第一幕「勧誘メールで異世界へ」
男子は天下に一事を成せばよい。
そういったのは十三歳まで同居していた父方のじいさんだった。
それなりに大きな農家の後継ぎで、俺が小学校にあがるまでは町の教育長なんかもしていた謹厳実直な人だった。
「いいか、巴」
と、趣味でやっていた古流剣術を俺に教えながら、厳つい顔にしわを寄せてじいさんは言ったものだ。
「男に生まれたからには何か一つ、世の中のためになることを成せ。何か一つ、それだけでよく、またそれ以上を望んではいかん」
じいさんがそういう説教じみたことを言うたび、俺は心の中で思ったものだ。
一つだなんて簡単なことじゃないか。
そんなことに一生を使わないといけないだなんて、じいさんの世代はだから古臭いと馬鹿にされるんだと。
その認識が間違いだと気付いたのは高校を卒業して半年ほどたってからのことだった。
「あのときはごめんな、じいさん」
喪服をきた俺はそういって、墓石の前に線香を灯した。
灰色の御影石の前を、白く、ゆるやかな煙が天に昇っていく。
その先にある空は青く澄みわたっていた。
真面目で厳しく、それでも優しかったじいさんは俺が中学生のときに死に、そして今年の三月、両親もまたこの世を去った。
じいさんは寿命だったが、両親の方は旅行先での事故が原因だった。
俺が高校を卒業するのを見届けて、これでやっと手がかからなくなるからと、夫婦だけで出かけた翌日のことだった。
そのときの俺は、四月に入る大学のことや、初めて一人暮らしをするアパートのことで頭がいっぱいで、だからニュースで流れた自動車事故が、親父やお袋を巻き込んでいたなんてことに気付きもしなかったのだ。
親父たちは少なくない額の金を残してくれたが、それでも私立大学の学費と一人暮らしにかかる生活費を考えると、とても入学する気にはなれなかった。
俺が進学しようとしていたのが、文学部の史学科という、およそ就職とは無縁の場所だったというのも理由の一つだった。
結局、予定していた進路を断念した俺は、遅すぎる就職活動を一人で行わなければならなくなった。
もちろん、その年の新卒採用、特に高卒向けのなんてのはとっくに終わっていて、ハローワークに通い通い見つけたのは近所にある工場の契約社員の口だった。
その職場に入って半年、いましみじみと、俺はじいさんの言葉を思い出している。
――男子は天下に一事を成せばよい。
ガキの頃は簡単だと高をくくっていたことが、実は恐ろしく難しいことなのだと社会に出てみてはじめて分かったのだ。
現代社会というところは、実力主義の場ではない。
これが、俺が最も誤解していた点だった。
実力があれば、やる気があれば、努力すれば、どんな経路をたどろうと人は成功できるものと俺は思っていた。
でも実際は、大人の世界は、そもそも全力を出させてもらえないのだ。
高卒の契約社員には、責任をともなう仕事は任せてもらえない。
誰でもできる仕事だけを回されて、「ちょっとやってきて」と端的な説明だけをされてあとは放り出されてしまう。
ではその誰でもできる仕事を一生懸命やって、がんばっている姿をアピールすれば信頼してもらえるのかというと、それも違う。
なぜなら、がんばっている人間を評価する相手も、同じ人間であるからだ。
どんなにがんばっていても、相手が気に入らないと上の人間が思えば状況はかわらない。
平然と、まるでそれが当然ででもあるかのように、適当に仕事をしつつ、上司とのおしゃべりがうまい人間の方が評価される。信頼される。技術を教えてもらえる。責任ある仕事を任される。そしてあっという間に正社員になる。
誰より努力していても、まじめでひたむきであっても、上の人間にとって気が許せる相手にならなければ、便利使いされて終わってしまうのだ。
下の人間が能力を要求されるように、上の人間にも、下を正当に評価する能力が求められる。
が、現実には、そういう上に立つ能力を持っている人間というのは、下の能力ある人間以上に数が少ないのだ。
契約社員になって半年、俺はその現実をまざまざと見せつけられ、そして愕然とした。
自慢ではないが、俺は同じ時期に会社に入った誰よりも仕事の覚えが早かった。
あとから入ってきた契約社員や派遣社員の面倒も、実のところ、やる気のまるで感じられない、しょっちゅう休みをとる正社員たちの何倍もみている。
むしろ不躾な言動の目立つ彼らをフォローし、後輩たちとの調整を行っているのは俺だ。
俺がいなければ、いまの職場は成り立たない。
自分を過大に評価しているのではない。
現実問題、いまの職場はそうなのだ。
だが、俺は正社員にはしてもらえない。
給料が増えることもない。
なぜなら、上司や先輩たちの形成する「なんとなく仲の良い者同士」のグループに俺が入っていないからだ。
彼らに話をあわせて、その仲間に入れてもらえないと、そもそも評価対象としてすら見てもらえない。
でも俺は、あの連中の、あんな意図的に指導をおろそかにして、うまくできないやつを影で笑いものにしてさぼっているような、そういう行動を一緒になってやる仲間に入るのは死んでもごめんだった。
じいさんは一事を成せばよいと言ったが、この世界にはその一事すら成そうとしない人間があまりにも多すぎるのだ。
ただ安定がほしくて、面倒くさいことはしたくなくて、責任はとりたくなくて、だからうまい具合にだらける方法だけを模索しているような生き方を選ぶ人間の方が圧倒的に多いのだ。
「志のない者が、あまりにも幅を効かせすぎている」
そのことに憤りを覚える。
正直、顔面を殴りつけてやりたいと思ったことも一度や二度ではない。
もちろん、そんなことをすれば職を失うのは俺だ。
だから黙る。黙って、ひた向きに仕事をこなす。職場がうまく回るように尽力する。
そうやって代わり映えしない日常が、底辺に沈んだまま、決して浮上することのない現実が、一方的に降り積もっていく。
「一事を成すどころか、成せるかどうかってところまですら、俺は行けないんだよ、じいさん」
祖父と両親が眠る墓石につぶやいたところで、胸ポケットに納めていたケータイが音を立てた。
俺はケータイを手に取ると、端についたタブをつまんで、本体内部の軸に巻きついた画面を引っ張り出した。
画面は透明な合成樹脂で作られていて、長方形をなしている。
柔軟で軸に巻きつけられるような素材だから、そのままだと当然のようにたるんでしまう。
なので本体側面についたボタンを押す。
すぐに画面の枠にしこまれた銅線に電流がながれて、ピシッと一枚のガラス板のように合成樹脂が硬直した。
――マキモノ。
俗にそう呼ばれている新型携帯だ。
2010年代に電子回路を印刷する技術が確立したことで製品化され、2020年から世界的に普及した携帯電話と液晶タブレットを合わせたような端末だ。
スマートフォンのようにタッチパネルの機能も搭載しているし、付属のペンタブで手書き入力も可能なので老若男女問わず重宝されている人気商品である。
さっきの短い着信音からするとメールだろう。
画面にいくつも浮かぶアイコンの中から、ショートメールのそれを選んでタッチしようとして、俺はつい画面の右端に映る最新ニュースのウインドウを見てしまった。
そこには青地に白抜きの文字で「大樹公、ベトナムを表敬訪問」と書かれたバーの下で、アオザイを着た美女たちから花束を受け取る大礼服姿の少年の画像が映し出されていた。
――大樹公、山田信。
若干17歳にして、国務大臣扱いで復活した征夷大将軍に就任した異色の政治家。
彼が統括する省庁組織、東京幕府はそのノスタルジックながらも新鮮味を帯びた名称と彼自身の異様ともいえる経歴ゆえにマスコミにとって注目の的となっている。
主婦向けのお昼のニュース番組なんかだと、「内閣の暴れん坊将軍」なんてあだ名で特集まで組まれる始末だ。
俺は、この自分よりも一つ年下ながら政府の中枢に食い込んだ少年に苦笑してしまった。
もちろん、バカにしたわけじゃない。
彼より年上なのに、いまだに何もできていない自分が虚しかったり、恥ずかしかったりしたのだ。
「世の中には十七で幕府を復活させちゃうやつもいるのに、俺ときたら……」
結局、何も成しえていない。
その事実が、どっしりと背中にのしかかってくる。
本当、俺の人生はなんだったんだろうか。
二十歳前だというのに、枯れきったおっさんのようなことを考えてしまう。
いかんな、どうも思考がネガティブになってしまう。
まあ、実際ネガティブになるようなことばかり起こっているわけだが、それよりもいまはメールのことだ。
仕事関係のものであったら早めに目を通しておかなければならない。
「ん?」
アイコンをタッチして表示された件名に、俺は首をかしげた。
――異世界召喚にご興味のある方、大募集!!
なんだろう、新手のネットゲームの勧誘だろうか。
なんとはなしに読み進めていくと、最後に「東京幕府」と今まさに思い浮かべていた組織の名前が出てきた。
要約すると、東京幕府という、本来なら外務省とか農水省といった「省」とつくはずの公的機関が、自分たちの使いとして異世界に行ってくれる人材を募集しているという内容だった。
いきなり復活したところからしてまともな組織ではないと思っていたが、これはかなり常軌を逸している。
いや、あるいはネットゲームの運営を公的に始めたということだろうか。
新しいものを政府が始めれば世間受けするという風潮はここ十年間つづいているけれど、これはさすがにあんまりではないだろうか。
まあ、でも応募するけど。
だって基本給50万って書いてあるし、正規公務員での採用なのにメールの返信と面接だけでOKなんて追記されていたら、そりゃ誰だって応募するだろう。
たとえそれがネトゲの話だとしても、夢を見ちゃうところが非正規雇用の悲しさだ。
必要事項への記入をすべて終え、「返信」のアイコンを押した瞬間、視界が暗転した。
墓石も、線香の白い煙や天上の青い空も、背後にあったはずの寺の本堂すら、とけ崩れるようにして闇の中に埋没していく。
なんだ?
頭の中を、次々と映像の断片がよぎる。
向けられたサブマシンガンの銃口、麗しい少女のポニーテール、ハラワタを切り裂かれた兎の死骸、黒いロングコートの一団、赤い鱗に覆われた右手、そして、静かに声が響いた。
――まったくもって、甘すぎの青すぎだ。
その声を聴いた直後、俺は異世界に飛ばされた。