第11話『罪色』
ChapteR.11 Scarlet
※流血描写有
五月二日、土曜日。
一応はゴールデンウィークのさなかではあるのだが、土曜日も午前授業がある古鷹高校にとって世の中の連休というものはあまり意味がない。
俺はいつもと同じ時間に玄関の扉を開いたが、しかしそこに桜夜の姿はなかった。以前の土曜日も朝に弱くて起きることができないと言っていたから、まあ、つまりはそういうことなのだろう。
今日はきちんと授業に参加できるといいのだが。そんなことを考えながら軽くストレッチを済ませ、俺は走り出した。
町は普段と変わらず静けさに包まれている。先日降った雨の空気はまだ残っているように感じるが、それも夜が明けるころには消えてなくなるだろう。昨夜の天気予報によると、今日はいい天気になるそうだから。
少し走ったところで交差点に人影を見かけた。その後ろ姿を視界に入れ、俺は走るスピードを少しゆるめる。
信号を待つように立っていたその人物は、俺と同い年くらいの少年だった。身長は俺より少し低いくらい。ジャージの上着を腰に巻きつけており、額から流れる汗を煩わしそうにインナーの襟で拭っている。
その少年にはどこか見覚えがあるような気がした。小、中学校での同級生だろうか。
そんなことを考えている俺の視線に気がついたのか、彼は不意にこちらを振り向いた。
「あ? ……おーおー、てめえか。よっすよっす」
「よ、よっす」
気さくな雰囲気で挨拶をされてしまったので、同じように返しながら彼の隣に並ぶ。どうやらこの少年は俺のことを知っているようだった。
「どこ行くんだ?」
「どこ……というか、ただのジョギングだよ。日課なんだ」
「へえ、オレも似たようなもんさ。ようやく部活が再開したんだがよ、どうにも身体が鈍っちまってなあ」
そう言うと、彼はけたけたと快活に笑った。そして、ついと流すような視線を向けてくる。少年の吊り上がった目は、まるでこちらを見透かそうとしているように見えた。
「元気そうじゃねえか。よかったよかった。こないだはびびったぜ」
「この間?」
「お前がぶっ倒れた日だよ」
「あ」
思わず声を上げた。
ああ、そうか。思い出した。彼は俺と同じ学校……葛城中学校出身の同級生だ。同じクラスになったことはないが、野球部のエースとして活躍していた彼のことを知らない同級生はほとんどいないだろう。
そして、図書室で倒れたあの日。過呼吸を起こして気を失った俺を保健室まで運んでくれた生徒というのが、今目の前にいるこの少年なのだ。
「あのときは、迷惑をかけた」
「気にすんな……つっても、お前ぜってえ気にするよなあ」
「それは……するかもしれない」
「だよな。よし、今度なんかおごれや」
そんなことでいいのだろうか。そう尋ねると、いいってことよ、と彼はまた快活に笑って頷いた。
信号が赤に変わった。俺は横断歩道を渡って道を折れる。隣を歩く彼も同じように道を曲がったが、偶然同じところに向かっているというよりは、ただ単にこちらについてきているだけのようだった。
「図書室に用があったんだろ。面倒をかけて悪かった」
「いや? そもそもオレ、図書室なんざ行ってねえし」
「え?」
図書室に行っていないのに、どうやって俺を保健室に運んだのだろうか。その疑問が顔に出ていたのか、ああ、聞いてなかったんだな、と彼は納得したように呟く。
「あの日は職員室で顧問と話をしてたんだよ。それが終わって廊下に出たら……ほら、職員室って扉の目の前に階段があんだろ? で、雪女みてえに真っ白い姉ちゃんがお前背負って上から下りてきてるとこに、たまたまエンカウントしたっつーわけ」
雪女のように白い女生徒。
そんな人物、俺のまわりにはひとりしかいない。
「お前は青い顔して気い失ってるし、姉ちゃんのほうはお前を引きずって真っ赤な顔してるしよ。びびったぜ。あの姉ちゃん、ちっこい癖に根性あんじゃねえか」
彼の言葉に、俺は少しうろたえる。
そんなこと——雪村先輩は、ひと言だって言わなかった。
古鷹高校の図書室は職員棟の四階、職員室は同じ校舎の二階にある。つまり彼女はあの小さな身体で、気を失っている俺を支えて二フロア分階段を下りたということになるのだ。
……近いうちに、先輩にはあらためて礼を言いにいこう。
「つーかお前、なんでオレのこと知ってんだよ。保健室のおばちゃんから聞いたのか?」
「いや、スクールカウンセラーのユキムラって人だ」
「げっ」
彼は何故か、いまいましそうに思い切り顔を歪めた。
「オレあいつ好きじゃねえんだよ。お前もあんま関わんなよ」
「そうか。いい人だと思うがな。この間もお茶と菓子をくれたし」
「へえ? そいつ、何飲んでた?」
「え?」
何故そんなことを訊くのだろうと首をかしげつつも、記憶を探ってみる。確か、俺と同じく紅茶だったはずだ。砂糖もミルクも入れないストレート。そう答えると、彼は納得したように頷く。
「っつーことは、菓子も口にしてなかったろ」
「ん? ……ああ、そういえばそうだな。甘いものは苦手だと言ってた」
「運がよかったな」
運がよかった。
それはどういう意味だと尋ねようとしたとき、そういえば、と彼は話題を変えるように口を開く。
「お前のクラスに双子いたよな?」
「え? ああ、いるよ」
「茶髪の妹のほう、最近どうよ? 元気してるか?」
「桜夜か? どうと言われても……」
答えるのが難しい質問に、思わず黙り込む。
桜夜は先日まで風邪で学校を欠席していたが、しかしそれをそのまま教えることはできない。
その原因である春野のこと、俺と彼女がこの時間帯に町を徘徊していること——そして何より、桜夜が通り魔だということは、誰にも言ってはいけないことなのだ。
とはいえ、それらのことを除けば特筆すべきことは何もない。欠席明けの彼女は日本刀を学校に持ってくることもなく、普通に授業を受けていたのだから。
「体調を悪くしてしばらく休んでたが、それ以外は普通だな」
「ダウト」
彼のひと言に、心臓が大きく鼓動を立てたのがわかる。
その単語は、桜夜がよく口にしている言葉。
どうして彼がそれを。そう尋ねる間もなく、隣を歩く少年は直後、あれ、と呟いた。
「ダウト……じゃあ、ねえな。嘘はついてないみたいだが……んー? 勘が鈍ったか?」
「……そのダウトというのは何なんだ?」
それは、彼女に対しても抱いていた疑問。
doubt。日本語にすると疑う、怪しむ、いぶかしむという意味の英単語だということは知っている。しかし桜夜や彼がどういう意図でその言葉を口にしているのかは、俺にはよくわからなかった。
「元ネタはトランプのゲームだよ。ダウト。関西のほうだと座布団とかいうらしいが……知らねえ?」
「トランプか……そういうのはあまりしないんだ。神経衰弱くらいしか知らない」
「は? ババ抜きは?」
「名前は聞いたことがあるな。有名なのか?」
「うっそだろ、おい。日本で一番ポピュラーなトランプゲームだぞ」
彼は少し引き攣ったような声でそう言い、何故かこちらから一歩横に離れた。
「ダウトっつーのは、あー、簡単に説明するとだな? 最初のプレイヤーは一と言いながら裏返しにエースを出す。次のプレイヤーは二と言いながら二を出す。三以降も同じように順番に対応する数字を出す。パスは禁止」
「数字が手札になければ負けなのか?」
「いや、そんときは嘘をつくことができるんだ。ほかのプレイヤーはそれが嘘だと思ったらコールすんだよ。『ダウト』つって」
ダウトに成功した場合、嘘をついたプレイヤーはこれまでに出されたカードを手札に加えなければならず、失敗した場合はコールしたプレイヤーがカードを手札にしなくてはいけない。誰かひとりの手札がなくなることがゲームの終了条件であり、ダウトというゲームの勝利条件でもある——彼の説明を要約すると、大体そういった流れのゲームらしい。
「まあ、細けえルールは今度実際に教えてやんよ」
「実際に?」
「今度一緒に遊んでやるっつってんだ。いちいち言わせんなよ、このボケ」
へへ、と。彼は少し照れ臭そうな笑みを浮かべた。
「まあ、つまり『お前は嘘をついている』っつー意味だ。少なくとも、オレはそういう使い方をしてる」
「それは最近の流行なのか? ドラマで使われたとか」
「ん? いや、そういうのは聞かねえな。なくはないと思うけどよ。そもそも、オレの周りでこんな言葉使ってんのはオレと……」
彼は何かを思い浮かべるように一瞬空を仰いだが、しかしすぐに、なんでもない、と呟いて視線を戻した。
ダウト。桜夜がその単語を口にしているのを、俺は二回ほど聞いたことがある。一度目は藤咲に対して、二度目は伊東先生に対してだ。そのとき、あのふたりは何か嘘をついていて、彼女はそれを見抜いていたということなのだろうか。
あなたは嘘をついている——と。
ふと、思う。
先ほどの彼の質問。まるで、桜夜のことを知っているかのようだ。
いや、同じ高校に通う同級生なのだから、仮にふたりが知り合いだとしても特別不思議なことではない。しかし先ほどのニュアンスは、まるで、もっとずっと以前から知っているかのような——
「嘘っていえば、さっきアオミのやつ見かけたんだけどよお」
「ん? 藤咲が?」
嘘といえば、という切り出し方からどうして藤咲の話題になるのだろうか。そう思いながらも、俺は彼の話に乗ることにした。
「こんな時間にか? 女子ひとりは危ないだろ。通り魔もいるのに」
「何言ってんだ。通り魔はこないだ捕まっただろ」
しまった。
横目で彼の表情を確認してみるが、俺の言葉に違和感を覚えているような様子は見えない。そのことに安心して、そっと胸を撫で下ろした。
迂闊だった。世間が通り魔と認識しているのは、先日逮捕された春野木葉のほうだ。黒神桜夜こそが真犯人であることを知る者は誰もいない——俺しか知らないのだから。気をつけなくてはならない。
「オレも一応声はかけたんだがな? バイトのシフトを早朝に入れられちまったんだとよ」
「ああ、なるほど。それなら仕方がないな」
「——っていう嘘をつきやがったんだよ、あのアマ」
隣を歩く彼はにやにやとした笑みを浮かべていたが、しかしその声はどこか苛立たしげなものだった。
「……嘘だとわかったうえで、放っておいたのか?」
「嘘だってわかるからだよ。なんか知らんが、あいつがオレに隠したがったってことだろ?」
そんなやつの世話を焼くほどお人好しじゃない、と彼は吐き捨てる。
「嘘って、そんな簡単に見抜けるものなのか?」
「おう、コツさえわかれば誰にでもできるぜ?」
「コツって、どんな?」
「あ? あー……」
彼は少し悩むような仕草を見せたが、しばらくして、お前ならいいか、と呟いた。
嘘を見抜くコツ。聞いてみれば、それは確かに誰にでもできそうな——俺にもできそうなくらいに簡単なものだった。
対象の表情の読み取り方や、仕草の観察方法、嘘をついているときの声色の特徴など。嘘を見抜くというよりは、読心術に近いような気がする。コツを教えてもらいながら、俺はそんな感想を抱いた。
話し込んでいるうちに、気がつけばいつもの遊歩道がもう目の前にあった。俺が足を止めると、彼も同じように立ち止まる。
「藤咲とは、どこで会ったんだ?」
「お? 行くのか?」
「まあ、一応」
心配だからな。そう言うと、彼は唇をゆるやかに歪める。なんとなく、意地の悪そうな笑顔だった。
「お前は知らねえだろうが、あの女、腹にどす黒いもん抱えてるぜ? 中学でお前に構ってたのも、おおかた周りへのパフォーマンスだろうよ」
「……知ってるよ」
「なんだ、知ってんのかよ。あいつも爪が甘い。……で? わかってるうえであいつのとこに行くわけ? 馬鹿なのか、てめえ」
「それは……否定できないな」
自分が馬鹿なことをしようとしているという自覚はある。余計なお節介なんてするべきではないということも理解しているし、彼のように、干渉しないことが最善であるともわかっている。
それでも心にかけてしまうほどには、俺はどうしても、彼女のことを嫌いにはなれないのだ。
「それに、藤咲は悪いやつじゃないと思うから」
「あっはっは! そりゃ違いねえ! まったくもって同感だぜ!」
彼は肩を大きく揺らしながら笑い、
「あの女は、悪人にも罪人にもなれやしねえ」
と、そう呟いた。
そして彼は、藤咲の居場所を教えてくれた。地図アプリを使おうとスマートフォンを取り出したが、どうやらその必要はなさそうだったので再びポケットに戻す。
「それじゃあ」
「おう、あばよ」
俺たちは別れの言葉を交わし、彼は背を向けて走り出した。こちらを振り返らないその背中が徐々に小さくなっていくのを見届け、俺も一歩を踏み出す。
向かう先は桜の並ぶ遊歩道ではなく、桜に囲まれた公園である。
先ほど耳にしたばかりのその場所は——奇しくも、通り魔と出会った場所でもあった。
* * * * *
「……あら、紅野さんじゃないですか。おはようございます」
東の空が薄く明るみ始めたころ。
藤咲は公園のベンチに座り、桜の木を見上げていた。周囲には白い花びらが散らばっている。先日の雨で大半が落ちてしまったのだろう。遅咲きだったとはいえ、もう五月だ。葉桜になっていてもなんらおかしくはない季節である。
永遠のように感じた今年の春も、もう終わりを迎えるのだろう。
彼女は私服姿だった。サイズが大きめのゆったりとした黒いパーカーと、膝丈の青いスカート、ヒールの浅いサンダル。ちょっと近所のコンビニまで行くときの服装といった感じの、どちらかといえば部屋着のようなスタイルに思えた。
いつものポニーテールはほどかれていた。学校限定の髪型。優等生に見えるからと、いつだったか藤咲がそう言っていたことを思い出す。
「奇遇ですね、こんなところで会うなんて」
「……藤咲こそ。どうしたんだ、こんな時間に」
「バイトですよ。うっかりシフトを早朝に入れてしまったんです」
「ダウト」
言ってみたものの、あまり様になっているとは思えなかった。
なるほど。確かにコツさえわかってしまえば、人の嘘を見抜くことは意外と簡単だ。そんな感想を抱いたが、そもそも、さして何をするでもなくベンチに腰かけている彼女の様子を見れば、本当のことを言っていないと誰だって気付くだろう。
「それ、最近よく言われますけど、今時の流行だったりするんですか?」
あなたで三人目です、と藤咲は呟いた。
「紅野さんのほうは……ひょっとして、また迷子ですか? 大きい通りまで案内しますから、一緒に帰りましょう」
「いや、俺は……」
「あなたには関係ないからさっさと家に帰れ——そう言ってるのだけれど、理解できなかったのかしら」
彼女は微笑を浮かべながら、俺に視線を向けた。眼鏡の奥の瞳が、こちらを冷たく睨みつけている。
「……帰るなら、藤咲も一緒に帰ろう。家まで送るから」
「あら、心配してくれるの? 随分とお人好しなのね。自分を利用してた女に対して」
藤咲はそう言った。その言葉にたっぷりと込められた皮肉の響きを感じ取れないほど、さすがの俺も鈍感ではない。
「世の中はね、あなたみたいな人のことを愚鈍と呼ぶのよ。せいぜい気をつけなさいな。また私みたいな女に騙されるわよ」
「藤咲は、悪いやつじゃないと思うよ」
「は?」
そんな声を上げ、彼女はそれまで表情に浮かべていた薄い笑みを崩した。その顔には、何を言っているんだこいつは、と露骨に書かれている。
「あなた、本物の間抜けなの?」
「利用されてたことには、まあ、少し傷ついたが」
「…………」
「けれど、クラスになじめなかった俺にお前が話しかけてくれたことは、本当にうれしかったよ。たとえ演技だったとしても。……それに、お前の言葉のすべてが嘘だったとは、俺には思えない」
「………………」
「それと、本当に悪いやつは『気をつけろ』なんて言わないだろうし……そんな風に、申し訳なさそうな顔もしないと思う」
藤咲は何も言わない。が、明らかに動揺しているように見えた。
そんな様子の彼女を見て、意外とわかりやすいやつだったんだな、と形容しにくい感慨を俺は抱いていた。
藤咲との縁はもう三年になるが、彼女のポーカフェイスの下にある素の表情を、ようやく見ることができたような気がする。
「まあ、それは置いておいて。本当にバイトじゃないんだったら、藤咲も帰ったほうがいい」
「……駄目、なのよ」
うつむくように目を伏せながら、藤咲はそう言った。結ばれていない髪が流れ落ち、彼女の表情を隠す。
「バイト、というのは嘘よ。本当は、ここで待ち合わせなの」
「待ち合わせ? こんな時間にか?」
「ええ、まあ」
藤咲は頷いた。言葉に迷っているのか、彼女はためらいがちに言いよどむ。
「だから、お願いだから紅野さんは帰って頂戴。ここにあなたがいるってこと、相手に見られたら困るのよ」
静かな声でそう言い、藤咲はこちらを見上げてくる。そこに浮かべている表情は、筆舌に尽くしがたいという言葉がよく似合う、複雑なものだった。
「待ち合わせって、相手は誰なんだ」
「あなたには関係のない人よ」
「言えないようなやつなのか」
「ねえ、お願い。もう時間がないの。本当に帰って頂戴」
彼女はにわかに慌てたかのような声を上げた。焦っていることは明白だ。
俺は思考する。人気のない時間帯の待ち合わせ。第三者に見られたら困る状況。そして、藤咲がひた隠しにしようとしている相手のこと。それらの材料を頭の中に並べて考える。
そして不意に、あるひとつの可能性に思い至る。
まさか、彼女は——
「——藤咲、お前」
「……何よ」
「まさか、脅迫されてるのか?」
突然、彼女は弾かれたようにベンチから立ち上がる。
それはこちらの言葉に反論するためや、俺のことを罵倒するためではない。
ざり——と。
静けさに包まれていたはずの公園に、誰かの足音が響いたからだ。
「違うの!」
藤咲は足音の方向に叫ぶ。そしてこちらをかばうように腕を広げるが、しかし俺の意識は既に彼女から外れていて、視線は、藤咲と同じ方向へと釘付けにされていた。
そこに佇む『彼女』に。
手にしている日本刀を引きずって、そこに存在している『彼女』に。
視線が釘付けにされていた。
目を、奪われていた。
あの日のように。あの日を再現するかのように。
黒神桜夜が、そこにいたのである。
「これは、違うのよ。彼はたまたまここに——」
藤咲が言葉を続けようとする——それを待たずに、桜夜はこちらに駆け出した。
刀を大きく振りかぶりながらこちらに飛び掛かってくる彼女。その服装は、俺とジョギングをするときに着ていたいつものウェアではなく、久しぶりに目にしたフードつきのジャージ姿だ。フードを深く被り、白いマフラーで顔を隠すように巻いている。
それもまた、あの日の再現。
しかしあの状況とは決定的に異なっている点がひとつある。
あの日桜夜が斬ったのは櫛谷美々だが、今日襲い掛かっているのは藤咲だ。
何故彼女が、通り魔事件とも詐欺事件とも無関係な藤咲を襲うのか。そんなことを思考する余裕はなかった。
「藤咲!」
俺は目の前にいる藤咲の肩を強く引き、そのまま彼女の前に出た。背後で藤咲が何かを言っているような気がする。しかしそれを無視して——俺は桜夜に向かって走り出した。
彼女は戸惑ったように見えた。向かってくるとは思わなかったのだろう。
俺はもう戸惑わない。あの日の再現をするつもりなんてなかった。
振り上げられた刀を視界に入れ、俺はあることを思い浮かべる。
桜夜と春野が相対した、あのときの状況を。
日本刀と鉈。刃渡りのリーチを考えると前者のほうが有利に思える——事実、俺もそう考えていた。しかしあの日見た桜夜の身のこなし方、身体の運び方に、それは違うのだと思い知らされた。
刃渡りが長いということは、つまり、間合いが遠いということだ。
だから。
「…………っ!」
目と鼻の先で、彼女が息を飲んだ気配がする。すぐにこちらから距離を取ろうとするが、俺から離れることも、そして刀を振り下ろすこともできないようだった。
それも当然だ。
桜夜が刀を手にしている右手首を、俺が左手で、力強く掴んでいるのだから。
「——チッ」
彼女はこちらの手を振りほどこうと腕を揺らしてもがいていたが、自分の力ではそれはできそうにないと理解したのだろう、せめてもの抵抗とばかりに小さく舌を打つ。
俺は剣や槍の知識なんて持っていない。しかし聞くところによると、やはり基本的には間合いが遠いほうが有利ではあるらしい。刀と槍の場合、圧倒的にリーチの広い槍の間合いにはそもそも入ることが難しいからだそうだ。
それは長物の特性であり、しかし同時に欠点でもある。何故なら、一度間合いに入られてしまえば、リーチの長い得物では反撃することもままならないからだ。
それは、日本刀が相手でも同じこと。
なら、桜夜が刀を振り下ろすよりも先に、その間合いに入ってしまえばいいだけだ。
たとえ彼女が剣術の経験者だろうと、俺は男で、桜夜は女。そこには性別という、どうしようもできない差がある。こうして腕を掴んでしまえば、彼女の力ではこちらの手を振りほどくことはできない。
「どうしてお前が、藤咲、を——」
どうしてお前が藤咲を襲うんだ。
そう桜夜に問いただそうとして——しかし、その質問を最後まで口にすることはできなかった。
違和感。
ひどく、すさまじい違和感を覚えたからだ。
何か——何か、致命的なものを見落としているかのような胸騒ぎ。まるで自分は最初から何もかもを間違ってしまっているのではないかと、そんな心臓のざわめきに、気がつけば手が震えていた。
手。
彼女の右手首を掴んでいる、俺の左手。
待て、待ってくれ。考える時間を、ほんの少しでいいんだ、思考の整理をさせてほしい。そういうことだったというのか。そんなはずがない。そんなはずはない。最初からずっとそうだったなんて、そんなこと、あるわけがない……!
「……それは、こっちの台詞だよ」
淡々とした声色で、通り魔はそう呟いた。
その呟きこそが、違和感に対する答え。
「なんでお前は、また俺の邪魔をするんだ」
そのとき、強い風が吹いた。
地面に散らばった桜の花びらが舞い上がり、そして、通り魔のフードが揺れる。
「————え」
無意識に、そんな声が漏れた。
一陣の風に吹かれ、ぱさりと音を立ててフードが肩に落ちた。その結果、フードの中の黒髪が——少しハネぎみの黒い髪が、俺の視界に惜しげもなく晒されることになる。
中性的な童顔。
こちらを睨みつけてくるたれ目。
少し小柄な体格。
腕も男にしては細いほうだと思うが、しかし当然、妹のような柔らかさがあるわけではない。
そして、声。妹とは似ても似つかない、凛々しい声の持ち主。
黒神白夜が、そこに存在していた。
* * * * *
「——は、くや?」
ひどく枯れて、乾いたような声で。
気がつけば、俺はその名前を口にしていた。
全身から力が抜けていくのがわかる。彼にもそれが伝わったのだろう、こちらの手を振り払うと二、三歩飛び退いて距離を取った。
そして、ふうん、と呟くと、
「お前、本当に気付いてなかったんだな」
と、なんの感慨も感情もない声で、白夜はそう呟いた。
「教室で鎌かけてみてもリアクションないから、たぶんそうだろうなって思ってたけどさ」
「鎌を、かけたって……」
教室でという彼の言葉に、あの日の光景が、走馬燈のように頭を駆け巡る。
——そういえば聞いたか。
——今朝、この近くの公園で六人目の被害者が出たらしい。
——例の連続通り魔事件だよ。
通り魔と出会ったその日、白夜はそう言っていた。
あのとき、彼は藤咲と雑談している風に装い、俺の反応をうかがっていたということか。
「あの日……櫛谷美々を襲ったのは、お前だったのか?」
「違うよ」
即座に否定した白夜に、この期に及んで俺は安堵する。
しかし、それも一瞬のことだった。
「櫛谷美々だけじゃない。照井蓮輔を斬ったのも、機織元気を斬ったのも、乙坂佳以を斬ったのも、寝良法助を斬ったのも、鬼怒川凛を斬ったのも、ついでにお前の頬を斬りつけたのも——全部、この俺だ」
白夜の口から並べられたのは、無差別連続通り魔事件の被害者たちの名前。
彼はゆらりと日本刀の切っ先をこちらに向けてきた。思わず、俺は自分の左頬に手を当てる。
あの日つけられた頬の傷は、既に跡形もなく消えている。もう治っている。もう治っているはずなのに……頬に痛みが走ったような、そんな錯覚を一瞬覚えた。
「お前が、通り魔だったのか」
「ああ、そうだよ。俺が通り魔だ」
薄い笑みを浮かべ、白夜は頷く。
拍子抜けしてしまうくらいにあっさりと、彼は肯定した。
自分が通り魔であることを——黒神白夜は、認めたのだった。
ああ、そういうことだったのか。
俺はようやく、ことのすべてを理解することができた。
黒神白夜と黒神桜夜。
ふたりは——最初からずっと共犯関係だったのだ。
通り魔はひとりではなくふたり——いや、六人を斬ったという白夜の言葉に嘘はない。だから『人を斬りつけてきた者』を通り魔と定義するなら、それに該当するのは彼だけであり、おそらく妹のほうは当てはまらないだろう。
ならば、桜夜はいったい何をしたのか。
彼女は通り魔である兄のために、いったい何をしてきたのか——その解答は、考えるまでもないほどに明白だ。
共犯者が犯人に化けることにより、真犯人に嫌疑の目を向けさせないように仕向けただけのこと。
——双子の存在は、あらかじめ読者に知らされなければならない。
それは、ノックスの十戒の十番目。
ノックスの十戒とは、ミステリーを書く際の基本指針として有名なルールだ。類似したものにヴァン・ダインの二十則というルールもあり、そこでも双子について触れられている。
何故それほど、ミステリーで双子という存在が重要とされているのか——それは、双子なら替玉トリックが容易に行えるからだ。
双子が二人一役を勤めるアリバイ工作。それは、陳腐なまでに使い古された手法だ。
しかし、そのトリックは双子が一卵性だからこそ可能なもの。二卵性なうえに性別も違う白夜と桜夜では入れ替わることも難しい。
……いや、違う。
そもそもあの日、何故俺は通り魔を桜夜だと認識した?
夜明け前の薄暗い時間帯、色彩のない灰色の視界。そのうえ、深くフードを被っていて顔もよく見えなかったその人物のことを、俺はどうして黒神桜夜だと思い込んだ?
それは——マフラーを巻いていたからだ。
季節外れの、白いマフラー。
体育の授業でも外さない、桜夜を象徴するもの——それを巻いていたから、俺は通り魔を彼女だと認識したんじゃないか。
白夜は小柄で、男にしては少し細めの体格をしている。身長も妹とさほど変わらない。顔を隠せば入れ替わることは可能だし、そこにマフラーという要素を加えれば桜夜を装うことも難しくはないだろう。
俺を共犯者にするつもりなんて、端から彼女にはなかったのだ。
唯一の目撃者を脅迫し、監視すること。それが、桜夜の目的。本来の共犯者である、彼女の役割。
俺は、何もかもを間違っていたのだ。
最初から——ずっと。
ふうん、という声を、白夜は再び漏らす。それは、少しつまらなそうなものだった。
「もっとうろたえるって思ってたんだけど、意外と冷静だな」
「……まあ、大抵のことは知ってたというか、想像がついてたからな」
俺は落ち着いた声で——自分でも少し意外なほどに落ち着いた声で、そう言った。
本当は落ち着いてなんていない。彼の言う通り狼狽しているし、動揺もしている。それでも今は冷静にならなくてはいけない。今だけは、混乱していることを悟られてはならない。
「その六人を襲ったところまでは、まだわかる。けれど、どうして藤咲のことも襲うんだ。こいつは例の詐欺師たちとは関係ないだろ」
「おお、マジで知ってるんだ」
彼は感心したように目を丸くした。刀を持っていなければ、手をたたいて喝采を送ってきたかもしれない。
「だってよ。聞いたか? お前は無関係だって、こいつはそう思ってるらしいぜ?」
そう言って、白夜は俺の背後にいる藤咲に視線を向けた。つられて俺も彼女を振り向く。
藤咲は、何も言わない。肯定も否定もせず、ただ沈黙を貫いていた。
どうして黙っているのだろうか。
まさか、彼女は——
「先生なんて珍しい名字、探せばすぐに出てくるはずなんだ。なのにどれだけ調べてもヒットしない」
突として、彼はそんなことを言い始めた。
「わかったのは、先生和弘の実家が県境のほうだってことだ。まあ、俺としてはそれさえわかればもうよかったんだけどな。伊東先生を殺したっぽいどこかの誰かが、ついでに俺の罪も被ってくれたみたいだしさ」
「どこかの誰か……」
どうやら、桜夜は春野木葉のことを兄に報告してはいないらしい。そこにどんな意図があるのかはわかりかねるが……ひとつ確かなことは、彼女は真犯人の正体を隠し通したうえで、あの男に罪を被せることに成功したということだ。共犯者としての役割を、桜夜は十全に果たしている。
今思えば、通り魔を『彼』と呼んだ春野の勘は、間違っていなかったということになるのだろう。
「もう、ここらで終わろうって考えてたんだ」
「……終わるって、通り魔をか?」
「ああ。お前は俺に気付いてないみたいだし……それに、話してみれば意外と面白いやつだったしな。楽しかったんだぜ、本当に。お前のこと、殺さなくてもいいやって思うくらいには」
「…………」
「先生の人間がこの町にいないんだったら、俺的にはそれで構わなかったんだよ。だから、こんなことはもうやめて、お前らと過ごす普通の日常に戻ろうって思ってたんだ。なのに——はは、思いつかなかったわ。まさか離婚して、名字が変わってたなんて」
「————え」
離婚。
その単語に、藤咲の家で、彼女と交わした会話を思い出す。
あのとき、母子家庭だと藤咲は言っていた。父親は亡くなったのだと俺は考えたが、しかし彼女はそれを否定した。生きているとも答えた。それなら、離婚したという可能性も十分にありえるだろう。
離婚も母子家庭も、そう珍しいものではない。結婚したときに夫の名字にそろえるのも——離婚した際に母親の旧姓に変わるのも、だから、よくある話なのだ。
生きているわよ。豚箱の中で。
藤咲はそう言っていた。
それは、つまり——
「その通り、なんですよ」
長い沈黙を破るように、彼女は口を開いた。
何かを肯定するような言葉を紡ぎ、そして、
「先生和弘は、私の父です」
と、告白したのだった。
——どこにもいないよ。
そう言った誰かの言葉を、不意に思い出す。そしてそのとき彼女は、続けてこう言ったのだ。
そんな珍奇な姓をもつ人間は、少なくともこの市内にはもういない——と。
何でも知っていると謳うあの先輩は、決して嘘をついたわけではない。離婚して姓が変わり、先生という名字の人間がいなくなったことは事実なのだから。
しかし、それは事実であって真実ではない。そして真実を語らないことこそが誠実なのだと、その人は言っていた。
雪村月見——彼女はいったい、どこまで知っていたというんだ。
「……これでわかったでしょう」
そう呟いた藤咲の声に、はっと我に返る。
彼女は涼しい形をした目をこちらに向けていた。白夜ではなく、俺に対して。
「これはあなたには関係のないこと——私と彼の話なんです。紅野さんは帰ってください」
「駄目だ」
そう言ったのは白夜だった。そして彼は刀の切っ先を横にずらし、藤咲を指し示す。
「先生蒼海。俺はお前を殺して、イツキも殺す」
「なっ……」
そこで初めて、彼女は白夜に対して狼狽の表情を見せた。彼が通り魔だと告げたときも、自分が詐欺師の娘だと認めたときにも取り乱してはいなかったというのに。
「なんで紅野さんも……彼は無関係じゃないですか」
「目撃者は殺す。当たり前のことだろ?」
特にイツキは二度目だしな、と白夜はごく自然なことのようにそう言った。実際、それは彼にとって決まりきっていることなのだろう。
自分にとってデメリットとなる人間を排除する。それは、わかりやすいくらいに論理的な思考だ。
たとえ、それまでともに過ごした日常がどれだけ楽しいものだったとしても——そこに殺すべき理由があるから、白夜は俺たちを殺すことを選んだのだ。
「……紅野さん、逃げてください。あなたを巻き込みたくありません」
「藤咲を置いていけるわけがないだろ」
「私はいいんです。ここには、死ぬために来たんですから」
俺は思わず振り向いた。視線に気付いた藤咲は、こちらに微笑みを見せてくる。
その微笑は穏やかで、そして、すべてを悟っているかのような切なさがそこにはあった。
それは死を覚悟した人間だけが浮かべられる笑顔なのだと、俺はすぐに理解した。
「無知とは罪です。知らなかったでは許されません」
いつだったか独り言のよう零していた言葉を、彼女は再び繰り返した。
「父が詐欺師だったなんて、当時の私には知る由もありませんでした。ただの営業、あるいは、セールスマンみたいなものかとばかり思ってたんです」
「……言い訳か?」
「違いますよ。これはただの……そう、ただの懺悔です」
白夜の言葉に、彼女はそう返した。その声はとても静かなものだったが、藤咲の言葉は、早朝の空気を震わせるように俺たちの耳に届く。
「親たちの罪は、子が償います。そうすべきだと考えたんです。もしも私たちの罪を裁く者が現れたのなら、そのときは抗わず、罰を受けようと——それで、すべてを終わらせてもらおうと」
「終わらせるって……」
「みんな疲れきってたんですよ。罪悪感とか、しがらみとか……特に、世間の目とかに、ですかね」
それは。
それは、よくある話だ。
悲しいほどに、世の中にありふれている話。
事件直後、彼らが世間にどのような視線を向けられてきたのか、どのような理不尽を受けてきたのか……それは、平和に生きてきた俺には想像すらできない。
親の罪は親の罪。子供が背負う必要はどこにもない。
誰しもがそう考えられたら——彼らは、生きることに疲れたりなんてしなかったのだろうか。
「あの詐欺師はそれだけのことをして、私たちには復讐されるだけの理由があるのですから。当然ですよね」
「復讐?」
白夜はきょとんとした表情を浮かべ、首をかしげる。まるで、彼女が何を言っているのかわからないとでも言いたげな表情だった。
「……葛城の詐欺事件。その復讐じゃないんですか?」
「え、いや。違うけど」
藤咲の問いかけを、白夜は即座に否定した。想像もしていなかった方向からの質問だったのか、彼は少し困惑しているように見えた。
しかし、白夜以上に困惑しているのは彼女のほうだ。そしておそらく、俺も藤咲と似たような表情を浮かべているのだろう。
通り魔の動機は、復讐ではない。
だとすれば、いったい、なんだというんだ。
「いや、確かに俺の両親はお前らの被害に遭ったよ。それが原因で母親は狂ったし、父親は壊れた。最終的には親父のやつ、お袋の首を絞め殺したうえに毒飲んで自殺したよ。それについて先生たちを恨んでないって言うと嘘になるな」
「…………」
「でも、そんなことはどうだっていいんだ」
どうだっていい。
生みの母親が狂い、実の父親が壊れようとも。
そんなことはどうとも思っていないと、まるで独白するかのように、彼は口を開く。
「俺にはサクさえいてくれれば、それ以外はどうでもいい」
凪のように穏やかな声色と表情で、白夜は呟いた。その唇には、わずかに微笑をたたえている。
「親父が壊れたとき、俺になんて言ったか教えてやろうか」
「……なんと、言ったんだ?」
「『お前は俺の子供じゃない』——だってさ」
彼は刀をわずかに下ろし、そしてどこか遠くを見つめるように空を仰いだ。
父親のことを思い浮かべているのだろうか。
壊れてしまったという、かつての父親のことを。
「親父からしてみれば、母親似の俺は狂った女房のガキとしか思えなくなったんだろうな。サクのことだけかわいがって、俺のことは無視ときた。母親は母親で、家の金貢いでは借金増やし続けてたしな。地獄みたいな日々だったぜ」
「…………」
「そんな両親の復讐なんて、普通考えないだろ」
吐き捨てるわけでもなく、あくまでも淡々とした口調で白夜は語る。
本当に、両親のことなんてどうとも思っていないのだろう。
愛情の反対は無関心——そんな言葉を残した偉人は、はたして誰だったか。
「ふたりが死んだあと、俺とサクは施設に預けられた。そこはそこで地獄みたいな場所だったよ。職員から子供たちへの虐待が日常茶飯事で行われてるんだ。もうつぶれちまったけどさ」
「…………」
「その地獄を出て、やっと、理想の居場所を手に入れられた。優しい人たちにも会うことができた——ここが俺たちの帰ってもいい場所なんだって、そう思える場所を、ようやく見つけることができたんだ」
なのに、と彼は続ける。
「中三の、古鷹の入学説明会のときだ。驚いたぜ。パンフレットの教員欄に照井の名前を見つけたときは」
「…………」
「わかるか? そのときの俺の気持ちが。家族をぶち壊した元凶の男が、自分の進学先で働いてるってわかったときの気持ちが」
「……あの人は、事件当時はまだ未成年でしたから」
口をつぐんだ俺と入れ替わるように、それまで成り行きを静観するように黙っていた藤咲が、そのようなことを言った。
「ですが、彼は在学中に然るべき処分を……」
「そんなのは俺の知ったことじゃない!」
彼女がその言葉を言い終える前に、白夜は爆ぜるように怒鳴る。
「知るか、そんな事情! 知らねえよ! 俺が知ってるのは、照井蓮輔が……先生和弘が、あの詐欺師どもが! 俺の居場所をぶち壊したって事実だけだ! そのせいで俺がどんな地獄を見てきたか……お前らには、想像もできないんだろうなあ!」
彼は激昂していた。喉が壊れるのではないかというほどに、こちらに向かって、その激しい感情をそのままぶつけるがごとく叫ぶ。
「今度は黒神の家を壊すのか? 全部ぶち壊して、狂わせて……次はサクのことも奪うのか?」
「……白夜、一度落ち着け」
「あいつは! たったひとりの妹なんだ! お袋が狂って、親父が壊れて……残ったのは妹だけだ! 俺にはもうサクしかいないんだ。あいつしか残ってないのに、お前たちはそれすらも奪うのかよ!」
静かな公園に、少年の咆哮が響き渡る。そして彼は俺たちのこと睨みつけた。その視線はクラスメイトに向けるものではない。あらん限りの殺意を込めた、敵を見る瞳だ。
ああ、と思う。
おそらく、白夜にはもう俺の声は届かないのだろう。
お前に残されているのは桜夜だけじゃない。家族も、友達だっている。お前のことを大切に思ってくれている人たちを、俺たちは奪ったりしない。
そう思った。そう伝えようと思った。しかし喉から出たのは言葉ではなく、ただの乾いた空気だけだった。
「……桜夜さんのほうが白夜さんに依存してるって、てっきりそう思ってたんですけどね」
ため息を吐くように、藤咲はそう呟いた。
それはどういう意味なのだろうか。そう尋ねようとした声は、直後鼓膜を震わせた叫びによって上書きされた。
「俺とサクの理想郷に、お前たちはいらない。だから俺は、俺たちの居場所を守るために! 今ここで、お前らを排除する!」
白夜は叫び、両手で刀を構え直した。こちらを睨みつけてくる瞳の奥に、激しい殺意を孕んだ炎が燃えているような、そんな錯覚を起こす。
殺意と、敵意と——そして、俺たちを排除しようという害意。
抱えきれないほどの憎悪が、彼の中で渦巻いているようだった。
「——馬鹿みたい」
不意に。
ひどく冷めきった少女のひと声が、背後から聞こえてきた。
その声の主が誰かなんて、考えるまでもない。
「……何か、言ったか?」
「あら、聞こえなかったのかしら。じゃあ、あなたみたいな愚か者でも理解できるように、優しい私はもう一度だけ言ってあげる——私はね、馬鹿みたい、と言ったのよ」
今度はきちんと理解できたかしら、と。白夜の問いに対し、嘲るような響きを込めてそう返した少女は、いつの間にか俺の隣に並ぶように立っていた。
目尻に嗜虐を滲ませ、唇には凍てつくような冷笑を浮かべ——藤咲蒼海は、目の前にいる少年を見つめていた。
その眼差しを受けた白夜は、戸惑ったように一歩下がる。
困惑するのも当然だろう。突として別人のように変貌した藤咲のことは元より……まるで真実くだらないものを見るような瞳を向けられれば、誰だって少しはうろたえるかもしれない。
今の白夜と藤咲は、もはやクラスメイトという関係ではない。通り魔と被害者——より単純に表現するなら、殺す者と殺される者だ。
殺される側であるはずの彼女が、どうしてそんな嘲笑するような目を白夜に向けることができるのか。
恐怖でも驚愕でもない軽蔑の眼差しで、己を殺そうとしている人間を見つめることができるのか。
白夜には理解できていない。
俺にもわからなかった。
「理想を守るため? 居場所を守るため? よく言うわ。『何かを守るため』なんて、独り善がりな正義を振りかざすエゴイストの常套句じゃない。……ああ! 本当に、心底くだらない」
「う、うるさい! お前に……お前に、何がわかる! 先生和弘の娘であるお前に! 俺の何がわかるんだ!」
「何がわかる? 何がわかるですって? あなた、さっきも似たようなことを言ってたわね。『俺がどんな地獄を見てきたか、お前らには想像もできないんだろうな』……だったかしら? そんなの、それこそ『私の知ったことじゃない』わよ」
ひどく意地の悪い口調で、藤咲は彼の言葉を真似るように繰り返した。
わざとらしく神経をえぐるような、皮肉をねじ込むようなその声色に……白夜の顔が、わずかに歪む。
「そう言うあなたは、私の何をわかってくれるのかしら」
「なんだと……?」
「父親が逮捕されたせいで、お母さんは仕事をクビになったわよ。再就職も難しくて、今は毎晩男に媚びることでお金を稼いでるわ。時には股を開くこともあるみたいね。その翌日はずっといらいらしてるから、私に当たってくるのだけれど。……あはは。おばさんのヒステリーほど醜いものはないわよね。そうは思わない?」
「……っ、は」
「あら、何? その顔は。こんなのよくある話でしょ? 少し考えれば想像できることじゃない。……それとも。ひょっとして、同情してくれてるのかしら?」
藤咲の指摘が図星だったのだろう、彼は明らかに狼狽した様子を見せた。
白夜は左手で胸のあたりを押さえ、そしてジャージを握り締めた。指先が白く染まるほどに強く。下唇を噛み締め、視線は真っすぐに彼女へと注いでいる。睨みつけているつもりなのかもしれない。しかし怒りや憐れみ、ほかにも様々な感情が複雑に入り混ざっているその目は、ひどく歪にしか見えなかった。
こちらに向けられている日本刀の刃が、不安定に揺れる。
「あなたがどんな不幸な目に遭ってきたのか知らないけれど、今は幸せなのでしょう? 理想の居場所を手に入れたのでしょう? ならそれでいいじゃない。私なんて、現在進行形で地獄だわ」
「……ぐ、う」
「そもそも、あなたちょっと被害妄想がひどすぎるんじゃない? ひょっとして、この世界は自分を中心に回ってるとでも思ってるのかしら」
「…………う、る」
「誰も彼もあなたの大切なものを奪おうとなんて思ってないわよ。私たちは、明日をどうやって生きようかって、それを考えるだけで必死なのだから。今が幸せなら勝手に幸せになってなさい! 他人を巻き込んで不幸面してんじゃないわよ!」
「————るっせえんだよ!」
彼は怒鳴る。
抱えていた感情のすべてを藤咲にぶつけるように、声を張り上げた。
「うるさい、黙れしゃあしいんだよ! もうここで終わりなんだ、お前を殺せば、こんなことは全部終わるんだよ!」
「まあ、それは素敵なアイデアね。私もそろそろ飽きてきたころだったの」
激昂する白夜とは対照的に、彼女は冷笑を崩さない。
そして唐突に、藤咲は、通り魔に向かって一歩を踏み出した。
その行動にびくりと肩を震わせた彼は、気圧されたように一歩後退した。しかし白夜が一歩後ずさる間に彼女は二歩分の距離を詰める。あっという間に、ふたりの距離は目と鼻の先にまで縮まった。
彼は刀を振り上げた。たぶん、反射的な行動だったのだろう。しかし対する藤咲は機械的なまでに冷静な仕草で左手を伸ばし、それを掴む。
俺と同じように手首を——ではない。
その手の先にある日本刀をためらいもなく、彼女は握り締めたのだ。
白刃に、赤い糸のような線が伝う。
「は……っ!?」
白夜の目が驚愕に見開かれた。
藤咲はそんな彼の様子にも構わず、右手でも同じように刃を持つとぐいっと自分のほうに引き寄せた。そして刀は彼女の首のつけ根——頸動脈のあたりに添えられる。
ぱらぱら、と。藤咲の肩から何かが落ちたのが視界に入る。それが彼女の髪だと気付くのに、時間は必要なかった。
ただ当てるだけで髪を切ってしまうほどに、鋭い切れ味を誇る刃。そんなものを両手で掴んでいるというのに、藤咲は、顔色ひとつ変えてなどいなかった。
「な……何を、して」
「何を? あなたがやろうとしてることを手伝ってあげてるだけじゃない」
「し、死にたいのか……!?」
「あら、おかしなことを言うのね。私、ちゃんと最初に言ったはずよ? ——ここには、死ぬために来たって」
くす、と。
彼女はそれまで浮かべていた冷たい笑みを、より酷薄なものへと歪ませた。
その笑顔に、背中に水を流されたかのような悪寒が走る。そして、それは白夜も同じだったのだろう。彼はとっさに刀を引こうとした——が、即座にその手を止めた。
藤咲は、今も両手で刃を握り締めていた。そのまま刀を引けば手のひらの刀傷はより深いものになるだろうし、最悪の場合、彼女の指を切断しかねない。
しかし、白夜は柄を握る手を緩めようとはしなかった。おそらく、藤咲が刃を自分の首に押し当てようと力を込めているのだろう。今手を緩めれば、刀はそのまま彼女の頸動脈を切り裂く。そんなことは、誰にでも予想のできることだ。
刀を押すことも、引くことも。力を入れることも、抜くことも……彼にはできない。そんな二律背反に、白夜は今陥っているのだ。
「さあ、殺してみなさい。あなたの手ですべてを終わらせてみなさいよ。けれどそれは正義でもなんでもないわ。妹を守るためでも理想を守るためでもない。その行為に意味なんてないのよ。無意味なままに私を殺して——ただの人殺しと成り果てなさいな」
嘲弄するように、藤咲は言った。
そもそも——落ち着いて考えてみれば、彼は迷わなくてもいいのだ。
白夜が彼女を殺そうとしていて、藤咲は彼に殺されることを望んでいる。そのことに思い至るくらいには、停止していた俺の思考はやっと安定してきたのだろう。
彼女の豹変ぶりに困惑し、捲し立てられるように浴びせられた言葉の勢いに呑まれていた白夜も——そろそろ、冷静さと余裕を取り戻すころだ。
「——う」
そして、
「う、うう……、——あ、ああああああああ!!」
彼は咆哮を上げた。
そして刀を手にしていない左手で、彼女を思い切り突き飛ばした。たとえ身長にほぼ差がなかろうともやはり藤咲は女子であり、男である白夜に跳ね飛ばされれば、その肉体はいともたやすく地面に転がる。
彼は藤咲にまたがり、刀を肩の上に構えた——それが視界に入り、凍りついていたようだった俺の足が、ようやく動かせるようになった。
俺はふたりに向かい、後ろ足を踏み切る。白夜は刀を持ち上げた。そのまま振り下ろせば、彼女の喉笛は無事では済まないだろう。藤咲は避けようともしない。切っ先が自分の首を突き刺す瞬間をただ待っている。
ふたりとの距離は数メートル。たどり着くまで数秒もかからない。しかし最初の反応が遅れた。スタートダッシュに遅れてしまった。そしてそのわずかなタイムラグは、彼女の喉を刺し貫くには十分な時間だ。
もう、間に合わない。
彼が刀を振り下ろした。刃が藤咲目掛けて落ちていく。その光景が、スローモーション映像のようにゆっくりと見えた。
「う、う——」
しかし。
「……う、あ。ぐう、ううぅぅうううう」
俺は立ち止まる。駆けたのはほんの数メートルだけだというのに、まるでフルマラソンを完走したかのような疲労感があった。
振り下ろされた刃は、彼女の首を、皮一枚だけ破り——地面に刺さっていた。
白夜は痛みに耐えるように唇を噛み締め、唸るような声を漏らしている。けれど、それだけだった。刀を横に引く様子も見せず、彼は低いうめきを零し続けている。
彼は、躊躇したのだ。
この期に及んで、藤咲を殺すか否かを迷っている。
ああ、と思う。
白夜は、気付いてしまったのだろう。
冷静さと余裕を取り戻し——そしてようやく、彼女の言葉を理解したのだ。
藤咲もまた、被害者だということに。
自分と同じように、家庭が崩壊した者同士だということに。
そのうえ彼女は、白夜の大切なものを奪おうとなんて思っていないと述べた。妹や理想を守りたかったという彼の動機を、完膚なきまでに否定した。
藤咲を殺す理由など、もはやどこにもないのだ。
理由のない殺人行為に、意味などない。
ここで彼女を殺してしまえば、白夜は守りたかったものを守ることすらできずに——ただの人殺しへと、成り果てる。
「ひとり殺せば殺人者。百万人殺せば英雄になる——なんて、昔の映画でそんな台詞があったらしいけれど。たったのひとりも殺せない、通り魔にも殺人鬼になれなかった半端者は……さて。いったい、何になるのかしら」
そう言った藤咲の口調は——やはり皮肉めいてはいたものの——どこか穏やかな響きがあった。
そして彼女は穏やかな声色のまま、
「結局あなた、何がそんなに不安だったのよ」
と、問いかけた。
白夜は沈黙していた。下を向いている彼の表情は、こちらからは見えない。俺にはわからない。
わかっているのは藤咲だけだ。白夜の下にいる彼女からは、その表情のすべてが見えていることだろう。
藤咲は自分を組み敷いている彼のことを、ただ真っすぐに見つめていた。その瞳からは、既に軽蔑の色はなくなっている。穏やかで、しかし目を逸らすことを許さない視線を、彼女は白夜に送り続けていた。
やがて、彼は口を開く。
「……俺は」
「ええ」
「怖、くて……」
「そう。それは、また居場所がなくなることが? もう一度同じ地獄を見ることが? それとも——」
「——黒神の人たちが、あ、あいつらみたいに、なるんじゃないかって……」
狂ってしまうんじゃないかって。
壊れてしまうんじゃないかって。
それが怖かったのだと——白夜は誰に答える風でもなく、独白のようにそう言った。
結局のところ、それが真実だったのだろう。
自分たちの居場所を守りたかったという理由も、きっと嘘ではない。けれど、それだけでもなかった。
それ以前の話——家族が家族でなくなってしまうことこそが、彼らには怖くてたまらなかったのだ。
かつての母親のように狂ってしまったらどうしよう。かつての父親のように壊れてしまったらどうしよう。いつかのように、また『お前は自分の子供じゃない』なんて言われてしまったら——どうしよう。
まして、彼らは養子だ。黒神家の人間とは元より血が繋がっていない。その事実がふたりの冷静さと、そして、心の余裕を奪ったのだろう。
そうして双子は——通り魔になったのだ。
ふうん、と。彼の独白を聞き終えた藤咲は、静かに頷いた。
「そもそもの話。私、黒神さんたちのことをよく知らないのだけれど……彼らは、あなたが病院送りにしてきたガキどもに壊されるほどに、脆い人たちなのかしら」
黒神先生を見る限り、そうは思えないけれど。と、彼女はそう続ける。
それは、とどめを刺すような言葉だった。
白夜は答えない。その沈黙こそが、何よりも雄弁な答えのように思えた。
不意に、うめくような声が聞こえた。低く、かすれるような音を喉から漏らしているその少年は、そこでようやく刀の柄から手を離す。彼の手から離れた日本刀は、鈍い金属音を立てながら地面に倒れた。
ぱたぱた、と。藤咲の頬に、雫が落ちた。それを見て、うめき声ではなく嗚咽だったのだと、俺は遅れて気付く。
「ああ、もう。泣きたいのは私のほうよ。誰のせいで両手が血まみれだと思ってるのかしら。本当に——」
彼女はそこで一度言葉を区切り、ほんの少し上半身を起こした。藤咲の長い髪が背中に流れ落ちる。その一部が肩のあたりでばっさりと絶たれていた。
彼女は両腕を伸ばした。鮮血が痛々しく流れている左右の手のひらを伸ばし、それを白夜の背中に回す。そしてそのまま、彼の身体を自分のほうへと引き寄せた。白夜はそれに抵抗せず、されるがまま藤咲の肩口に顔をうずめる。
彼は今も、涙に声を震わせ続けていた。そんな白夜に対し、
「——可愛い人なんだから」
と、藤咲はやはり穏やかな声でそう言い、手の甲をそっと彼の後頭部に這わせる。その優しい手つきに、嗚咽の音量がわずかに上がったような気がした。
俺はその情景をただ見ているだけだったが、しばらくしてから視線を落とし、ひとつため息を吐いた。そして藤咲の言っていたことを思い浮かべる。
これは俺には関係のないこと。彼と彼女の話なのだと。
正にその通りだ。我ながらなんの役にも立っていない。藤咲にとってはありがた迷惑でしかなかっただろう。
しかし、それでも……この結末を見ることができたのは、そう悪いことではなかったのかもしれない。そんなことを考えながら、空を仰ぎ見た。
空はもう青みがかっているようだった。瑠璃色よりも淡く透き通る、爽やかな青白い光が夜の残滓を照らしている。新しい朝がこの町に来たのだ。今日も変わらず、いつも通りの一日が始まるのだろう。
明けない夜はなく、散らない花もない。夜が明ければ朝はくるし、桜が散れば夏になる。そうして世界は、当たり前のように終わりと始まりを巡り続けていく。
まるで永遠のようだった俺たちの春もまた——そうして終わりを迎えるのだった。