3 A-SIDE-1
時間にして5分くらい走ったのだろうか。
日頃の運動不足により息が切れて苦しい。
足も縺れそうで前に進まない。
もうこれ以上走り続ける持久力は僕にはない。
そう伝えようとすると、彼女はそれを察したのか足取りを緩めて、辺りを窺うように見遣ってから止まった。
「ここまで来れば大丈夫。はぁはぁ、勇君引きこもってた割には体力あるんだね」
首を横に振って否定した。
体力などあるものか。
苦しすぎて返事の言葉もでてこない。
彼女は少し息切れしてるが、朝のジョギング程度にしか疲れていなさそうだ。
喋ることすらできない僕は、コンビニの店前にあるベンチを指差した。
「ん? ああ、あそこに座って休憩したいのか」
前屈みになりながら手を引っ張るようにベンチへ連れていかされ腰を掛けた。
「ちょっとそこで休んでてね」
休みますとも。
もう全身を動かしたくないくらいだ。
返事を聞かないまま彼女はコンビニへ入って行った。
右手に持った鞄を足元に置き、全身の力を抜いて息を整える。
尋常でない汗と動悸は徐々に治まっていく。
「お待たせ。ほい勇君。これ飲みな」
「あ、ありがと」
手渡してきた缶はプルタグが開けてあった。
気遣いのできる子でもあるんだった。
咽が乾いていた僕は一気に飲みこみ一気に吐き出した。
「ぶっわっ! ゴホッゴホッ!」
「プッ、アハハハハハッ!」
「なんだこのジュース……」
缶のラベルには『紅茶納豆』と記載されており、新発売ともあった。
壊滅的な不味さである。
新しく開発しなくていいし、新しく発売しなくてもいいこんなもの。
かなり昔に『紅茶キノコ』というのがブームになったと母親から聞いたことがある。
健康食品ブームで流行っていたらしいが、こういったブームは定期的に再来するみたいだ。
確かこのジュース(健康食品と呼ぶべきか)もネットで取り上げられていた気もする。
それにしても酷い仕打ちだ。
大爆笑しながら腹を抱える彼女にもの申す。
「ちょっと、何でこんなの渡すの……全部吐きだしたじゃないか……」
「ハハハハッ……はーあ……仕返し。これでチャラでいいよ。勇君、納豆は苦手なの? 紅茶納豆ってブームらしいよ。わたしは飲みたくないから勇君で試してみた。ムフフ」
「仕返しって何の仕返しだよ……それに僕は納豆が苦手というより嫌いだ。あの腐った臭いが好きになれない」
「ふーん。美味しいのに。美味なのに美味。人生損してるよ絶対」
それくらいの損なら許容範囲だ。
それにしても仕返しってどういう意味だろう。
僕が悪いことでも――滅茶苦茶してるじゃないか。
巻き込んでしまっている。
まったく関係のない彼女を危ない連中に関わらしてしまった。
勿論、彼女自ら進んで行った事柄もある。
だけどもマンション前に連中を発見した時点で、回れ右するべきであった。――また後悔じゃないか。
「どうしたの勇君。もしかして怒ってるの?」
「あ、ううん。怒ってないよ。スズメさんを巻き込んでしまったなと思ってさ」
「なんだそんな事か。あの蹴り倒したおじさんには申し訳ないけど、気にしないでいいんじゃない?」
「気にするよ滅茶苦茶……。あのすごい蹴りは空手でも習っていたの?」
「習ってないよ。見様見真似。子供の時から足技は得意なの。えへへ」
褒めたつもりはないのだけど、彼女はご機嫌になった。
――うーん。豹変する彼女の性格がよく掴めない。
「あ、これちゃんとした飲み物。はい勇君」
今度はペットボトルのお茶――ちゃんとした飲み物――を手渡してきた。
キャップを開けてから手渡し。
彼女が運動部のマネージャーであれば人気者であったろう。
足技さえなければ。
あんな達人技みたいな蹴りを見せられては、僕みたいに恐れるのが普通じゃなかろうか。
「ふー。ありがとうね。それにしてもさっきのジュースで臭い……」
「相当納豆が嫌いなのね。そんな腐った感じの臭いじゃないけどなぁ。勇君の鼻が腐ってるんじゃない?」
「いやいや。腐って……る……あああっ!!」
「えええ!? なになに!?」
――腐っているのは両手首であり、それは現在進行中なのだ。
この炎天下の中で、更に鞄の中という悪条件。
鞄から悪臭が出ているかなど気にしていなかった。
最悪の場合、虫が湧いていてもおかしくない。
――ここでお別れだ。
日常の範囲内なら構わないが、異常の中に彼女を入れるのは間違っている。
「あーーーえーーっと。スズメさん」
「ん?」
「悪いんだけどここらで今日は解散しませんか?」
「えええーーー!! なんで急にそうなったの!?」
「正直に言うね。もうこれ以上君を巻き込むわけにはいかない」
「だったらわたしも正直に言うね」
「え? 何を?」
「わたしも勇君を巻き込んでしまってます。だけどそれはまだ言えません。ごめんなさい……」
僕を巻き込んでいると彼女は言うが、理由は話せないと言う。
それでは僕と同じじゃないか。
事件性のあるものにでも手をだしてしまっているのか?
訊きたくても、問いただしたくとも僕の立場では無理だ。
僕も話せない事情があり、彼女も話せない事情がある。
「事情は訊かない。僕も訊かれても答えれないし。お互い一緒にいるのは相手に迷惑の掛かることだと思う。だからここで別れよう」
汗もいつの間にか引き、動悸も治まっていた。
真剣に彼女へ訴えたが、僕の瞳をじっと見つめたまま彼女は何も言わない。――言えないのかもしれない。
「名残惜しいけど、わかってくれるよね?」
「名残惜しいってなに」
「別れるのが辛く、心残りがあるってことだよ」
「語彙の意味はわかってる。別れるのが辛いのになんで。心残りがあるのになんで。なんでいつもそうやって逃げるの」
逃げるだと?
これが逃げるというカテゴリに入るのか?
逃げるという台詞に反応しそうになったが、今はそんな時ではない。
奴等がすぐ傍まで来ているかもしれないし、言い争っている場合じゃないのだ。
「兎に角、ここで別れよう。そうだ。携帯番号を教えておくから、日を改めよう」
「わたし携帯電話持ってない。それに日を改める日もない」
携帯電話を持っていないのは忘れたという意味か?
それに改める日がない?
意味がわからない。
彼女の言動のひとつひとつが、引っ掛かるけど、それらを問い質したり思考を巡らすのは後でいい。
今するべき事は、腐りきっているかもしれない両手首の進行を確認しないと。
「と、とりあえず僕は行くところができたから……急がないといけないんだ」
「警察署に行くの?」
何故かその時の彼女は不安げな表情を見せた。
「ううん。百均ショップに行く」
「だったらわたしも行く。勝手について行くんだから駄目とか言わないでね」
「…………わかったよ」
必要以上に僕へつきまとう事情でもあるのだろうか。
単なる僕への好意や好奇心などではないのは、人付き合いしたことがない僕でもわかる。
それよりも百円均一ショップに急がないと。
あそこなら僕が必要とする品々をひとつの店で手っ取り早く購入でき、確認することができる。
鞄の臭いも気になるけど、この場で嗅ぎ出したら怪しまれること間違いなしだ。
それこそ彼女に犬扱いされてしまいそうだ。
足早にコンビニから立ち去り、百円均一ショップがある商店街方面へ歩きだした。
ここからだと、普通に歩いても5分もかからない。
後方を一瞥すると僕の数歩後ろで、彼女が睨むような面持ちでついてきている。
彼女は僕に巻き込んでいると言っていた。
それは僕と同じで、事件性のあるものなのだろうか。
もしそうなら――手助けできるのであれば、してやりたいのが本音だ。
勿論、僕に出来る範囲内でだけど。
少ししか時間を共有していないのに、手助けしたいという心境はどこからくるのだろう。
彼女が可愛い女性だからという単純な下心だけではない。
今田さんの時も同じ心境だったのだ。
(少しの下心はある。金欲、性欲が一切ないとは流石に言い切れない)
そうこう考えているうちに、百円均一ショップへ辿り着いた。