第九幕「麗しき義姉上」
折花が姿を消して数日が過ぎた。
彼女は前々から相当の準備をしていたらしい。
あとになって聞いた話だが、家事のかたわら、尼寺の本を写して自習したり、月明かりの下で木剣を振って剣術の鍛錬をしたりしていたのだそうだ。
へそくりもあったらしい。
低収入の世良田家のどこにそんな金があったんだろうと気になったが、答えはすぐに出た。
源応尼さんが、尼寺の手伝いのお駄賃として与えていたらしい。
あの義母、娘に対して甘々(あまあま)である。尼だけに。なんちって。
とにかく、俺との結婚がどうのというより、かなり前から折花は家を捨てる計画を立てていた。
それをこれまで実行に移さなかったのは、ひとえに次郎三郎さんが居たからだろう。
貧しくも懸命に一家を支えようとしていた父親を置いていくのが不憫だったのか、あるいは意外に娘に対して厳格であった彼に逆らうことができなかったからなのか、理由はわからない。
だが、折花をこの境村に縛りつけていたのは父親の存在だったのだ。
その戒めが、先日解かれた。
次郎三郎さんは死に、彼女がこの村にいる必然性は、少なくとも彼女の中にはなくなった。
実の姉妹である西野義姉さんのことも、新婚ホヤホヤの俺のことも、折花の足を止める理由にはなり得なかった。
むしろ、折花は俺たちのことをずっと苦々しく思っていたらしい。
病弱というだけで、野良仕事にもほとんど加わらず、尼寺で好きなだけ勉学に励める姉に、彼女は日に日に憎しみを募らせていた。
自分は懸命に働いているのに、姉だけは屋内でぬくぬくとして、やりたいことをやっている。
そんな姉が、またしても我がままをやった。
ただでさえ貧しい家に、父と妹が懸命に働くことでなんとか食いつないでいる家に、川で拾ってきた穀潰しを引き込んだ。
つまり、俺のことだ。
なかんずく、そんな俺が婿養子になって自分の旦那になってしまった。
そりゃ、飛び出すよな。
俺だってそんな家、嫌だもの。
もう少し早く気付いてやれていれば、とすら思ってしまう。
しかし、こうした話は折花が姿を消した後で出てきたウワサを総合したものだ。
事前に知ることは、おそらく不可能だったろう。
結局、折花は内心を俺や西野義姉さんにもらすことなく、旅に出た。
源応尼さんが与えたお駄賃でためたへそくりと、次郎三郎さんが部屋の隅に隠していた刀と衣服を持って。
――冒険者。
というものになるつもりであるらしい。
世界の東の果て、白壁山脈の向こう側に「迷宮」と呼ばれる古墳群があって、関東の剣の聖地、鎌倉や鹿島で修行した武芸者の中にはそうした「迷宮」に挑んでびっくりするような金持ちになった例もあるのだそうだ。
大掾卜伝という剣豪が特に有名で、彼は兵法修行と称して三頭の馬と三羽の大鷹、そして八十人の弟子を連れて街道を練り歩き、この甲斐の国を通過したこともあったという。
境村の人々も、この剣豪・卜伝のことはよく覚えていて、一時期、村の次男三男は自分も卜伝のようになろうと鎌倉や鹿島に剣術修行に出たものだと話してくれた。
まあ、大半は一月もしないうちに挫折して帰ってきたらしいが。
しかし、テレビもネットもない世界で、卜伝の真っ赤な陣羽織をはおった騎乗姿は、子どもたちの目に強烈な印象を焼き付けたものらしい。
その中の一人の女の子が、自分もいつかあんな風になってみたいと思ったとしても、それをミーハーだと批難する資格は誰にもないだろう。
もちろん、俺にもない。
たしかに俺は折花に三行半を突きつけられて捨てられた。
それはゆるぎない事実なのだが、不思議とダメージと呼べるような何ものも俺の心には残らなかった。
そりゃ、村を歩いているとき、擦れ違う村人たちから下卑た笑い声やひそひそ話が漏れ聞こえてくれば気になりはする。
でも、本当に気になるだけだ。
酒に逃げたり、人や物に当たってしまうほど内心が掻き乱されるということはない。
なぜなら、俺には西野義姉さんがいてくれるからだ。
彼女がふとしたときに見せてくれる笑顔や、からかったときにふくらむ柔らかそうな頬を見るだけで、俺は幸せなのだった。
馬場家の三男坊、新太郎も随分、気を使ってくれている。
俺が折花と結婚してしまったことで一時は疎遠になってしまっていたが、折花が出て行ってからはまたちょくちょく差し入れを持ってきてくれるようになった。
本人いわく、
「武術、教えてくれるって話だったからな。習いにきてやった」
とのことだ。
彼からしても、将来を誓った折花が自分にも内緒で村を出たことはショックだったはずなのだが、そんなことはおくびにも出さない。
日が出ているときは西野義姉さんと一緒に、俺の野良仕事を手伝うということもしてくれている。
そんなこんなで、昼間は三人で農作業をして、夕食は義姉さんと二人でとって、夜は月明かりの下で新太郎に稽古をつけるというのが最近の俺の日課になっている。
正直、次郎三郎さんや折花が居たときよりしっくりいっている。
不思議なものだが、それが俺の感想だった。
とはいえ、あくまでそれは別の世界からやってきた俺の感想だ。
次郎三郎さんと折花、血の繋がった二人の家族を失った西野義姉さんの心情はまた別であったらしい。
「巴ちゃん……」
と、夕食のとき、義姉さんはあらたまった様子で言った。
「どうしました、義姉さん?」
俺は新太郎が持ってきた大根で作った漬物の切れ端をくわえながら訊いた。
我ながら、緊張感に欠ける態度だったと思う。
義姉さんは、そんな俺を悲しそうに見た。
「巴ちゃん、正直に言ってね」
「え? あ、はい」
「出て行っても、いいのよ?」
義姉さんの発した一言に、俺は硬直した。
え、それは俺が邪魔ってことですか?
いや、たしかに迷惑ばっかりかけてるから反論のしようもないんですけど。
無言になってしまった俺に、義姉さんは激しく首を横に振った。
「ち、違うのよ。決して巴ちゃんが邪魔だとか居なくなって欲しいとか思っているんじゃないの。でも……」
「で、でも?」
「このままで、本当にいいと思ってる?」
「……あの、どういうことでしょう?」
我ながら間抜けな問いだ。
西野義姉さんは、箸を置いて、威儀を正して言った。
「巴ちゃんは違う世界から来たのよね」
「えっと……はい、多分、別の世界から来ました」
「自分に、何か他の人とは違う使命、天命のようなものがあるとは思わない?」
「天命、ですか?」
「そう。偶然からじゃなくて世界から、あるいは神様とか仏様とか、漠然と『天』といってもいいのだけれど、そういう存在から自分が必要とされてここにやってきたのだと考えたことはない?」
「あ、ありま……」
――せん!
と言おうとして、俺はしかしそれ以上言葉を続けることができなかった。
脳裏に、夢の中で見た黒いロングコート姿の自分と山田信との会話が浮かんでいた。
俺はもしかしたらあの大樹公の命令で異世界にやってきたのかもしれない。
そういう予想が、すでに俺の中で出来上がっていたからだ。
どうしてそのときの記憶がないのか、それはわからない。
異世界にやってくる途中でなにかしらのトラブルにあって、だから記憶が混濁しているのかもしれない。
だが、だからといってその何かしらの理由を重視する気は俺自身には微塵もなかった。
なにせ、あの突然、征夷大将軍になった少年と自分との関係すら思い出せずにいるのだ。
なら、案外大した話ではない可能性もあるし、もしかしたら俺が自分の頭の中で作り出した妄想という可能性だってある。
それなら、そんな仕様もないことを気にかけるより、目の前の義姉さんや新太郎との生活を守る方が大事なのではないかと思ったからだ。
俺の沈黙を肯定と取ってしまったのか、西野義姉さんは深刻な表情でつづけた。
「私は、巴ちゃんは何かを成すためにこの世界のこの国に来たんだと、そう思っているの。だからね、巴ちゃん、貴方自身も私と同じように考えているんだとしたら、こんな辺鄙な田舎で時間を潰すような、そんな生き方はして欲しくないの」
「ちょ、ちょっと待ってください。俺が何かを成すとか、時間を潰しているとか、それって全部、義姉さんの予想で話していることですよね? たしかに異世界から来た人間なんて聞いたら、そういう考えになるのかもしれませんけど、俺はそんな大したやつじゃないですよ。向こうに居た時だって、就職に失敗して、周りからは馬鹿にされてたくらいなんです。ほんと、生きていくのがやっとなんじゃないかって生活してて、だから異世界からこの世界に大きな使命を帯びてやってきたとか、そんな大それたこと考えるような男でも、なんでもないんですから」
俺の言葉に、義姉さんはなぜか責めるような視線を向けてきた。
なんだってんだ、急に。
たしかにあの上黒駒村の連中に召喚されてからいろいろあったけど、ようやくこうして安定した暮らしができるところに落ち着いたんじゃないか。
自慢じゃないけど、元の世界に居たときだって、お先真っ暗な状態だったんだ。
これ以上、俺なんかにどうしろっていうんだよ。
でも、そんな俺の反論を、義姉さんは真面目には聞いてくれなかった。
表情をより一層険しくして、怒ったように言う。
「巴ちゃんは自分で思ってるよりずっとすごい人よ! 何にも知らない、誰も知らないところに来て、なのにこうして全然関係ない家をついで田んぼや畑の世話をしてくれて、父上も折花もいなくなっちゃったのに、お荷物の私なんかの面倒も見てくれて、新ちゃんのことだって助けてくれたわ! 名主さんの家で巴ちゃんがなんて言われてるか知ってる!? 田んぼも手伝わないでヤクザと付き合ってた放蕩息子を改心させてくれたって、あそこの家の奥さん、巴ちゃんのこと仏様みたいに思ってるんだから!」
たしかに、名主の馬場家からはこっちが戸惑うくらいお礼を言われた。
中でも奥さんは泣きながら俺に頭を下げて、困ったときは必ず助けるからと約束までしてくれた。
でもそれは、俺がどうのという話ではない。
元々、あそこの家の奥さんは後妻で、名主の彦右衛門と前妻との間に生まれた長男は村の若衆を立派に率いていて、次男はけっこう大きなお寺の住職に気に入られてゆくゆくはそれなりの職につけてもらえそうなのに、自分が産んだ三男だけが突拍子もないことをするから、それでずっとコンプレックスを感じていた人なのだ。
だから、新太郎がちょっと家の手伝いをするようになっただけであんなにも感極まってしまっているのだ。
つまりギャップルールというやつが働いているだけのことで、別に俺がいなくても、新太郎は優しくて律儀なやつだし、いつかはいまみたいなことをしたに違いないのだ。
それをまるで俺に特殊な力があるかのように言われても困る。
「俺は義姉さんが思ってるような、そんな大したやつじゃないんですってば!」
「そんなことない! そんなことないんだから!」
「なんなんですか、いまになって急にそんなこと言い出して!」
「急になんかじゃないもの! ずっと思ってたことなんだもの!」
義姉さんが大きな声を出すから、俺もつい声を荒げてしまう。
いつしか俺たちはケンカするみたいにお互いの言葉を叩きつけあっていた。
「だあ、もう! わかんない人だな!」
「巴ちゃんだって全然わかってないじゃない!」
「違うでしょ! 義姉さんはたまたま川で拾った俺がそういう男だったらいいなって思ってるだけでしょ! つまんない期待、おしつけないで下さいよ!」
言ってしまったあとで、ハッとした。
義姉さんがびっくりした顔のまま固まってしまったからだ。
「……えっと、あの……いまのはですね……」
やばい。
絶対、やばい。
なんか核心突いちゃった気がする。
とにかく誤魔化さないと、義姉さんだって引っ込みがつかなくなってしまうし、俺だって気まずい。
っていうかすでにしどろもどろだ。
慌てる俺とは対照的に、義姉さんは静かだった。
静かで、冷静で、平静で、なのに両方の目から涙を流していた。
「……そうよ」
やがて義姉さんは、つぶやくように言った。
「だって、そう思うじゃない。最初はボロボロになって川に引っ掛ってて、弱ってて、私と同じだなって思って、だから助けたのに、巴ちゃん、どんどん仕事覚えていくし、新ちゃんともすぐ仲良くなっちゃうし、文字や歴史だって何年も勉強してる私より詳しくなって、父上にも養子になってくれなんて頼まれるし、苦労するって分かってるのにすぐ引き受けちゃうし、折花が出ていっちゃったのに全然動じてないし、私みたいな役立たずのために一生懸命面倒みてくれようとするし、名主さんちがお礼言ってるのにお互い様だからって謙遜しちゃうし、こんな菩薩様みたいな人、普通にいるわけないんだから……」
「そ、それは……」
なんてことだ。
誤解だ。完全に大誤解大会だ。
俺はそんなに出来た人間じゃない。義姉さんが評価してくれている幾つかのことは、単に義姉さんに気に入られたくて頑張ったことなのだ。
その他のことも、だいたいの原因は義姉さんが隣で見ていてくれたからだったりする。
要するに、自分の欲求に素直に従っただけなのだ。
まさかそれがこんな風に義姉さんの目に映っていたなんて、そのことにこっちがびっくりである。
菩薩様みたいな人って、ぶっちゃけ義姉さんのことじゃね?
「……お願いだから、私なんか捨てて行ってよ。巴ちゃんには、きっともっと大事なことがあるんだから。しなくちゃいけないことがあるんだから……」
義姉さんは膝の上に置いた手を握りこみながら言った。
ときどきしゃくり上げながら、肩を震わせる。
彼女の弱々しい姿に、俺は頭にカッと血がのぼるのを感じた。
「……自分のことお荷物だとか、私なんかだとか、そんなこと言わないでくださいよ!」
たしかに西野義姉さんは病弱で、家の手伝いもこれまでまともにして来られなかった。
なのに俺みたいのを助けてしまって、結果、折花を出て行かせることになってしまった。
でも、そんなのは言ったって仕様がないことじゃないか。
結果がどうであれ、この人は自分が正しいと思うことを自分に出来る範囲で精一杯やろうとしただけなのだ。
だというのに、なんだってそんな善良な人が、自分のことを卑下して生きていかなくちゃならない?
正しいことを他人に詫びながら生きていかなくちゃならない?
「義姉さんが自分を低く見る必要なんかどこにもないんだ! もっと我がままになったっていいんですよ! 世界中の誰が文句いったって良いんだ! 俺がどうとか世の中がどうとか、そうじゃないでしょ! 俺が出て行ったら、義姉さんどうやって生活していくんです!?」
「……出家して、尼になろうと……」
「絶対ダメです!」
「……だって、これ以上、みんなに迷惑、かけられない……」
「かけたって良いんですよ! さっきからそう言ってるでしょ!」
「良くない! 全然良くないのよ! そうやって私が我がまま言ったら、巴ちゃん、ますます村から出て行きづらくなるでしょ! これから外に出て、いろんな人に関わって、幸せになっていくのかもしれないのに、私のせいで全部台無しにしちゃうかもしれないのよ! そんなの耐えられるわけないじゃない!」
「だから、俺の幸せとか天命がどうとか、そういう話じゃないんですよ! この世界がどうなろうが、正直、俺にとっちゃ知ったこっちゃないんだ! 俺は……」
そうだ、俺は。
「俺はあんたを守りたいんだ!」
叫んだ後、驚いた様子の義姉さんを、俺はかき抱いていた。
ああ、もう、くそ!
けっこう我慢してたのに、結局これだよ。
自分の忍耐力のなさがほとほと嫌になる。
もっと冷静に話を持っていけたのかもしれないのに、こんな告白まがいなことしちまって。
でも、それこそどうしようもないじゃないか。
だって放っておくとこの人、どんどん沈んでいくんだから。
「お願いですから……俺に、あなたを守らせてください」
西野義姉さんから返事はなかった。
ただ顔を真っ赤にして、おずおずとした仕草で俺の背中に腕をまわしてくる。
その夜、俺たちは同じムシロの中で眠った。
もちろん、本番はできない。
義姉さんの身体はそうした行為におそらく耐えられない。
代わりにとでもいうように、義姉さんの左手が俺のものをなでさする。
「西野、義姉さん……」
俺は情けなくも息を粗くしながら、義姉さんに口付けした。
「愛して、います。この世界の、誰よりも」
「私も……」
義姉さんは切なそうに眉根を寄せながら、さっきの答えをくれた。
「私も……大好き……」
ただただ愛おしくて、俺は義姉さんの身体を抱きしめた。




