。

 それでも、笑った顔を見たことはないのだが。

 同族嫌悪。

 それは、どういう意味なのだろうか。

 彼女が何を言いたいのかよくわからず、思わず首をかしげる。ただひとつ理解できたのは、どうやら黒神は白雪姫のことが本当に嫌いだということだけだった。

 そのとき。

 あ、と。

 唐突に、彼女は声を上げた。


「違うかも」

「違う?」

「私には、王子様なんていなかったや」


 それは、あっさりとした呟きだった。

 憑き物が落ちたような、どこか達観してしまったかのような……それでいて、切なげな響きを含んでいる声。

 王子様なんていなかった。

 それはまるで。

 自分を助けてくれる人なんていないと、そう言っているようだ。


「————?」


 突然。

 黒神は立ち止まり、後ろを振り返った。つられて俺も足を止め、背後に視線を向ける。しかしそこにはいつもと同じ町の風景と、誰もいない道があるばかりだった。


「どうした?」

「……誰かに見られてた気がしたんだけど」


 彼女は首を横に振りながら、前に向き直る。


「気のせいかも」

「そうか」

「照井先生の幽霊だったり」

「勝手に殺すな」


 冗談だよ、と黒神は言う。笑えない冗談だ、と俺は思った。

 しばらく歩き続け、やがて交差点につく。昼間ならひしめき合う車の群れで騒がしい道路も、この時間は静寂に満ちていた。

 彼女とはいつもこの交差点で解散していた。車ひとつない交差点だが、黒神はいつも信号が変わるのをきちんと待っていた。

 ややあって、歩行者信号は『進め』に変わる。


「じゃあ、学校で」

「ああ。また、学校で」


 別れの言葉を交わし、彼女は横断歩道を歩いていく。渡り終わると白い線の向こう側からこちらに手を振り、そして背を向けて帰っていった。

 今日も、黒神は人を襲わなかった。

 三日連続、ただ明け方の町を散歩しただけだ。通り魔活動に付き合えという脅迫を、はたして彼女は覚えているのだろうか。

 俺は自宅に向かって駆け出した。走りながら、ある人のことを考える。

 通り魔の少女ではない。

 顔も知らない、照井先生のことだ。

 彼がどのように傷を負い、どれほどの血を流したのか、俺は知らない。しかしひと月近く入院しているのだ、そろそろ意識が回復していたとしてもなんらおかしいことではない。

 意識が回復しているのであれば。

 自分を襲った通り魔についての情報を、警察に話しているだろう。

 しかし、黒神は今も通り魔を続けている。それがわからない。彼女が通り魔を始めた動機も、それを続けている理由もわからないが——それ以上に、たかが女子高生ひとりに警察が後手に回っているという現実が、理解できなかった。

 先生だけじゃない。ほかの五人の被害者たちもだ。六人分の証言があるというのに、黒神のことを特定できないものなのだろうか。


「…………」


 考えていても、わからない。わからないことばかりだ。

 ただ。

 いつかきっと、この日々は終わりを迎える。それだけは、直感した。



* * * * *



「おはよう。お帰りなさい、いっくん」


 家に帰ると、エプロン姿の母さんがキッチンにいた。彼女に挨拶を返し、俺はダイニングを後にする。

 シャワーを浴びるため着替えを用意していたとき、ふと、机の上に置いている小瓶が視界に入る。それを手に取ってからバスルームへと向かった。

 汗を落とし終え、身支度を整えると浴室を出てダイニングに移動した。テーブルの上に並べられている朝食から、白い湯気が立ち昇っているのが見える。母さんはキッチンで紅茶の準備をしているようだった。


「これ、やるよ」


 キッチンのカウンターの上に、例の飴の小瓶を置いた。一度は開封してしまっているものの、ラッピングペーパーとリボンは元通りに包装し直している。

 彼女は、きょとん、とした目で差し出されたそれを見ていたが、小瓶を手にするなりぱあっと表情を輝かせた。


「かわいいラッピング! 中も宝石みたいにきらきらしてるわ! こんなキャンディ見たの初めて!」


 そう言って、弾けるように眩しい笑顔を見せた。まさに喜色満面。溢れる喜びを隠せないというより、感情を隠そうとすらしていない。

 無垢で素直な子供のように表情が豊かな母さんから、どうしてこんなに無愛想な息子が生まれたのだろうかと、たまに疑問に思うときがある。


「もらったんだ。食べていいよ」

「あらっ。女の子?」

「まあ……うん」

「きゃーっ」


 ひとりで勝手に盛り上がっている彼女を無視しながら食卓につき、リモコンを手に取る。リビングのテレビに電源を入れると、朝の報道番組が液晶に表示された。その内容は相も変わらず連続通り魔事件だったが、警察の捜査が難航しているとだけアナウンサーが読み上げると、すぐに別のニュースに切り替わる。

 俺は黒神のことを思い出しながら、テレビの電源を落とした。


「母さん」

「なあに?」

「白雪姫ってどう思う?」

「んー?」


 キッチンからこちら側に紅茶を運んできた母さんは、それをテーブルに置くと向かい側の椅子に座る。朝食の時間は、基本的に俺と彼女のふたりきりだ。父さんは始業時間に余裕があるらしく、俺が家を出たころにのんびりと起き出すらしい。


「白雪姫って、お伽話の?」

「ああ」

「どう思うって言われても……」


 母さんは少し考え込むような仕草を見せると、


「いい話なんじゃないかしら。王子様のキスで目を覚ますって、とってもロマンチックだと思うわ」


 と、当たり障りのない感想を口にした。おそらく、多くの人は彼女と似たような意見を漠然ともっていることだろう。

 しかし母さんは、でも、と言葉を続けた。


「絵本と映画の白雪姫しか知らないの。原作は、やっぱり少し怖いのかしら?」

「怖いって?」

「ほら、シンデレラが有名だと思うのだけれど、童話の原作って本当は残酷だったりするでしょう? 私は子供向けに優しくされたものしか読んだことがないの」

「ああ、なるほど」

「ところで、白雪姫がどうしたの?」

「いや、別に、どうもしない」


 そう返しながら、トーストにバターを塗る。巷で噂の通り魔とそんな雑談をしただなんて、どう説明すればいいというのだろう。

 原作、か。頭の中で、彼女の言葉を反芻してみた。俺も小さいころに絵本を読んだりとか、アメリカ映画のアニメーションを観たりした記憶はあるが、いわゆる原作は知らない。学校の図書室に置いてあるだろうか。今日の放課後にでも探してみよう。

 ああ、そうだ。

 学校という単語に、あることを思い出した。視線を手元に落としたまま、俺は口を開く。


「母さん」

「今度は何かしら」

「髪、染めようと思うんだ」


 一瞬の静寂が生じた。

 バターを塗る手を止め、顔を上げて目の前の人に視線を向ける。

 彼女は、笑ってはいなかった。

 静かにフォークをテーブルに置き、紅茶を口につける。そしてティーカップをソーサーに乗せると、大きく、ため息をついたのだった。


「先生に言われたの?」

「まあ、うん。目立つらしくって」

「許しません」


 にべもない、という表現はこういうときに使うのだろう。つい先ほどまで楽しそうに話していた人と同一人物かと疑うほどに、冷ややかで硬い口調。

 そんな言い方に、俺は、何も言えなくなる。

 そのまま沈黙に耐えていれば、ごめんなさいね、と母さんは笑う。少し気まずそうに、困ったように眉を下げた微笑だった。


「私は怒っているわけでも、あなたを叱っているわけでもないの。あなたは何も悪くないもの——ねえ、樹月」


 樹月、と。母さんは俺の名前を呼ぶ。いつものような、馴れ馴れしい愛称ではない。その声は慈しみに満ちていて、温かさが込められているように感じた。

 この人は普段子供っぽい癖に、ふとした瞬間に母親の顔になるのだ。

 俺は何も言わない。

 彼女はそんなこちらを見て柔らかく、そして少し悲しそうに微笑むのだった。


「たとえこの国のすべての人が、あなたのことを誤解して、さげすんだりしたとしても……ママとパパだけは、あなたの味方よ」

「…………」

「お祖母ちゃん譲りのその髪、とっても素敵だと思うわ」


 そう言って、母さんは優しく笑う。その笑顔を直視することができなくて、思わず目を背けた。

 向き合うことが、できなかった。

 そして俺は。

 俺は——何も言えないままだった。



* * * * *



 放課後。今日は一日いい洗濯日和だと今朝のニュース番組で気象予報士が言っていたような気がするが、教室の窓から見上げる空は今日も灰色の曇り空だった。

 ホームルームが終わったばかりの教室は、まだ少し騒めいていた。鉢の巣をたたき落としたかのような勢いで、部活生たちが教室から飛び出していく。女子生徒たちが週末の予定を喋りながら、楽しそうな雰囲気でその群れに続いていくのが見えた。

 黒神の双子たちも今日の放課後は特に用事がないのだろう、彼ら彼女らに倣うように一緒に教室を後にした。兄妹仲のいいことだ。そんなことを思いながら、俺はとある人物の席に向かう。


「訊きたいことがあるんだが、今いいか」


 そう声をかければ、くだんの人物は、はい? とこちらを振り向いた。その動きに合わせて後頭部のポニーテールが揺れる。そして丸眼鏡の奥にある瞳がこちらの姿を映すと、少し驚いたかのようにその目が見開かれた。


「まあ……紅野さんから私に話しかけてくるなんて。明日は雨でしょうか」


 そう言って、藤咲はこちらをからかうようないたずらっぽい表情を浮かべた。

 彼女の言う通り、俺から藤咲に声をかけることは中学時代を含めても数えるほどしかない。片手で足りる程度だし、そのほとんどが業務連絡に近いものだったと思う。どうやら彼女にとって俺は世話を焼きたくなるようなタイプの人間らしく、大概は藤咲のほうからこちらに話しかけてくるのがいつものパターンだった。

 雨が降る、とまで言われるようなことをしているという自覚はあるが、しかし誰かに訊きたいことがあるときに話しかけられるクラスメイトなんて、同中出身の彼女くらいしかいないのだから仕方がない。


「図書室がどこにあるか、知ってるか」

「南校舎の四階ですよ」

「四階? へえ、四階があったのか。そこにはどう行けばいいんだ?」

「どうもこうも……、……あー」


 藤咲は何故か、かわいそうなものを見るような目でこちらを見つめてきた。

 よし、とひと言呟くと彼女は席を立ち上がり、通学用らしい大きめのショルダーバッグに教科書類を詰め始めた。それを終えてファスナーを閉めると、ストラップを肩にかけてこちらに向き直る。


「私が図書室まで案内しましょう」

「え、いや、それは悪い。場所と道順を教えてくれるだけでいいんだ」

「あなた方向音痴じゃないですか」


 その言葉に反論することができず、思わず黙る。

 藤咲はそんな俺を見て、したり顔のような顔つきになる。なんとなく言いくるめられてしまったような気分になるが、彼女の言う通りなので何も言えない。

 それに、と藤咲は笑う。


「ちょうど、今日は図書委員の当番なんです。紅野さんの案内はついでですよ。つ・い・で」


 そう言って、ぱちり、と彼女はウインクをした。

 これはもう断ることは難しいな、と俺はため息をついた。藤咲を説得するのは諦めよう。こういうときは流されてしまったほうが楽だ。

 そのような経緯があり、現在、俺は彼女に案内されながら廊下を歩いているのだった。


「藤咲はクラス委員長もして、図書委員会にも入ってるのか」

「ええ。本、好きなので」

「忙しいだろ。大丈夫か?」

「ありがとうございます」


 ご心配なく、と隣に並ぶ藤咲は微笑む。


「クラスの代表は白夜さんですし、基本的に私は彼のおまけですから。委員会も今は研修期間のようなものですし」


 黒神兄がクラスの代表ということは、つまり彼が委員長で藤咲は副委員長ということなのだろう。彼女は黒神兄のサポート、あるいは補欠ということらしい。


「ところで、図書室にはなんのご用です?」

「本を借りるためだ。図書室なんだから」

「それはそうでしょうけど。行間を読んでください、行間を。ほら、ジャンルとかあるでしょう」

「ジャンル……で言えば、童話だな。白雪姫の原作を読みたいんだ」


 白雪姫。

 今朝、黒神と通り魔活動という名前の散歩をしていたときに話題に挙がった童話だ。

 ドイツのヤーコプ・ルートヴィヒ・カール・グリムとヴィルヘルム・カール・グリム——世界三大童話作家で有名なグリム兄弟が書いた物語。もともとはドイツのヘッセン州あたりの民話らしく、グリム兄弟がそれに編纂を行って童話としたものだ。

 そういった概要は知っているものの、俺は原作を読んだことがなかった。彼女との話でなんとなく興味を抱いたので読んでみようと思い、藤咲に図書室の場所を尋ねたのだ。

 彼女は不思議そうな顔をして首をかしげた。それに合わせるように目の前のポニーテールが揺れる。視線を少し下に向ければちょうどいい位置に藤咲の後頭部があるので、彼女が歩くたびに上下するその尻尾に、俺は無意識に目が引き寄せられた。


「白雪姫、ですか? んん、童話……ですか。んんー? ——はっ! まさか紅野さん、童話作家志望だったんですか! 素敵だと思います!」

「違う」


 藤咲が勘繰った末に出した答えを即座に否定した。

 そうですか……、とどこかしゅんとした様子で彼女は呟く。どうやら、童話作家を素敵だと言ったのは本音だったらしい。


「藤咲は、白雪姫ってどう思う?」

「どう、とは?」

「例えば……ある人は白雪姫を嫌っていた」


 俺は藤咲に、その人物が黒神であることは伏せ、今朝の会話を簡単に伝えた。話を聞き終えた彼女は、なるほど、と真面目な顔で言う。


「そういう解釈もあるんですね。言われてみれば、確かに『白雪姫』というタイトルに反して、シナリオ自体は白雪姫の外側で進行していますよね。彼女の存在なくして成立しない物語ではありますが、主人公の自主性や主体性が欠けている作品とも言えるでしょう。勉強になります」


 彼女の言葉に、こちらのほうが勉強になる思いだった。感想そのものは俺とあまり変わらないようだが、同じ内容でもそれを語る人物が違うと印象も変わるのだろう。藤咲の口調が敬語ということもあり、まるで先生のようだと思った。

 階段を昇りながら、ふむ、と彼女は顎に手を当てる。頭のよさそうな仕草だった。事実、藤咲は頭がいいのだが。


「そういう話で言いますと……そうですね、白雪姫は復讐劇だと思いますね、私は」

「復讐?」


 思わず、その単語を繰り返した。復讐だなんて血生臭い単語、白雪姫という童話からはものすごく遠い位置にあると思うのだが。


「だって、白雪姫が自分の意志で行った唯一のことでしょう? 継母への復讐は」

「ん? いや、女王は雷に打たれて転落死だろ?」

「それは有名な映画での結末ですね。原作では……あ、ネタバレになってしまいますか。原作では少し残酷なので、最近の絵本では魔法の鏡が割れてその欠片が胸に刺さったり、老婆の姿のままで殺されたり……色々とバリエーション豊富なんですよ、女王の死亡シーン」


 どちらも十分に残酷だと思うが。俺が知っている死因も、現実で考えてみれば残酷なほうに分類されるだろう。原作はそれ以上にひどいのだろうか。

 彼女は不意に足を止め、こちらと向き合うように振り返る。そしてどこか芝居がかった仕草で、大袈裟に両手を広げた。


「幸せな城で暮らしていた白雪姫。ある日継母の陰謀により彼女は出奔せざるを得なくなる。深い森の小さな家に身を隠すが、そこに迫りくるは女王の魔の手。毒林檎により姫は命を落としてしまう。しかし運命の王子の口付けにより息を吹き返した。さあ、革命の時は来た! 邪知暴虐の女王へ復讐を果たさんと、白雪姫は今立ち上がる!」

「お、おお……」


 身ぶり手ぶりを交え、まるで演劇か何かのナレーションのようにあらすじを語る藤咲に、つい感嘆の声を上げてしまった。

 彼女の舌にかかれば、白雪姫だってドラマチックなリベンジストーリーに仕立て上げられるのだろう。


「そうか……白雪姫は復讐劇だったのか」

「いえ、あくまでもひとつの解釈ですから。文学に正解なんてありませんよ」


 そう言って、藤咲は腕を下ろした。


「白雪姫を嫌いと言ったその人の解釈も認められるべきものです。人々が傑作と絶賛しようが、あなたが生理的な嫌悪を抱くのであればそれでよし。人々がB級とののしろうと、あなたが面白いと感じたのであればそれもまたよし、です」


 と、いうわけで。彼女はそう言いながら、右手を廊下の奥に向けた。


「あちらをご覧ください。我が古鷹高校の、図書室でございます」


 まるでバスガイドのような口調で藤咲が示した方向に目を向けると、目の前に扉があった。その上に視線を移動させれば、アクリル製のプレートに、確かに『図書室』と書かれている。

 彼女との会話に気を取られていたので、自分がどこを歩いているのかなんて考えていなかったし、周りの景色にもまったく注意を払っていなかった。こういうところがあるから、俺はいつまでも方向音痴なのだろう。


「道、覚えました?」

「覚えようとすらしてなかった」

「紅野さんはしょうがないんですから」


 もうっ、と藤咲は頬を膨らませ、そして呆れるように笑う。

 南校舎の、四階。

 廊下の窓の外に広がる景色を見れば、そこから北校舎——生徒棟が目に入る。古鷹高校は上から見ると『コ』の字になっており、北側の校舎は一年生から三年生までの教室があるので生徒棟、南側の校舎……つまり、俺たちが今いる場所は職員室や校長室があるので職員棟と呼ばれていた。

 校舎の構造は、そう難しくない。次からはひとりでここに来ることができるだろう。

 さて、と。小さく呟き、俺は目的地への扉に手をかけた。


「やっと来たね。遅かったじゃあないか。待ちくたびれたよ」


 扉を開けると、まるで見透かしたかのような台詞が俺たちを出迎えた。

 図書室は古い紙特有の匂いと、その中に少しだけほこりっぽい臭いが混ざり、独特の空気に満ちていた。きちんと整列された本棚と、正しい順番に並べられた書籍。奥のほうには自主学習用のスペースが用意されているのが見えるが、今日は誰も利用していないようだった。

 俺と藤咲を出迎えた声の主は、入口のすぐ目の前にある、受付用らしいカウンターテーブルの向こう側にいた。

 小柄な体躯の少女。カウンターの上に組んだ足を乗せ、文庫本を片手に、器用にページを捲りながらそれを読んでいた。

 この学校の制服は全体的に黒いうえに、その女子生徒は黒いタイツも穿いているので、全身が真っ黒に見える。

 ただひとつ。

 金色のロングヘアだけが明るく、その黒い制服に際立ってより薄く——白く、俺の目に映っていた。


「お疲れさまです、雪村(ゆきむら)先輩」


 沈黙している俺の隣で、藤咲が彼女にねぎらいの挨拶をした。ぱたん、と音を立てて女子生徒は右手の小説を閉じると、そのまま栞も挟まずにテーブルの上に置く。それはアニメのような絵柄の、かわいらしい女の子が描かれた表紙の本だった。


「君、当番は昼休みだけだったろ」

「まあまあ、お手伝いしますよ」


 その言葉に、教室での彼女の言葉が嘘だったということを察した。

 いや、嘘ではない。今日が当番というのはどうやら本当のことらしいし、放課後に図書委員の仕事をするなんて、藤咲はひと言だって口にしていない。

 嘘はついていない。

 ただ単に、本当のことを言っていないだけだ。

 藤咲さんって意外と嘘つきなんだね、と黒神は先日そんなことを言っていた。俺は彼女のことを嘘つきとまでは思わないが、まるで騙すようなことを藤咲に言わせてしまったことには申し訳なくなる。


「ええっと、童話、童話は……あっ、童話コーナーはあそこのようですね。手前から二番目の、あの本棚です」

「——え? あ……ああ」

「見つからなかったらこちらの雪村先輩にお尋ねください。パソコンで検索できますから。それでは私は書庫の整理をしてきますので、先輩、よろしくお願いします」


 俺と女子生徒にそう言い置き、彼女はカウンターの内側に入るとその後ろにある扉を開けた。どうやらその先に書庫があるらしく、藤咲は扉の向こう側へと姿を消す。

 ばたん、と。低い音が、静かな図書室に響いた。

 彼女が退場してしまったことで、図書室は今、俺と女子生徒のふたりきりとなる。藤咲が立ち去った扉から目の前にいる少女へと視線を移動させると、その涼しげな瞳と目が合った。


「えっと——雪村、先輩?」

「いかにも。私の名前は雪村月見(つきみ)。三年D組、雪村先輩。平凡でどこにでもいるような女子生徒Aだよ」


 三年生。

 小さな体格をしているから無意識に同い年だと認識していたのだが、どうやら先輩だったようだ。ハーフの生徒が三年生にひとりいると耳にしたことがあったが、見たところ、それは彼女のことらしい。

 雪村月見。

 日本語の名前なのか、となんとなく考えながら、俺は頭を下げた。


「先日は、すみません」

「なんのことかな」

「先輩だと知らなかったとはいえ……その、言葉遣いが」


 ああ、と。雪村先輩は納得したように、そしてとてもつまらなそうな表情で頷いた。


「構わないよ、別に。そんなことで君が謝る必要はないし、第一、言葉遣いなんてどうでもいい。私なんか教師相手でもタメだからね」


 彼女は平然とした態度でそう言うが、さすがに、それはあまり感心できることでもないだろう。

 先生に敬語を使わないなんて、まるで黒神みたいだ。


「知ってる? 敬語って、敬って語るって書くんだよ。つまり、敬ってない人間に使う必要はないんだ。私も、そして君もね」


 一瞬その言葉に納得しそうになったが、よく考えれば——いや、よく考えるまでもなく、ただの屁理屈だった。


「年功序列なんてくだらないもの、この国の悪しき習慣のひとつだね。そもそも、ここは偏差値平均レベルの公立高校なんだよ、しょせん」

「えっと……それが何か?」

「教師陣のレベルはたかが知れているってことさ」


 風刺の強い言葉に、何も言えなくなる。

 なんというか、この人、ものすごく話にくくて仕方がない。

 黒神と話しているときも会話が成立していないと感じるところは少なからずあったが、この先輩はそれ以上だ。


「えっと……じゃあ、ありがとうございました。母が喜んでました、あの飴」

「ああ、あれね。口に合ったのならよかったけど……、——そういえば」


 と、先輩はそこで言葉を区切る。


「あのときよりもだいぶ薄くなってるね」

「え?」

「傷」


 雪村先輩の言葉を受け、自分で自分の右頬に触れてみた。そこにあったかさぶたは昨夜のうちに剥がれているので、指には滑らかな手触りが伝わってくる。


「傷の治り、早いんです。体質的に」

「ふうん。紅野くんの前世はフェニックスかな」


 フェニックス? と反射的に訊き返そうとして——その口をつぐむ。

 紅野くん、と。

 あのときのように、彼女は自然に俺の名前を呼んだ。

 何度記憶を探ってみても、やはり俺はこの先輩のことを知らないし、名乗った覚えもない。藤咲が俺のことを話していたのだろうかとも考えたが、しかし彼女が俺の何かを話題に挙げるようにも思えなかった。


「あの」

「私は神なんだよ」


 まるで牽制するかのように静かな声で、先輩は俺の言葉を遮る。


「君の名前程度、当然私は知っている。君に知りたいことがあるのなら、私はそのすべてに答えよう」


 抑揚のない口調で、しかし、しっかりとした声で彼女は断言するようにそう言った。まるで自分は本当にこの世界すべてを知っているとでもいうような、自信に満ちた話し方。

 雪村先輩のどこか人間離れした美しさも合わさり、その台詞には真実味を感じられたが、


「嘘だけどね」


 と。あっさりと、彼女は自分の言葉を否定する。

 やはり会話のしにくい人だ。黒神と話していたほうがまだ気が楽だと思う。彼女と交わしたどうでもいい会話を、何故か懐かしく感じてしまった。


「図書委員はいいよ。全校生徒の個人情報を合法的に入手できるんだから」


 嘆息を漏らした俺に気付いていないのか、それともあえて無視しているのかはわからないが、先輩はそう言いながらカウンターの上のコンピューターを指差した。

 この学校の図書室は一般的な図書館によくあるシステムを採用しているらしく、本や資料の裏表紙にバーコードラベルが貼られている。そのコードで本の閲覧や貸出状況を管理しているのだ。

 そしてコードは本だけではなく生徒にもそれぞれ用意されており、その一覧は図書室に保管されている。それを扱えるのは司書の先生と、貸し出しや返却の手続きをしている図書委員の生徒たちだけだ。

 なるほど、と納得した。この中に全校生徒の名簿が入っているのであれば、俺の名前を知っていても不思議ではない。しかしそうなると、彼女は生徒全員の名前を覚えているということなのだろうか。


「いつ、どこで、誰が、何を、何故、どのように敵になるかわからないだろ。敵を知り、己を知れば、なんとやら。いかなる裏切りにも備えておかなきゃね。自分が先に裏切るために」

「5W1H体制で警戒してるんですか……」


 それは、とても大変そうだと思った。

 誰かを疑ったり、恐れたりするのは非常にエネルギーを消費する行為だ。心が疲れてしまう。それなら無条件で人を信じたり、抵抗したりしないほうがずっと楽になれるだろう。

 裏切られる前に、裏切る。

 雪村先輩はどれほど裏切られ、そして何度裏切ってきたのだろうか。

 適当なことばかり言っているように見えるが、きっと彼女は精神的にとても強い人なのだと、俺はそう思った。


「いいね、5W1H体制。二十四時間体制なんて表現はベタでよくない。採用するよ」

「ありがとうございます……?」

「まあ、嘘なんだけどね」

「…………」


 さてはこの人、本当に適当なことばかり言っているんじゃないだろうか。

 どこから真実で、どこまで虚偽なのかさえわからない。呼吸をするように嘘をつく、という言葉はこの先輩から生まれたのではないだろうかとすら考えてしまう。


「共通の知り合いがいるのさ」


 不意に、表情を変えずに彼女はそう言った。なんのことを言っているのか一瞬わからなかったが、すぐに俺の名前の件だと理解する。

 共通の知り合い。やはり藤咲のことだろうか。そう思って確認してみるが、雪村先輩は首を横に振る。


「例えば、火宮のお嬢様とか」

「…………」

「例えば、分家のお坊ちゃんたちとか、ね」

「…………なるほど」


 すべての疑問が氷解する。

 三年生。そうか、そういえばあの人たちも三年生だったから、彼女とは同級生になるのか。思い返せば、花壇の前で初めて会ったときも俺の親戚のことを知っているようなことを言っていたし、あの人たちと親しい関係なのかもしれない。

 あの人たちが俺の知らないところで、知らない人に俺のことを話しているというのは……別に構わないのだが、なんというか、微妙な気持ちになる。


「で、童話だっけ? 何が読みたいの?」

「え? ああ……白雪姫です」


 唐突に話を本筋に戻され、少し戸惑いつつも答えた。

 先輩は、ふうん、と呟きながらカウンターの上に乗せていた足を下ろす。


「白雪姫単品はないから、グリム童話全集になるのかな。青い本をここにもってきて」

「えっと……」

「上中下の上巻。ブレーメンの動物たちのイラストが表紙だよ」


 彼女はそう言い、先ほど藤咲が教えてくれた本棚を小さく顎で示した。俺は言われた通り、そのコーナーへと歩を進める。

 童話コーナー、と藤咲は言っていたが、童話だけでなく様々な国の民話や伝説などの本もそろえられているようだった。高校の図書室にあるにはやや幼いデザインの、ギリシャ神話や聖書を解説している本もある。

 ブレーメンの音楽隊が表紙の、グリム童話全集、上巻。雪村先輩が言っていた特徴の本を見つけるのに少し時間をかけてしまったが、それを手に取ってカウンターへともっていく。

 彼女は本を受け取るとバーコードリーダーのような機械を取り出し、まずは生徒一覧から俺のコードを読み取る。続けて本のコードを読み取ると、パソコンを操作した。その流れるような作業を見て、この人は俺のクラスや出席番号も把握しているんだな、となんとなく考えていた。

 貸し出し手続きはすぐに終わったようで、先輩は本をこちらに手渡す。受け取ったそれを見て、ふと、この人にも訊いてみようと思った。


「先輩は、白雪姫のこと、どう思いますか?」

「ふむ。人に尋ねる前に自分の意見を述べるべきじゃないかな——と、いうわけで。さて……君はどう思ってる?」


 俺の問いかけに、彼女はそう質問を返してきた。雪村先輩はカウンターに両肘を立てて寄りかかり、指を組んで口元にもっていく。そんなポーズをしていることもあり、彼女の台詞はどこか演技がかっているように感じた。

 上目遣いでこちらを見つめてくる視線は鋭く、どこか不思議な色をしているように見えるその瞳は、まるで俺の内側を見透かしているようだった。


「えっと、そうですね……いい話だと思いますよ。ハッピーエンドだし」

「当たり障りのない答えだね。平凡で凡俗だ」


 そこまで言われるようなことだろうかと、思わず首をかしげた。


「特に、ハッピーエンドをいい話って認識してるところが凡俗の中の凡俗だね」


 先輩はそう言い捨てる。悪気があるわけではないのだろうが、どことなくこちらをさげすんでいるかのような口調だった。

 しかし、ハッピーエンドとは読んで字の通り『幸せな終わり』のことだ。日本語でいえば大団円である。それがいい話ではないというのなら、ではいったい、なんだというのだろうか。

 そんな疑問に答えるように、彼女は語り始めた。


「だってそうだろ? 幸せな終わりなんてない。終わることが幸せなわけないんだよ。読者はハッピーエンドですっきりするかもしれないけどね。ところで、君は幸せの絶頂で幕を下ろされるキャラクターの気持ちを考えたことがあるかな? ないよね? そんな君にいいことを教えてあげよう。この世界で一番の恐怖はね、終わってしまうことだ。それが命であれ物語であれ同じこと。それ以上に恐ろしいものはないと、この雪村月見は断言しよう」

「な、なるほど……?」

「嘘だけどね」


 思わず納得しそうになってしまったが、どうやらこれも嘘らしい。

 彼女の言葉は嘘ばかりだ。

 淡々と嘘を吐き続ける彼女の姿を見て、なんとはなしに、俺は黒神のことを思い出していた。

 嘘は嫌いだと、嘘をつかないでほしいと言っていた彼女のことを。

 きっと、黒神と雪村先輩の相性は最悪なことだろう。


「さて、本題に入ろうか。白雪姫か……白雪姫、ねえ」


 彼女は組んでいた指をほどくと、背もたれに背中を押しつけるように座り直した。そして椅子の上で片膝を抱えるような体勢になる。タイツに包まれた膝に顎を乗せ、少し考え込むような仕草を見せたかと思うと、


「女っていうのは、林檎に狂わされる運命だと——そう、思うかな」


 と、やはり抑揚のない声でそう言ったのだった。

 林檎に狂わされる運命。

 それはこれまでに質問してきたどの人たちとも違う、彼女たちとは性質の異なる回答だった。


「君は聖書を読んだことがあるかな。旧約でも新約でも構わないけれど、うん、どちらかといえば旧約のほうがいい。ある?」

「え、いや……ありません」

「創世記の概要くらいは知ってるだろ、高校生なんだから」


 先輩の問いかけに、無言で首を横に振る。祖母はクリスチャンだが、その孫である俺はプロテスタントとカトリックの違いすら大まかにしか理解していない程度に不勉強だ。


「アダムとイヴの名前は聞いたことがあるかな」

「ああ、最初の人類……でしたっけ」


 そうだね、と彼女は頷いた。


「エデンという名の楽園に暮らしていたアダムとイヴ。ある日、蛇に変身した悪魔がイヴに近付き、神が禁じていた果実を食べるように唆した。彼女は果実を食べ、夫にもそれを勧める。そしてふたりは原罪を背負い、罰としてエデンを追放された——まあ、そんな物語さ」


 雪村先輩が話してくれた粗筋は、俺の知っている内容とおおよそ同じだった。

 失楽園とは旧約聖書の創世記、その二章だか三章だかのエピソードだ。

 エデンの園を追放される原因となった——『善悪の知識の実』。


「その果実が、林檎なんですよね」

「一説では無花果とか葡萄であるともされてるけれど……そうだね、うん、一般的にはその通りだ」


 俺はようやく、彼女の言いたいことがわかったような気がした。

 白雪姫と失楽園。このふたつに共通している要素は林檎だ。

 猛毒の林檎を口にして命を落とした白雪姫と、禁断の林檎を口にして楽園を追放されたイヴ。

 先輩の言う通り、彼女たちは林檎に運命を狂わされているという解釈もあるのだろう。


「林檎の花言葉を知ってる?」


 また唐突に、彼女は尋ねてきた。その質問の意味をはかりかねたまま、首を横に振ることでその問いに答える。


「諸説あるけれど、有名なのは誘惑、後悔、選択——そして、最も美しい人へ」

「最も……美しい?」

Kallisti(カリスティ)


 聞きなじみのない単語を雪村先輩は口にした。英語ではない、と思う。何語だろうか。


「ギリシャ神話にもね、林檎に狂わされた女たちのエピソードがあるんだ。『 Kallisti (最も美しい女神へ)』と書かれた黄金の林檎を巡る女神たちの争いの物語でね、最終的にはトロイア戦争にまで発展したんだよ」


 思わず感嘆の息が漏れた。彼女の雑学には素直に感心するしかない。


「物知りなんですね」

「私は何でも知っているんだよ」


 先輩はそう言って抱えていた片膝を床に降ろした。俺は彼女の次の言葉を待っていたのだが、雪村先輩は『嘘だけどね』なんて言うこともなく、カウンターの上に置いていた文庫本を手に取る。

 そのとき、彼女の背後にある扉が開いた。


「本、見つかりました?」


 そう言うと同時に、藤咲は書庫の扉を後ろ手に閉めた。どうやら書庫の整理とやらが終わったらしい。

 彼女は俺と先輩を交互に見比べると、あら、と頬に手を当てた。


「お話、お邪魔しちゃいました?」

「いや、ナイスタイミングだよ。ちょうど決め台詞を言ったところだったんだ」


 そう言って彼女は小説のページを開く。

 じゃあ、帰りましょうか、という藤咲の言葉に俺は頷いた。


「雪村先輩も帰り道にはお気をつけくださいね。最近、何かと物騒ですし」

「いや、それは——」


 彼女は何かを言いかけたようだったが、少し言葉を迷っているような素振りを見せた。それは表情に乏しく、どことなく機械的な振る舞いをしている先輩にはあまり似つかわしくないように思える。

 しばらくして彼女は、


「——うん、まあ、君も気をつけて」


 と、迷っていたわりには無難な言葉を口にした。

 言われた藤咲はきょとんとした表情を浮かべていたが、ありがとうございます、と優等生らしく礼を返して図書室を後にした。

 平凡だったこの町を物騒にさせている元凶の通り魔——黒神桜夜が藤咲を襲うような理由はないと思うが、しかし彼女は言うまでもなく女子だ。通り魔の被害に遭わずとも、別の変質者とかに襲われる可能性もあるだろう。

 現在時刻は午後四時を過ぎたころ。まだ太陽の沈んでいない時間帯ではあるが、藤咲がこの時間まで学校に残っていたのは俺の用事に付き合ってくれたからだ。やはり、彼女の家の近所までは送ってやろうと思う。藤咲の家がどこにあるのかは知らないが、中学校は同じなのだからそれほど離れてはいないだろう。

 そんなことを考えながら、彼女の後に続いて図書室を出ようとしたところで、


「紅野樹月くん」


 抑揚のない声に、名前を呼ばれた。

 振り返れば、声の主が手元の文庫本に視線を落としている姿が目に入る。雪村先輩は小説から目を離さず、しかしまるでこちらに語りかけるかのように言葉を続けた。


「私は君の物語に干渉することはできない。ネタバレなんてつまらないこともしない。けれど、だからこそヒントくらいはあげようと思う——私はハッピーエンド至上主義者だからね」

「はあ」


 彼女が何を言いたいのか、その意図をよく理解できないままに頷いた。

 ハッピーエンド至上主義。

 幸せな終わりはない、と先ほど言っていたばかりなのに、と一瞬思ったが、そういえばそれも嘘だったのだと考え直した。

 今度はどんな嘘をつかれるのだろうと、少し構えながら先輩の言葉を待つ。

 彼女は——


()()()()()()()()()()()()?」


 と。

 そう、言った。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


 見透かしているかのような、こちらを諭すような声色。

 それでいて、どうしてか詰問でも受けているかのような、そんな圧迫感を覚えた。

 さながら雪村先輩の喉から放たれる音のひとつひとつがナイフとなり、俺を突き刺しているようで……そんな、ありえない錯覚を起こしそうになる。


「あ、んたは——」


 自分の声が震えているのがわかった。

 心臓が、荒々しく鼓動を脈打っているのが——よく、わかった。


「——何を、知ってるんだ」

「私は何でも知っているんだよ」


 俺の問いかけに、彼女はそう答えた。先ほど決め台詞と言っていた言葉を、繰り返すように口にする。

 何でも知っている。

 その言葉に、さらに息が苦しくなる。首が絞めつけられているかのような——いや、違う。まるで、喉に何かが詰まっているかのようだった。

 こんな感覚を、黒神は、毒と呼んでいたのだったか。

 彼女と話しているときも、放課後の教室で日本刀を向けられたときでさえ、こんな感覚に陥ったことはない。このような感情に囚われるのは初めての経験だった。

 ——いや。

 俺はこれを知っている。覚えている。だが、それは思い出してはいけないことなのだと、心のどこかが拒絶していた。

 紅野さん? と、廊下にいる藤咲が俺を呼んでいる声が耳に届いた。

 そうだ、帰ろう。

 彼女を自宅に送り、俺は自分の家に帰るのだ。

 ひと晩眠ってしまえば、今日の出来事なんて忘れてしまえるのだから。

 廊下への扉を大きく開けた。そのとき、自分の手が震えていることに気がつく。もう片方の手に抱えている本を落とさないように力を込め、俺は境界線を一歩越えた。

 背後の少女から視線を逸らしながら、扉を閉めようとした間際。

 絶対零度のように冷ややかな雪村月見の声は——確かに、俺の鼓膜を震わせたのだった。


「諦めるって、そんなに気持ちがいい?」

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