桃源郷
郊外に深い森が残されていた。
人々が行き交う街中からそれほど離れているわけではない。
だが誰も近所にこのような場所があると教えてくれなかった。
誰もこのような場所があることを明にも暗にも示唆しなかった。
緑の輝きようはここだけ違う。目に優しく、肌が焦げ付くような夏の光線を和らげてくれる。
芳しい香りは血管に精気をもたらしてくれる。普段では耳障りな虫の羽音でさえ、心地よい音楽に聴こえてくるではないか。
それでいて、そこはかとなく足元から立ち昇ってくる既視感はどうか?
踏みつけている土壌の豊かさは、確かなる確信を与えてくれる。
ここが楽園であることは疑いようもない。
しかし絶海の孤島のように人を拒絶している風はない。
人々もここに関していかなる知識も備えていないようだった。
近づくな、という代わりにどうして、そんな何もないところに行くのか、無言でそう尋ねたいようすが見て取れた。
奥に踏み入れば、入るほどに桃源郷的な印象が強くなっていく。そして、ひとつの疑問が鎌首をもたげる。
この美しい風景、ほんとうに誰も所在を知らないのか?
かつて人々が入った形跡はどこにもない。
様々な植物と友人付き合いをしていただけに、わかることもある。
きっと何年も人々は足を踏み入れていない。
それは何十年、何百年単位かもしれない。
そこまで遡れば、あるいは、という感触をもったのは、かすかに人が発する瘴気のようなものを感じないわけではなかったからだ。もっともそれは渓谷の岸壁のありようが、視ようによっては、古代人の絵に視えるといった水準にすぎないのだが。
いま、何かが潰れた音が靴の下でくぐもった。確かめることは怖くてできない。
宗教的なタブーなのか。
だがそういう雰囲気は
もしも人を阻みたいのならば、立て看板くらいあって当然だろう。
すでにこの桃源郷へのつれない態度は常態化しているのか。
それとも禁じられていることすら、悠久の時を経て忘れ去られてしまったのか?
思考は、ここへの道程のように迷路に放り込まれた。
先ほど踏んだものは準液体をその内部に感じた。ぬめぬめとした感情が靴を通して足全体に付着するような気がする。自分の感受性が怖い。忘れようと努力する。
しかしそんな瑣末な感情は瞬く間に、ほとんど感じなくなってしまった。
何処かに誘われる。
木々の枝、葉に覆われた前方から異常な吸引力を感じる。
いったい、誰が自分を呼んでいるのか?それは一意に声というわけではない。何か、単純に空気の振動というよりは、大地そのものを震わせるような。
声のようなものに手首を摑まれて、無理やりに引っ張られている。
声でできた手。
声の指。
声の爪。
声の指紋。
それらがいっしょくたになって手錠のように手首にはまっている。
上方に引っ張られている。
鎖が手首に食い込んでいるはずだが、痛みは感じない。
昼間だというのに、深い森は太陽光を拒絶するのか、鬱蒼とした深い緑だけがここの支配者となりおおせている。
これほど深い森ならば、無数の根っこが蔓延って、まともに歩くことも覚束ないはずだ。
それなのに、すいすいと進んでいく。翼の生えている靴でも履いていただろうか?
高木に光を失われた低木や雑草たちも、健気に成長している。あたかも見えない光を地下から受容しているかのようだ。
ある意味で植物学者として培った知識を、この森は裏切ってくれる。
植物学者を志したのはどういう理由だったか。細かい枝と葉に刻まれた空が開けた瞬間にそんなことが胸に蘇った。
再び、空が覆われてしまうと消えてしまった。
きっとどうでもいいことだったのだ。
そのかわりに、どうしてこんなところまで足を運んだのだろう?
「昼食ができるまで戻ってくるのよ」
母親の声だろうか?
いや、違う。母親はこんな国の言葉なぞ、いや、それ以前にそもそも文字すら知らないはずだ。
少なくとも男の声ではなかった。わかるのはそれだけだ。もうどうでもいい。
刻まれた空は、たまにその全貌が推定できるくらいに顔を露わにする。
べつに彼女のせいにしても詮無いことだ。
何もかもこの森のせいなのに。
攻撃すべき敵を見誤るととんでもないことになる。
だが愛すべき植物を責めるのは憚られる。そうだ。あの子たちを育てたのは太陽と水ではないか。責は連中にこそ帰せられるべきだ。
それに母親は、若いときこそ知らず、あのようなレモン水のような透明度の高い声ではない。
この森、郊外にあるというのだから外には町が広がっているはずだが、森と町と、どちらが主なのだろうか?
もしかしたら、前者が主では?あるいは国全体が森ということもありうる。
ならばあの声も錯覚か、記憶の錯誤にすぎないのか。
しかし植物を愛していることだけは事実だ。
惨酷な太陽と雨をろ過して、美しい光と飲料を保証してくれる。
そんな連中を愛さない方法はない。
どんどん森の奥へと入り込んでいく。
あたかも自らの身体が葉緑素の一部になりかけたとき、はるか遠く、ちょうど宇宙の果てまで到達したと思ったとき、驚くべき変化を目にした。
物理的に光は減少していくはずなので、視界は昏くなっていくはずだ、
にもかかわらず、光が増えていく。何か新しい光源が森の奥にあるとでもいうのか。
はたして、光源かとおもったのは、単にその部分だけ木々が刈り取られていたからだ。
しかし酷薄であるはずの太陽光は、いままで出会ったなかでもっとも柔らかだった。
何か男性的と相反するものを太陽に感じる。
けっきょく、光源とは太陽だけに限定されるのか?
彼に求めねば、誰にも求められないというのか?
えもいわない虚しさに、もやもやしたものを感じずにはいられない。
しかし、葉緑素の助けを得ずにこの身を太陽に晒す。
そういう衝動にも、ほぼ同時に胸に去来した。
このふたつの隆起は胸部に具現化したとでもいうのか?
やがて、踵を返して戻ることになろうが、それは太陽に向かって背を向けたことは意味しない。
もはや彼なしに生きられないことを知ってしまったことが理由だ。
「昼食ができるまで戻ってくるのよ」
そう言って送り出してくれた異国のおばちゃん。
彼女はメガネをかけていたが、それは牛乳瓶の底のように分厚かった。
だからこそ、メガネおばさんという認識しか持たない、もう世話になって二か月にもなるというのに。
あまりにも印象的すぎたからだ。
あえていうならば、青春の残照としてのそばかすぐらいは印象のひとつに加えてあげてもいい、眼球、睫毛、瞼、それらを相対するところの、目、それ自体や耳、鼻、口はどんなかたちだったのか、まったく思い出せないが。
手首には声の指が食い込んでいたが、それはそのおばさんが貸してくれた古風なねじまき時計だった。
宇宙の果てまで到達したと思ったのに、時計をみればたった30分の小旅行にすぎなかった。帰宅するまでにはきっとおばさんの昼ごはんは完成しているだろう。十分すぎるほどだ。
そんなおばさんは、買い換えたばかりのメガネの力を使って、この小旅行の成果を洞察してしまうだろうか?
自分なりに、もはやこの桃源郷を体験する前には戻れないような気がするのだ。
どうだろう。
表情などありえなさそうな、メガネおばさんの驚く顔を想像しながら家路に付くことにしよう。