第八幕「夢想と現実」
異世界の青い空に向かって、抹香の煙がゆっくりと昇っていく。
思えば、この世界に来る直前も俺は線香の煙を見つめていた。
とはいえ、その記憶すらいまは怪しいのだが。
目の前には角材で作った簡素な墓がある。
墨汁で黒々と「清康居士」と書かれたそれの前で、俺は読経を聞いていた。
源応尼さん、次郎三郎さんがひそかに想っていたらしい尼さんの声だ。
先日、その次郎三郎さんが死んだ。
俺と折花との祝言から幾日もしないでの出来事だった。
思えば次郎三郎さんは嫌な咳をしていたし、祝言にしても流れ者の俺をあっさり養子に決めたあたり、かなり焦っているようだった。
ひょっとすると本人は、こうなることを予期していたのかもしれない。
悲しいことである。
しかし、悲しんでばかりもいられないのが残された者の味わう世知辛さだ。
世良田家は昔こそ武家の名門だったが、現在は一家四人食っていくのすら大変な貧農暮らしである。
それが無理をして祝言をあげたところにこの葬儀だ。
葬式費用すらまともに工面できない。
古今東西、儀式には金がかかる。
そして儀式ほど、腹のふくれないものもないのだ。
簡単な読経。あとは土葬。ただそれだけをするのがやっとだった。
「ありがとうございました、源応尼さん」
読経が終わったところで、俺は言った。
実は、俺と折花の祝言も今回の次郎三郎さんの葬儀も、どちらも源応尼さんが援助してくれなければどうにもならなかったのだ。
俺の言葉に、源応尼さんは静かに首を横に振った。
「一度は我が夫にと思い定めた御方の葬儀です。礼を言われるようなことではありません」
「……婚約、してたんですか?」
「ええ。もう随分昔の話でございますけれど」
源応尼さんは自分自身、過去を思い起こすように次郎三郎さんとのことを語ってくれた。
次郎三郎さんがまだ若かった頃、世良田家は没落しつつもまだわずかばかりの所領を持つ土豪にとどまっていたのだそうだ。
源応尼さんはそんな世良田家と付き合いの深い武家の娘として生まれ、年頃になれば次郎三郎さんの正室として迎えられることが決まっていたらしい。
しかし、次郎三郎さんの父親が死去すると、その所領は叔父によって横領されてしまう。
行き場を失くした次郎三郎さんは流浪の身になり、残された源応尼さんも別の人物の妻となった。
それから十数年後、次郎三郎さんは流れ着いた境村で貧農として生活を始め、源応尼さんも子に恵まれなかったために離縁されて出家し、この尼寺にやってきて、二人は再会することになったのだった。
そのとき、次郎三郎さんは別の女性との間に二人の娘をもうけていたが、源応尼さんにはすでに嫉妬の感情もなく、これも巡り合わせだと、西野さんと折花の母親がわりをつとめることにしたのだという。
話を聞いた俺は、驚くよりも納得する気持ちの方が強かった。
いくら娘二人が手習いに通っているといっても、源応尼さんの世良田家への肩入れは度が過ぎているように感じられたのだ。
そう、それこそ、まるでかつての夫と娘たちを気遣う母親のような印象を俺は源応尼さんに持っていた。
形は少しばかり違うが、あながち的外れでもなかったということだ。
語り終えた源応尼さんはやはり静かに俺を見た。
その顔は、娘の夫を見定めようとする母親のようだった。
「あなたは西野が好きなのですね?」
飾り気のない直球の言葉に、俺は息をのんだ。
答えを期待していなかったのか、源応尼さんはそのままつづけた。
「おあきらめなさい。あの子に子は産めません。そして、子をなさず、家を絶やし、田畑を人手に渡すことほどの親不孝もありません」
まさしくその通りだろう。
連綿と続いてきたものを、代々守ってきたものを自分の代で絶やす。破壊する。
そんなことが許されていいはずがない。
「折花は我が強いですが、根は優しい子です。いつか分かりあえる日がくるでしょう」
言われずとも知っている。
かつて夢で見た折花は、西野さんが倒れたとき、よその村に盗みに入ろうとした。
病弱な姉のために、死罪になるかもしれないとわかっていてやったのだ。
そんな決断ができる子が、優しくないはずがない。
そう、俺だって、折花の良いところを知らないわけじゃない。
でも、やっぱり違うのだ。
俺にとって西野義姉さんと折花はどうしたって違う。
圧倒的に、絶対的に違う。
もう、その感情は理屈では割り切れない段階まで進んでしまっている。
折花は折花で、いまの環境に満足していないことが言動の端々から出ていた。
最初は俺が気に入らないから拒絶しているんだろうと思っていたが、どうもそればかりではないらしい。
折花は、頭が良くて、美人で、健康で、そして野心家だ。
幼い日、新太郎の背中でこぼしていたように、彼女は城のお姫様として誰もがうらやむ生活を送りたいと強く願っている。
だから、そんな彼女にとって俺の存在は邪魔なのだ。
この世界に故郷も持たず、ただ流れてきて貧農の家に入り婿になるような男を夫にしても、折花の野望は叶えられない。なんの助けにもならない。
彼女が望む相手は、身分があって、財産があって、若くて、格好良くて、彼女自身を高貴な女として優遇してくれる、そんなやつなのだ。
「なろうと思えば、なれなくはないんだろうけどな……」
尼寺から家に戻る途中、俺はついこぼしてしまった。
俺はこの世界の今後を知っている。
どの大名家が生き残って、どの大名家が滅びるか、どんな人物がどれだけのスピードで出世、あるいは没落するか、俺は知っている。
つまり、いまは大した身分でなくても、のちのち大人物に出世するやつを見つけ出して売り込んでおけば、それだけですでにそれなりの身分になれるのだ。
「いまが西暦1569年くらいだろ? ってことは秀吉はやっと城主にしてもらったかどうかって段階だし、信玄と家康が駿河と遠江に侵攻して、今川氏真は相模に逃れているはずで……」
もちろん、ここは日本ではなくミヨイ帝国なので、俺が知っている人名もちょこちょこ違う。
武田信玄は加賀美信玄だし、織田信長も津田信長だ。
なので人物の比定から始めなければならないが、その手間を差し引いても、ざっと考えただけで百人くらい当てがある。
売り込み方も、やりようはいくらでもある。
剣の腕を見せるのもいいし、現代の歴史学から得た知識を利用するという手もある。
いや、いっそ、
「信長のとこでイタ飯でも作るか?」
政宗のとこで馬をハーレーみたいに走るように調教するのもありかもしれない。
あ、海岸に落ちてる自衛隊拾うってのもありだな。落ちてないかな、装甲車。
「って、あるわけねぇか」
いかんな、思考がどんどん夢見がちになっちまってるぞ。
ペニシリンでも作るかってちょっと思ったのは内緒だ。
まあ、でも、やり方はいくらでもあるってのは本当だ。
そう、やり方はあるし、思いつく。
だけど、
「モチベーションがなぁ……」
上がらないんだよ、これが。
だって折花をお姫様にしたいかって聞かれたら、正直微妙だもの。
西野義姉さんのためだったらなんでもやっちゃうけどね。
そんなことを考えながら家に戻ると、玄関先に折花がいた。
次郎三郎さんが亡くなったことで、喪に服している期間は家でじっとしていなければならない。
期間はだいたい50日が目安らしいが、そんなに長く仕事をしないでいれば田畑は荒れるし、日々の食事や薪にすら事欠くことになる。
貧農、世良田家ではなおさらだ。
だから農作業を軽めに切り上げることで、俺たちは周囲への言い訳にしていた。
おかげで俺は尼寺で源応尼さんと話す時間がとれ、折花も普段滅多に手にできない自由時間を得たというわけだ。
彼女は何かの本を一生懸命読みながら、指先を足元に向けている。
すると地面を覆っていた砂が盛り上がり、小さな子馬の形を作った。
魔法だ。
その光景を見た瞬間、俺は自分の身体が石みたいに強張るのを感じた。
この世界には魔法がある。
そんな事実を見せ付けられて、俺はいままでの自分の夢想がいかに浅はかだったかを知った。
この世界には魔法があって、俺の世界には魔法がない。
ならば、俺が持っている知識も、魔法的な何かによってなんの意味もなさないものにされてしまうのではないかと、そう思ったのだ。
例えば、戦のやり方だ。
魔法が一般的なものなら、その辺の兵卒でも素手で火縄銃くらいの威力を持つ攻撃魔法が撃てるかもしれない。
戦国時代の医療技術では治らない病気が、回復魔法でどうにかできてしまうかもしれない。
もしも、そんな現実があるんだとしたら、この世界の動きは結果だけが俺の知っているもので、その間の過程はまるで別物であるのかもしれない。
だったら、俺の持っている知識はまるきり役に立たなくなるかもしれないということだ。
その場に釘付けになってしまった俺に、折花が気付いてジロリとにらんできた。
「なに?」
「あ、いや、いまの、魔法……だよな?」
「魔法じゃないわ、呪術よ。そんなことも知らないの?」
「あ、いや、その……」
言葉が、出てこなかった。
そのくらい、俺は動揺していた。
これから出世する人物に近付けば良い暮らしができるって?
どうやって近付くってんだ?
この世界の常識が俺の知っているものとかけ離れていたら、そもそも何をすればご機嫌とりになるのかすら分からないじゃないか。
現に、上黒駒村の連中は、俺が奇跡を起こせないと知っただけで川に沈めようとした。
あの段階で気付いているべきだった。
この世界は、俺の知っているものに上っ面が似ているだけで、一皮むけばまるで違うものが広がっているのだ。
ショックで身動きが取れなくなった俺を、折花は鼻で笑った。
表情に、軽蔑の色がふんだんに含まれていた。
それから三日後、次郎三郎さんの喪が明けないまま、折花は姿を消した。
俺は人生初の妻から、一週間とちょっとで捨てられたのだった。