十話 ストライダー翼竜
彼は、この空域の覇者だった。
獲物を捕らえ、喰らう。
たったそれだけの、あまりにも単純な論理に則って、生を受けてから今の今まで君臨し続けてきた。
そんな彼が、満腹だというのに狩りに出かけたのは理由があった。
――そそる香りがする。
酷く気に触るのだが、それでいて興味を掻き立てる何か。
その何かは、先ほどからずっと、そう遠くない距離で蠢き続けている。
視覚、聴覚、嗅覚。
感覚の全てをそばだてて、元凶を探っていく。
特に視界は秀でていて、例え千里離れていようとも彼には見通すことが可能だった。
そうして彼が見つけたのは、芋虫のように節のある白い塊である。
先端を走るのはたった一匹の年老いた馬。
――骨と皮だけに近く、あまり旨そうではない。
あまりの期待外れに、彼は一瞬落胆を示した。
しかし、すぐさま意気を取り戻す。
彼は長年の経験から、あの白く柔らかい外殻の中には、往々にして柔らかな肉の塊が詰まっていることを知っていた。
無論、全てがそうというわけではないが、それはそれで開けてみるまで分からない楽しみがある。
にやり。
彼は口角を上げると、羽ばたきと共に一気に加速し詰め寄った。
◆
「――止まってください」
飛鳥と出会った翌日の昼のことである。
バッツが御者台に座って荷馬車を走らせていると、隣にいた緋色の少女に強い口調で静止された。
ほんの少し前まで、彼女は興味津々といった様子で馬車馬に目を輝かせていたのだが、一瞬にして張りつめた表情へと切り替わっていた。
「どうしたってんだ、アスカ? まさか、便所か?」
「……バッツ!」
「いえ……」
催したのかと推測しあえて軽い口調で返すバッツと、デリカシーがないと叱りつけるミリー。
だが、飛鳥が深刻な表情で首を振り、ふざけている場合ではないのだと彼は察する。
「噂をすればなんとやら……ではないのですが、どうやら言っていた強い魔物に見つかってしまったようです」
「どういうことだ?」
それでもバッツは説明を求めた。
何故なら、彼には一切そんな気配は感じられないからだ。
魔物の気配感知は冒険者にとって一般的な技術であり、昔取った杵柄ということでバッツも当然修練を積んでいる。
かつての冒険者仲間が言うには、相手が格下であればあるほど察知しやすくなるのだとか。
飛鳥の力量はわからないが、精々自分たちより少し上程度のはず。
何せ、まだまだ幼さの残る少女なのだ。
一瞬にしてゴブリンたち――と自分たち――を眠らせた手腕は見事だったが、まだまだ経験の面では未熟に違いない。
ゴブリンを片づけるとき、飛鳥が簡単な魔術ばかり使っていたこともあり、バッツはそう考えていた。
だというのに、彼女だけが感知できるなどあり得るのだろうか?
「説明している時間はないみたいです」
半信半疑のバッツに、凛とした声で飛鳥が押し迫る。
どこかおっとりとした普段と異なり、有無を言わせぬ威圧感。
金の瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥るのだが、バッツはすぐに我に返ると、手綱を引いて馬車馬に走るのを止めさせた。
「脅すような真似をしてごめんなさい。だけど、このままだと危険ですから……」
目を伏せる飛鳥。
例え恋人がいたとしても、流麗な面立ちをした少女が悲しげにするというのは何処か胸が締め付けられる思いである。
――ただし、それは平常時ならば。
彼女の視線の先にいるのは、滑空する巨大な黒い影。
高速でこちらに迫りくるそれをバッツたちも視認し――叫ぶ。
「な、ありゃ、翼竜――ワイバーンか!?」
前足と同化した一対の翼に、全長の三分の一ほどを占める長い首。
先端に幾つもの棘を生やした尾は、獲物を見つけた興奮からかぷっくりと膨らんでいる。
風を受けながらもピンと一直線になって突き進むその姿は、あたかも漆黒の矢のようである。
「な、なんでこんなところに……?」
ミリーが絞り出すのがやっとという様子で呟く。
そう、今のバッツは別の意味で胸が締め付けられていた。
かつて目にした文献によればワイバーンのモンスターレベルは7。
漆黒の鱗は魔法抵抗に優れており、かといって縦横無尽に飛び回られては剣が届くはずもなく。
それ故に、国軍がバリスタといった万全の兵装をもって討伐に当たるのが妥当な魔物である。
十全な準備が出来ていなければ、たったの一匹に為す術もなく全滅させられることすら有り得るのだ。
それなのに、ここにいるのは馬の扱いに少し長けただけの戦士が二人に、幼い魔道士が一人。
どう考えても敵うわけがない絶望的な状況だった。
「ミ、ミリー! 逃げるぞ!」
バッツが取り乱しながら怒鳴る。
一刻も早くこの場を離れなければならない。
例え、逃げられる可能性が万に一つもないとしても。
――なんでアスカはこの状況で止まれなんて……!
心の中で毒づきながら鞭を振るう。
しかし、急停車してしまったこともあり、年老いた馬車馬の動きは酷く緩慢である。
「大丈夫ですよ。……バッツさんたちには指一本触れさせませんから」
そんな中、手で静止を促すと飛鳥が微笑んだ。
いつの間にか、背に括り付けていた鞘から剣を抜いていて、右手に握られた刀身が赤く煌めいている。
また、もう一方の左手は豊満な胸元へと。
「では、行ってきます」
まるで、少し出かけるかのようにそれだけ言うと、少女は緋色の髪を靡かせながら御者台から飛び降りた――。
◆
彼が急降下しようとしたタイミング。
すると、鮮烈な「赤」が印象的な人間の雌が飛び出してくる。
少しだけたじろぐ翼竜。
彼にとって、自分より小さな存在は蹂躙されるべき弱者でしかなかった。
いつもなら、雲の子を散らすように逃げまどうそれが怯えを見せず――むしろ、率先して立ち向かってくるという予想外が原因である。
しかし、すぐに気を取り直して獰猛な笑みを浮かべた。
わざわざ向かってくるのだから、却って好都合。
食いではなさそうだが、戯れの後に柔らかな食感が楽しめそうだ。
翼竜は出鼻を挫かれた分を取り戻そうと、急降下の前触れとして再び舞い上がる。
しかし、次の瞬間更なる予想外が起きた。
眼前に広がるのは、奇しくも同じ鮮烈な赤。
爆炎である。
すぐに翼竜は、「赤」がこちらに放ってきたのだと理解する。
痛みは、ない。
彼の生まれ持った竜麟は堅牢であり、この程度の魔術など目くらまし程度の働きしかしていない。
だが、不躾なる一撃に苛立ちを感じたのも確か。
――天空の主たる自分に無礼を働けばどうなるのか、教えてやる必要がある。
翼竜は口内に魔力を貯めこむと、空気の弾丸に変換、圧縮して超高速で放つ。
手始めに十発ほど。
空気を劈く轟音が鳴り響き、上空から音速を超えた刃が降り注ぐ。
狙いは正確であり、どう逃れようとも寸分の違いも生じずに射抜くはず――だった。
ふわり。
ふわり。
「赤」は、黒い衣を翻しながら、まるで重力を忘れたかのような軽やかな動き。
放たれた弾丸はただただ大地を抉るだけであり、かすり傷一つすらつけられない。
自然と、翼竜は「赤」へと括目する。
翼竜は風の魔力との関わりが深い種族である。
たった一対の翼で巨躯を支え、それどころか超高速が出せるのも、風の魔力の恩恵があるからこそなのだ。
そして彼は気づく。
「赤」は自分と同じように、全身に風を纏っているのだと。
それを裏付けるような出来事が起きた。
たった二本の足で地を這うしかないはずの虫けらが、跳躍と同時に宙を舞ったのだ。
本来なら、どれだけ優れた身体能力であろうと数メートルがやっとの行動。
だが、その「赤」は勢いを衰えるどころか更に加速し、ぐんぐんと飛距離を伸ばしていく。
――速い。
翼竜が漆黒の矢だというのなら、あれは真紅の弾丸だ。
そして、見失う。
下でも、右でも、左でもない。
だが、困惑のさなか、視界の端にきらりと煌めくものがあった。
「赤」が手にしていた金属の光であることは間違いない。
彼は極めて迅速にそちらへ――頭上へと目を向ける。
……それがいけなかった。
「――――!」
逆光に目を焼かれ、一瞬――ほんの一瞬だけだが視界が白く染まる。
強靭な竜の肉体はすぐに適応し視界を回復させるのだが――「赤」にとってはその猶予だけで充分だった。
「赤」の手に握られていたのは、本来なら金属が持つ銀とは程遠い赤。
灼熱に染まった剣が首元へと振り下ろされ、一切の抵抗を受けずに竜麟を切り裂いていく。
痛みは、ない。
だが、その性質は先ほどとは全くといっていいほど異なっていて、あまりに滑らかに切断されたため感覚が麻痺しているだけ。
「赤」が器用に風を操りながら、ゆっくりと着地する。
翼竜も同様に。
だが、その有様は墜落といった方が正しいだろう。
それから少し遅れ、胴体も落ちてきた。
彼のときとは違い、ずっしりとした激突音。
自分と胴体は二度と触れ合うことの叶わない永遠の離別を果たしたのだ。
翼竜がそう理解したのは、薄れゆく意識の中でのことだった。
5/9 タイトル改題




