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猛毒スノーホワイト  作者: 氏原ゆかり
Sky of Daybreak
3/14

第2話『黒と白』

ChapteR.2 Black men & Pale girl

 四月十五日、水曜日。

 俺は自室のベッドの上で目を覚ました。軽く頭を振れば、すぐに意識ははっきりとしてくる。こういうとき、寝起きのいい自分の体質が少しありがたいと思った。

 枕元の時計を確認した。デジタルの液晶は午前五時と表示されている。いつもの起床時間だ。

 ベッドから身を起こして適当に布団を整えると、クローゼットの前に移動して扉を開いた。ジョギング用のジャージに着替えを済ませ、ヘッドホンとスマートフォンを手に取ると部屋を後にする。

 封鎖されていた例の遊歩道は、昨日の夕方ごろにはその規制が解けたらしい。今日は普段通りのルートで走ることができそうだ。

 昨日の夜明け頃。

 黒神桜夜と出会ったのは、本当に偶然だったのだろう。

 俺が道を迷わなければ、ショートカットとしてあの公園を選ばなければ、黒神と邂逅を果たすことはなかったのかもしれない。

 しかしそれはあくまでも可能性の話で、そして既に不可能な話だ。結果的に俺は被害者とは異なる別のポジションとなった。たったそれだけの話だ。

 この曙の時間に彼女と会うことは、もう二度とないのだろう。あの出会いは偶然の産物で、最悪な奇跡のようなものだったのだから。

 だから俺はいつものように、灰色の世界へ続く扉を開けたのだった。


「あ、おはよう」


 ふあ、と。門扉の前に立っている少女は眠そうに小さなあくびをしながら、そう挨拶をした。なんとなく、いつもの丸い目がとろんとしているように見えなくもない。

 今日の服装は七分袖のアウター、短めのショートパンツと、その下にはレギンスを組み合わせている。やはり昨日と変わらず、スポーティな印象のあるデザインだった。

 彼女は革製の竹刀袋を肩にかけ、季節外れの白いマフラーを首に巻いている。

 黒神桜夜が、そこにいた。


「……おはよう」

「今日はいい天気みたいだよ。昨日の天気予報では、だけど」

「そうか。ならあとで今日の天気予報を確認するとしよう。で、だ。黒神、どうして俺の家を知ってる」

「知ってるから、知ってるんだよ」


 知っている理由を尋ねているのではなく、どんな方法で知ったのかを尋ねたのだが……まあ、あまり合法的ではない手段であろうことは察した。

 ため息をつきながらヘッドホンを靴箱の上に置き、玄関の扉を後ろ手に閉めた。


「……で、何の用だ?」

「昨日言ったじゃん。付き合ってほしいって」


 私の人斬りに付き合ってほしい。

 それが昨日の放課後、黒神が言った三つ目の『お願い』だ。

 彼女のお願い——もとい、脅迫に逆らうつもりは最初からなかったが、とはいえ、黒神の通り魔活動に行動をともにすることになろうとは、さすがに予想外だった。

 しかし同時に、賢い方法だとも思う。

 俺は目撃者だ。その場での口封じに失敗してしまった彼女にとって、それはどうしようもなく邪魔な存在に決まっている。

 しかし、目撃者であるから邪魔なのであって。

 それなら、共犯者にしてしまえばいい。

 自分のそばに置けば、監視することも容易なのだから。

 そういうわけで、被害者になれなかった俺は目撃者という立場を経て……今、共犯者というポジションについてしまったということだ。

 それは、まあ、構わないんだが。


「あー、……今からか?」

「うん。今から」

「今からかあ……」

「今からだよー」


 ふぁあ、とまた黒神はあくびをする。


「ついでに紅野くんのジョギングにも付き合おうかなって。最近運動不足ぎみだし」

「いや、それは……」

「お母さん、美人さんだね。外国の血が入ってるんだっけ?」


 思わず、黙る。

 母さんの個人情報を把握されていた。おそらく、父さんのことも知っているのだろう。

 どうして俺の家族を知っているのか、ついでに言えば、俺がジョギングを日課としていることまで何故知っているのか。

 それはきっと、訊くまでもないことなのだろう。

 彼女曰く、知っているから——知っているのだから。

 黒神はきっと、俺が裏切ろうとすれば躊躇なくふたりを人質に取るだろう。


「優しそうな人。いいなあ」


 不意に、彼女はそう呟いた。

 それは本当にうらやましそうな声で。

 まるで、自分の母親はそうじゃないと、そう言っているように思えた。

 黒神家は母親と不仲なのだろうか。双子の兄とは仲がよさそうだから、特に家庭に問題があるようには見えないが。

 それとも。

 何かしらの問題があるからこそ、黒神はこのような凶行に及んでいるのではないのか。

 かつて通り魔と呼ばれてきた者たちは、家庭に不和を抱えている傾向があったらしい。それはあくまでも傾向で、通り魔事件のすべてがその型に収まるわけではないだろうが。

 もしも、彼女がそうだとしたら——


「——行こうか」


 そう言って、俺はゆっくりと走りだした。黒神はきょとんとした顔を一瞬浮かべたようだが、無言で後ろをついてくる。

 もしも彼女が、家庭に何かしらの歪みを抱えていたとして、だからどうだというのだろう。

 明るい父と、優しい母。平和な家庭に生まれて十五年間育った俺が、黒神にしてやれることなんて何もない。

 他人の不幸は蜜の味、と言うが。

 甘いものは、別に好きなわけじゃない。

 だんだんと身体がスピードに乗ってくると、彼女が後ろから右隣に移動してきた。リズムに合わせて揺れるマフラーと、竹刀袋が視界の端に映る。その中身が上下に揺れるたび、小さな金属音が夜明け前の町に響いていた。


「あのさ」

「うん」

「訊きたいことがあるんだが」

「うん」

「それ、どうやって手に入れたんだ?」

「うん?」


 それ、と肩のものを指差せば、ああ、と黒神は頷いた。


「これはうちの蔵にあったの」

「蔵にあった……」

「高田さんがくれたんだよ」

「高田さん? 知り合いか?」

「ううん、知らない人。これを作った人の名前だよ」


 それはおそらく高田という名前の刀工で、彼の打った刀が巡り巡って黒神家に伝来したということなのだろう。紛らわしい言い方をする。


「今更なんだが……黒神って、ひょっとしてあの黒神家か?」

「どの黒神家かわからないけど、古鷹の黒神さんちだよ」


 古鷹の、ということはやはりあの黒神家らしい。黒神家は立派な日本家屋だと、以前親戚から聞いたことがある。日本刀を代々家宝として伝えていても、それを保管する蔵があったとしても不思議ではないだろう。


「黒神は剣道部だったのか?」

「剣道経験はないよ」

「本当にないのか?」

「ほんとにないけど……」


 どうして? と訊きたそうな表情で彼女がこちらを見つめてきた。どうもしない、と言葉を返せば、そう、と黒神は頷く。

 そんなやり取りをしたところで、俺はだんだんとスピードを落としていく。それに気付いた彼女も、同じようにスピードを緩めた。


「どうしたの?」

「黒神、俺は思った」

「何を?」

「走ることと話すこととは両立できない」

「それで?」

「歩こう」

「賛成」


 黒神がそう言うと同時に、隣を走っていたはずの足音が止まる。突然のことに反応が遅れてしまい、ややあって俺も立ち止まった。振り返ってみれば、膝に手をついている彼女の姿が目に入る。肩を不規則に上下させ、喘ぐように乱れた呼吸を繰り返していた。


「……休むか?」

「平気。長距離は久しぶりだっただけだから」


 次は慣れるから、と、呼吸を整えながら黒神は言った。次もあるのか、という台詞を思わず言いかけたが黙っておくことにする。

 乱れた前髪を鬱陶しそうに払うと、額から流れ落ちた汗がひと雫、彼女の輪郭を伝ったのが見えた。ウェアが汗で湿っているのだろう、不愉快そうに眉をひそめて襟元をぱたぱたと仰いでいる。

 それでも、マフラーは外さない。


「……そのマフラー、熱くないのか」

「そりゃ、まあ、さすがにね。走れば熱いよ」

「じゃあ、外したほうが」

「やだ」


 外したほうがいいんじゃないか。そう言い切るよりも前に、黒神は答えた。その声には、取りつく島もないような拒絶の意志が含まれている。


「これは大切な人にもらった、大切な宝物だから」


 大切な人。

 大切な、宝物。

 重ねて大切と言うほどだ、彼女にとって、そのマフラーは本当に大事なものなのだろう。

 思い返せば、黒神がそれを外していたのは入学式くらいだったかもしれない。体育の授業でも巻いているのだから、ジョギング程度でも外したりはしないだろう。

 ようやく息が整ったのか、彼女は深い呼吸を繰り返しながら軽くストレッチのような動きをすると、ゆっくりと顔を上げてこちらと目を合わせた。


「歩くのは賛成だけど、紅野くん的には走らなくてもいいの?」

「いいよ。正直、始めた理由も思い出せない。やめる機会がなかっただけだ」

「やめちゃうの?」

「まあ、お前の共犯者であるうちは休止するかもしれないけどな」


 ふうん、と。黒神は特に反省したような様子もなく呟くと、ゆっくりと歩き出して再び隣に並んだ。それを確認して俺も歩き出す。

 彼女の言葉に、昨日も抱いた疑問が再び浮上してきた。

 そもそものきっかけは、はたして何だったのだろうか。

 あれから自分なりに、少し考えてみた。単純に、走ることが好きだったからなのか。誰もいない道で、音楽を聴くのが好きだったからなのか。それとも夜明け前の、この時間が好きだったからだろうか。

 いくつか候補が思い浮かび、そのすべてが正解なような気もしたが——同時に、その全部が『きっかけ』と呼ぶには違和感があった。

 やはり、理由なんてないのかもしれない。事実、今は走ってもいないし、音楽も聴いていない。時間帯だけは普段と一緒ではあるが、隣には巷で噂の通り魔がいる。

 それはあまりにも非日常的で、三年間繰り返し続けた習慣と何もかもが違うというのに……それでもどこか、心は満たされているような——そんな気がした。

 ヘッドホンのない首筋を、四月の風が穏やかに撫でた。遅咲きの桜の香りと、海が近いからだろうか、潮の匂いも含んでいるように思える。見上げた空は相も変わらず灰色で、黒神は晴れだと言っていたが、今日も曇りになりそうだと俺はぼんやり考える。

 信号を渡ったところで道を右に曲がれば、黒神も同じようについてくる。そこにあるのは桜並木の遊歩道、その入口だった。聞いていた通り、立ち入り禁止と書かれたテープはなくなっている。

 連続通り魔事件の、五人目の被害者。

 とある男子中学生が、黒神に襲われた現場である。

 男子中学生。

 まだ十四歳だったらしい。

 少年は今も、病院に入院している。


「なあ、黒神」

「なあに?」


 遊歩道に入って少し経ったころ、俺はこう訊いたのだった。


「どうして——どうして、通り魔なんてしてるんだ?」


 それは、最初に邂逅したときからずっと、彼女に問いたかったことだった。

 動機。

 黒神が通り魔をする、その目的が不明だった。

 それさえ知ることができれば、俺は彼女の何かを知ることができるのではないかと、そんな期待を込めた質問。

 対して黒神は、


「さあ、知らない」


 と。

 何の感情も感慨もなさそうな声で、そう答えたのだった。


「知らないって……すっきりするからとか、気持ちいいからとか……そういうのはないのか」

「そういうのは、たぶん、ないんじゃないかな。むしろもやもやするし、きもちわるいんだと思う」

「まるで他人事みたいな言い方だな」

「まあ、他人事かなあ。それとも紅野くんは、自分のことなら何でもわかる人?」


 首を横に振る。自分の言動を一番理解しがたいと思っているのはほかの誰でもない、俺自身だ。


「黒神兄は、このことを知ってるのか?」

「知らないよ。ハクは何も知らない」


 訊くまでもなく、その答えは最初からわかっていた。

 これまでの彼の挙動に違和感を覚えたことはない。教室で通り魔の話題を一番初めに切り出したのも黒神兄だ。実の妹が六人もの人間を病院送りにした通り魔だということを、彼は、本当に知らないのだろう。

 しかし、だからこそ俺は思う。


「黒神兄には言ったほうがいいんじゃないのか。仲がいいんだろ。あいつなら——」


 あいつなら。

 黒神白夜なら——その続きの言葉は、喉から出てこなかった。

 黒神兄なら、何だというのだろう。彼だったら、何かをどうにかしてくれるとでも思ったのだろうか。


「紅野くんはさ」


 不意に。

 彼女は立ち止まり、俺の名前を呼ぶ。

 夜明け前の空はまだ暗い。そのうえで、この遊歩道は左右の桜が空を覆っている。白い花の間を漏れる薄い月の光。それは、俺たちを照らすにはあまりにも弱々しかった。

 桜の影の下で、黒神が今どんな表情をしているのか——俺にはわからない。


「私たちの、何を知ってるの」


 その声は鋭利で、ぞっとするほどに冷たい。彼女の透き通るような声が、それをより強調させているように感じた。


「——何も、知らない癖に」


 黒神が今どんな表情をその顔に浮かべているのか、やはりわからなかった。せめてその言葉に感情があれば俺でもわかったかもしれないのに、彼女の声はむしろ、意図的に感情を押し殺しているようにさえ思える。

 私たち。

 それはきっと、彼女自身と、そして己の兄のことを指しているのだろう。

 黒神白夜と、黒神桜夜。

 二卵性双生児——正確には、男女の双子は異性双生児と呼ぶらしい。ふたりとも黒髪だが、兄は癖っ毛なのか少しハネているのに対し、妹の髪質はストレートだ。顔立ちは、普通の兄妹程度に似ているとは思う。わかりやすい違いは、兄がたれ目で妹は丸い目の形をしているところくらいだろうか。

 性格は、決して似ているとは言えない。黒神白夜は一見ぶっきら棒に見えるが、根はお人好しなのだろう、よくクラスメイトの世話を焼いている姿を見かける。そういった性格が好かれ、彼は今クラスの委員長を務めているのだ。

 対して黒神桜夜は、おとなしくて静かな印象が強い。表情豊かな兄と違い、俺は彼女の笑ったところを見たことがない。いつもいつでも兄と行動をともにし、彼の背中についていくような印象だ。世話を焼くよりは、焼かれる側だろう。

 しかし、昨日の放課後の出来事は、黒神に対するそんな印象を俺に捨てさせるには十分だった。

 彼女は意外と饒舌で、頭が切れ、抜け目がないほどに賢く——そして何より、強かだ。

 妹のほうにでさえ、第一印象とその内面にかなりの差異を感じたのだ。黒神兄も同じく、普段の言動からもつ印象と、実際の性格はきっと違うだろう。

 結局、俺が知っている黒神兄妹は外側の情報だけで、彼らの人柄や本質をわかっているわけではない。

 いわゆる、付箋(タグ)張紙(レッテル)と呼ばれるものしか見えていなかった。

 それは——


「——悪かった」


 そう言って、頭を下げた。

 赤の他人に自分を推し量られたり、わかり合った気になられたりするのは、誰だって気分のいいものではない。

 そもそも、自分のことさえよくわかっていない俺が、先週初めて会ったばかりのクラスメイトを理解するのは不可能なことだろう。

 だから俺は頭を下げて黒神に——そして、ここにいない彼女の兄に対しても、謝罪したのだった。

 黒神は答えない。無反応というわけではないように感じるが、俺の言葉に対し、彼女は沈黙を返すだけだ。

 そういえば。昨日も、俺と黒神はこんな風に向かい合っていた。

 あのときは桜に囲まれた公園だったが、今日は桜に挟まれた遊歩道だ。たった二十四時間前の出来事が、遠い昔のことのように錯覚してしまいそうになる。


「…………」


 しばらくの沈黙のあと、俺たちはどちらからともなく、再び歩き始めた。

 桜並木を抜ける風はどこか柔らかく、火照った身体を冷ましてくれているように感じる。白い花びらが空中を漂い、ほどなくして、流れるように視界の端を通り過ぎていくのが見えた。


「ねえ、紅野くん」


 先に口を開いたのは、今度は彼女のほうからだった。いつも通りの透き通るような声で、俺の名前を呼ぶ。


「私のこと、どう思う?」


 と、黒神はそう問いかけた。

 その質問の意味をわかりかね、思わず首をかしげた。とは言うものの、当たり障りのない、お茶を濁すような答えを彼女は求めているわけではないということは察する。

 少し考えてから、俺は答えた。


「そうだな。私服が想像と違っていたと思う」

「……はい?」

「もっと、こう、女子らしいイメージがあった」

「はあ」

「あと吹奏楽部っぽい。ファゴットとか吹いてそう」

「え、なに」

「ファゴット。知らないか?」

「知らない……っていうか、紅野くん」

「ん?」

「あなたは何を言ってるんだ」


 黒神は不審そうな、いっそ呆れかえったかのような声でそう言った。

 言葉を返そうと口を開きかけ、そこで気付いた。遊歩道の終わりがもう見えている。いつの間にか既に夜が明けていたようで、東側に位置している出口から白い光が差し込んでいた。

 終わりに向かって歩みを進めながら、俺は再び口を開いた。


「お前は、俺が想像していた黒神桜夜と全然違うな、と——そう思った」


 あまりにも密度の濃い時間を過ごしたせいでつい忘れてしまいそうになるが、俺が彼女と言葉を交わしたのは昨日が初めてなのだ。合計時間を計算すれば、おそらく一時間にも満たないだろう。

 十五年間それぞれの人生を歩み、たまたま同じ高校に入学し、たまたま同じ教室になっただけのクラスメイト。そんなの、ほとんど他人と呼んでもいい関係性だ。

 お互いを知り、わかり合うためには、あまりにも短すぎる時間だろう。


「黒神に対して何かを思うというより、黒神のことを何も知らないんだと……あらためて、思い知らされた」


 それまで俺の言葉を静かに聞いていた黒神が、唐突に、出口の直前で足を止めた。

 俺は振り返り、遊歩道の外側から彼女と向かい合う。そして胸に浮かべた本音を、本当の気持ちを、正直に言葉にした。


「だから、俺は知りたいんだ」


 黒神のことを、知りたいと思った。そう、俺は彼女に答える。

 そのとき、一陣の風が吹いた。白い花びらが風に舞い、同じ色のマフラーが揺れる。スポットライトのような朝日に真正面から照らされ、久しぶりに、俺は黒神の表情を目にした。

 彼女は、


「——毒だ」


 と。夜明けの太陽が眩しいのか、目を細めるようにして、そう呟いた。

 怒りたいような、泣きたいような。何かを諦めているようにも見えれば、どこか悟ってしまっているようにも見える。彼女が顔に浮かべる表情は曖昧で、そして複雑で、その感情を読むことは俺にはできそうにもない。


「私は知ってる。紅野くんはほんとのことを言ってるって。嘘はついてないって。わかる、わかってる、わかってるのに……だからこそ、この人の言葉は、こうも私を侵すんだ」


 こんなにも苦いんだ、と。黒神は静かな声で言った。

 その言葉は、きっと独白だった。俺に向けているつもりはないような、そんな言い方で、彼女は歯切れが悪そうに言葉を並べる。

 黒神は目を伏せた。まつ毛が頬に陰を落とす。

 そして、心の中の言葉を吐き出すように、最後にこう呟いたのだった。


「いつかきっと、私は——このまっかな毒で死んじゃうんだろうな」



* * * * *



 結論を先に述べると、今朝の被害者はゼロだった。

 東雲。黎明。払暁。そして彼は誰。明け方を意味する言葉は多くあるようだが、とにかく夜明け頃の時間帯。当然と言えば当然だが、町にはまるで人気がなかった。ゆえに、少なくとも今朝の段階では、黒神に襲われた人はいない。

 共犯者として彼女の通り魔に付き合うという約束だったが、なんというか、終わってみれば黒神と普通にジョギングしただけじゃないか、と考えてしまう。

 ふと思う。

 六人目の被害者も、俺と同じように早朝の運動を習慣にしていのだろうか。

 あの時間、あの場所にいた理由なんて、それくらいしか思いつかないが。


「…………」


 きっと彼女も、いつもと変わらない一日が始まると信じていたのだろう。そんな朝に黒神に襲われてしまったというのは、運が悪かったと言うしかない。

 裏を返せば。

 大した怪我もなく生還したことは、はたして運がよかったと言えるのか——俺にはわからない。

 彼女との散歩を終えた俺は、その後普通に家へと帰った。黒神を自宅に送ろうとも考えたが、黒神家のある古鷹は隣町で、彼女を送ると俺が遅刻してしまうからだ。

 それに。

 黒神桜夜以上の危険人物は、おそらくこの町にはいないだろう。彼女は巷で噂の通り魔、その本人なのだから。

 そう判断し、俺は黒神と別れた。それからはいつも通りにシャワーを浴び、朝食を食べ、学校に登校し——そして現在、昼休みである。

 四限。古文の授業が終わると同時に教室に鳴り響いたチャイムの音。それが鳴っている途中——正確には委員長である黒神兄の号令が終わった瞬間だが——教室の扉がすさまじく激しい音を立てて開かれたのだった。


「紅野樹月はどいつだ」


 凄みのある声。語気の強い、圧迫感のある口調で、その人物は俺のフルネームを呼んだ。

 そこに立っていたのは背の高い、若い男性だった。二十五、六歳ほどの年齢に見える。墨汁で塗りつぶしたかのように真っ黒な髪。顔立ちは凛々しく引き締まっており、精悍な顔とはこういう顔つきのことを言うのかもしれない。

 しかし。

 切れ長の、異様なまでに目つきの悪い三白眼。鋭利な刀のように厳しい視線で、生徒をひとりひとり真っすぐに見つめている——というか、睨んでいる。スーツを着て拳銃でも手にしていればまるで極道の若頭のようだと思うが、彼が着ているのはスーツではなくジャージであり、拳銃の代わりに木刀をもっていた。

 木刀。

 日本刀を常に携えている黒神と違って銃刀法には違反しないものの、平成も終わったこの時代に木刀を手にした成人男性が校内にいるというのはなかなかにホラーだなと、俺は他人事のようにそんな感想を抱いたのだった。

 クラスメイトの視線が、こちらに集まっているのを感じた。彼らの視線の流れと、その先にいる俺に気付いたのだろう、男性は射るような眼光をこちらに向けてくる。

 目が、合ってしまった。


「廊下に来い」


 吐き捨てるようにそう言い、彼は教室を後にした。その声からは威圧しか感じられない。

 俺は中腰の姿勢のまま止まっていたが、ひと呼吸を置いて席を立った。クラスメイトの視線には黙殺を決め込み、言われた通り廊下に出向く。

 なんとなく、黒神の双子の視線がクラスメイトたちのそれと違うような気もしたが、振り向かないまま教室を出た。

 男性は廊下で待っていた。長い脚を肩幅に開き、背筋を伸ばして胸を張るように立ち——つまりは仁王立ちである——木刀は廊下の壁に立てかけて腕を組んでいる。

 見えないオーラのようなものに圧迫されているような錯覚がし始めた。一歩一歩、彼に近付くたびにじわじわと息苦しいものを押しつけられているような気がする。そんな感覚を耐え忍んでいるこちらの心情を知ってか知らでか、男性はこちらに視線を向けるとゆっくりと口を開いた。


「それ、どうした」

「……え?」

「傷」


 想像していたよりも穏やかな声に、一瞬、拍子抜けしてしまった。

 傷。

 その言葉に、ああ、と思い出す。左頬の傷のことを言っているのだ。

 ガーゼはもうしていない。とっくに血は止まっているうえに、皮一枚斬られた程度の傷だったおかげでかさぶたも目立ちにくいものだった。明日には完全にふさがり、かさぶたも剥がれ落ちてくれていることだろう。


「そんなことより、俺に何の用でしょうか」


 用件を尋ねると、彼の仏頂面がほんの少しだけ、複雑そうな表情に変わる。どこか気まずそうに、あー、なんて間の抜けた声を漏らしながら、男性は本題に入った。


「俺は生徒指導担当だ」


 ああ。

 そうか、なるほど。

 俺は納得した。つまりこの先生は、俺の指導をするために訪ねてきたようだ。生徒指導室に呼び出されなかっただけ、今回はまだましだと考えよう。

 なんだ。

 いつものことじゃないか。


「その髪、地毛か?」

「はい」

「地毛証明書は提出しているな?」

「はい」

「よし。教室に戻っていい。時間を取らせて悪かったな」


 あっさりと彼は踵を返す。その淡白な態度につい戸惑ってしまい、え、と思わず驚いたみたいな声を上げてしまった。


「あの」

「何だ」

「それだけ、ですか」

「それだけとは」

「いや、えっと……俺は黒染めしなくても大丈夫なんですか」

「染めるのか? 止めはしないが、髪と頭皮を痛めるからあまり勧めない。それともハゲたいのか?」


 首を横に振ると、先生は頷いた。相変わらず仏頂面だが、どこか満足そうな表情に見える。

 ふたつの質問を問いかけ、特に指導も説教もせずに帰ろうとする。いったい、彼は何をするために俺のところへ来たのだろうか。


「職員室の頭の固い爺どもがうるさいから俺が確認しにきただけだ」


 見透かしたかのように、先生は俺の疑問に答えてくれた。頭の固い爺ども、というのはこの学校のベテラン教師陣のことを言っているのだろう。田舎の公立高校だ。年老いた先生がたが黒髪至上主義を掲げていても不思議ではない。

 時代錯誤というか、時代遅れというか……今時、俺のように外国の血が流れている生徒も珍しくないと思うが。事実、この学校にも二年生と三年生にハーフの生徒がいると聞いたことがある。

 というかこの人、大先輩である教師たちのことを爺って呼んだな。


「校則違反をしていない生徒を指導したがる意味が、俺には理解できんな」


 横柄な年寄りほど面倒なものはない。平然とした、むしろ堂々とした態度で、彼は悪口に悪口を重ねる。

 目上の人の陰口を生徒に言うというのは、教師として失格と呼ばれても仕方のない行為なのかもしれない。

 しかし、この先生はきっと、いい人なのだと思った。生徒の視点に近い価値観をもち、俺たちの味方になってくれる人なのだろう。


「紅野……だったな」

「はい」

「ということは、火宮(ひのみや)の一族か」

「一応は。えっと、わりと遠縁ですけど」


 火宮家。

 いわゆる資産家と呼ばれる一族だ。日本全体を見れば財閥とも呼べない程度の企業集団だが、このあたりの地域に限定すれば相当な権力を握っているらしい。

 俺の家は火宮の数多い分家のひとつだが、ほかの分家と比べると本家との繋がりや血縁関係が遠いほうだ。父さんはグループの傘下にある企業に勤めているものの、母さんや俺が本家の親戚たちに会うのは年に二回、盆と正月程度しか機会がない。もともと、火宮家そのものが親戚たちとはあまり仲がよくないと、父さんから聞いたことがある。


「もしも何か言われたら、それを言えばいい。爺どもは頭が固い、すぐに黙るだろう」


 彼は最後にそう言い、木刀を片手に立ち去る。その背中を見送ってから教室へと戻った。扉を開けばクラスメイトたちの視線が一斉にこちらに向けられる。誰とも目を合わせないように、俺は自分の席に着いた。


「大丈夫ですか?」


 その声に顔を上げる。声の主は藤咲だった。

 彼女は眉を下げ、何か言いたげに口を開閉していたが、やがて眉をきりりと吊り上げた。


「中学のときも言いましたが……やはり、黒く染めたほうがいいと思います」


 と、藤咲は言う。それは中学時代から、何度も聞いてきた言葉だった。

 彼女と同じクラスになったのは一年生のとき、一度きりだけだ。進級と同時にクラス替えがあって藤咲とはクラスが離れたというのに、お節介好きの彼女は廊下でたまたま俺のことを見かけたというだけで、こんな風に話しかけてきていた。

 大きなお世話かもしれませんが。髪を黒く染めたほうが、あなたのためだと思います——と。


「紅野さんの成績なら、もっと偏差値の高い学校にも進学できたでしょう。それを……髪の色だけで……」

「言葉をそのまま返して悪いが、それは藤咲にも言えることだろ。どうしてこんな高校に」


 古鷹高校の偏差値は、公立の中では平均程度だ。しかし、それに対して藤咲の学力は学年でもトップレベルだったはず。県で一番偏差値の高い進学校にだって、余裕で合格できただろうに。

 そんな俺の疑問を、彼女は、


「制服がかわいいからです」


 と、きっぱり言い切る。

 なんというか、なんとも女子らしい理由だと思った。

 そんなやりとりをしたのち、藤咲は友人たちのグループへと戻っていく。どうやら昼食の途中だったらしく、わざわざ抜け出してこちらに話しかけてきたようだ。

 俺もそろそろ昼飯をとろうと、リュックサックの中を漁る。

 そのときだった。


「ダウト」


 唐突に、澄んだ声が鼓膜を震わせた。

 顔を上げてその方向に視線を向けると、ひとつ前の席——黒神兄の椅子に、黒神桜夜が逆向きに座っているのが目に入る。兄のほうは教室を出ているのか、どこにもいない。

 俺と黒神は身体的には向き合っているが、しかし彼女の視線はこちらではなく、別の方向に向けられていた。

 後頭部で揺れるポニーテールを——藤咲の後ろ姿を、その丸い瞳で見つめている。


「藤咲さんって、意外と嘘つきなんだね」

「え?」


 紙パックの緑茶を飲みながら、なんの感慨もなさそうに黒神は呟いた。その言葉に、思わず彼女を見つめてしまう。黒神の目は、今も藤咲に向けられたままだ。

 嘘つき?

 藤咲が?


「どういう意味だ?」

「どうでもいいことだよ」


 飲み終わったのか、彼女は紙パックを握りつぶした。ぐしゃり、と。黒神の手から鈍い音が立つ。


「やっぱり——毒は嫌いだな」


 そう言い残し、彼女は席を立つ。

 毒。

 今朝も言っていたし、昨日の放課後にも口にしていた言葉。

 それが何を指しているのか、やはり俺にはわからない。

 今日の昼食は母さん手製のサンドイッチだったが、その日は、いつもより味が薄く感じた。



* * * * *



「アナタが紅野サンですか?」


 放課後。特に用事もないので普通に帰ろうと教室を出たところで、誰かに呼び止められた。

 男性にしては甲高い、独特な質のある声に振り返ると、そこには見知らぬ男性が立っていた。身長は俺よりも低く、肉つきも悪そうで、冴えない顔立ちの上に眼鏡をかけている中年の男。スーツを着ているので、おそらくこの学校の教師なのだろう。


「ワタシは生活指導部の伊東(いとう)と申します」

「はあ」


 そうですか、と俺は返事をした。その態度がどうやら気に障ったらしく、伊東先生は不愉快そうに眉間に皺を寄せる。

 身長は俺よりも低いとは思ったが、たぶん、百七十あるかないかといったところだろう。つまり、目の前にはちょうど彼の頭頂部が広がっているということで……言いにくいことだが、かつらが浮いているのが気になって仕方がない。反応が適当になってしまっても致し方ないと信じたい。

 頭頂部を視界に入れないように先生の次の言葉を待つ。彼はひとつ咳払いをし、本題を切り出した。


「明日までに、とは言いません。来週までにその髪を黒く染めてきなさい」

「え」


 無意識に、そんな呆けたような声が漏れる。

 この人は何を言っているのだろうか、一瞬、理解することができなかった。


「……生徒指導の先生は、その必要はないと」

「カレはまだ若いし、この学校の卒業生です。とにかく生徒たちに甘い」

「はあ」


 あの先生、OBだったのか。そんなことをぼんやりと考えていると、彼の眼鏡の奥にある目尻がどんどん吊り上がっていく。


「なんですか、その態度は! 反論があるのなら素直に言いなさい!」


 先生の怒鳴り声が、放課後の廊下に響き渡る。高い声がさらに甲高くなり、思わず耳をふさぎかけた。

 人通りの多い廊下は、しん、と静まりかえる。通りがかった生徒たちは先ほどまでのざわめきが嘘のように、ひっそりと息を潜めていた。痛いほどの視線が向けられていることくらい、見るまでもなくわかる。

 ああ、と息を吐いた。こんなのはいつものことで、とっくのとうに慣れたと思っていたが、やはり面倒臭いことに変わりはない。

 申し訳ありません。以後気をつけます。ご指導ありがとうございました。

 これまで何度も言ってきた台詞を、また今回も言えばいい。それでこの状況を終わらせることができる。たったそれだけで、家に帰ることができるのだから。

 だからいつものように、謝罪するように頭を下げ——


「校則違反じゃないのに?」


 ——突然耳に届いたその声に、俺は、顔を上げた。

 透き通るような、少女の声。その主——黒神桜夜は彼の背後をとるように、いつの間にかそこに立っていた。

 唐突に自分の背後に現れた女子生徒に驚いたのか、先生は少しうろたえたようだった。しかしそれもわずかな時間で、ひとつ大きな咳をすると、表情を取り繕ってから黒神に向かい合う。


「ワタシはカレのことを考え、カレのために言っているのですよ」

「ダウト」


 と、彼女は言った。


「紅野くんのためなんて嘘だ。あなたは学校の世間体しか考えてない」

「そ、そんなこと……ありませんよ」

「ダウト。また嘘ついた。……学校の、じゃあないかな。考えてるのは自分の体裁と——保身?」

「なっ……め、目上の者には敬語を使いなさい!」


 彼は声を荒げた。黒神の指摘が、先生にとって図星だったのだろう。今度こそわかりやすく狼狽し、言葉を詰まらせながら話を逸らそうとする。

 言葉遣いを注意された彼女は、まるでそんなことどうでもいいという風に右から左へ受け流している。そんな態度がまた、彼の逆鱗に触れたようだ。


「そのマフラーも外しなさい、今すぐに! 防寒具が許可されているのは冬季だけですよ!」


 マフラー。

 黒神桜夜を象徴するものだ。

 先生の言う通り、マフラーのような防寒具の着用が許されているのは冬の間だけ。当然、校則違反だ。多少自由な着回しも許容されてはいるものの、こればかりは注意されても仕方がないだろう。

 それに対して黒神は、


「やだ」


 と、言い放った。

 彼は、もう俺のことなど忘れてしまっているのだろう。目の前の彼女に対する怒りからか、全身がぶるぶると震えていた。腹の底から込み上げてくる感情を、黒神にすべてぶちまけるかのように怒鳴る。


「き、教師に向かってその態度はなんですか! 生徒指導室に来なさい!」

「やだ」


 拒絶の言葉を繰り返し——同時に、彼女は廊下を駆け出した。

 先ほど注意されたばかりのマフラーを翻し、黒神は逃げるように走り去る。

 その先にあるのは生徒玄関だと気付き、彼女は本当に逃げたのだと遅れて察した。突然の行動に驚いて呆けたような表情をしていた先生も、すぐに黒神の意図を察したのだろう、はっと我に返ると怒鳴り散らしながら彼女を追いかけていく。

 静寂が訪れた廊下には、ただひとり、俺だけが残されてしまった。


「紅野さん」


 聞き覚えのある声をかけられて振り向くと、そこにいたのはやはり藤咲だった。

 彼女は眉の間に浅い溝を作り、眼鏡越しにじっと見つめてくる。


「紅野さん、顔色がよくありません。大丈夫ですか?」


 心配そうに、藤咲はそう問いかけてきた。

 顔色がよくない?

 俺が?


「ひとりで帰れそうですか? お迎え、呼びましょうか」

「いや、それほどでも——」


 言いかけて、思い直す。


「——ああ、うん。最近色々あって、少し疲れてるのかもしれない」

「疲れてる、ですか……では、今日は私と一緒に帰りましょう。ご自宅までお送りしますので」

「いや、保健室で少し休んでから帰る。藤咲は先に帰ってくれ」


 そう言うと、彼女は納得したように頷いた。

 生徒玄関の前で藤咲とは別れた。彼女は駐輪場へ、俺は南校舎の一階にある保健室へと向かう。

 そういえば、黒神兄はどこに行ったのだろう。登下校は妹と一緒だったはずなのに、先ほどは黒神ひとりきりだった。今日も夕食の当番だったのか、それとも別に用事でもあったのだろうか。彼はクラス委員長だ。何か仕事でもあったのかもしれない。

 そんなことを考えながらも、保健室の前に到着して俺は足を止めた。そして扉を横に引いて——


「……あれ」


 扉は開かなかった。試しに三回、ノックをしてみる。やはり返事はない。

 養護教諭の先生は留守なのだろうか。いないのなら仕方がないが、さて、どうしよう。このまま家に帰っても構わないが、藤咲に言った言葉は嘘ではない。疲れているのも休みたいのも本音だ。

 扉の前にたたずんだまま、少し考える。


「保健室か?」


 背後からかけられたその声に振り返る。知らない男性だった。今日は見知らぬ男の人とよく会う日だな、となんとなく考える。

 俺より少し高いくらいの身長で、歳は二十五歳前後だろうか。昼休みに会った生徒指導の先生と同世代くらいに見える。漆黒のスーツとネクタイ。ワイシャツも色の濃いものを着ているようだった。彼もこの学校の教師なのだろうか。

 清潔感のある、さらさらの黒髪。穏やかな表情を浮かべ、温和で優しげな顔立ちをしている。生徒指導の先生とは違うベクトルで端正な顔つきをしている人だった。例えるならあの人は極道の若頭で、この人は人気のホストといったところだろうか。


夕霧(ゆうぎり)先生は席を外しているみたいだ。職員室にはいると思うが……呼んでこようか。絆創膏が欲しいんだろ?」

「あ、いえ、少しベッドを借りたかっただけなので」

「ベッド? だがその傷は……」


 不意に、男性は右手をこちらに伸ばして俺の左頬を——そこに走る刀傷を、人差し指の背で優しく触れてきた。既にかさぶたになっているので、特に痛みは感じない。

 ふわり、と。苦い臭いがスーツの袖口から漂い、鼻に届く。煙草の臭いだろうか。

 彼はまるで輪郭をたどるかのように、その長い指を徐々に上に這わせていく。すり、と目尻のあたりを親指の腹で撫でてきた。しばらくそうして満足したのか、ふむ、と呟くと俺の顔から手を離す。

 特に抵抗もしないで彼にされるがままだったが、しかしこの人は何をしたかったのか、俺は理解しかねていた。


「おいで」


 彼はこちらに微笑みを向け、保健室の隣の教室の扉を開けた。

 保健室の隣。なんらかの器材が置かれている準備室のような教室かと予想していたが、室内は案外普通だった。七畳ほどの、フローリングの部屋。中央のテーブルを挟むように、ソファが向い合せに配置されている。壁際の食器棚に電気ポットと、インスタントらしきコーヒーの瓶とティーバッグの箱などが置かれているのが見える。応接間のような雰囲気のある室内だった。

 ソファに座るよう促されたので、男性の言う通りにする。彼はポットを操作し、湯を沸かしているようだった。


「紅茶とコーヒー、どっちが好きだ?」

「どちらかといえば、紅茶のほうが」

「砂糖はおいくつで?」

「大丈夫です」


 男性は棚からティーカップをふたつ取り出し、ポットから沸かしたての熱湯を注いだ。それにティーバッグを入れると、ソーサーで蓋をするようにカップの上に重ねる。紅茶を蒸らしているのだろう。


「紅茶は好きか?」

「まあ、コーヒーが飲めないだけというか、母が好きなだけというか……俺は別に、嫌いじゃないって感じです」


 そうかそうか、と彼は笑う。人好きのしそうな笑顔を浮かべる人だった。

 ソーサーをカップの下に置き、バッグを数回振って取り出すと、男性はその紅茶をこちらに渡してきた。手渡されたそれをひと口飲んでみる。ダージリンだった。

 熱い紅茶が胃に落ち、腹の内側から身体を温めてくれるような感覚がした。思わずほっと息を吐き、柔らかいソファに背中を沈める。

 ひと息ついたところで、頭の中には疑問符が浮かび始めた。彼の意図がまったくわからない。どうして俺はこの部屋に招かれ、紅茶を振る舞われているのだろう。そもそもこの人は誰で、この部屋は何なのだろうか。

 そんな疑問が表情に出ていたのだろうか、彼は笑いながらカップをソーサーの上に置いた。


「俺はスクールカウンセラーで、ここはカウンセリング室だ」

「……カウンセリング」

「ああ、いやいや。難しく考えなくていい。要はお悩み相談室さ」


 カウンセラー。

 その単語に、カップの取っ手を握る指に力が入る。


「今日は予約がひとりだけでさ。その子もついさっき終わって、今から退勤まで時間があるんだ。よければ俺の暇潰しに付き合ってくれ」

「暇潰し……」

「俺とお喋りをしよう。うまい茶菓子も出すからさ」


 カウンセラーの先生は紅茶をテーブルに置くと、ソファを立ち上がる。彼は食器棚の下にある開き戸の中から、竹で編まれた籠を取り出した。くだんの茶菓子が入っているのだろうそれを、テーブルの中央に置く。

 クッキー、ミニバウムクーヘン、レーズンサンド、チョコビスケット、バター風味のラングドシャ、ウエハース、マドレーヌ、マフィン、金平糖、海苔の巻かれたあられと煎餅、八ツ橋、小さな最中、すあま、松露、琥珀糖……。

 和洋折衷、選り取り見取りだった。

 俺はその中から、塩辛そうな煎餅を選ぶ。紅茶との相性はよくないとわかっていたが、甘いものは得意ではないのだ。


「最近、何かあったか?」


 顔に微笑みをたたえ、彼はそう問いかけてきた。まるで、親戚のお兄さんが久しぶりに会った甥っ子に学校の様子を尋ねるような、そんな親しげな口調で雑談を振ってくる。

 最近何かあったか。

 その質問に、少し言葉を迷う。

 そして、迷ったまま——


「——色々と、ありました」


 と、無意識に答えていた。

 色々とあった。

 本当に、色々とあり過ぎた。


「それで少し、疲れてたんだと思います」

「だから、保健室で休もうと?」

「はい」


 さすがはカウンセラー、なのだろうか、聞き上手な人だった。俺が話しやすくなるための雰囲気を、細やかなリアクションのひとつひとつで作っている。この紅茶も、菓子類も、ソファも、生徒が話しやすい環境を作るためのものなのだろう。

 油断をすると、口を滑らせてしまいそうだ。


「色々と、というと? 具体的には何があったんだ?」

「それは、言えません」

「言いたくないからか? それとも——」

「——言うなって、言われて……俺はそれに従うべきだと思ったから」


 そうか、と。ひと言呟き、彼はそれ以上何も訊いてこなかった。

 それからの会話は、本当に雑談だった。

 最近は曇り空ばかりだとか、今年は花見に行ったのかとか、この学校の制服のデザインはどうかと思うとか、丘の上にあるから通学や通勤が面倒だとか、お互いの趣味の話とか、最近のミュージシャンだと誰が好きだとか。

 そういったどうでもいいことを、俺と彼は紅茶を飲みつつ話していた。

 お開きになったのは、一時間が過ぎたころだった。連続通り魔事件のせいで下校時刻は早くなっている。春分を過ぎて昼の長さは徐々に長くなっていくが、四月の夕暮れはそれでも早い。午後五時を越える前に帰宅させようという、彼なりの配慮なのだろう。

 カウンセリング室の扉の前で、彼は最後に、こう言ったのだった。


「またおいで。水曜日の放課後に、俺はここで待っている」


 そして優しく——優しく、微笑んだ。


「ここは、君たちのための楽園なのだから」



* * * * *



 夕暮れはもうすぐそこにまで迫ってきているようだった。駐輪場までの道は、校舎の黒い影に染まっている。その影の中を歩きながら、俺は自転車へと向かっていた。


「君」


 突然。

 くい、と。ブレザーの袖を引かれた。


「助けてほしい」


 抑揚の少ない、どこか機械的にさえ感じられるような声。

 助けを求めてくるそれに振り返ると、そこにいたのは小柄な少女だった。

 身長は黒神よりもだいぶ低い。制服のブレザーの上からでも華奢な体躯をしているとわかる。スカートから伸びる脚はタイツに包まれ、よく磨かれたローファーを履き、肩には薄いトートバッグをかけている。そのすべてが真っ黒で、校舎の暗い影に溶けてしまいそうだと錯覚してしまいそうになる。

 しかし。

 腰のあたりまで伸ばされた、色素の薄い髪。それは闇の中でも、明るく浮かび上がっているようだった。さらさら、と。細い金髪が、夕風に柔らかく揺れる。

 無意識のうちにその髪に目が引き寄せられていたのだろう、ぼうっと、それを見つめていた。すると再び、少女は俺の袖を引く。それではっと正気に戻ると、彼女の指がどこか下のほうを示しているのが視界に入った。その先には、雑草だらけの花壇がある。


「うっかりコンタクトを落としてしまったんだ。一緒に探してくれないか」

「あ、ああ……」


 だんだんと頭が冷静になっていくのを感じながら頷いた。

 少女は袖から手を離すと、花壇の前に両手と両膝をつけるような姿勢をとる。右手にはスマホ。ライトの明かりを頼りに、雑草をかき分け始めた。

 それを真似て同じようにスマホを手にし、地面に手をついた。


「悪いが、あまり期待はしてくれるなよ」

「視力零点一以下の私よりは戦力になるよ」


 それは目が悪すぎるのではないだろうか。何かしらの病気なのかもしれない。早く見つけてやらなければ。

 ちらり、と横目で彼女のほうを見る。カメラ機能を使っているのか、液晶越しにコンタクトを探しているらしい。頭のいいやり方だ。

 画面の明かりを受け、俺は少女の横顔をはっきりと目にした。

 柔らかい曲線を描く輪郭の中に、どこか眠そうな印象ではあるが涼しげな形をした大きな目がある。それを縁取るまつ毛の色も薄い。アジア人離れしているというか、人間離れしているというか。この暗闇の中だと、人形か彫像のようにすら見えた。


「私を見るよりコンタクトを探してほしいんだけど」

「あ、すまない」

「いいよ。慣れてる」


 慣れている。

 そんな言葉を平然と、表情も変えずに言えるようになるまで。彼女はどれほどの視線を向けられ、どのような言葉を投げられてきたのだろうか。

 俺はいまだに、慣れることができないでいるというのに。


「あ」


 端末のライトを動かしていると、きらり、と雑草の中で何かが光を照り返した。それを手に取り、少女に渡す。彼女はそれを小さな機械——たぶん、コンタクトの洗浄機だろう——に入れ、しばらく洗ったあとに自分の目に入れていた。どうやら、先ほど落としたというコンタクトレンズで間違いないらしい。

 少女は立ち上がると、ぱたぱた、とはたくようにスカートの裾や膝の汚れを払う。そして、肩にかけている薄いバッグを何やらごそごそと漁り始めた。その様子を眺めながら、俺も立ち上がる。

 ようやく目当てのものが見つかったのか、彼女はそれを取り出す。それは俺でも知っている有名なブランドの、ふたつ折りの長財布だった。


「ありがとう、助かった。いくら欲しい?」

「いくら? いくらって……、……え? いや、現金は困る。普通に困る」

「そう? じゃあ代わりにこれをあげよう。手を出してごらん」


 少女は財布をバッグの中にしまい、別のものを取り出す。なんというか、ずっと無表情なので言動のひとつひとつが冗談なのか本気なのか、今ひとつわかりかねる女子だった。

 差し出されたそれはとりあえず現金ではなさそうだったので、言われるままに受け取る。それはガラスの小瓶だった。布のような手触りのラッピングペーパーを蓋に被せ、レース生地のリボンで結んでいる。全体的にメルヘンチックなデザインのようで、その中身には何やらビー玉のようなものが詰まっていた。


「なんだ、これ」

「飴だよ。見ればわかるだろ?」

「……ああ、飴だったのか」

「甘いのが嫌いなら、君の親戚にそういうのが好きな男がいるだろ。彼にでもあげればいい。きっと喜ぶ」

「あの人に会うのは盆と正月くらいだ」

「じゃあ君が責任をもって消費するんだね、紅野樹月くん」


 彼女はまるで捨て台詞のようにそう言い、後ろ手にひらひらと右手を振りながら立ち去った。夕風に金髪を揺らしながら、少女の背中は徐々に小さくなっていく。それを見送ってから、俺は駐輪場へと向かった。

 背負っていたリュックを前籠の中に入れ、自転車に鍵を差し込んだところで——そこで、はた、と気付いた。


「あいつ——どうして俺の名前を知ってたんだ?」


 紅野樹月くん。

 彼女はあまりにも——あまりにも、当たり前のように俺のフルネームを呼んだ。その自然さに普通に流してしまっていたが、俺はあの少女に名乗った覚えはない。

 少し脳を探ってみたが、やはり彼女とは初対面だ。あんな目立つ女子生徒、一度会えば忘れられるわけがないのだから。


「……まあ、いいか」


 彼女が俺のことを知っていようと、俺が彼女のことを知っていまいと……そんなこと、どうでもいいことだ。

 誰かが不幸になるわけでも、誰かが死ぬわけでもない。

 通り魔の少女との共犯関係は、明日も、その次の日も、さらにその先まで続いていく。その事実と比べたら、すべての物事は些末なことなのだから。

 自転車のスタンドを蹴り上げたところで、先ほどもらった飴の小瓶があったことを思い出した。なんとなく、そのリボンをほどいてラッピングを外してみる。空に透かしてみれば、傾いた小瓶に合わせ、ころん、と中の飴が音を立てて動いた。

 蓋を開け、薄い色のものを口に入れてみる。

 林檎味だった。

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