第10話『白い雪』
ChapteR.10 As white as the snow
※少女S視点。軽度の暴力・嘔吐描写有
また同じ夢だ。
これは夢だって自分でわかっている夢のことをなんて呼ぶのか、結局、私はまだ知らないまま。今度こそ誰かに聞いてみようって一瞬思ったけれど、どうせ起きたときにはまた忘れているんだろうなって考え直した。
私は色あせた部屋にいた。カーペットにお尻をつけるようにぺたんと座り込んでいて、膝の前には開かれたままの本が置かれている。
そこは小さな体育館みたいな部屋。壁は冷たい木の板で、窓は小さくて曇っている。そのすりガラスは壁に直接はめ込まれていて、開けたり閉めたりはできない。
部屋の中には同い年くらいの子供たちや、中学生のお姉さんや高校生のお兄さんがいた。その子たちは私と同じように本を読んでいたり、学校の宿題をしていたりして、みんな静かに過ごしている。
床に置いていた本を拾って、後ろに寄りかかる。背中に感じたのはすべすべとした壁じゃなくて、でこぼことした感触。それがこの部屋の隅っこに置かれている本棚だということを、私は振り向くまでもなく知っていた。
今日はこの夢か。そっとため息をつく。
今の私は十歳くらいで、そしてここは——ここは、孤児院だった。
ミキヤさんとミサキさんが亡くなったあとに、私とハクが暮らすことになった施設。
あの夏の日。ハクは私たちの子供部屋を開けると、どうしてか、すぐに扉を閉めた。
「この部屋は絶対に開けるな。いいか、絶対にだぞ」
荒い呼吸を無理やり落ち着かせているような声でそう言うと、ハクは居間の電話で誰かとお話を始めた。それが終わって受話器を置いたと思ったら、咽るように咳込みながらおなかの中のものを全部吐き出してしまった。
黄色っぽい液体が床を染めて、酸っぱい臭いが部屋に広がったのを覚えている。
私はもう何がなんだかわからなくて、ハクが呼んだ警察の人たちが来るまで、ただただ彼の背中をずっと撫でていた。
それから私たちは警察署に連れていかれて、小さな会議室みたいな部屋で警察のおじさんたちとたくさんお話をした。ふたりが私たちの部屋で亡くなっていたということも、私はそのときに初めて知った。
あの人たちはどうなったのか。警察のおじさんは言わなかった。私とハクも訊かなかった。訊かなかったから教えてくれなかったのかもしれない。それでも構わなかった。
今でも、ふと考えてしまう。
もしもあの詐欺師たちがいなかったら、少なくとも、こんなことにはならなかったんじゃないかって。
ミサキさんは狂わなかったんじゃないかって。
ミキヤさんは壊れなかったんじゃないかって。
ふたりとも、私たちのお母さんとお父さんのままでいてくれたんじゃないかって——顔も知らない詐欺師たちのことを、恨んでしまう。
それから、私たちは葛城の施設に預けられた。親戚なんていなかったから、まあ、妥当なところだとは思う。
そして、ここがその孤児院。
ある意味では、堤の家よりも地獄みたいな場所。
私は本を読む振りをしながら、唯一の出口にちらりと視線を向けた。その扉の前には指導員の先生がいて、じっと睨みつけるような目つきで子供たちを見ている。その目がこっちに向かないうちに、私はまた本に目を落とした。
そのとき、ひそひそとささやくような声が聞こえてくる。その方向に視線を向けてみると、男の子と女の子が内緒話をするみたいに小さな声でお喋りをしていた。プリントを見ているから、たぶん、宿題でわからないところを訊きあっていただけなんだと思う。
けれど、それは駄目なことなんだ。
そんなことを考えながら本のページを捲った瞬間——静かだったはずの部屋に、怒鳴り声が響いた。
みんながおびえたように肩を震わせた気配を感じる。その子たちを蹴散らすように、扉の前に立っていた指導員のおばさんがふたりに近付いていく。そしてその子たちの髪や服を掴んで、引きずるように部屋を出ていこうとしていた。
このあと、高校生のお兄さんが助けにいこうとすることも、そしてひどく殴られることも、そのままあのふたりがお仕置き部屋に連れていかれることも……私には、わかっていた。本から顔を上げるまでもなく、その光景は目に焼きついている。
この夢を見るのは、もう何度目になるんだろう。数えることを諦めたのは、いつからだっけ。そんなことを考えてしまうくらいには、私はこの記憶を繰り返していた。
私たちが入った施設は最悪なところだった。
学校以外の外出は禁止。男の子と女の子の会話も駄目。ご飯を残すと怒られるし、時間をかけても叱られる。ルールを破る悪い子は別の部屋に連れていかれることになる。大人たちがお仕置き部屋って呼ぶその部屋を、私たちは独房と呼んでいた。
施設の周りは高い柵に囲まれているし、私たちのことは先生たちがいつも見張っている。そのうえ大人たちがストレス発散のために子供たちにひどいことをするから、ここは本当に地獄だった。
そんな場所だったから、子供たちはみんないい子になろうとしていた。大人たちにへつらって、機嫌を取ろうとして、言いなりになっていた。まるで、大人たちにそれが正しいことだと刷り込まれているみたいで、とても気持ち悪かった。
そんな『いい子』たちは何をされても抵抗しない。大人たちはそれをわかっているから、そういう子たちを選んでひどいことをしていた。
いい子でも悪い子でもひどいことをされる。だから私はどっちつかずになろうとした。ルールさえ守っていれば独房には入れられないし、あとは大人たちの機嫌を観察しながら動けば目をつけられることもなかった。
みんなにもそうすればいいって教えてあげたけれど、大人たちへの恐怖心には勝てなかったのか、結局みんな気に入られるために媚びることを選んだ。
ハクも、例外じゃなかった。
そうやって『いい子』たちが量産されていく光景を見るのが気持ち悪くて、ハクが私の知らない人になっていくのを見るのが怖くてたまらなくて——だから私は、全部見なかったことにした。
無視することを選んだ。
殴られている子がいても、ののしられている子がいても、何もしなかったし言わなかった。今思うと、そのときの私は自分のことしか考えていなかった。自分さえよければいいって考えていた。それはひょっとすると、大人たちよりもひどいことかもしれない。
それでも痛い思いをしたくなかった。痛いのは嫌いだから。殴られるのは嫌だから。
見て見ぬ振りをすることに心は痛んだけれど、その痛む心にさえ気付かない振りをしながら、私はひとり、部屋の隅っこで本を読んでばかりいた。
「お前、面白い目してんな」
ある日、そんな風に声をかけられた。
本から顔を上げると、そこにいたのは同い年の男の子だった。大人たちにいつも反抗しているせいで独房常連になってしまった、数少ない『悪い子』のひとり。
きょろきょろと部屋の中を見渡してみたけれど、見張りの先生はいなかった。たぶん、どこかにいなくなった隙をついて話しかけてきたんだと思う。もしも先生がいたら、話しかけられた側の私も独房に入れられてしまうから。彼は問題児だけれど、誰かを巻き込むようなことはしなかった。
「世の中をつまらねえって思ってるやつの目だ」
「……それって面白いの? つまらないの?」
「褒めてんだぜ? なんつったって、このオレと同じ目だからな」
同じ目と言われて、つい彼の目をじーっと見てしまう。つり目だ。私はミサキさんみたいなたれ目じゃないけれど、ここまで吊り上がってもいない。それに彼の表情は楽しそうで、何かをつまらないって思っている風には見えなかった。
見張りの先生がいないとき、その男の子はよく話しかけてきた。朝ご飯の前とか、お風呂に入ったあとのちょっとした時間とかにこっそりと。
そのころの私は、白雪姫をよく読んでいた。施設の本棚に置いてあったその童話は、図書館や本屋でよく見かけるような絵本じゃなくて、グリムとかいう人が書いた原作を日本語にしたものだった。私はそれまで絵本しか読んだことがなかったから、白雪姫が毒林檎の前にも二回殺されそうになっていたことには少し驚いた。
——おばあさんは、すばやく、紐を白雪姫の首に巻きつけて強く締めたので、白雪姫は息ができなくなって、死んだように倒れてしまいました。
その一文に、私はミキヤさんとミサキさんのことを思い出した。彼が使ったのは白い絹糸で編まれた紐じゃないと思うけれど、この童話を読むたびにあのふたりの顔が頭にちらついて、どうしても憂鬱な気分になる。それでも読むことはやめられなかった。
一度だけ、本を取り上げられたことがある。取り上げたのは施設の大人じゃなくて、つり目の男の子だった。なんだか面白くなさそうな表情を浮かべて、ページを睨んでいる。
「漫画のひとつも置いてねえ本棚だからしゃあねえけどよ、そんなくだらねえお伽話読んでんじゃねえよ」
「くだらない?」
「王子が死体にちゅーするど変態だっつー話だろうが」
本を棚に戻しながら、彼はそう言った。男の子らしい感想だった。
別に、私も好きで白雪姫を読んでいるわけじゃない。むしろ嫌いだった。何もしていない癖に、何も知らない癖に、世界で一番綺麗だからという理由だけで誰かに守ってもらえたり、助けてもらえたりできるお姫様のことが、大嫌いだった。
それでも私は、この物語に焦がれていた。
何もできないし何も知らない、駄目な私でも好きになってくれる。そんな王子様みたいな人にいつか会うことができればいいなって、ずっと、憧れてやまなかった。
ふと、右肩が重くなる。見たら、さっきの男の子がいつの間に隣に座っていて、私の肩に頭を乗せていた。髪の毛が少しくすぐったかったけれど、我慢できないほどじゃなかったからされるがままにしてあげる。
「どうしてあなたは私に構うの」
「オレだってたまには休みてえんだよ」
「どういう意味?」
「わかってる癖に」
「わかんないよ」
「ダウト」
にやにやと笑いながら、彼はそう言った。その言葉の意味はわからなかったけれど……なんとなく『お前は嘘つきだ』って、見透かされているような気がする。
「この地獄でまともなのは、オレとお前のふたりだけだからな」
「ふうん」
あなたのきょうだいも? そう返そうと思ったけれど、なんだか意地悪な気がしたからやめておくことにした。それに、本当に言ってみたところで、お前の兄貴もなって返されるだけだろうし。
まともなのは私たちだけ。彼はそう言ったけれど、本当にそうかなって私は疑問だった。
おかしくなっていないという意味ならその通りだと思うけど、こんな場所にいたら、普通はみんなみたいにおかしくなるものなんじゃないかな。
むしろ。
おかしくなることができない私たちのほうが、まともな子供じゃないのかもしれない。
「まあ、来年からはあまり構えなくなっちまうからな。今のうちにかわいがってやろうかと」
「…………」
「お前は連中みたいにおかしくなってくれるなよ。……ま、心配しなくても大丈夫か」
狂うこともできねえっつうのはしんどいだろうが、信じているぜ。そう言って、私の肩から離れた。そのころから彼は、変に達観したようなことを言う男の子だったような気がする。
来年。そう、確か次の年は、院で最年長のお兄さんがここを出る年だったはず。
いつも大人たちからみんなを守ってくれていた高校生のお兄さん。その人がいなくなってしまうから、みんなを守る役割は自分が果たす。きっと、彼はそう考えているんだと思う。
私は知っていた。彼が大人たちに反抗するのも、わざとルールを破るのも、全部みんなを守るための行動だってことを。
大人たちの目がこの男の子に向けられているときだけは、ほかのみんなは自由になれるのだから。そうやって、彼は彼なりにみんなを守っていたことを、私は知っている——たぶん、私だけがわかっていた。
だから彼は私に構っていた。この男の子にとって私は、たったひとりの守らなくても大丈夫な存在。だから私と話しているときだけは、彼はその役割から休むことができた。
けれど、来年からはそれもなくなる。私に構う余裕なんて、きっとなくなるだろうから。
それまで私はお兄さんにも彼にも助けを求めたことはないし、助けてもらったこともない。自分のことは自分で守ってきた。だから、それはまあ、いつも通りのことではあるのだけれど——
「というわけで、お前にはいいことを教えといてやんよ」
「いいことって?」
彼は私と向かい合って座る。そして、とても楽しそうな表情を浮かべて口を開いた。
「——嘘の見抜き方だ」
次の年から、本当に彼は私に構わなくなった。それは前々からわかりきっていたことだったから、私は彼の邪魔をしないように、負担にならないように、いつも通り部屋の隅っこで本を読んでいた。
それは普段と変わらないことだけど。
ただ——ひとりになるのは、初めてのことだった。
ここに来る前からハクは一緒にいてくれたし、なんなら生まれたときから——いや、生まれる前から、ハクは私の隣にいてくれた。だから、本当の意味でのひとりというのは初めてだった。
学校でも私はひとりだった。仲良くしようとしてくれたり、話しかけてきたりした子は何人かいたけれど、私はその全員を拒絶した。
だって、わかってしまったから——わかるように、なってしまったから。
みんなが私に、嘘をついているってことを。
母親が詐欺師に騙されて、頭がおかしくなって、借金をたくさん背負って、最後にはその母親を父親が殺してしまって……そうしてこの世に残された、可哀想な子供。
みんな私のことをそう思っていて、そう思っているのにみんなそれを隠そうとしていて、可哀想だからって理由で上辺だけでも友達になろうとしている。そういうのがどうしようもなくわかってしまって、気持ち悪くてたまらなかったから——だから、私のほうからひとりになることを選んだ。
その原因の男の子のことを、実はほんの少しだけ恨んだりしたこともあるけれど、悪いことばかりじゃなかった。施設の大人たちの嘘もわかるようになって、今までよりうまく逃げられるようになったから。きっと彼も、そのためにコツを教えてくれたんだと思う。
院で嘘をついていたのは大人たちだけじゃない。むしろ子供たちのほうがお互いを騙し合っていたと思う。それは大人たちへのごまかしだったり言い訳だったり、媚びるためだったり、抜け駆けするためだったり、色んな理由があったみたいだったけれど。
それでも嘘は嘘だ。そして私は嘘が嫌いだ。嘘をつかれると悲しくなる。だって、それはその人が私のことを騙そうとしているってことだし、私のことを騙してもいい存在だと思っているということだから。
何よりも一番の理由は、人の嘘がわかることが後ろめたかったから。それを知らない人が私に嘘をつくのも、私が何もできないせいでその人に嘘をつかせてしまうのも……そのすべてが、ただただ申し訳なかった。
あるときから、嘘をつかれると喉が締まって、奥から苦いものがじわりと広がるようになった。それが罪悪感の味だということを、私はそのとき、初めて知った。
苦い。苦しい。毒を飲んで自殺したというあの人も、ひょっとしたら、こんな思いをしたのかもしれない。
なら。私のことを侵すこれも、きっと毒なんだ。罪悪感って名前の、猛毒の味。
私がその苦味の意味を知ろうと知りまいと、世界は何も変わらないし、季節は巡り続ける。夏が終わって、秋が過ぎて、灰色の季節も去って春になる。そうして学年が上がったある日——私は、ふと気がついた。
寒い。
桜の咲く季節なのに、寒くて凍えそうだった。
風邪を引いたわけじゃないし、その年の春が寒かったわけでもない。実際、桜が散るころになっても嫌な寒気は止まらなかったし、そのうえどうしてか、世界からどんどん色がなくなっていくように見えた。
まるで、私だけ冬で止まっているみたい。
そのとき、施設に来てから初めて、誰かに隣にいてほしいと思った。誰かの温もりがほしくて、体温を分けてくれるような誰かが隣にいてほしくて……けれどそんな人、あの地獄にいるはずがなかった。
その寒さの原因は寂しさだって、あとから教えてもらった。でもそのときの私はそんなこと知らないから、いつも通り部屋の隅っこで、苦味と寒さを我慢しながら本を読んでいた——あのときまで。
小学校六年生のとき。確か、冬休みが終わったばかりの日だったと思う。黒いスーツのおじさんたちが施設を訪れた。怖い人たちかと思ったけれど、どうも里親になりたいと言ってくれた人たちらしくて、院の先生がお話をするために子供を何人か別の部屋へと連れていった。選ばれたのは大人たちお気に入りの『いい子』たちで、その中にはハクもいた。
白い雪の降る、とても寒い日だったことをよく覚えている。けれどその寒さが季節のせいなのか、それとも自分だけが感じているものなのかさえ私にはもうわからなくなっていて。ただただ、震える手でページを捲ることを繰り返していた。
すると。
「君、面白い目してるね」
突然。そんな風に、声をかけられた。
どこかで聞いたようなその言葉に顔を上げると、そこに立っていたのは知らない女の子だった。
部屋の中を見渡してみる。お客さんと話しているから、見張りの大人はいない。この部屋にいるのは子供たちだけ。その全員がこっちに視線を向けていて、びっくりしたように目を見開いていた。
驚いたのは私のほうだ。だって、私は目の前にいるこの女の子を知らない。私だけじゃなくて、この部屋にいるみんな知らないはず。なぜならその子は、施設に預けられた子供じゃなかったから。
その女の子はセーラー服を着ていた。隣町の中学校の制服。その上に真っ黒なダッフルコートを羽織っていて、首には白い毛糸で編まれたマフラーを巻いている。服装だけならまるで、どこにでもいそうな中学生のお姉さんに見えた。
けれど、ふたつにくくられた長い髪——真っ白なそれは、蛍光灯の光が透けてきらきらと輝いていた。退屈そうに私を見下ろす目は薄いまつ毛で縁取られていて……その中の瞳はどこか不思議に淡い赤色で、まるで林檎みたいだと思った。
「世の中をつまらないって思ってる子の目だ」
「……あなたみたいに?」
「まさか。私はこの世を面白おかしく生きてるよ」
その子は冗談っぽく言ったけれど、その言葉は嘘でもおふざけでもなかった。
「まあ、退屈なのも仕方ないか。ここの本棚、漫画のひとつも置いてないみたいだし」
漫画を読め漫画を、なんて言いながら、自然な手つきで私から本を取る。
それは、私がいつも読んでいた童話。表情ひとつ動かさないでページを眺めているその女の子に、まるで白雪姫みたいって、そんな感想を抱いた。
お伽話の白雪姫は黒檀のように黒い髪と、血のように赤いほっぺたと、雪のように白い肌をしているみたいだけれど。
今、私の目の前にいる女の子は、黒檀のように黒い服を着て、血のように赤い瞳で、そして雪のように白い髪をもっている。ほらやっぱり、この子のほうがぴったりだ。
ぱたんと本を閉じると、その子はこちらに視線を戻した。
「こんな隅っこにいたら寒いだろ。みんなのところに行けばいいのに」
「……あの子たちのとこには、行きたくない」
あの子たちのそばに行ったら、苦くて苦しい思いをするから。そんな思いをするくらいなら、私はどれだけ寒くて凍え死にそうでも、ひとりでいい——ひとりがいい。
それに。
「どこにいても、寒いことには変わらないもん」
そう言って、両膝を抱え込む。ぎゅっと縮こまって座れば、この寒さも少しはましになると思った。
「寒いってのは同感だよ。ここ、暖房設備大丈夫?」
そう尋ねられたけれど、そんなこと、私が知っているはずがない。だからわざと視線を逸らして、だんまりを決め込んでやる。そんな私を、その子がどう思ったのかはわからないけれど……ふむ、とひと言呟いたかと思うと、視線を合わせるようにしゃがみ込んだような気配を正面に感じた。
そして唐突に。
ふわり、と柔らかい何かが、私の頭を包む。
「これ、あげるよ」
その声に、思わず視線を向けた。そして、頬に触れる柔らかい感触の正体に、ようやっと気がつく。
それは、その子が巻いていたマフラーだった。まるで当たり前のことみたいに、その女の子は自然な手振りで自分のマフラーを私の首に巻きつけてくる。
「暖かいだろ」
くい、と。マフラーを結ばれる。それは、私の首を絞めるためのものなんかじゃない。まるで大切な贈り物にリボンを結ぶみたいに、優しさと、温もりが込められた仕草だった。
そのとき、胸のあたりから、何かが溢れた。それはじわじわと、心臓から身体中に広がっていく。それが指先にまで渡ったとき、じん、とほんの一瞬だけ痺れたような気がした。それにびっくりして思わず両手を広げると、目の前の女の子がその手を取る。
そして。
まるで包み込むみたいに、両手を握ってくれた。
「うわ、君手が冷たいなあ。ほら、こっちにおいで」
「……うん」
「ひとりぼっちでよく頑張ったね。もう、我慢しなくてもいいんだよ」
「——うんっ」
雪みたいに白い手のひら。
けれどそれは、とても温かくて。
私は久しぶりに——人の温もりを、思い出すことができた。
* * * * *
冷たい水の中から、ゆっくり浮かび上がってくる——そんな錯覚みたいなものを感じながら、私はぼんやりと目を覚ました。
嫌な夢を見た。自分で自分のことが嫌いになりそうな、昔の嫌なことを思い出させてくる夢。弱っているときに限って追い打ちをかけるように見せてくる、本当にひどくていやらしい夢。
それでも、不思議と目覚めだけは悪くない。
今も、ツキミに手を握ってもらっているような気がする。きっと、それも錯覚なのだけれど。
ツキミ。
あのときはツキミのことを白雪姫みたいって思ったけれど、それは違うって今ならわかる。ツキミはお姫様じゃなくて狩人だ。悪い女王から白雪姫を守るために城から逃がした狩人のように、ツキミは、あの凍え死にそうな地獄から私を助けてくれた。
ツキミがいたから、あのマフラーをくれたから……私は今ここにいて、こうして生きている。
そういえば、と思う。イツキくんの手のひらも、ツキミと同じくらい温かかった。
名前に『月』の字が入っている人は体温が高いのかな。むしろ冷たそうなイメージがあるけれど。そんなことを考えていると、部屋のふすまが静かに開かれたような気配がした。
「……お? 起きてるか?」
そう声をかけられて、私は重いまぶたを無理やり開けた。
そこにいたのは、ツルギさんの弟の黒神刃くんだった。兄弟そろってお母さんのサオリさんに似て背が高いけれど、ヤイバくんの目つきはあのふたりほど悪くはなかったりする。
部屋着の黒い作務衣を着ているヤイバくんはお盆を片手に部屋に入ってくると、そのままこっちに近付いてきて、私の顔を覗き込んでくる。
「なんだお前。泣いたのか?」
「……? 私もう高校生だよ。泣いたりしないよ?」
「んだとぅ。生意気だぞクソガキ」
奥二重になってんぞー、と笑いながら、まぶたをぐりぐりとしてくる。地味に痛かったから抵抗すると、すんなりとやめてくれた。
ぐりぐりされたまぶたを自分で触ってみると、なんとなく腫れているような気がした。なんでだろうって一瞬考えたけれど、そんなことよりもどうしてヤイバくんが私の部屋に来たのかということのほうが気になる。いつもならハクが起こしに来るはずなのに。
「ヤイバくん、ハクはどうしたの?」
「とっくに学校行ったぜ」
「え、今何時?」
「あ? あー、九時前十分だな」
「……九時十分前?」
「九時前十分」
「…………」
私は無言で枕元に置いていた携帯を手に取る。そして液晶に電源をつけた。
五月一日、金曜日。
午前八時五十分。
「へ? ……えっ。あ、わ、がっこ……わぷっ」
「落ち着け」
がばっと身体を起こす。けれど同時に、ぐいっと無理やり布団に押しつけられて、頭から枕に飛び込んだ。ひどいことをする。
枕から顔を上げて、地味に痛む鼻の頭を押さえる。ついヤイバくんのことをじとりと睨みつけてしまったけれど、そんな私の視線と目が合っても彼はにやりと笑っただけだった。
「今日は寝坊しても許される日だ」
「平日に寝坊してもいい日なんてないよ」
「わかってんならいつもしゃきっと起きろや」
「だって眠いんだもん」
だってじゃねえよ馬鹿って言葉と一緒に、ヤイバくんはお盆に乗せていた何かを手渡してくる。体温計だった。それを見て、ああそっか、と思い出す。私は風邪を引いていたのだから、平日でも早起きしなくてよかったんだ。
受け取った体温計を脇に入れながら、私はあの日のことを思い出した。
春野……とかいう男の人。あの人の笑顔を思い浮かべると、今でも背中がぞくりと震えそうになる。生理的に無理って言葉は、あのお兄さんのためにあるのかも。
でも、まあ、もうこれっきり付きまとわれるなんてことはないと思う。予想以上にちょろい人で本当によかった。……風邪を引いてしまったことだけは想定外だったけど。
「馬鹿は風邪引かねえってよく言うが、ありゃあ嘘だな」
「そうなの?」
「お前が証明した」
「ひどいなあ」
馬鹿なのは本当のことだから否定しないけれど。そう思ったとき、ピピピピという電子音が服の中から鳴り響いた。体温計を取り出して画面を見てみる。三十六度二分。平熱だった。
見せろ、とヤイバくんが言ったから、電源をつけたままそれを渡した。彼は画面を見るとひとつ頷いて、体温計をケースに戻す。
「熱はもう大丈夫だな。学校は午後から行け。送ってやっから」
「ヤイバくん、大学は?」
「今日の講義は午後から」
ダウト。
喉がきゅうっと締まって、奥から苦いものが込み上がってきたから、思わず手の甲で口を押さえた。
ああ、嘘だ。
ヤイバくんは今、私に嘘をついた。
きっと、大学は休んだんだ。昨日まで看病してくれていたサオリさんが、お仕事でどうしても隣の県に戻らなくちゃいけなかったから。だからサオリさんは、ヤイバくんに自分の代わりを頼んだんだと思う。
私が風邪なんて引かなかったら、ヤイバくんは大学を休まなくて済んだのに。そう考えると後ろめたい気持ちでいっぱいになって、罪悪感の苦い味が口の中に広がる。
「ごめんね」
「は? 何が?」
「なんでもない」
「変なやつ。林檎食うか?」
「私梨がいい」
「春に売ってるわけないだろ。秋まで待て」
「じゃあうさぎさんにしてよ」
「よしきた」
ふたつ返事で、ヤイバくんはお盆に乗せていた果物用のナイフと林檎を手に取ると、そのまま空中で切り始めた。その様子に少しはらはらしたけれど、彼は慣れた手つきであっという間に八等分にしてしまう。刃物を扱うのは得意なのかも。ヤイバだけに。
なんとなく暇を持て余してしまったので、身体を起こすことにした。しばらくヤイバくんの手元を眺めていたけれど、ふと、あるものがないような気がして部屋の中をきょろきょろと見渡す。
「ねえねえ。マフラーはどこ?」
「ん? ああ、白夜の部屋だよ。泥が落ちねえとかぼやいてたわ。田んぼにでも落ちたのか? だから風邪引いたんじゃねえだろうな?」
「ないしょ」
そう言うと、はあん、とヤイバくんは興味なさそうな返事をして、それ以上は何も訊いてこなかった。この人は詮索してこないから気が楽だ。ただ単純に、私に興味がないだけなんだろうけど。
実を言うと、私とヤイバくんはあまりお話をするような仲じゃない。仲が悪いわけじゃないけれど、特によくもない。私が彼のことを兄さんと思ったことがないように、きっと彼のほうも、私のことを妹だなんて思ったことはない。
それでも私はヤイバくんのことを家族だと思っているし、彼のことが好きだとも思うけれど、たぶんヤイバくんのほうは私のことなんてどうとも思っていないはず。
好きの反対は、嫌いじゃなくて無関心。いつだったか、そう教えてくれたのはツキミだった。
だからサオリさんが私の看病をヤイバくんにお願いしたのも、彼が大学を休んでまでそれを了承したのも、私には少し意外だった。
「お前のマフラーだけどよ。泥落とすついでにほつれた部分も編み直すからしばらく借りるってさ」
「……そっか。じゃあ、しばらくはハクの部屋にあるんだね」
「なあにしょぼくれた声出してんだ。いい機会だから卒業しちまえ。お前みたいなやつのこと、あれって言うんだろ。あー、あれだ……なんつったっけ、マイナスの毛布? いや、ライバルの毛布だったか?」
「どっち?」
「思い出せん。そら、できたぞ」
結局、その毛布がなんなのかは思い出せなかったようで、ヤイバくんは考えることを諦めたみたいだった。そしてお皿に乗せられた八匹のうさぎをこちらに差し出す。
赤い耳のうさぎから、甘酸っぱい匂いが立っていた。口に入れると、爽やかな甘さとみずみずしい果汁が口いっぱいに広がる。おいしかった。林檎の甘さで喉の奥の苦味を上書きするように、私はうさぎをかじる。
不意に、そっと頭に手を置かれた。大きくて骨ばっている手のひら。そんな手をしているヤイバくんは私の髪をすくように、優しく頭を撫でてくる。
「なあに?」
「なんでもねえよ」
「そう。くすぐったいから、食べてるときは触らないでほしいな」
「お前は犬猫か」
笑いながら、ヤイバくんはこちらの頭から手を離す。その笑顔はなんというか、びっくりするくらい穏やかで、そういう笑い方もできるんだなって私はなんとなく思った。
林檎を食べきって、きちんとお薬も飲む。ヤイバくんは林檎の皮と芯が置かれたお皿と、空っぽになったグラスをお盆に乗せて立ち上がった。
「昼前に起こすからな。それまで寝てろ。起きたら飯食って学校」
「はーい」
「昼飯は白夜の手作りだから、ちゃんと起きろよ。起きなかったらぶん殴る。でもってオレが食らいつくしてやる」
「ひどい」
ハクのご飯を食べられるのも、殴られて痛い思いをするのも両方嫌だったから、私は言われた通り布団の中で横になる。
ヤイバくんは行儀悪く、ふすまを足で開けた。ハクが見たら怒るかもしれないな、なんて考えながら、ふすまに背を向けて目を閉じる。横向きで寝るのはあまりよくないみたいだけど、これが一番楽な体勢だった。
「桜夜」
「んー?」
「あんまお袋に心配かけさせんなよ」
そんな言葉を最後に、背後のふすまが閉められたような気配を感じた。そして廊下を歩く足音は、だんだんとこの部屋から遠ざかっていく。
まぶたを開いた。温かい布団の中なのに、身体はどんどん冷たくなっているような気がして、それでいて胸はどきどきとしている。
彼は何を知っているんだろう。サオリさんが言った? サオリさんから聞いた? 私のお願いは、ハクには言わないでということだけ。だからヤイバくんには言ったの? ヤイバくんに何を言ったの? 心配をかけさせるなって、どれのことを言っているんだろう。泥だらけで帰ってきたこと? ただ単純に、風邪を引いてしまったこと? それとも——
それとも、通り魔のこと?
ひょっとしたら。
全部——全部、ばれているのかもしれない。
私のこともハクのことも全部、あの人たちは知っているのかも……ううん。さすがにそれは考えすぎだ。仮に全部ばれているとして、今日まで野放しにしている理由がわからない。だから、あの人たちはまだ何も知らないはず。彼が言っているのはきっと風邪のことだ。
大丈夫、大丈夫……と。祈るように手を組んで、目を閉じた。
ヤイバくんはお昼まで寝ていてもいいって言ってくれたけれど。
心臓の音が煩わしくて、とても眠れそうになかった。
* * * * *
「ハク」
「なんだ、サク」
「助けて」
「知らん」
放課後。
授業は午後から参加したけれど、特に何事もなく無事に終わった。
お昼休みが終わるころに教室に入った私に、クラスの何人かはきょとんとした視線を向けてきた。いつものマフラーや竹刀袋がなかったことを不思議に思ったのかもしれないけれど、それについて話しかけてくる人はいなかった。
刀は、蔵に置きっぱなしにしてきた。通り魔が捕まった今、護身用っていう言い訳を使うことはもうできない。
掃除もホームルームも終わった今の時間は、午後四時ジャスト。
私は席に座ったまま、ハクのブレザーを力いっぱい掴んでいた。
「一生のお願いだからまだ帰らないで。私を助けると思って」
「お前が悪い。因果応報だ」
「中国語はわかんない。日本語で言って」
「因果応報は一応日本語だ。自業自得って言えばわかるか」
「わかんない」
「だからお前は国語の成績が悪いんだ!」
「悪いのは国語だけじゃないもん」
「そうだな、その通りだよ! 自覚してるならもっと勉強してくれ!」
ハクは怒鳴りながら歩き出そうとしていたけれど、私が上着を握っているせいで動くことができない。皺になるだろ! と叱られた。そこに怒るなんて本当に主夫みたいって思ったけれど、そんなことを言ったらいよいよ本気で怒られそうだったので黙っておく。
「あ、イツキ! 助けてくれ!」
不意に、ハクがそんな声を上げた。顔を上げると、きょとんとした表情を浮かべているイツキくんの姿が目に入る。彼はちょうど帰ろうとしているところだったみたいだけれど、踵を返してこちらに近付いてきた。
「何か用か」
「サクの面倒を頼んでもいいか?」
「面倒って?」
「提出できてない課題を手伝ってやってほしいんだ」
そう言って、ハクは私の机を指差す。そこには数学の問題集とノートが広げられていた。
今日提出しなきゃいけない課題だったのだけど、風邪を引いていたからできてないまま。それだけなら先生も許してくれたけれど、先週分の課題——早退した二十一日に出された課題もできてないから、全部終わるまで居残りするように言われてしまった。
勉強は嫌い。そもそもおとなしく机に座っているのが苦手。外で身体を動かしたり、道場で汗を流したりするほうが私は好きだった。
事情を聞いたイツキくんは、なるほど、と納得したように頷いた。
「白夜は?」
「俺はこのあと委員会の会議があるんだよ。面倒を見てやりたいのは山々だけど、今日は本当に無理なんだ。お前どうせ帰宅部で暇だろ? 頼むよ」
「悪いが、俺も今日は用事があるんだ。本家に招集をかけられたから」
「本家? 招集? その本家って、有名な家なのか?」
ハクがそう問いかけると、イツキくんはどうしてか気まずそうに顔を歪めた。それからしばらくして、ぎこちなく口を開く。
「火宮、だが……」
火宮。
その名前には、聞き覚えがあった。確か、このあたりで一番大きな資産家さんたちの一族の名前だったはず。黒神家もお金持ちで、初めておうちを見たときはびっくりしたけれど、火宮さんたちはもっとお金持ちだと聞いた。
イツキくん、そんな大きな家の親戚なんだ。私は思わず、へえー、という声を上げる。ハクも、ふうん、と似たような声を漏らしていた。
そんな私たちに、イツキくんはどうしてか驚いたように目を丸くした。
「なんだよ」
「いや……思ってたよりも反応が薄いな、と」
「『す、すげえ! あの火宮家なのか!?』……とでも言ってほしかったのか?」
「いや、そうじゃなくて……ほら、黒神家とは犬猿の仲だろ?」
「ん? ……あーあー、なるほどな。確かにそんな話は聞いたことあるけど、そもそも俺たち養子だし……それに、ツルギさんの友達に火宮ってやついるし、あまり気にしたことないな」
「え、そうなのか。その人の名前は?」
「なんか鳥っぽい名前だったはず。金髪のチャラ男だよ」
金髪でちょっとちゃらいお兄さん。星になった鳥の名前をもっているその人は、そういえば火宮って名字だったような気がする。けれどあの人はツルギさんとも仲良しだし、犬猿の仲って言われてもあまりぴんとこなかった。
それを聞いたイツキくんは少し引いたように、あの人マジか……と、呟いた。それから、ふと私のほうに視線を向けてくる。
「気になってはいたんだが……今日はマフラーをしてないのか?」
イツキくんはそう尋ねてくる。マフラーについて訊いてきた人第一号だった。
私がその質問に答えるよりも先に、ハクのほうが口を開いた。
「泥だらけにして帰ってきたから、俺が預かって綺麗にしてるとこ。……なあサク、お前マジで何したんだよ」
「ないしょ」
「……なるほど」
イツキくんは納得した風に頷きつつも、ちらりとこちらに向けた視線は少し申し訳なさそうに見えた。
私が風邪を引いたのも、マフラーを泥まみれにしてしまったのも、イツキくんが気にするようなことじゃないのに。私はそう思った。
それを気にしてしまうのが、彼の彼らしさなのかもしれないけれど。
本当に、甘い人。
「マフラーがなくて大丈夫か。寒いなら、俺の上着を貸すが」
「平気だろ。もう五月なんだし」
「いや、だが……」
「大丈夫だって。なあ?」
「うん」
私が頷くと、それならいいんだがって——どこか納得しかねているみたいだったけれど——イツキくんは引き下がる。
ハクに振られたからつい反射的に肯定してしまったけれど、本当はかなり寒かったから、今日は制服のシャツの下に少しだけ厚着をしていたりする。けれどそれはほとんど効果がなくて、授業中ずっと凍えてたまらなかった。
わかっている。本当は、自分でもちゃんとわかっている。これはただの錯覚なんだって。頭では理解できているのに、それでも寒くて震えそうになる。
イツキくんが上着を貸してくれると言ってくれたことはうれしかったけれど、きっと、ツキミがくれたあのマフラーじゃないと駄目なんだと思った。そんな気がする。だから、どちらかと言うと手を繋いでくれるほうがいいんだけど、ハクの前だから言うのはやめておくことにした。
「白夜さん」
唐突に、ハクを呼ぶ声が聞こえる。その方向を見てみると——まあ、予想通りではあったけれど——そこにいたのは藤咲さんだった。
「ん? なんだ?」
「いえ、そろそろ会議の時間が……」
「あ、やべえ! あー……でもなあ……」
言いながら、ハクはちらりとこっちに視線を向けてきた。そんな彼の様子に、藤咲さんは首をかしげる。
「どうされました? 何かお困りごとですか?」
「あー……」
実は、と前置きして、ハクはいきさつを簡単に話し始めた。それを聞きながら、ふむふむと藤咲さんは相槌を打つ。そして彼の話が終わると、なるほど、とひとつ頷いた。
「じゃあ、私がお手伝いしますよ」
「本当か!」
「ええ。会議は白夜さんが出てくれますし、図書のほうもお仕事はないですし……それに、今日はバイトもないので少し暇でして。ちょうどいいでしょう?」
「ありがとう藤咲!」
ハクは藤咲さんの両手を握って、ぶんぶんと上下に振る。彼女は少し面映ゆいのかほっぺたを赤く染めたけれど、それでもうれしそうにはにかんでいた。
「あ、でもこいつマジのアホだけど大丈夫か」
「あら、そうなんですか?」
私の机の上に広げられた問題集とノートをそれぞれ見比べるように、藤咲さんは覗き込んできた。
「数学ですか?」
「うん」
「どこがわからないんです?」
「わかんないとこがわかんない」
「わー……勉強できない子のあるあるですねー……」
藤咲さんは苦笑いを漏らしたけれど、ひとつ咳をして表情を切り替えた。そして、ふむ、と呟いて顎に指を当てると、私のノートを見つめて何か考え込むような仕草を見せる。
しばらくして、藤咲さんはノートを指差す。その指の先にあるのは、計算の途中でわからなくて止まってしまっている数式だった。
「ここは分配法則の逆で考えてみてください」
「分配……?」
「問題集のほうにヒントが書いてるでしょう? この式をこの法則で展開するとどうなりますか?」
「えっと……こう?」
「ええ、そうなりますね。となると、この式とワイを一緒にしなくちゃですよね?」
「一緒に……あ、ちゅーかっこ?」
「おっと、その呼び方は廃止されたのでこの機会に覚え直しましょうね。正しくは波括弧です。でもその通り。いい調子ですよ。ここまで来ればあともう少しです、がんばりましょうね」
「うん」
「さて、この中を整理しなくてはいけません。どうします?」
「……こう、かな」
「はい、大正解です!」
ぱちぱち、と藤咲さんは小さく拍手をしてくれる。まるで小さな子供を褒めるみたいだなって思わなくもなかったけれど、やっぱりちょっとうれしかった。
「藤咲さんの教え方、わかりやすい」
「お、それはよかったな」
「ハクよりずっとわかりやすい」
「二度と教えんぞ」
あ、拗ねた。あとでフォローしておかなきゃ。
藤咲さんは私とハクのやり取りを見て、くすくすと笑う。
「桜夜さんこそ、思ってたよりも理解が早いじゃないですか。きっと地頭がいいんですね」
「そんなことないよ。藤咲さんの教え方がいいからだよ」
「うふふ。そうですか?」
「うん。先生みたいだもん」
「その呼び方をしないで!!」
放課後の教室に、女の子の悲鳴のような怒鳴り声が響いた。
教室には、私たち以外にもまだ何人か生徒が残っていた。さっきまでにぎやかにお喋りをしていたみたいだったけれど、今はしんと静まりかえっている。そのせいで、残響のような音が、いつまでも耳に残っているような気がした。
みんなの視線が、こちらに向けられているのがわかる。けれど、そんなことが気にならないくらい、私は混乱していた。
どっ、どっ、どっ、どっ——と。
心臓の鼓動が、うるさかった。
「あ……す、すみません」
女の子は——藤咲蒼海さんは、しばらくしてゆるやかに首を振る。そしてさっきの取り乱しようをごまかそうとするみたいに、笑顔を取り繕った。
「昔、そんな感じのあだ名をつけられて、からかわれたことがありまして」
「……そう、なんだ。ごめんね」
「いえ、私のほうこそすみませんでした」
皆さんもごめんなさいね、と藤咲さんが教室の人たちに小さく謝ると、みんなほっとしたような表情を浮かべて視線を戻した。
「……じゃあ、俺はもう行くから」
「あ、はい。お疲れさまです」
「サクのことは頼んだぜ」
「ええ、任せてください。会議のほうはよろしくお願いしますね」
そんな藤咲さんの言葉に、ああ、とひと言だけ返事をすると、ハクはぱたぱたと上履きのスリッパを鳴らして教室を去る。その背中が見えなくなるまで、彼女は小さく手を振っていた。
「俺も帰るよ。ふたりとも、また明日」
「ええ、さようなら」
「またねー」
藤咲さんを真似して手を振ると、イツキくんは小さく微笑んで手を振り返して、また明日な、ともう一度言って廊下へと出ていく。そんな彼の姿が視界からなくなったことを確認すると、私は口を開いた。
「……ねえ、藤咲さん」
「さ! とっとと終わらせちゃいましょうね!」
ぱん、とひとつ手を鳴らすと、藤咲さんは明るい声でそう言った。そして前の席の椅子の向きを変えて、私と向かい合うように座ろうとする。
ふうん、そう。そっか。
私は何も言わず、藤咲さんが勉強を教えてくれる体勢を整えるのをただ待ってあげることにした。
「よし、と。お待たせしました。じゃあ、さっさと片付けちゃいましょう」
「うん」
「今日は私が手伝ってあげられますけど、課題なんて、本当は自分ひとりでやらなくちゃなんですからね。あまり白夜さんを困らせちゃ駄目ですよ」
「……? ……あ、ひょっとして妬いてる?」
「へ!?」
私の質問に、藤咲さんはわかりやすく焦った態度を見せた。
「な、なんの話でしょうか。うふふ」
「なんの話って……藤咲さん、ハクのこと好きだよね?」
「はい!?」
一応これは『こいばな』とかいう話題になると思うから、周りの人たちに聞こえないように小さな声で言ったのだけれど、むしろ藤咲さんのほうが大きな声とリアクションを返してきた。
藤咲さんは私の問いかけには答えないまま、どうしてか両手で丸眼鏡ごと顔を覆う。そしてその手の下から、あー、とか、うう、とか変な声を漏らしていた。
ひょっとして、私の勘違いだったのかな。いや、でも……と考えていたとき、藤咲さんはゆっくりと指の隙間から目を覗かせた。
「……わ、わかりやすい、ですか?」
「ん? 何が?」
「私の視線といいますか、気持ちといいますか……」
「ああ、なるほどね。んー、どうだろ。少なくともハクは気付いてないと思うよ」
あの人はそういうところが鈍感だ。成績はいいのに、あまり察しのよくないところがある。私は逆に昔から人の顔色を観察することばかりしてきたから、そういうのが得意になっているのかもしれない。
本当に、私とハクは色々と正反対だ。
これでも双子なのに。
「正直、ハクはお勧めできないよ」
「え、白夜さんってわりと優良物件だと思いますけど」
「学歴と収入はまだわかんないけど、身長はもう無理だよ」
「いえ、三高の話ではなく」
そう言うと、藤咲さんはようやく落ち着きを取り戻したみたいで、ケースから取り出した眼鏡拭きでレンズについた指紋を綺麗にし始める。それが終わったタイミングを見計らって、私たちは課題の続きを再開した。
「さっきの話の続きだけど、私は応援するよ」
「……ついさっき、お勧めはしないって言ってたような気がするんですけど」
「お勧めはしないよ。だってあの人、彼氏よりは旦那さん、旦那さんよりは主夫さんって感じだし」
「あー……」
めっちゃよくわかります、と藤咲さんは呟いた。
「私、優良物件っていうのはイツキくんみたいな人のことを言うんだって思ってた。頭いいし、スポーツもできるみたいだし」
「そのうえ、あの火宮の一族ですからね」
方向音痴という弱点がありますけど。藤咲さんはそう言って笑った。逆に言えば、弱点という弱点はそれしかないということなのだから、やっぱりイツキくんはすごい人なんだと思う。
「いいなあ。私は何もできないから、なんでもできるイツキくんみたいな人のことうらやましいよ」
「何もできないって……桜夜さん、先日の体力テストはいい成績だったじゃないですか」
意外と体育会系なんですね、という藤咲さんの言葉に、思わず左手のシャープペンシルを止めた。
ああ、そっか。この間の体力テストは男の子と女の子に分かれたけれど、そういえば女子の記録係は委員長の藤咲さんがやっていたんだっけ。
油断していたな、と舌打ちしたい気分になる。
「部活には入らないんですか? 足が速いし、肩も強いみたいですし、引く手数多だと思いますけど」
「それ、ハクの前では言わないでね」
「あら。どうしてですか?」
「顔を立ててあげたいから」
あの人、体育はあまり得意じゃないの。そんな私の言葉に、藤咲さんはどうしてか眉間をきゅっとしかめた。そしてそんな難しい顔をしたまま、口を真一文字にして何かを考え込む。
いつの間にか、教室に残っているのは私たちだけになっていた。藤咲さんが黙ってしまったから、教室は外の風の音が聞こえるくらい静まりかえっている。
課題を進める手を一旦止めて、私は窓の外に広がっている空を見上げた。鼠色の雲が薄く広がっている。明日は久しぶりに晴れるかもしれない。
しばらくして、あなたたちは、と藤咲さんは口を開く。さっきまでと違う、真剣な声色だった。
「あなたたちの関係は、共依存に近いですね」
「なあに、それ」
「人間関係における嗜癖症状のひとつですよ」
「しへき?」
「アディクションという意味です」
「英語はわかんない」
「では悪習慣と言い換えましょう」
それならわかるかもって冗談っぽく言った私を無視するように、藤咲さんは言葉を続けた。
「例えば、そうですね……なんらかの依存症を患って入院した患者と、その人をケアする看護師。このふたりを想像してください。患者には看護師の介護が必要ですが、その患者はやがて、看護師そのものに依存するようになります。看護師は当然、その人の世話をしますよね。それが仕事なのだから……ここまではわかりますか?」
「うん」
「しかしその奉仕はだんだんとエスカレートしていき、いずれその看護師は、患者の世話に自分の価値を見いだすようになります——この状態が、共依存です」
「つまり?」
「ようするに、愛情という名の支配、ということですよ」
へえ、と。思わずそんな声が出そうになった。
同じクラスになって半月くらいなのに、そこまで見抜かれたのは初めてのことだった。藤咲さんのことを成績がいいだけの女の子とは思っていなかったけれど、正直、想像以上だった。
まあ、藤咲さんが私の思っている通りの人なら、当たり前のことなのかもしれないけれど。
「私が患者で、ハクが看護師……藤咲さんは、そう言いたいんだ?」
「違うんですか?」
「いや、合ってると思うよ」
愛情という名の支配。
それは、私とハクの関係をうまく言い表していると思うから。
「共依存は、お互いがお互いのことを駄目にしかねない危険な状態です。余計なお世話かもしれませんが、兄離れしたほうがあなたのためだと」
「藤咲さん」
私は、目の前にいる女の子の名前を呼ぶ。
「こないだは、ひどいこと言っちゃってごめんね」
「はい? ……、……ああ、あのときの。気にしてませんよ」
藤咲さんは頷いた。
無理やり話を逸らそうとしたことに、藤咲さんはきっと気付いている。気がついたとしても、彼女は話題を戻したりはしないって思うけれど。
私が触れてほしくないって思うことがあるように、藤咲さんにだって、知られたくないことのひとつやふたつはあるだろうから。
藤咲さんが詮索してほしくないことに私は触れなかったのに、その逆をしてしまうのは対等じゃない。彼女はそれをわかってくれている。藤咲さんのそういう察しのいいところは、本当に素敵だ。
「それに、あなたの言うことも、あながち間違いではありませんから」
「え?」
「私は嘘つきですよ」
嘘つき。
月曜日の放課後に、私が藤咲さんに言った言葉。
あっさりとした声色で、藤咲さんはそれを認めた。
「私は嘘つきで、誰よりも罪深くって——だからこそ、罰を受けなくてはならないんです」
そんなことを語る藤咲さんは、爽やかな微笑みを顔に浮かべていた。
その笑顔は、まるで何もかもを諦めてしまっているようで、未練も迷いも——思い残すことは、もう何もないっていう風に見えて。
今の藤咲さんによく似た笑みを浮かべていた人を、私は知っている——覚えている。
——面倒なことを全部、もう終わらせようと思うんだ。
あの夏の朝に、そう言って微笑んだミキヤさんの顔を、私は今でも頭に思い浮かべられる。
「……そんなことないと思うよ」
「ふふ。そんなことあるんですよ」
「そんなことは、ないよ」
断言するようにそう言ったけれど、ありがとうございます、と藤咲さんには流されてしまった。
それから、私たちは何事もなかったかのように課題を再開した。きっと、お互いがお互いに、これ以上相手に深入りしたら駄目だって考えたんだと思う。
けれど。
私は嘘つきで、誰よりも罪深くて、だからこそ罰を受けなくてはならない……藤咲さんはそう言ったけれど、それは違うって、私はやっぱりそう思う。
だって嘘つきなのも、罪深いのも——そして、罰を受けなくちゃいけないのも。
それは目の前にいる女の子ではなくて、きっと、私のほうなのだから。
世界中の誰よりも——私が一番、相応しいから。