第十八幕「男が歩むは覇者の道」
西野義姉さんの葬儀は、名主の彦右衛門さんと源応尼さんの好意で盛大に執り行われた、らしい。
らしいというのは、俺がその葬儀に出席していないからだ。
西野義姉さんが死んだあの日、取り乱した俺はこれまた盛大に暴れた。
正直、そのときの記憶はほとんどない。
気付いたときにはあばら家に戻って、囲炉裏のすみで膝をかかえていた。
最初は次郎三郎さんがいて、折花がいて、そして西野義姉さんがいた家。
だが、いまは俺一人しかいない。
火の消えたような、シンと静まり返った家の中は、いまの俺にとって棺おけにも似た場所のように感じられた。
心配した新太郎が何度か様子を見に来てくれたが、俺はそんなあいつをまともにとりあおうとはしなかった。
話しかけられても、無視を決め込んだ。
それでもあいつがしゃべっていった内容は、深々と俺の胸中をえぐっていた。
「あんたが来る前に、西野は死んでたんだよ」
囲炉裏から顔を上げなかった俺に、新太郎は言った。
「息もしてなかったし、脈もなかった。俺が直接触れたわけじゃねぇが、医者がそういって、源応尼さまも、うちのお袋も確認してる。あのとき、西野はたしかに死んでたんだ。なのに、あんたが戻ってきたらいきなり起き上がってよ。正直、心臓が止まるかと思ったぜ」
「……」
「神様か仏様か、誰かがちょっとだけ時間をくれたのかもしれねぇな。あいつのために、あんたと話す時間をよ。だからってわけじゃねぇが、あいつ、最後は幸せだったと思うぜ。自分の胸の内、洗いざらい、あんたに話して逝けたんだから」
そんなわけないじゃないか。
あの人はもっと幸せになるはずだったんだ。
幸せにならなきゃいけない人だったんだ。
なのに俺がぶち壊した。
俺が転がり込んできたせいで、あの人の家族は滅茶苦茶になって、あの人自身はボロボロになって、最後は俺を助けるためだけの命だったなんて言って死んでしまったんだ。
そんなの幸せであるはずないじゃないか。
心の中でそう思っても、言葉にしなかった俺に、新太郎は嘆息を残して帰っていった。
やがて朝が来て、昼が来て、夜が来て、いったいあの日からどれくらい経ったのかわからなくなっても、俺は外に出なかった。
俺は疫病神だ。そう思えた。
俺が関わるとみんなが不幸になる。
俺を召喚した上黒駒村の連中は、俺自身が斬り殺した。
俺を養子にしてくれた次郎三郎さんは病で死んだ。
俺の妻になった折花は、住み慣れた家を出て行かざるを得なかった。
そして俺の命を助けてくれた義姉さんは、まるでその代償を支払うように死んでしまった。
全部全部全部、俺の存在が招いたことだ。
俺がこの世界にやってこなければ、こんなことにはならなかったはずなのだ。
そんなことをぐるぐる考えながら過ごしていたある日、おもむろにあばら家の戸が開いた。
また新太郎だろうか。
いや、あるいは上黒駒村の件を聞きつけて、代官あたりが逮捕に来たのかもしれない。
別に誰が来たって同じだ。
俺は関わらない。そのことに変わりはない。
しょっぴくなり殺すなり、好きにしてくれ。
「そうやって膝を抱えているのは、誰かに責めて欲しいからですか?」
声は源応尼さんのものだった。
俺は答えることなく囲炉裏を見続けた。
「なげかわしいことですね。西野の天命はこの程度の男を救うことでしかなかったとは。これではまるで犬死ではありませんか」
その物言いに、俺は初めて土間に立つ源応尼さんをにらんだ。
「……義理とはいえ、娘とまで思った人の死に、そんなことしか言えないんですか?」
今度は源応尼さんの方が答えなかった。
俺はあらためて彼女に向き直って言った。
「はっきりおっしゃったらいいでしょう! お前のせいで死んだと! お前が殺したも同然だと! なのにどうしてそんなに冷やかなんです! あなたは以前、俺に義姉さんをあきらめろといった! 子を産めない女だから、子孫を残せない女だから、その代わりに折花を選べと! いまもそういう気持ちなんですか!? 西野義姉さんが死んだのに、西野義姉さんはもういないのに、人が一人死んだだけだと、乱世においては珍しくもないことだとそういって片付けるつもりなんですか!?」
「……そんなわけがないでしょう」
源応尼さんの声は、無理矢理抑えつけたみたいに震えていた。
三十路を過ぎても美しさを失っていないその顔が、悲しげにゆがむ。
「そんな風に思っているはずがないでしょう! 私の娘です! 十数年間、我が子として育てた私の娘です! 悲しくないわけがないでしょう! 出家して私の寺を継いでくれると言っていたのに! そのための準備も進めていたのに! なのにあなたが現れた! あなたがあの子を引きとめた! 折花を選べと忠告したのに! だからあの子は死ぬはめになったんです!」
――あなたが西野を殺したんだ!
涙の混じったその言葉は、研ぎ澄ませた刃みたいに俺の心臓をつらぬいた。
「……そうですよ、俺が殺したんだ。俺のせいで死んだんだ。だから、あなたが我慢することなんか、なんにもないんですよ」
「それでも立ちなさい! 自分のせいだと言うのなら、自分の罪だというのなら、いますぐ立ち上がりなさい! なんですかこんなあばら家で膝を抱えて! 西野を本当に犬死させる気ですか、あなたは!?」
分かってる。このままで良いなんて思っちゃいない。でも、
「……怖いんですよ。どうしようもなく怖いんだ。義姉さんは俺のことをすごいすごいと褒めてくれたけど、違うんですよ。俺ががんばってこれたのは、異世界なんてところに来て、それでも取り乱さずにいられたのはみんな義姉さんのおかげなんだ。あの人にかっこ悪いところを見せたくなくて、あの人に笑っていてほしくて、だから見栄を張っていただけなんだ。なのに、その義姉さんはもう居ないんです。居なくなってしまったんです。この上、俺にどうしろっていうんです? また同じことをくり返せっていうんですか? 誰かと関わって、また俺のせいで不幸にして、それでも同じことを何度も何度もくり返せって言うんですか?」
そんな真似、できるわけないじゃないか。
俺は両手で顔を覆いながらうめいた。
「俺にはあの人だけだったんです。あの人さえ居てくれたらそれでよかったんです。でも、もう遅いんですよ。何もかも手遅れなんですよ」
「……許しません」
源応尼さんの白い手が、俺の手首をわしづかんだ。
俺の顔から力ずくで掌を剥ぎ取る。
「あなたがここで停まったら、西野は本当に犬死になってしまいます」
「……源応尼さん?」
何をするつもりだろうと思ったときには、俺と源応尼さんの唇は重なっていた。
「……ん」
源応尼さんがなまめかしい声を漏らしながら唇を離す。
つと、俺たちの間に細い糸が光った。
「……なんで、こんなこと?」
呆然としてしまった俺に、源応尼さんは黙って尼頭巾の端を引いた。
――シュルリ。
と衣ずれの音がして、豊かな黒髪が肩から流れ落ちた。
「西野のためです」
「……義姉さんの?」
「西野のために、これからあなたに罰を与えます」
そう言って、源応尼さんは俺を押し倒して馬乗りになると、鷲づかんだままになっていた俺の右手をいざなって、自分の胸に押し付けた。
――むにゅっ。
と、柔らかなそれが掌の中で形を変える。
「げ、源応尼さん?」
「私を抱きなさい」
どこか冷たい印象のある美貌が、妖艶に微笑む。
「私を汚すことが、あなたに対する罰になります」
「な、なんなんですか、急に。いきなりそんなこと言われたって」
俺の言葉は、しかし左頬に走った痛みでさえぎられた。
源応尼さんの平手打ちだった。
「どうしました? 女に組み伏せられて、頬を叩かれて、なのに何もできないんですか? 本当にどうしようもない意気地なしですね」
それからまた、
――パンッ!
と、俺の頬を打ってくる。
「どうしました? ほら、ほら、まだ足りませんか?」
――パンッ、パンッ!
と妖しく笑いながら、源応尼さんの掌が何度も俺をぶつ。
だんだんと、俺の頭に血が上ってきた。
なんだってんだ、この尼。さっきまで恨み言ばかりしゃべってたくせに、いきなり挑発的なことばかりしてきやがって。
俺はカッとなって、源応尼さんの手を抑えつけた。
途端に、源応尼さんの表情におびえの色が見えた。
先ほどまでの強気な態度が嘘のように、その姿は儚くて、か弱くて、嫌というほど俺の加虐心をくすぐってくる。
「なにがしてぇんだよ、あんた!?」
俺は態勢を入れ替えると、源応尼さんの身体を仰向けに押しつけた。
尼頭巾を取った彼女の長い黒髪が、あばら家の板の間に広がる。
「それで発破かけてるつもりならやめてくれ! 俺はもう……」
言いかけた俺に、源応尼さんは泣き笑いの顔で答えた。
「……私も……罰が欲しいんです」
「……罰って、あなたは何も悪くないでしょう?」
しかし、源応尼さんはかすかに首を振った。
「私は、折花が出て行くことを知っていました。知っていて、そのまま見送ったんです。あなたにも、西野にも、そのことを話しませんでした」
「な、なんで? だって折花とうまくやれと言ったのは源応尼さんじゃないですか!」
「私にとっては西野も折花も、どちらも可愛い娘です。西野が心のうちではあなたに惹かれていながら義姉を演じていたことも、折花が外の世界へ飛び出して、自分の幸せを自分でつかみたがっていたことも、私は知っていました。だから、折花が別れを告げに来たとき、私は引き止めなかった。そうした方が、西野も折花も幸せになれると思ったからです。でも、実際には、そのせいで西野は自分の命を縮めてしまった」
源応尼さんは、まだ自分の胸の上にあった俺の右手に自分の左手を重ねてきた。
大きな膨らみの向こうから、心臓の鼓動が伝わってくる。
「胸の奥が、ズキズキ痛いんです。あなたなら、分かるでしょう?」
――だから……お願い……。
目尻から涙をあふれさせての懇願に、俺の理性はとうとう決壊した。
俺は源応尼さんの唇に吸い付くと、首筋に舌をはわせながら、強引に僧衣の前を開いた。
たわわな双丘が目の前にまろびでると、その先端を甘く噛む。
「んああっ!」
源応尼さんの口から、悲鳴とは違うくぐもった声が漏れる。
彼女は快感の波をこらえるように右の人差し指を噛みながら、左手で俺の頭を抱え込んだ。
まるで赤ん坊に授乳させる母親のような仕草だ。
「ふ……んん……お願い、私を、は、母と呼んで……」
その言葉に、俺は源応尼さんの過去を思い出した。
彼女は実子に恵まれなかったために最初の夫と別れて尼になり、それからは西野義姉さんと折花を自分の娘のように思って暮らしてきた。
元々、この人には母親になりたいという欲求があったのだ。
だが、その欲求の対象になっていた二人はもういない。
わずかに親子としてのつながりを持っているのは、もはや俺だけだ。
「は、義母上……」
俺がそう言うと、源応尼さんは「イヤイヤ」と激しく首を振った。
「せ、西野を呼んでいたみたいに……あなたの、国の言葉で……」
「か、義母さん」
あらためてそう呼ぶと、源応尼さんはブルッと身体を震わせて、恍惚とした表情を浮かべた。
「義母さん! 義母さん! 義母さん!」
「ふあああっ!」
俺たちは獣のように交わった。
そこには恋も、愛もなかった。
ただ歪んだ情欲を叩きつけあい、快楽に溺れようとする衝動だけがあった。
やがて源応尼さんは快感に耐えきれなくなったように左手で髪をかきむしり、背筋をのけ反らせた。
何かを探すように伸ばされた右手が「カリカリ」と力なく床板をひっかく。
俺はそんな彼女を逃がすまいと、上から覆いかぶさり、こぼれ落ちそうな果実を揉みしだきながら、伸ばされた右手に自分のそれを重ね、指をからめた。
そして、俺たちは二人同時に咆哮を発して果てた。
事が終わったときには、外はすっかり明るくなっていた。
俺たちは濡れた手ぬぐいを持って、お互いの身体を拭きあった。
源応尼さんの白い肌には俺のつけた赤い痕がくっきりと残っていて、俺の肌の上も同様だった。
「あら、こんなところにも」
そう言って、源応尼さんはクスクスと笑った。
憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔だった。
俺はなんだか気恥ずかしくて、顔をうつむけながら言った。
「……その、本当に、良かったんですか?」
「どうして?」
「だって、いろいろ言われるでしょう。狭い村ですし」
仏門にある人間が、若い男と朝まで情事にふけっていたなんて立派な戒律違反だ。
それが事実であったかどうか分からなくても、源応尼さんは一生後ろ指をさされることになるだろうし、下手をすれば尼寺から追われることにだってなりかねない。
「私はかまいません。西野がさせたことですから」
「ね、義姉さんは関係ないでしょう! これは俺が……」
言いかけた俺の唇に、源応尼さんはそっと人差し指を押しつけてきた。
「いいえ、これは西野がしたことなのです」
源応尼さんの言葉に、俺はハッとした。
「……俺がしでかした事は、全部、義姉さんのせいになるっていうんですか?」
「そうです。あなたが他人に言えないこと、恥ずべきことをすれば、それはそのまま西野の名前を汚すことになるのです」
「だから、罰なんですか?」
「ええ」
「そのことを伝えるためだけに、あんなことしたんですか?」
「私への罰でもありましたから」
答えながら、源応尼さんは俺の身体を拭いていく。
淡々と、平然として、まるでそうすることが当たり前だったみたいに。
「だからって、やりすぎでしょう。俺なんかに発破をかけるためだけに、自分の一生を棒に振るような真似して」
「そうすべきだと思ったんですもの、仕方ないでしょう? 分かっているとは思いますが、あなたにもこの事は付いて回りますからね」
「義姉さんの名誉を回復したければ、俺自身が名を揚げろと?」
「そのための用意も、すでにさせてあります」
源応尼さんは悪戯っぽく笑うと、板の間のすみに置かれていた風呂敷をほどいた。
中には武士のための旅装束が一式、綺麗に折り畳まれて入っていた。
「さあ、着付けてあげますから、お立ちなさい」
源応尼さんにされるがまま、俺の姿はみるみる武士っぽくなっていった。
小豆色の小袖に、灰色の義経袴(普通の袴と違って、裾のところが紐でしぼれるようになっているやつだ)、その上から黒の陣羽織。
腰には四等級神器・村雨と、新品の脇差の二本。
頭にまげがないことに目をつむれば、いっぱしの武芸者に見えなくもない。
「高かったんじゃないですか、これ?」
洋服が機械で大量生産されている現代日本と違って、この国では糸を紡ぐところから手作業だ。
衣類の値段はとんでもないものになる。
「ええ、きっと高かったと思いますよ。その布地を買ったのも、縫ったのも、すべて西野です」
「義姉さんが?」
「それとこれも」
源応尼さんは俺の前で一枚の四角い布を広げて見せた。
黒字に白抜きの「三つ葉葵」の家紋が染め抜かれた旗だった。
「供の者に持たせなさい。旅の間、これがあなたの身分証になります」
「供の者ったって、そんな人いないですよ?」
「用意はさせてあると言ったでしょう? ここを出たら、そのまま村境まで行きなさい。皆、あなたを待っています」
どうやらお膳立てはできてしまっているらしい。
なんだよ、つまり全部仕組まれてたってことじゃないか。
何が「私も罰がほしいんです」だ。腹黒尼さんめ。
ちょっと悔しかったので、家を出るとき、板の間に裸で正座する源応尼さんの唇を鳥みたいについばんでやった。
「身を立てる算段がついたら、迎えに来ますよ、義母さん」
途端に源応尼さんの顔にボッと朱がさした。
十代の女の子みたいな反応で、普段とのギャップがたまらなく可愛い。
「は、早くしてくれないと、私、おばあちゃんになってしまいますよ?」
「なるべく早く来ます。でも、親子はずっと親子でしょ?」
「……もう、しようのない子……」
源応尼さんはちょっと拗ねたようにいうと、俺の手を取って、掌を上に向けさせた。
そのまま、人差し指でなにやら字を書いていく。
「あなたの名前です」
「“信康”ですか?」
「ええ、“信”はこの国の御領主・信玄公から頂戴しました。“康”は……」
「次郎三郎さん、義父上の諱が“清康”でしたね」
「はい。あなたは世良田家の跡取りなのです。西野や折花がいなくなっても、そのことは変わりません。決して忘れてはなりませんよ?」
世良田巴信康。
それがこれからの俺の名前になる。
「義母さんのお名前はなんというんですか?」
「わ、私ですか?」
「源応尼というのは法名でしょ? 出家される前はなんて名前だったんです?」
「……か、華陽です」
「では華陽義母さん、行ってきます」
「……武運長久を祈っていますよ、信康」
家を出て、歩きなれた道を行くと、すれ違う村人たちが次々と立ち止まって頭を下げてくる。
これまでにない反応に戸惑いながら村境まで来ると、彦右衛門さんをはじめ、村の乙名衆が総出で見送りにきていた。
――世良田様。
と、俺を見つけた彦右衛門さんが、かしこまった様子で言ってくる。
「晴れの門出、お喜び申し上げます」
「……ありがとうございます。あの、ご迷惑ばかりおかけして……」
頭を下げそうになった俺を、彦右衛門さんはおしとどめて、かたわらにいた中年の男を振り返った。
「後のことはどうかご心配なく。ですが、出立の前に、この者に何かお言葉を賜りとうございます」
見覚えのある男だった。
たしか彦右衛門さんのところの田んぼを手伝っている農夫で、貧乏っぷりでは世良田家に負けず劣らずといった感じだった。
それがいまは、身なりも整えられて、村の乙名と比べても遜色ない姿になっている。
「これからこの者と、お代官様のところに参ろうと思っております」
その言葉で、俺はなぜ男がいきなりこんな姿になったのか分かった。
俺の身代わりとして、死罪になろうとしているのだ。
――どうしてそんな真似を?
とは、きけなかった。
彼らは、西野義姉さんの最後の言葉を俺と一緒に聞いている。
だから、賭けたのだ。
俺が乱世を終わらせるだろうという義姉さんの予言を、彼らは信じ、全力で俺をかばおうとしてくれている。
つまり、源応尼さん、華陽義母さんの行動から、旅装束一式の準備、身代わりの選出までがすべて村ぐるみでなされたことなのだ。
「この人の家族には?」
俺が聞くと、彦右衛門さんは「大丈夫だ」といったようすでうなずいた。
「残された者には、働きに見合った補償を行うと、誓紙を取り交わしてございます」
俺はあらためて男を見た。
――すいません。
そう言おうとして、でも期待されている言葉は違うんだと思いなおした。
「……頼みます」
「へへぇっ!」
男は感極まったようすで頭を下げた。
申し訳なく思わないわけじゃない。でも、彼もまた俺の将来に賭け、そしてまた、自分の死によって家族の生活水準を引き揚げるという選択をしたのだ。
その覚悟に、俺の謝罪はいらない。
むしろ、あなたの決断は絶対に間違っていないのだと、お墨付きを与えることがここでの俺の役割だった。
一通りの別れのあいさつを終えたところで、見慣れない武士が一人、俺の前でひざまずいた。
色違いではあるが、俺と同じ旅装束を着て、月代を綺麗に剃った頭にまげを結っている。
「お前、新太郎か?」
普段は派手な小袖と白粉で着飾っていたのでわからなかったが、どうやら新太郎らしい。
くりくりとしたどんぐりまなこが印象的な若侍になっている。
「もう新太郎ではありませぬ」
「……ありませぬって、お前……」
「父の許しをもらい、名を改めました。いまは馬場彦右衛門、諱を元忠と申します、御大将」
「御大将!?」
いきなり何言ってんだ、こいつ?
あ、そうか、義母さんが話してた「供の者」ってこいつか。
「ついてくるのか?」
「御意、お供つかまつりまする」
彦右衛門さんの方を見ると、コクリと首肯した。
親公認ということらしい。
「言うまい言うまいと思っていたけどな、お前ら、物好きすぎやしないか?」
この親子だけではない。
よくよく考えれば、次郎三郎の義父さんも西野義姉さんも、華陽義母さんだってそうだ。
流れ者の俺のために、この村の連中は色んなことをしてくれた。
そりゃ、折花に捨てられたし、他の連中から陰口を言われたことはある。
でもそんな嫌なことが吹き飛ぶくらい良くしてもらったのも事実だ。
戸惑っている俺に、新太郎あらため彦右衛門はニカリと笑った。
「なんででしょうな。でも、あなたを見ていると、つい手を貸したくなるんですよ。きっと、それがあなたの御人徳というやつなのでしょう」
「人徳ねぇ」
正直、半信半疑だった。
でもあまり細かく考える必要はないのかもしれない。なにせ、俺はこれから天下に名を轟かせるべく旅立つのだ。
「男子は天下に一事を成せばよい、か」
じいさんの言葉が、いまさら思い出される。
俺が成すべき一事は、すでに決まっている。あとは実践あるのみだ。
義姉さん、見ていてください。あなたが救った一個の命が、卑小な肉塊が、あなたの名前を天下に鳴り響かせます。
「俺の名を口にする者は、二言目には必ずこういうことになるだろう」
――世良田信康が大事を成しえたのは、義姉の西野が居たからだと。
俺の言葉に、彦右衛門親子をはじめ、一同が力強くうなずく。
「では、行くとするか、彦」
「はい、御大将!」
かくして、俺と義姉さんの物語は幕を開けたのだった。
これにて第一章は終了です。次回からもう一人の主人公、マクシミリアンの物語となります。




