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猛毒スノーホワイト  作者: 氏原ゆかり
Sky of Daybreak
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ProloguE

 扉を開けると、そこは灰色の世界だった。

 空は暗い。しかし、地平線に視線を向けるとだんだんと明るくなっていっているのがわかる。視界の端で、誰もいない交差点の信号が『止まれ』に変わったのが目に入った。

 まだ冬の残っている冷たい空気の中に、甘い香りが混ざっているのを感じた。それはおそらく、桜の香りだろう。今年の桜は遅咲きだと、ニュースでアナウンサーだかキャスターだかが言っていたのを思い出しながら、俺は脚を曲げては伸ばすことを繰り返す。


「……よし」


 ストレッチを終え、ひとつ頷いた。首にかけていたヘッドホンの電源ボタンを押し、頭につける。やや時間があって、とあるバンドの新曲が耳元に流れ出した。

 それを確認して、俺は、ゆっくりと走り出した。

 背筋を伸ばす。視線は前に。呼吸は規則正しく、一定のリズムを刻むこと。

 いつか見た、正しいランニングフォームのコツを頭の中で復習しながら、徐々にスピードを上げていく。そうしていると、風を切るような感覚がしてきた。ヘッドホンから流れる音楽に合わせ、身体がリズムに乗り始めたことを感じる。

 一定のスピード。一定のリズム。俺はこの足で、この走り方を三年間繰り返し続けてきた。

 ふと、思う。そもそものきっかけは、はたして何だったのだろうか、と。

 早朝のジョギングを始めたのは、中一のときだった、はずだ。自分のことだというのに、よく思い出すことができない。我ながら適当に生きていると思う。

 そんなことをつらつらと考えながら、右に曲がろうとして——


「……あれ」


 思わず、足を止めた。

 右折すると、そこには桜が左右に並ぶ小さな遊歩道がある。そこの遊歩道を通り抜けるのがいつものジョギングルートなのだが、入口の前で俺は立ち止まった。

 立ち入り禁止。

 そんな言葉が書かれたテープが、目の前に張られていた。


「……ふむ」


 仕方がない。

 理由はわからない。しかし立ち入りを禁止されているということは、何か意味があるのだろう。

 ルートを変えよう。そう決めると、俺はまた走り出した。



* * * * *



 春は曙……から始まる、有名な冒頭文がある。国語の授業で誰もが一度は習うだろう、清少納言の随筆『枕草子』だ。

 春は、夜明け頃がいい。空がだんだんと白く明るくなり、紫がかった雲が細く長く漂っている——そんな景色がいいものだというような内容だったはずだ。

 そんな、平安時代の人がいいものだと綴った春の明け方、平成生まれの俺は電源を落としたヘッドホンを首にかけ、スマートフォンを片手に歩いていた。

 いわゆる、歩きスマホだ。あまりよくない行為であることは自覚しているが、走ることを中止して端末を操作していることには理由がある。


「……迷った」


 そう。

 道に迷ったのだ。

 いつもの遊歩道は立ち入り禁止。迂回するようにルートを変更したのはいいが、気がつけば知らない道だった。

 地図のアプリケーションを開くと、液晶には隣町のマップが表示された。自宅からも普段のルートからも遠く離れ、むしろ一週間前に入学したばかりの高校のほうが近い。そういうわけで、俺はアプリのナビゲーションに従いながら徒歩で移動していた。

 夜明けが近付いてきているのか、町は徐々に白く、明るく染まっていく。暗くてシルエットしか見えなかった道路の標識やカーブミラーの輪郭などが、だんだんと姿を現し始めていた。

 アスファルトの歩道を歩き続け、とある公園の前に差しかかったところで立ち止まる。

 ナビはこのまま進み、公園の角を曲がれと指示を出している。しかし、ルートの線をなぞるように見てみると、この公園を通り抜ければショートカットできそうだった。

 時間に余裕はある。急ぐことはない。しかし既に普段よりも帰宅が遅れているのだから、多少は急いだほうがいいだろう。そう判断し、俺は公園の中へと入る。

 そこは地図上では公園と表記されているものの、あえて例えるなら広場、あるいはグラウンドという印象だった。公園を囲むように桜の木が植えられ、照明の光を受けて影を作っている。その影を出て、俺は端末の液晶から顔を上げた。

 そのとき。

 不意に、一陣の風が吹いた。

 桜の花びらが舞い上がり、踊るようにひらひらと落ちていった。夜明けの空を背景に、白い花は朝日を受け、風が吹くたびに光が零れ散る。それが舞い散る様子は、まるで時期外れの雪のようだった。

 幻想的な光景だと思った。

 しかし俺は、その桜吹雪の下にいる人物に、目を奪われた。


「あ」


 無意識に声が漏れ、『彼女』と視線が交差した。

 黒神(くろかみ)

 クラスメイトの黒神桜夜(さくや)が、そこにいたのである。

 フードのついたジャージ姿だった。おとなしい顔立ちをしている彼女には不似合いな、スポーツウェアのようなデザイン。

 不似合い。

 不似合いと言うのであれば、今の黒神の存在そのものが、この世界には似つかわしくないように思えた。

 それはむしろ、不自然と表現したほうがいいくらいに。

 深く被ったフード。季節外れのマフラー。手にしている日本刀——そして、彼女の足元に転がる、何か。

 雪のようだった花びらは黒く染まり、穢れ、地面に散らばっていた。甘い香り。桜の香り。その中でかすかに漂っている、鉄のような臭い。

 朝日に霞むこの町で、今この瞬間、この公園だけが世界から切り離されているかのようだった。


「…………」


 沈黙。

 俺は口を開かなかったし、黒神は口を閉ざしていた。

 彼女との距離は、ほんの数メートルほど。だというのに、まるで厚くて透明な壁が俺たちを隔てているかのように、黒神の存在を遠く感じた。

 公園には静寂が満ちている。ざり、と。彼女が刀を引きずる音が、嫌に鼓膜に響いた。


「……あのさ」


 先に口を開いたのは俺だった——同時に、黒神が駆け出す。

 彼女は刀を大きく振りかぶりながらこちらに飛び掛かり、そして勢いよく振り下ろした。

 しかしそれは黒神が振り下ろしたというよりは、彼女の細い腕ではコントロールすることができず勢いにつられてしまった、と表現したほうが正しいのかもしれない。

 剣道経験のない俺でもわかる、まるっきり素人の動き。だから俺は身体を横に移動させることで、その刀をかわした。

 黒神は、戸惑ったように見えた。

 正直、俺も少し戸惑っている。

 彼女に襲われる覚えも、当然、殺されるようなことをした覚えもない。そもそも入学式から一週間、俺は黒神とはひと言も会話をしたことはないはずだ。

 そうなると。

 頭をよぎるのは『無差別』という単語。

 そういえば、いつかのニュースでそんな言葉を聞いたような気がする。

 確か、連続——


「……っと!」


 繰り返し振るわれる刃をかわし続けている、そのとき、足元の何かにつまずいた。身体のバランスが崩れ、後ろ向きに倒れる。

 足元に視線を向けると、そこには血塗れで倒れている少女がいた。

 彼女は高校生くらい——俺と同年代の年齢に見える。

 生きているのか。死んでいるのか。もしも死んでしまっているのだとしたら——殺したのは、黒神桜夜ということだ。

 と、思考していたのがよくなかった。

 気がつけば、目の前で黒神が日本刀を構えていた。刀を肩の上に持ち上げ、先端をこちらに向け——そして一気に間合いを詰め、突きを繰り出す。

 朝の光を受け、刃が白くきらめいた。

 とっさに横に転がり、その一撃を回避する。その瞬間、左の頬に熱を感じた。身体を起こして体勢を整えると、頬に感じた熱さが鋭い痛みへと変わっていく。温かいものがひと筋、肌を撫でた感触が伝わった。

 ゆっくりと、彼女から距離を取る。さて、これからどうしようかと考えた、そのときだった。

 ————♪

 突然鳴り響いた音に、黒神の肩が跳ねる。

 それは俺のスマホの着信音。そういえば、公園に入ったときには手にしていたはずのそれが、今はどこにもない。振り向くと、数メートル先で地面に落ちた端末の液晶が光っていた。

 ちっ、と。舌打ちのような音が聞こえた。その方向に視線を向けると、彼女が踵を返し、マフラーを翻している姿が見える。そしてそのまま、公園の出口へと駆け出していってしまった。

 黒神が去った後の公園に残されたのは、倒れている少女と俺のふたりきり。

 日本刀を振るう彼女が消えたことで、この場所はようやく、いつもの日常に戻ることができたようだった。

 たとえ、地面に散らばっている桜が——どす黒く血に染まっていようとも。

 ひとつ息を吐き、さて、と思考を切り替えて落としたスマホを拾いにいく。液晶には通知が表示されていた。母さんからの電話である。いつもより帰宅が遅いから心配したのだろう。

 ロックを解除しようと画面を指でなぞり、その指が液晶を黒く染めた。それで気付く。俺の手のひらからジャージの袖口にかけて、真っ黒に染まっていたことに。

 これは洗濯が大変そうだ、とどこか他人事のように考えながら、倒れている少女のそばに近付く。派手に血を流しており、まるで死んでいるかのようだ。

 けれど、生きていた。小さく弱々しいが、確かに呼吸をしている。

 ふと、考えた。

 黒神は、どうしてこんなことをしたのだろうか——と。

 しかし同時に、それはきっと、考えてもわからないことだとも思う。

 だって俺は、黒神桜夜のことを何も知らないのだから。

 じくじく、と。

 左の頬が、ひどく傷む。


「ああ——」


 一、一、九、と入力しながら、俺は呟いた。


「——帰り道、教えてもらいたかったんだがな」

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