表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
猛毒スノーホワイト  作者: 氏原ゆかり
Maiden in the Nightmare
13/14

第12話『桜』

ChapteR.12 Your collar

 クラスメイトの男子に殺されかけた。

 正確に言えば、今回殺されかけたのは藤咲であって、俺は傷ひとつ負ってはいないのだが——ともあれ、やはり世界は何も変わらないようだった。

 あれから、まず俺たちは藤咲の怪我の応急手当を始めた。公園の水道で傷口を洗い、ハンカチで簡単な止血をしただけなのだが、それでも何もしないよりはいいだろうという判断だった。

 その間、誰も何も喋らなかった。気まずい沈黙が俺たちの間を漂う。息苦しささえ感じるような重い空気が、公園を支配していた。

 しかし、そんな重苦しい雰囲気は、公園を出たときの彼女のひと言で拭い去られることになる。


「それではまた学校で会いましょうね。ふたりとも、さぼっちゃ駄目ですよ?」


 まるで何事もなかったかのように明るくそう言い、笑顔で公園を立ち去った藤咲の背中を、白夜は呆気に取られた表情で見つめていた。気持ちはわからなくもない。あまりにもわだかまりがなさすぎる彼女の様子を目にすると、気まずさを感じていることのほうが馬鹿馬鹿しく思えてくるというものだ。

 そんな一時間ほど前の出来事を頭に思い浮かべながら、俺は自転車を漕いでいた。

 通り魔の事件が解決しようが解決しまいが、高校生である以上授業を受けなくてはいけない。だから俺はいつも通り朝食を済ませ、普段と変わらない時間に家を出た。

 坂道に差し掛かる交差点を前方に視認したあたりで、赤信号を待っている少女の後ろ姿を見かけた。古鷹高校の制服を着ていることから、同じ学校の生徒だということがわかる。自転車から降りているのは横断歩道を渡るためではなく、坂道を登るためだろう。古鷹高校は丘の上に所在している。俺は坂道を自転車で登ることを苦だとは感じないが、通学中に見かける女子生徒の多くは自転車を手で押しているようだった。

 ブレーキを作動させ、彼女から少し離れた左側に横付けした。隣で女子生徒がこちらを振り向いた気配を感じる。肩のあたりで切りそろえられた黒髪が、視界の端に映った。


「あら、紅野さんじゃないですか。おはようございます」


 そんな声が耳に入り、俺は視線を右側に向ける。信号を待っている彼女は見覚えのある丸眼鏡をかけており、その奥にある目をほんの少し見開かせてこちらのことを見つめていた。

 そこに立っていたのは、今朝ぶりに再会した藤咲蒼海だった。

 長かった黒髪が、肩のあたりでばっさりとなくなっている。


「髪が抜けてる……」

「抜けてません。切ったんです」


 女の子に向かってなんてことを言うんですか、と藤咲は拗ねたように呟く。そのタイミングで信号が青に変わったので、彼女は横断歩道を渡り始めた。俺は一度自転車を降り、同じようにハンドルを押しながら藤咲の隣に並ぶ。


「あんな髪じゃ学校に行けませんからね。簡単に整えてもらったんです。どうです? 似合います?」

「よくわからない」

「あなた本当に嘘がつけませんね」


 こちらの言葉に対して彼女は特に機嫌を悪くする風もなく、いっそコンタクトデビューでイメチェンしちゃいましょうかね、と言いながら眼鏡をくいっとかけ直す。ただでさえポニーテールというチャームポイントを失っているのに、さらに眼鏡までなくなってしまうとなると誰だかわからなくなりそうだと思った。


「こんな時間から開いてる美容院もあるんだな」

「あ、いえ、美容院じゃなくて……」


 藤咲は何かを言いかけたようだったが、最終的にはなんでもないとでも言いたげに首を横に振る。

 ふと、彼女の制服の襟元に視線が向いた。正確に言うなら、その下からちらりと覗いている白い何かに。

 それはガーゼだった。絆創膏のようにテープがついているタイプのそれを、藤咲は首の左側に貼っている。

 自転車を押している彼女の両手を見ると、そこにはガーゼと同じ色をした包帯が、指の部分だけを残して何重にも巻かれていた。既に血は止まっているようで、包帯に赤色が滲んでいるようには見えない。しかしそれが痛々しい様であることには変わらず、思わず目を逸らした。

 けれど藤咲はそんなこちらの心情と反比例するかのように、そういえば気になっていたんですけど、といつもと変わらない声色で口を開く。


「紅野さんあなた、何をどこまで知ってるんです?」


 一瞬、その問いかけの意味をはかりかねたが、しかしすぐに理解する。ああ、そうだ。彼女から見れば俺はたまたま通り魔の犯行現場に居合わせただけの目撃者であり、何故メディアで公表されていない被害者たちの関係性を把握しているのかがわからないのだろう。

 少しだけ躊躇はあったものの、俺はこれまでの経緯を簡単に説明した。四月十四日に櫛谷美々が襲われた現場を目撃したこと。通り魔事件が無差別ではないことや、被害者の共通点などの情報は雪村先輩から教えてもらったこと。

 そして、藤咲の自宅から帰るときに警察のふたり組と会ったことを話したとき、


「ああ、須磨(すま)さんと帚木(ははきぎ)さんですか。あの人たちも口が軽いですね」


 と、彼女は言った。どちらが須磨でどちらが帚木という名前なのかはわからないが、ともかく、藤咲があのふたりのことを知っているということに少し驚いた。

 いや、考えてみれば驚くことのほどでもないのかもしれない。彼女は先生和弘の娘だ。その情報さえ知っていれば、次の被害者は高確率で藤咲だと容易に予測がつく。当然、警察権力もそのことは把握しているだろう。あのふたりが彼女を守るために、藤咲と接触していても不思議ではない。

 俺は自分が把握している限りのことを彼女に話す。ただ、桜夜のことをだけは言うべきか言わないでおくべきか少し悩み……結局、黙っておくことにした。藤咲が知らないのならそのままでも問題はないだろうし、言いたければ本人たちが自分の口から話すだろう。

 それに。

 桜夜との約束は、破りたくなかった。

 道の傾斜が徐々にゆるやかになってくる。このあたりから生徒の多くは自転車に乗り始めるのだが、俺も彼女も歩き続けていた。


「そういう藤咲は、どうなんだ」

「そうですねえ。何から聞きたいですか?」


 何からと言われれば、最初からがいい。そう言うと、まあでも、と呟きながら藤咲は語り始めた。


「大体は紅野さんの知ってる通りですよ。詐欺師の子供たちは親が犯した罪を償いたかった、そこに復讐をする者が現れた、ゆえに私たちは抗わずに罰を受け入れた……以上です。単純明快な三段論法。かく示されました」

「だから事前に口裏を合わせてたのか? 通り魔を庇うために」

「そうですよ。まあ、蓮輔さんには違う考えがあったみたいですけど……大体はそんな感じです」

「……照井先生のこと、恨んだことはあるのか」


 気掛かりだったことを尋ねてみる。通り魔事件の被害者たちにはかつての詐欺グループの関係者という共通点はあるが、その中でも照井先生は特殊な立ち位置にいる人だ。ほかの六人の子供たちは彼のことをどう思っているのか、少し気にかかっていたのだ。


「ないと言えば嘘になりますけど、彼もまた被害者のひとりですからね。むしろ蓮輔さんが私のこと恨んでないってことのほうがびっくりですよ。あの人を騙して誘ったの、私の父ですから」

「そうか……、そうだよな」

「ですから、その件はもう終わってることなんです。まあ、当事者である蓮輔さんは私たちに後ろめたいものがあるみたいで、月に一度ファミレスやカラオケでおごってもらうことでチャラにしてあげてるんです。……ふふ、食べ盛りの若者六人ですからね。みんな容赦なくあの人のお金で飲み食いするんですよ」

「……仲がいいんだな」


 照井先生のことを親しげに『蓮輔さん』と呼んでいることからなんとなくは察していたが、どうやら彼らは随分と親睦の深い交流をしているようだ。

 とはいえ、そんなことは正直どうでもいい。俺がそう考えていることを察したのか、彼女は先ほどまで纏わせていた和やかな空気を変えた。


「あの場所には死ぬために来たって言いましたけど、あれ、本気だったんですよ」


 あくまでも穏やかな表情と口調のまま、藤咲はそう言った。


「通り魔の正体が彼だったことには本当に驚きましたし、その動機が報復じゃなかったことも計算外でしたけど……それでも、白夜さんにだったら殺されてもいいかなって、そう思ったんです」

「…………」

「でも、すぐに考え直しました——私はこの人に殺されてはいけない、って」

「……それは、どういう意味だ?」


 気がつけば既に学校は目と鼻の先にあった。自転車を押しながら裏門を越えたとき、彼女はこちらの問いに対しておもむろに、そうですね、と口を開く。


「昨日の放課後、桜夜さんとお話したんですよ」

「ん? ああ、課題の手伝い……だったか」

「その際、先日の体力テストの話題になったんですけど……紅野さん、あの子の成績知ってます?」

「藪から棒だな。桜夜の成績と言われたって、そもそも……」


 そもそも、体力テストは男女に分かれて測定したのだから、俺が桜夜の成績を知っているわけがない。

 とは言うものの、想像はできなくもない。彼女の運動神経は決して悪くない……むしろ、どちらかといえば良好なほうに分類されるのではないだろうか。そう答えると、そうですね、と藤咲は頷いた。


「詳細な記録の数値までは覚えてませんけど、どの種目もまんべんなく高得点だったんですよ。苦手なのは持久走だけという印象でしたね。彼女に勝てたのは運動部の子だけなんじゃないでしょうか」

「それはすごいな」

「ええ、すごいんです」


 そんな会話を交わしつつ、駐輪場へと向かう。一年D組に与えられたスペースに置かれている自転車はおおよそ二十台——既にクラスメイトの半数は登校してきているようだった。

 古鷹高校の駐輪場は、自転車を向かい合わせるように配置する。出席番号順に、前半と後半の二列に分けるのだ。彼女の番号は三十一なので、俺の斜め前にあるスペースに自転車を置くことになる。


「でも、そのことをお兄さんは知らないみたいでして……というよりも、彼女のほうが秘密にしてるみたいで」

「何故だ?」

「『顔を立ててあげたいから』」


 簡潔に、藤咲はそう答えた。その声色は、真剣なものへと変わっている。

 先日行われた体力テストのことを回想する。思い返してみれば、確かに白夜はあまり体育が得意なほうではないように見えた。だから桜夜は、彼の顔を立てるために成績を秘密にしているのだろうか。

 しかし、それになんの意味があるというのだろう。そんな疑問が顔に出ていたのか、藤咲は真面目な表情のまま言葉を続ける。


「あの兄妹の関係は、私たちが思ってる以上に歪んでると考えても間違いじゃないでしょう」

「どういう意味だ?」

「ようするに、愛情という名の支配、ということですよ」


 自転車を『31』と書かれた枠線の内側に入れながら、彼女は言う。


「鶏が先か卵が先か、というお話を知ってますか?」

「また唐突だな……因果のジレンマで有名な話のことだろ。鶏は卵なしでは生まれず、卵は鶏なしでは生まれない。では先に生まれたのはどちらなのか……だったか?」

「それです、それそれ。じゃあ、紅野さん。ここで考えてほしいんですけど……あの兄妹の場合、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」


 かしゃん、と。

 藤咲が自転車のスタンドを下ろした音が、嫌に響いたように感じた。


「妹が兄に依存したのが先だったのか、それとも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()——あなたは、どちらだと思いますか?」


 自転車に鍵をかけながら彼女の話に耳を傾けていると……不意に、とある人物の声が、脳によみがえる。

 人に依存させるのも、それを拒まないのも——人それぞれの生き方だ。

 もしも……もしも、あのときの雪村先輩の言葉が、双子のことを指していたのだとしたら。

 妹が自分に依存することを白夜が望み、そして、桜夜がそれを受け入れていたのだとすれば。

 いつも兄と行動をともにし、彼の背中をついていくように歩いていた黒神桜夜。これまでに見てきたそんな彼女の姿は、兄が望むままに振る舞ってきた演技だったということになるのではないか。

 いつだったか、卒業を機に道場を辞めたと白夜が話していたことを思い出す。しかし剣の才能がないという彼と違い、桜夜のほうに辞める理由はなかったはずだ。

 その理由もまた、兄の顔を立てるためだったのだろうか。

 それは。

 それは、あまりにも——


「だから、考え直したんです。あの人の抱える歪みごと、全部ぶち壊しちゃえって」


 いつの間にか、藤咲はすぐそばにまで来ていた。通学用のショルダーバッグを肩にかけ直しつつ、そんな物騒なことを口にする。


「何かを守るため、なんて思考の英雄野郎を言いくるめることは思いのほか簡単なんですよ」


 流れるようにののしりつつ、方法はふたつ、と彼女は包帯まみれの右手をこちらに見せた。そして、指を二本立ててブイサインを作る。


「ひとつは対象が守りたいものを奪うこと」

「奪うって……」

「命を奪うって意味じゃないですよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()と思わせるだけでいいんです」


 ともに玄関へ足を進めながら、俺は藤咲の言葉に、なるほど、と感心に近い思いを抱いた。

 あの双子の動機は、突き詰めれば『家族を守りたかった』のひと言に尽きる。本質的には単純なものだ。そして単純だからこそ、その前提が崩れれば動機も機能しなくなる。

 黒神家の人間で俺が把握しているのは、長男の先生と母親の紗織さん——そして居候だという雪村先輩のことも含めると三人だ。主観ではあるが、三人全員、俺には精神的に強い人たちに思えた。

 あの双子が守ろうとするまでもないほどに。


「ふたつ目は敵を奪うこと」

「敵?」

「何かを守りたいと思うのは、それを脅かす敵がいるからでしょう? だから()()()()()()()()()と思わせればいいんですよ」

「…………あ」


 すとんと腑に落ちた。

 今朝、彼女があのような行動に出たのは、そういうことだったのだ。

 振り返ってみれば、あのとき藤咲は嘲たり煽ったりするようなことばかり言っていたが、しかし一度として白夜と敵対するようなことだけは口にしていない。最初から死ぬためにあの場所に来たと言っていたし、最後まで彼に殺されることを受け入れていたのだから。

 だからこそ、白夜は彼女を殺すことに迷ったのだ。守りたかったものと殺すべき対象……そのどちらも奪われ、意味を失ってしまったから。

 無意味なままに自分を殺し、ただの人殺しと成り果てなさい。

 それ以上の挑発——いや、脅迫の言葉はないだろう。


「だが、それは……あまりにもリスクが高くないか。あいつがあのまま、お前を殺す可能性だってありえただろ」

「そのときはそのときでいいんですよ。当初の予定通り私が死ぬだけですから」


 つまり、どちらに展開が転ぼうとも、それは藤咲の目論見通りだということ。

 本当に強かな女だ。


「でもまあ、正直、その可能性は低かったと思いますよ」

「何故だ?」

「だってあの人、結局私以外の六人も殺せなかったじゃないですか」


 ニワトリさんですねえ、と彼女は皮肉に笑う。本人には絶対に聞かせられない言葉だと思った。

 玄関から校舎に入る。教室や廊下のあちらこちらから響く生徒たちの足音や話し声を耳にしつつ、俺たちは靴箱へと向かいながら話を続けていた。


「だとしても、いささか分の悪い賭けだったことには変わらないと思うが」

「否定はしませんよ。それでも私にとっては命を賭けるだけの価値があった。ただ、それだけのことですから」


 命を賭けるだけの価値。その言葉に、思わず藤咲のほうに視線を向けた。

 終わってみれば、藤咲は賭けには勝ったのかもしれないがなんのメリットもリターンも得ていない。むしろ怪我や髪のことを考えると損をしていると言えるだろう。

 それとも、白夜の抱える歪みを正すという行為そのものが、彼女にとっては命を賭けてもいいと思えるだけのことなのだろうか。

 靴箱から上履きのスリッパを取り出そうとしている藤咲だったが、こちらの視線に気付いたのか不意に目が合う。そして俺の考えていることを察したのか、くすりと笑った。

 それから、まるで試験の模範解答を言うかのように、


「その人のことを本当に大切に想ってるのなら、たとえ嫌われたとしても、憎まれたとしても、正しい道に戻してあげるべきです——それが、まっとうな愛の在り方というものでしょう?」


 と、言ったのだった。

 そのときの藤咲の顔は、今朝見たそれとよく似ていた。唇は穏やかな笑みにほころび、レンズの向こう側の眼差しには優しさが満ちている。

 その言葉はさながら。


「……なんというか、まるで愛の告白みたいだな」

「あらあら、そう聞こえました? 紅野さん、意外と鈍感じゃないんですね」

「ああ、そうだな。俺はあまり鋭いほうじゃ……、……ん?」


 通学用の革靴を靴箱に入れようと腰を屈ませたところで——ちなみに下駄箱は五段なので、十番の俺は一番下なのだ——思わずその動きを止めた。

 反射的に見上げると、彼女はまるで秘密だとでも言いたげに人差し指を唇の前に立て、こう言ったのだった。


「私、重い女なの」


 彼には内緒よ、と藤咲は悪戯っぽく笑った。

 なるほど、そういうことか。そういうことなら仕方がない。

 メリットとかデメリットとか、リスクとかリターンとか。そんな小難しいものは、単純だからこそ純粋なその気持ちの前では無力なものだ。

 そんなことを考えながら靴箱の扉を閉めたとき、ふと光が遮られ、自分の身体に影が落ちたことを感じた。クラスメイトの誰かが来たのだろうかと、俺は顔を上げる。

 そこにいたのは黒神白夜だった。


「…………」

「…………」

「…………」

「……よお」

「ああ」

「はい」


 しばし沈黙が交錯したのち、俺たちは短い言葉を交わした。

 いつもと変わらない俺と藤咲の態度にいぶかしさと気まずさが混ざったような視線を向けつつ、彼は俺のひとつ上の靴箱を開けて革靴とスリッパを入れ替えた。

 そのとき、あれ、と思って周囲を見渡した。しかし、白夜のそばにいつもいる彼女の姿は見えない。


「桜夜は一緒じゃないのか?」

「は? あいつまだ来てないのか? 俺より先に家出たのに」


 こちらの問いかけに、むしろ彼のほうが驚いたように声を上げた。

 そのとき、ぱたぱたというスリッパの音が響いた。その足音の主である藤咲はこちらに近付いてきたかと思うと、白夜のさらにひとつ上にある扉を開ける。そしてその中を確認するように覗き込んだ。


「まだいらしてないようですね」

「……ったく、仕方ねえなあ」


 ひとりごちるようにぼやきながら、彼はスラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。

 白夜の言葉から察するに、今日は寝坊せずにきちんと起きることができたのだろう。しかし彼より先に自宅を出たのに、桜夜はどうしてまだ学校に来ていないのだろうか。

 端末の操作をしながら、白夜は藤咲にちらりと視線を向けた。


「髪、切ったのか」

「あなたが原因じゃないですか」

「……悪かったよ」

「ふふ、冗談ですよ」


 殊勝に謝る彼に対し、藤咲はくすくすと笑って返した。


「本当に怒ってませんよ。むしろちょうどよかったと思ってるくらいです。女の子が髪を切るのは失恋したときだと相場が決まってますから」

「……え、何。お前好きなやついんの? ていうか振られたの? 俺聞いてないけど」

「いや、あなたに言うわけないじゃないですか」


 呆れたような彼女の視線に、白夜は少したじろいだように一歩後ずさる。

 まあ、うん、確かに本人に言うわけがないな。俺は心の中でそう頷きつつ、ふたりの掛け合いを黙って聞くに徹することにした。


「正確にはまだ振られてないんですけど、ちょっと好感度下げちゃったかもでして」

「……ふうん。あっそ」

「どうすれば挽回できますかね?」

「そんなの、俺の知ったことじゃねえよ」

「ノリが悪いですね。桜夜さんは恋バナに付き合ってくれたのに」

「あいつも好きなやついんの!?」

「さあ、どうでしょうねー」


 にやにやと少し意地の悪そうな笑みを浮かべながら、彼女はそう言った。完全に白夜のことをからかって遊んでいる。

 数時間前まで殺すとか殺さないとか物騒なやり取りをしていたとは思えないほどに、普段と変わらない光景。

 ようやく、いつも通りの日常に戻ってくることができたんだ。俺はそっと胸を撫で下ろす。


「……既読つかないな」

「あら、電話かけてみます?」


 そうだな、と返事をしながら彼はスマホを耳に当てた。


「そういえば、あなたどうして桜夜さんのマフラーをしてたんですか?」

「ああ、あれか? 顔を隠すのにフードだけだと心もとなかったからさ。ちょうどいいと思って借りたんだ」

「なるほど、強盗がよく被る目出し帽の代わりということですか」

「いや、まあその通りだけど……」


 ふむふむ、と彼女は納得したように頷いた。白夜のほうはまだ電話が繋がらないのか、端末を耳に当てたまま深くため息を吐く。

 表情には出さなかったものの、内心、俺も藤咲と同じ反応を返していた。言われてみれば確かに、フードを深く被ってマフラーで口元を覆ったら顔のほとんどを隠すことができる。人体において顔はもっとも重要な情報だ。体格や服装はごまかしようがないものの、それを隠すだけでも警察の目から多少は逃げやすくなるだろう。


「そんな単純な理由だったんだな。アリバイ作りのためかと思ってた」

「なんだよ、アリバイって」

「双子の入れ替わりトリック。よくあるだろ?」

「フィクションの読みすぎだ。それに、そういうのは双子が一卵性で、そもそも共犯関係だからこそできるトリックだろ?」


 俺たちじゃ無理だよ。と、彼は言った。

 その言葉に。

 心臓が、大きく揺れ動いたのがわかった。


「……なあ」

「ん?」

「桜夜は、お前の共犯者じゃないのか……?」

「は? なんでそんな考えになったんだよ」


 何を言っているんだこいつは、という表情を白夜は露骨に浮かべた。

 どくん、どくん、と。

 鼓動がとてもうるさくて、けれどそれ以外の音を脳が拒絶しているかのように——世界を静かに感じた。


「サクは無関係だよ。あいつは何も知らない。今回の件は、俺が全部ひとりでやったことだ……って、ああもう」


 彼はひとつ舌打ちをして耳からスマホを離すと、再び何かの操作をし始めた。


「桜夜さん、電話に出ないんですか?」

「ああ、うん。たぶん電源切ってるな。じゃあ、もう敷地内にはいるのかも……、——え? あ! おい、イツキ!?」


 白夜が俺の名前を呼ぶ声が、背中から聞こえた。

 けれどそれを黙殺し、さっき脱いだばかりの革靴を乱暴に履き直し、校舎を飛び出す。

 向かう先は駐輪場、そこに置いてある俺の自転車を目指して走る。とはいえ、自転車はあくまでも手段であって目的地じゃない。

 ならば目的地はどこなのか。そんなこと考えるまでもない——思考する時間すら惜しい。

 だから俺は何も考えず、ただ黒神桜夜のところへ行くために、足を踏み切ったのだった。



* * * * *



 どれほど時間が経ったのだろうか。

 時間を確認するのすら惜しく、ただひたすらにペダルを漕ぎ続けた。

 自転車で古鷹の町中を駆け回り、思い当たる場所のすべてに自転車を走らせる。黒神邸の周囲から、今朝も訪れた公園。果ては白露大橋まで行ったが、それでも成果を挙げることはかなわなかった。

 しかし、捜索範囲を古鷹から葛城にまで広げたところで——俺はようやく、その人物を見つけることができた。


「————桜夜!」


 体力と持久力には自信があったつもりだった。しかし、休まずペダルを踏み続けた足は棒のようで、呼吸はひどく乱れているうえに、水すら飲まなかった喉は乾ききっている。さすがに疲労を感じていた。

 それでも俺は、彼女の名前を叫ぶ。

 対して黒神桜夜は、


「あ、イツキくんだ」


 と。

 あくまでもいつもと変わらない態度と、柔らかい声のままでそう言い——俺のことを、普通に迎え入れたのだった。

 いつだったか、いいものを見せてあげると言って連れてきてくれた大きな桜の木。彼女はその傍らにある線路、それを囲むガードパイプに腰かけていた。ふらふらと揺らす足の下には、通学用のリュックサックが置かれている。

 あれほど綺麗だった桜の花も、やはり先日の雨がほとんど散らせてしまったようだった。アスファルトの上に散在している花びらは、これまで何度も人や車に踏まれ続けてきたのだろう。薄く汚れ、色彩を失っている。

 しかし、色あせた花と反比例するように、葉は色付き始めていた。風が吹くたびに鮮やかな緑をしたそれが音を立ててざわめき、光が零れ散っては地面に斑の模様を描く。

 その木漏れ日の中に、桜夜はいた。今朝も見たばかりの、白いマフラーを首に巻いて。

 やはりそのマフラーは、白夜よりも彼女のほうによく似合っている。そう思った。


「いけないんだー。先生に怒られちゃうよ?」

「…………」

「学校、戻ったほうが」

「ひとつだけ」


 桜夜の言葉を遮る。そして息を無理やりに落ち着かせながら、俺は言葉を続けた。


「ひとつだけ、確認してもいいか」

「なあに?」

「身長は、どうしたんだ」


 そう問いかけると、彼女はこちらから目を逸らした。どこか遠くを見つめるようにぼうっと視線を漂わせ、一度うつむくようにまぶたを伏せる。しばらくして顔を上げると——眩しそうに、光の筋を落とす葉桜を見上げた。

 そして、とても静かな、透き通るような声で、


「気付いちゃったか」


 と、呟いた。

 俺が何かを言おうと口を開くよりも先に、桜夜はおもむろに靴の片方を脱ぎ出し、それを正面にいるこちらに向けて蹴り上げた。靴は彼女の足を離れ、緩やかな放物線を描いて宙を飛ぶ。俺は反射的にそれを掴んだ。

 その靴はスニーカーだった。黒地に薄いピンクのラインが入った、シンプルなデザイン。

 どこにでもある普通のスニーカーである。どうしていきなり寄越したのだろうと思いつつ彼女に返そうとしたとき、ふと違和感を覚えた。

 靴の踵が、爪先よりも重いのだ。


「……インソール、か。高さは?」

「四センチ。走りにくくて仕方なかったよ。裸足のほうがよかったくらい」


 冗談めかしてそう言った彼女は、黒のハイソックスに包まれた足を揺らした。

 俺は自転車を降りるとハンドルを押して桜夜に近付いていき、スニーカーを手渡した。彼女はガードパイプに座ったまま、それを器用に履き直す。その様子を眺めながら、俺はいつかの昼休みのことを思い出していた。

 双子と藤咲、そして俺の四人で昼食をともにしていたときのことだ。それまで俺は、桜夜の身長は兄とほぼ同じだと思っていた。実際の身長はそれより低いと知ってわずかに違和感を覚えたものの、ただの思い違いだと流してしまった。

 しかし、俺はそのとき思考を放棄してはいけなかったのだろう。

 きちんと考えるべきだったのだ。何故あの双子の身長をほぼ同じだと思っていたのか——より正確に言えば、どうして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のかを。

 種を明かされてみれば単純なことだった。桜夜はジョギングのとき——俺と会うときにだけこの靴を履き、自分の身長を兄に合わせていたのだ。

 真犯人を、隠すために。


「……俺の勘違いを、利用したということか」

「うん。まあ、そうだね」


 桜夜は肯定した。

 放課後の教室で俺を脅迫してきたときのように、あっさりと。


「俺が勘違いしてなかったらどうするつもりだったんだ。通り魔のことを、正しく白夜と認識してたら」

「どうもこうもしないよ。きっと、変わらずこう言ったと思うよ——私が通り魔だって」


 その通り、なのだろう。

 彼女がそう言えば、俺は疑いもせずにその言葉を信じたかもしれない。

 自分の無実を証明することは難しいが、自分が罪を犯したと主張することはとても簡単なことだ。

 つまり。

 つまり、桜夜は——


「——最初からずっと、俺に嘘をついてたのか」


 そう問いかける俺の言葉にも、やはり彼女は、


「そうだね」


 と、拍子抜けしてしまうくらいにあっさりと肯定するのだった。


「あーあ……全部、ばれちゃったなあ」


 そう言いながら、桜夜は重心を後ろに移すように背中を逸らした。そのまま線路に落ちてしまいそうなくらいにのけぞり、青い空を覆う葉桜を仰ぐ。俺も同じように空を見上げ、そして嘆息を漏らした。

 俺は間違っていた。

 何もかも——最初から最後までずっと、間違い続けてきたのだ。

 あの公園で通り魔と邂逅し、彼を桜夜だと思い込んだ四月のあの日から……今日この日まで。

 黒神桜夜は、通り魔の共犯者ではなかった——共犯者ですら、なかった

 桜夜はずっと、嘘をつき続けていたのだ。


「すっかり騙された俺が言うことじゃないかもしれないが、そんな嘘、いつまでもばれないと思ってたのか」

「思ってたよ。ううん、ごめん、やっぱ思ってはなかったかも。私はただ願ってただけ。どうか気付きませんように……って。ずっと、そう願ってた」

「…………」

「あの変態のお兄さんに罪を着せることもできたし、あとは先生さんの家族さえ見つからなかったら、このままいつも通りの日常に戻れるんだって——私は、信じてたんだよ」


 そういえば。

 初めて通り魔の動機を尋ねたとき、彼女は言っていた。

 さあ、知らない——と。

 他人事のように、そう言っていた。

 今から思えば、それも当然のことなのだ。

 だって、本当に知らなかったのだから。

 自分の兄がどうして通り魔なんて始めたのか、桜夜は、本当に知らなかったのだ。


「……どうして、そんな嘘をついたんだ」

「イツキくんを守りたかったから」


 彼女はそこで一度言葉を区切った。ゆらりとした動きで体勢を元に戻し、そして今度は下を向くような姿勢をとる。小さい子供のように足を交互に揺らしながら、地面に落ちて色あせた花びらを見つめていた。

 今どんな表情を浮かべて、桜夜はそれを見つめているのだろう。

 俺にはわからなかった。


「って言えば、あなたは私のことを信じてくれるのかな」

「ああ」

「即答なんだ。ふうん……最初からずっとイツキくんに嘘ついてたのに、それでもあなたは私を信じてくれるの?」

「信じるよ」


 そう言うと、彼女は揺らしていた足を止めた。そして、


「——そっか」


 と、とても小さな声でそう呟くと、下を向いた姿勢のまま、どうしてか両手で口元を覆う。

 俺のことを守りたかった。

 桜夜は端的に、その真実を口にした。

 彼女は俺を共犯者にするつもりなど元よりなく——そもそも桜夜が通り魔とは無関係だったのだから当然だが——それでは何故脅迫し、嘘をついてまで自分の監視下に置こうとしたのか。

 真犯人を隠すためというのも、事実ではあるのだろう。

 けれど真実の理由は——守りたかったからだ。

 唯一の目撃者である俺を、通り魔の兄から守るためだったのだ。

 自分の不利益に繋がりかねない人間を排除する。そんな思考の元、白夜は二度俺のことを殺そうとした。教室で鎌をかけてくるほどに慎重な彼のことだ、俺が通り魔のことで思わせぶりな態度をとれば、迷わずに口を封じにくるだろうことは容易に想像ができる——そんな状況になることを事前に防ぐため、桜夜は自分が通り魔だと名乗り、俺のことを脅迫したのだ。

 しかし、と思う。

 それは……彼女が兄の行動を把握していなければ、到底不可能なことだ。


「お前は、何をどこまで知ってるんだ」

「……最初から最後まで。一応、全部知ってるつもりだよ」


 こちらの問いにそう答えながら、桜夜は口元を覆っていた両手を離す。視線はいまだ地面に向けられたままだ。


「今朝は、ハクが藤咲さんをどこに呼び出したのかわからなかったから、ちょっと遅れちゃったけど……私も途中からあの公園にいたんだよ」

「途中から……」

「藤咲さんが敬語を捨てたあたりかな。あれがあの子の真の姿なんだね、びっくり」


 茶化すような口調で、彼女はそう言った。

 あの公園は敷地内を囲むように桜の木が植えられている。おそらく、桜夜はその幹の陰から俺たちのことを見ていたのだろう。太陽が昇る前のあの時間帯なら、さほど難しいことではない。

 彼女はそうやって、これまで兄の犯行を見続けてきたのだろうか。


「ハクが藤咲さんを殺そうとしたら止めようと思ってたんだけど、私が出るまでもなかったみたい」


 うつむいたまま、桜夜はそう呟く。その声はまるで独白のようだった。

 その独白を聞いて、俺は、少しずつパズルのピースがはまっていくかのような気分を感じていた。

 ああ、そういうことか。

 彼女は俺だけではなく藤咲のことも、そして、通り魔である白夜のことも守ろうとしていたのだ。

 藤咲も指摘していたが——白夜はこれまで六人もの人間を病院送りにはしたものの、しかし誰ひとりとして殺すことはなかった。

 その一線だけは、彼はまだ越えていなかった。

 だからこそ桜夜は、それだけは死守しようとしたのだろう。俺たちの命を守ることは、その最後の一線を守ることと同じなのだから。

 しかし。

 藤咲蒼海はその一線を越えさせないどころか、彼を正しい道へと引き戻すことを選んだ。それがまっとうな愛の在り方だと、彼女は言っていた。そしてそんな想いと行動の末に——無差別通り魔事件は、幕を閉じたのだった。

 その結末は、桜夜も見届けたのだろう。結果的だけを見れば、確かに彼女の出る幕はなかったと言えるのかもしれない。


「そういうイツキくんは、私たちのことをどこまで知ってるのかな」


 唐突に、桜夜はそう尋ねてきた。

 俺は少しだけ悩んだものの、彼女も同じく知る権利があると思ったので話すことにする。とはいえほとんどは登校中に藤咲に説明したものと同じ内容だし、そのすべてとは言わないまでも大体のことは桜夜も把握していることだろう。だからそのあたりのことは簡単に済ませ、早めに本題に入ることにした。

 今朝の出来事。彼女が見ていないという、前半あたりのやり取りを主に語る。桜夜は相槌ひとつ打たずに、こちらの話を静かに聞いていた。あまりにも反応がなさすぎて、もしかして寝ているんじゃないかという考えが一瞬脳を過ぎたが——通り魔の動機の話に差し掛かったとき、彼女はようやく顔を上げる。


「——ユートピア?」


 桜夜は怪訝そうな表情を浮かべ、こちらを見上げている。そういえば、今日初めて彼女と目が合ったような気がするなと、俺はなんとなく思った。


「ハクが、そう言ったの? 復讐じゃなかったの?」

「ああ、俺と藤咲も、そう思ってたんだが……」


 どころか、警察や六人の被害者たちもそう思い込んでいた可能性がある。何でも知っていると謳うあの雪村先輩でさえ、通り魔の動機だけは予想が外れていたのだから。


「実はね。復讐は変だなって、私も思ってはいたんだよ」

「そうなのか?」

「だって、あの堤さんたち相手にハクがそんなこと考えるはずがないし。でもそれ以外に理由なんて思いつかなかったし、イツキくんの言う通りなのかなって……けれど、だからって、それは——」


 桜夜は眉間に皺を寄せ、何かを考えるように口に手を当てた。


「……それは、ハクの考えじゃないな」

「……? いや。事実、ほかでもないあいつ自身がそう言ってたんだが」

「ハクはそんなこと考えない。あの人が()()()()()を思いつくはずがないんだよ。だから……だから、それは————」


 俺の耳に届くか届かないかというほどに小さな声で、彼女はぶつぶつと呟きながら何やら思考を続けている。

 しばらくして、


「——そっか。そうだったんだ」


 と言った。まるで、すべての疑問が氷解したといった風の声色だった。


「どうした?」

「……ううん。()()はイツキくんには関係のないこと。それに、私にとっても、もうどうでもいいことだから」

「……? いったいなんの話をしてるんだ?」

「そんなことより、ちょっと昔話をしようか」


 突然、桜夜は話題を変えてきた。彼女がマイペースなのはいつものことなので、今更戸惑ったりはしない。

 桜夜はゆっくりとした動作で顔を上げ、あれは、とおもむろに口を開いた。


「あれは中三の……鷹高の入学説明会のときだったかなあ」


 どこかぼんやりとした口調のまま、彼女は『昔話』を語り始めた。

 古鷹高校の入学説明会。

 その日が、彼らの日常を変える転機だったのだろう。

 通り魔が生まれるきっかけとなった——すべての始まりの日。


「パンフレットで照井先生を見つけてね。さすがにびっくりしたよ。うわー、まじかーって」

「……リアクションが軽くないか?」

「だって私は知ってるもん。照井先生は悪くないって」


 まるでなんでもないことのように、桜夜はそう答えた。


「照井先生のこと、私は正直どうとも思ってなかったんだよね。いやまあ、正直、そりゃほんの少しくらいは、恨んだことあるけど……でも、もう全部終わったことなんだから。死んだ人は帰ってこないし、帰ってきたところで、またあの人たちと家族できるとは思わないし」

「……まあ、そうかもしれないな」


 きっと、その通りなのだと思う。

 詐欺師たちは法の下に裁かれ、照井先生も然るべき処分を受けた。それが五年前のこと——もう、五年も前にすべて終わっているのだから。

 彼女の中でも、それはとっくに終わっていることなのだろう。

 かつての両親のことも、桜夜はとうの昔のこととして決着をつけていたのだ。


「でも、ハクは違ったみたい」


 彼女は再びうつむいた。

 そして意図的に感情を押し殺したような声で、言葉を続ける。


「卒業式の、次の週だったかな。夜が明ける前の時間に、物音がして目が覚めたの。そっと見てみたら、ハクがどこかに出かけるところだったんだよね」

「……フードつきのジャージ姿で、お前のマフラーを巻いて、か?」

「ついでに日本刀が入った竹刀袋も持ってね。……その日の夕方だよ、照井先生が襲われたって知ったのは」


 卒業式の翌週。

 俺たちがまだ高校生ではなく、しかし中学生とも名乗りにくい。そんなどっちつかずな時期に、第一の事件は起こった。

 通り魔が、始まったのだ。


「すぐにわかったよ、ハクがやったんだって。わかった途端、私、怖くなった。……罪悪感なんてまるでないって風に日常に溶け込んでる、ハクのことが」


 言いながら、桜夜は自分の身体を抱き締めるように片腕を引き寄せた。

 その声が、指が、肩が——かすかに震えている。


「またハクが、私の知らない人になるんじゃないかって、そう思うと怖くて……怖くて、たまらなかった」


 怖かったと、彼女は繰り返し言う。その声には、悲痛な響きがあった。


「詐欺師の人たちのことも、その子供たちのことも、私はどうでもよかった。私は、ただ——ただ、ハクがハクらしくあってくれたら、それだけでよかったのに」


 結局のところ。

 桜夜は、それが不安だったのだろう。

 生まれたときから……どころか、母親の腹の中にいたときからずっと一緒だった兄が、通り魔や殺人鬼に成り果ててしまうことが——怖かった。

 既に終わっている両親のことを吹っ切ることはできても、今も続いている兄のことは守りたかった。

 白夜が、家族が家族でなくなってしまうことを恐れたように。

 彼女は——白夜が白夜でなくなってしまうことを恐れたのだ。

 ああ、そうか、と思う。桜夜が彼に依存するように振る舞っていた理由もまた、きっとそれだったのだろう。

 妹の世話に自分の価値を見いだした兄。言い換えれば、彼女の世話をしているときだけは、白夜は確かに桜夜の兄だったということだ。

 通り魔でなく、人斬りでもない。

 彼女のよく知る——ただの黒神白夜のままだったのだから。

 ばらばらだったパズルの、最後のピースが埋められたかのような気分だった。

 しかし、胸に渦巻くこの感情は……カタルシスとはほど遠い。


「……もう、全部終わったんだ」


 慎重に言葉を選びながら、俺は言う。


「通り魔の話は終わりだ。桜夜はもう、何もしなくていい。それでいいじゃないか」

「…………」

「学校に行こう。今からなら二限には間に合うだろ」


 そう。通り魔事件は終わりを迎えた。藤咲がその幕を下ろした。桜夜はもう、辛いことや苦しいことをしなくていいのだ。

 この結末をハッピーエンドと呼べるのかどうか、俺にはわからない。たくさんのものを失ったような気がするし、かけがえのないものを得られたようにも思えた。

 ただ、バッドエンドではないという確信だけはある。そしてそれでいい。俺たちの人生はまだ続いていくのだから、幸せになんて、これからなっていけばいいだけのことだ。

 彼女は口をつぐむ。そしてしばらくの沈黙のあと、


「そうだね」


 と、静かな声で頷いた。

 その首肯に、俺は胸を撫で下ろした。深い安堵感が胸のうちに広がっていくのがわかる。

 桜夜はガードパイプから降りると、そしてリュックを手に提げてこちらに近付いてきた。俺はUターンをするように自転車の方向を換え、そのまま歩き出す。

 そのとき、背後からカンカンという踏切の音が鳴り響き始めた。鼓膜を震わせる警報をよそに、片手でハンドルを押しながら反対の手でスマホを取り出す。おびただしい数の着信のことは一旦置いておき、ひとまず時間を確認した。二限の授業が始まるまでおよそ三十分。自転車に乗れば間に合うだろうが、後ろをついてきている彼女は徒歩だ。ふたり乗りをしなければ間に合わない。しかし道交法を違反するというのもどうだろうか。

 悩みつつも桜の木の影を出たとき、そういえば、と考える。

 今更だが、彼女はどうしてこの場所に来ただろう。無我夢中で学校を飛び出し、何も考えずに町中を探し回っておいて、今頃になってそんなことを疑問に思った。


「————、    」


 不意に。

 声が、聞こえたような気がした。


「——    ——といって、それで    ——————ない」

「……ん? 何か言ったか?」

「——できなかった——  ——に————は ばかり」

「悪い、踏切の音で聞こえないんだ。もう一度」


 もう一度言ってくれないか。

 そう言おうとして後ろを振り返り——しかし、その言葉を最後まで口に出すことはできなかった。

 まず視界に入ったのは靴だった。

 シンプルなデザインのスニーカーが宙を浮き、そして落ちていく。

 次に飛び込んできたのは、桜夜の背中だった。

 地面を蹴り、走り出した彼女の後ろ姿。

 その先にあるのは踏切だ。

 警報が鳴り響き、遮断機は下り、電車もまだ通り過ぎていない。

 そんな、線路に——


「————桜夜っ!!」


 俺は叫ぶ。

 声を振り絞り、彼女の名前を呼ぶ。

 けれど桜夜は止まらない。足を止めてはくれない。

 彼女の背中を追う。後ろから激しい物音が聞こえた。自転車が倒れたのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。そんなものに思考を囚われるわけにはいかない。

 ——もしも死に場所を選んでいいって言われたら、私はここがいいかな。

 唐突に。

 いつかの桜夜の言葉が、走馬灯のように頭を駆け巡る。

 そういうことだったのか。

 彼女はそのために、ここに来たというのか。

 距離が縮まらない。桜夜の俊足は俺も知っている。そのうえ彼女は靴を脱いでいた。走りにくいと言っていた、インヒールのスニーカーを脱ぎ捨ててしまっている。靴下のまま、躊躇なく、桜夜はアスファルトを駆けた。

 電車の近付く音がする。もうすぐそこにまで迫っている。

 彼女は遮断機に手をかけ、今まさに、境界を飛び越えようとしていた。

 両足が地面から離れる。

 目の前を、白いマフラーが翻った。

 間に合わない。間に合わない——いや、違う。まだ間に合う。間に合わせるんだ!

 俺は——手を伸ばした。


 …………。

 

 

 ……………………。


 


 …………………………………………。


 

 


「————けほっ」


 電車が過ぎ去った直後。

 小さく咳込むような、少女の声が聞こえた。

 俺の目の前に桜夜がいる。生きている。息をしている。

 その事実を——現実を、脳が時間をかけながら受け入れようとしているのがわかった。認識と理解を調整するような作業が、頭の中で行われている。やがてそれが一段落し、ようやく、現実を現実として受け入れることができた。

 俺は、間に合ったのだ。そのことを認識し、深いため息をつく。それが安堵感によるものなのか、あるいは精神的な疲労によるものなのかは、自分でもわからなかった。

 桜夜が遮断機を飛び越えようとした瞬間。

 俺は彼女のマフラーを掴み、そして——思い切り引いたのだった。

 既に地面から両足が離れていた桜夜は、それによって引き戻される。抵抗もできず、後ろ向きに倒れながら、彼女はアスファルトに腰を打ちつけた。そんな一連の動きつられて俺も膝を地につけ——今に至る。

 桜夜の足がどれほど速かろうと、手足の長さは俺のほうが勝っている。距離を縮めることはできなくとも、手を伸ばせばマフラーを掴むことくらいはできた。

 やはり、リーチは長いほうが有利だな。そんなことを考えながらため息をついたとき、腕の中にいる彼女がマフラーをゆるめようとする気配がした。

 たぶん、呼吸が苦しかったのだろう。当たり前だ、桜夜からしてみれば首を絞められているようなものなのだから。

 けれど、今彼女がマフラーを解けば、そのまま俺の前から逃げてしまいそうな気がして。

 だから俺は、反射的に、桜夜の身体を自分の腕の中に閉じ込めた。

 彼女のことを抱き締めたのはこれで二度目だが——その肩は以前よりも細く、頼りなく感じた。


「……離してよ」

「嫌だ」

「目の前で死なれるのが嫌なら、適当に海とか山とかに行くから」

「嫌だ……っ」


 思わず、語気が強くなる。

 桜夜がどうして死を選ぼうとしたのか、わからなかった。

 わからなくて、感情がひどく混乱している。


「もう、全部終わっただろ……!」

「そうだね。全部、終わったね」


 淡々と、彼女は感情のない声でそう言った。

 そしてその口調のまま、桜夜は静かに、言葉を続ける。


「全部終わったからといって、それで『めでたし』だなんて思えない」


 その声には、やはり感情が込められていない。

 彼女は今、どんな表情を浮かべているのだろうか。背後から抱き寄せている俺からは桜夜の顔が見えない。視界に広がっているのは、セピア色の髪だけだ。


「私、イツキくんに嘘ついてた」

「……? ああ。そう、だな……?」

「あなたは一度も嘘をつかなかったのに、約束を守ってくれたのに——なのに私は、最初からずっと、イツキくんのこと騙してた」

「それが、どうし……」

「私は!」


 突然。

 彼女は叫ぶ。


「私は! あなたにだけは! 嘘つきだなんて……っ、ばれたくなかった!」


 喉が壊れそうなほどの声で、桜夜は怒鳴る。

 入学式から半月以上。彼女とはそれなりに密度の濃い時間を過ごしてきた。だから俺は、ある程度は、桜夜のことを理解していたつもりだった。

 けれど、こんな風に感情を剥き出しにし、声を荒げる彼女を見たのは——初めてのことだった。


「初めて、だったの……私に、嘘をつかなかった人」

「…………」

「黒神の人たちだって、私に嘘ついたことあるよ。それは優しい嘘ばかりだったけど……嘘だってことには変わらない! 私がそんな嘘をつかせてしまったことには、変わらないもん!」


 訴えかけてくるように叫ぶ声は、時折上ずるように裏返り、震え始めた。それに気付いたとき、桜夜を閉じ込めている腕に温かい何かが落ちる。それが涙だと気付くのに、時間なんて必要なかった。

 彼女は泣いていた。

 泣いている桜夜を見るのも——初めてだった。


「ハクのことを守りたくて、ハクからイツキくんを守りたくて、藤咲さんのことも守ってあげたくて……でも、結局——結局、私には、何もできなかった! あなたのこと……ずっとずっと、騙してた癖に! 結局、なんの意味もなかった! 私に残ったのは——嘘をついたって事実だけだ!」


 しゃくりあげ、途切れ途切れながらも彼女は言葉を続ける。嗚咽が混じり、声がかすれ、呼吸もうまくできていない。そんな桜夜の姿は見ていられないほどに痛々しく……そして、あまりにもいたたまれなかった。

 何もできなかった。

 何の意味もなかった。

 結果だけを見れば、確かにその通りではあるのだろう。彼女が出るまでもなく、通り魔事件はすべて幕を下ろしたのだから。

 けれど、それが事実だったとして——たとえ桜夜の言う通りだったとしても、たかが嘘をついただけのことだ。

 人を騙すことは、確かに悪いことかもしれない。しかし、世の中に嘘をついたことのない人間がいったいどれほどいるだろう。嘘が苦手で、たまたま彼女に嘘をついてこなかった俺にばれただけのことで、どうしてそんなに涙を流すのだろう。

 そんなことで、と。

 思わず言葉に出しかけ——その口をつぐむ。


「もう、やなの」

「……桜夜」

「何もできない、何も知らない……そのうえで嘘つきな私なんて、もう、死んじゃえばいいんだ」


 それが。

 それが、桜夜が死を選ぼうとした理由。

 俺にばれただけのことで——じゃない。俺にだけはばれたくなかったという彼女の言う通り、それこそがトリガーだったのだ。

 最後の一線だった。

 その一線を、俺は越えてしまった。

 たとえその人のことを思ってついたとしても、嘘は嘘だということには変わらない。桜夜はそう言った。その言葉は、彼女にも言えることなのだろう。桜夜が俺のことを騙していた理由もまた、白夜や藤咲を助けたいという思いからだったのだから。

 そんな彼女のことを、俺は信じ続けてきた。疑いもせず、馬鹿正直に。だからこそ桜夜は、俺にだけは、嘘つきだとは思われたくなかったのだ。

 俺が嘘をついてこなかったから。

 桜夜との約束を、ずっと守り続けてきたから。

 たったそれだけのことで、と思う。けれど、その『それだけ』のことに、彼女はずっと囚われていたのだろう。

 ——人には人のルールがある。

 そう言ったのは、雪のように白い少女だった。

 ——一度構築されてしまった生き方を、他人が変えることは難しい。

 ——自分自身に縛められている人を前に、君はその鎖をどう解くべきなのか、よく考えるといい。

 あのときはその言葉の意図を理解できなかったが、今になってようやく、彼女の言っていたことの意味がわかった。

 たとえ、他人には『たかが』とか『そんなこと』とか思われてしまうようなことでも……本人にとっては破ってはならないルールであり、その生き方に囚われているということもある。

 俺が色彩を拒絶したように。

 桜夜は、嘘つきな自分を拒絶しているのだ。

 こんな展開になることすら、あの人は知っていたというのだろうか。

 本当に……本当に、見透かしたようなことを言う先輩だ。


「ねえ、樹月くん。紅野、樹月くん。一生のお願いがあるの」


 彼女は、俺の名前を繰り返し呼ぶ。

 それは涙の混じった、小さくか細い声だった。桜夜のことを抱き締めていなければ、きっと聞こえなかったのかもしれない。


「離して。お願いだから」

「断る」


 敢然と、俺は彼女の『お願い』を拒絶し、より腕に力を込めた。

 もしも。

 こうなることも見透かしていたうえで、雪村先輩は俺にヒントを与えたのだとすれば。

 俺は今ここで、桜夜の鎖を解いてやるべきなんだ。

 先輩が俺に真実を突きつけてきたように。

 藤咲が白夜の歪みを正そうとしたように。


「嘘つきでも、いいよ」

「……あなたがよくても、私はよくない」

「そうだな。お前が自分のことを許せないなら、それでもいい。ただ、死ぬのだけはやめてほしい」

「私が死のうが生きようが、イツキくんには関係ないじゃん!」

「関係ある。俺は桜夜のことが好きだから、死んだら悲しい」


 びくり、と。

 目の前にある細い肩が大きく跳ねた。


「え、あ……は……? なに、言って」

「桜夜が好きだ」

「何を言って、るの……あなたは……」


 彼女は戸惑ったような声を上げるが、その言葉の続きは出てこないようだった。

 こちらから桜夜の顔は見えない。けれど、狼狽したような表情を浮かべているだろうことは想像ができた。


「何もできなくてもいい、何も知らなくてもいい。嘘をついたって構わない。それでも俺は、桜夜のことが好きだよ」


 俺には雪村先輩のような厳しさも、藤咲のような強さもない。正直なところ、ここまで来ておいてどうすればいいのか、何が最善なのかすらもわかっていない。

 それでも、彼女の鎖を解いてやりたいから。

 だから俺はいつも通り、馬鹿みたいに正直に、嘘偽りのない言葉を伝えようと思った。

 そこで初めて、桜夜は抵抗らしい抵抗を見せた。俺の腕から逃げようと、力任せにもがき始める。


「う……う、嘘だ!」

「嘘じゃない。俺の言葉が本当だって、わかるんだろう?」

「あ、う……うぅ……うそ、うそだ——」


 嘘だ嘘だと、彼女はうわ言のように何度も繰り返す。

 信じてくれないのか、それとも信じたくないだけなのかはわからないが……どちらにせよ、なんとなく拒絶されているような気がしたので、俺は、桜夜の後頭部に唇を押しつけた。

 彼女は肩を小さく震わせると、徐々に抵抗をゆるめておとなしくなる。


「……これで、わかってくれたか」


 気恥ずかしさのようなものを覚えながら、桜夜の髪から離れる。淡い花の残り香が、ほのかに漂っているように感じた。


「……なんで」


 震える声で彼女は呟く。それはとても静かで、けれど切実な響きの込められた声だった。


「わかんない、なんでなの……私、イツキくんに嘘ついてたのに、ずっと騙してたのに……なんで、そんなこと言えるの。そんなこと、できるの」


 わからない、と。桜夜は言葉を重ねながら、ゆるく首を横に振る。俺はあらためて、彼女の身体を抱き寄せた。ほんの少しだけ、腕の力を強くしながら。

 体温と一緒に、この気持ちも伝わればいいと……そんな思いを込めて。


「さっき桜夜は、自分には何もできないとか、何も知らないとか言ってたが……そんなことないと、俺は思う」

「……うそだ」

「嘘じゃない。だって桜夜は——あの朝焼けを、俺に教えてくれたじゃないか」


 あの日、白露大橋の上から見た朝焼けを思い浮かべた。

 いつまでも目に焼きついている、瑠璃と東雲の空を。


「この桜を教えてくれたのもお前だった。俺の知らない素敵なものを桜夜はたくさん知ってるし、それを教えることができる」

「……そんなこと、誰にだってできるもん」

「そうだな。誰にでもできるかもしれない。桜夜が教えてくれなくても、俺は別の人から教わったかもしれないし……なんなら、その人のことを好きになったかもな」

「だったら!」

「けれど、幾多の可能性の中で、俺の隣にいたのは桜夜だ。それがいったいどれだけの確率で——どれほどの奇跡なのか、わかるか」


 桜夜は黙る。俺は言葉を続けた。


「『そんなこと』だなんて、言わないでくれ。桜夜にとっては『そんなこと』かもしれないが、あの朝焼けに、俺がどれだけ救われたと思う?」


 言ってしまえば、ただの朝焼けだ。それでも俺にとっては忘れたくても忘れられない、心に刻み込まれた景色だ。

 弱くて脆い、世の中や人の目に抗う勇気もない。こんなに愚かな人間をひとり、彼女は、確かに救ってくれた。

 色彩を捨てた俺に——お前は、この世界の美しさを教えてくれたんだ。


「桜夜のおかげで、俺はこの世界を好きになれた。灰色だった俺の世界に、桜夜が色彩をくれた。……ああ、きっとそれも奇跡なんだろうな。たくさんの『たまたま』が重なって、あの日、お前と出会うことができたんだ」


 中学一年生の、寒い日。

 俺が色覚異常を患わなかったら。

 その日家出をしていなかったら。

 桜夜が道を迷っていなかったら。

 俺たちはあのとき、きっと出会うことすらなかった。

 そんな偶然の連続を奇跡と呼ばず、はたして何と呼ぶのだろうか。


「まだまだ知らない景色がたくさんあるんだ。気持ち悪いくらい咲く向日葵も、由良山の紅葉も俺は見たことがない。それを全部目に焼きつけたい。そのときに桜夜がいなくちゃ意味がないんだ。お前のいる世界に、お前の隣に——俺は、生きていたいと思うから」


 だからお前にも、生きていてほしい。と、そう願った。

 彼女は。

 黒神桜夜は——


「……………………あつい」

「え?」


 長い沈黙の果てに、そんな言葉を呟いた。

 もぞり、と彼女は俺の腕の中で動く。


「暑い、から、一旦離れて」

「いや、だが……」

「イツキくん、ほんとに体温高いよね」

「わ、悪い」


 反射的に謝りながら、桜夜を解放した。てっきりそのまま逃げるものと予想していたのだが、しかし彼女はまるでソファに浅くもたれかかるかのように、こちらの胸のあたりにそっと後頭部を預けてきた。

 おもむろに、桜夜はマフラーをゆるめた。寒いからと巻いていたはずのそれを、ごく自然な手つきで。


「——甘ったるいなあ」

「……? 何か菓子でも食べたのか?」

「違うよ。でも、似たようなものなのかな……ふふ」


 不意に。彼女は、


「あは、ふふ、あははは……あは、あははは」


 そんな風に、笑い出した。

 白露大橋の上で見た、あどけない微笑とはまた違う種類の笑い方。

 まるでごく普通の女の子のように、どこにでもいる女子高生のように——本当に楽しそうな声を上げて、桜夜は笑っていた。

 そうしてしばらく笑ったあと、こちらに寄りかかった体勢のまま彼女は俺を見上げた。その顔には涙の跡が残っている。

 けれど、桜夜はもう泣いてなんていない。

 柔らかい眼差しで、表情をほころばせていた。


「ねえ、イツキくん」

「なんだ」

「ネモフィラって花、知ってる?」


 唐突に、彼女はそう問いかけてきた。桜夜が話題を変えるのは普段通りではあるのだが、今回ばかりはその内容があまりにも予想の外側だったので、さすがに戸惑う。

 思わず首をかしげるものの、俺は知らないと答えた。その答えを受け、そっか、と彼女は呟く。


「ゴールデンウィークが見頃なんだよ。空より明るくて、海より淡い青色の花が一面に咲いてるの。一緒に見に行こうか」

「それは構わないが……いつだ?」

「今から」

「……今から?」

「うん」

「……学校はどうするんだ。さぼるつもりか?」

「うん」


 平然と頷かれてしまった。


「えっと……それはどこにあるんだ?」

「高速バスで一時間もかからないとこだよ……あー、でも電車使ったほうが早いかな。バスのほうが安いと思うけど……」


 うーん、という声を漏らしながら、桜夜は交通機関について考え込み始めた。どうやらそのネモフィラとやらを見に行くことは決定事項にされてしまったらしい。

 バスで一時間の場所。確実に市外だということが容易に予測でき、俺は思わずため息を吐いた。

 まあ、いいか。たまにはそんな日があってもいいだろう。

 それに、一面に咲く青い花畑というのは、想像するだけでもとても綺麗だと思った。きっと本物は、俺の想像なんて遥かに越えるほどの景色なのだろう。期待感を抱かないと言えば嘘になる。


「しかし、どうして突然そんなことを言い出したんだ」

「知らない景色、見たいんでしょ?」

「確かにそうは言ったが……」

「だから教えてあげるよ。これからも、ずっと」


 はにかむように彼女は笑った。

 その言葉が、その笑顔がうれしくて——自分の口がほころんだことを自覚する。

 これからがあるのだと、桜夜の口から認められたことが、たまらなくうれしかった。


「歯が痛くなりそう」

「ん? ……よくわからないが、そんなに甘ったるいのか?」

「うん。きっと、甘い蜜の毒林檎の味」

「死ぬじゃないか」


 そう言って笑えば、そうだね、と彼女も微笑み返してくる。


「だから、目を覚まさせて」


 ああ、そうか。

 あの童話は、そうして幸せな結末を迎えたのだったか。

 だったら、それに倣うのも悪くない。

 桜夜は目を閉じる。

 同じように、俺も目を閉じた。

 桜の咲く季節が終わり、物語がハッピーエンドで幕を下ろしても。

 俺たちの幸せは終わることなく、きっと、これからも続いていくのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ