2 A-SIDE-1
「引きこもりって病気かなにかで?」
なんだろうこの威圧感は。
まるで面接官が空白期間を疑いの目で問われている気分だ。
自然と背筋が伸び、なぜか両手を膝の上にそっと置いてしまった。
そうすれば誠意があると思われる――とネットの動画であったのでそうした。
「いや、ち、違います」
「だったらなんで?」
「なんというか、自分の意思というか」
「ふーん。意思ねえ。で、何年引きこもってたの?」
「えーっと……8年くらいだったかな……」
「いい勇君。今からわたしが昔話してあげる」
「え? 昔話って――」
「いいから聞きなさい」
面接官であるかのような彼女は僕の言葉を切り、語気を強め命令した。
「むかしむかしあるところに、引きこもりの息子と両親が住んでいました。引きこもりの息子は学校も行かずにずっと部屋にいます。心配する両親の気持ちを考えない息子ではありません。しかし部屋から出れないのです。何故なら息子は誰にもそれを打ち明けないからです。事情や心情などは息子本人しかわかりません。――時間はあっという間に過ぎていきました。ある日のことです。息子がトイレに行こうと部屋から出ると、母親が洗面台で顔を洗っていました。母親は鏡をしばらく見つめています。その様子を見遣った息子は思いました。『母さんってあんなに背が低くて白髪があったかな……』そして、リビングに目をやると父親が新聞を読んでいました。父親の横顔を見遣った息子は思いました。『父さんもあんなに白髪があって皺もあったかな……』言い表せない不安が息子を襲います。息子はすぐに部屋へ戻り、手鏡がどこにあったか探します。やっと見つけ出した手鏡を何年ぶりか分からないくらい久しぶりに覗きます。そこには青年ではなく、おじさんが写っています。両親を想う気持ちは持っていました。自分が正しくないという気持ちも持っていました。ただそれは持っているだけでした。そんな気持ちを消化させることはありませんでした。そして昇華させることもしませんでした。ただただ時間を消化しただけでした。めでたしめでたし」
「全然めでたくない!」
前言撤回だ。
彼女との会話はまったくもって不愉快であり、楽しくなんかない。
なんだこの救いようのない気分の悪い話は。
これじゃあ僕に対しての当てつけだ。
年上を気にしないでいいとは言ったが、これは気にしなさすぎではないか。
「ほらっ! 見てみ」
彼女はそう言いながら、いつの間にかトートバッグから取り出した折畳み式のハンドミラーを僕に向けた。
勿論、鏡のほうを。
「なに……なにがしたいのスズメさん……」
ハンドミラーに写っているのは僕だ。
癖毛で平凡な男が写っているだけじゃないか。
自分自身を見つめ直せとでも言いたいのだろうか。
あれ。
頬のところに血がついている。
どこでついた!? 咄嗟に手へ目を落とすと左手の側面に血液らしきものが赤く染めていた。
両手首を確認した時に付着して、汗を手で拭った際に頬へ?
汗を拭った記憶があるのはついさっきだ。
それ以前は無意識でやっていたかもしれない。
ずっと顔に血をつけてたのか、喫茶店に来てからなのか……。
「拭きなよ。ついさっきついたから誰も気付いていないと思うよ」
「…………ありがとう」
おしぼりで拭くと店に迷惑と思ったか、彼女はそっとお冷の水をポケットティッシュに濡らし鏡と一緒に差し出してくれた。
本当にありがとうと心から思った。
顔と左手についた血液らしきものを拭きとり、ハンドミラーを彼女に返し再度お礼の言葉を言った。
ティッシュはズボンのポケットの中へ押し込んだ。
どんだけズボンのポケットに詰め込めばいいのだろう……。
「わたし素直じゃないからさ。こんな言い回しでしか伝えられなかった。あんな例えの昔話は忘れて。あれは番外編と思って。……ごめん」
なんだやっぱりいい子じゃないか。
「ううん。気づかいありがとう。昔話は心を抉られるような気分だったけど、自業自得だし。っていうか番外編ってどうゆう意味?」
「余計な話って意味。引きこもろうがニートしようが…………残酷な言い方だけど『自由』じゃない。わたしがとやかく言うことはないもん。それにわたしが言える立場じゃないし」
彼女は態度や表情がころころとよく変わる。
冷たい感じからフレンドリーになったり、厳しい一面を見せたかと思えば優しさであったり。
そして今はしおらしくなっている。
――自由か。
確かに残酷だよな。
「自由が残酷っていうのは、他人に対しての言い回しが汎用性に優れていて無責任に感じるからってこと?」
「うーん。まあそうかな。どうしたの? わたし何か引っかかる言い方した?」
「そうゆうわけじゃないんだけど。僕が自由にした結果がこの様だからさ」
「どの様かはわたしには分からないけど……。8年近くも引きこもってた割には、普通に話せてるし、言わなきゃ分からなかったんだけど」
「対人スキルってやつ?」
「そう。オドオドしたり目線逸らしたりしないじゃん勇君」
「いやいや。少なからず緊張はしているよ。二人っきりで――しかも女性相手なんだから」
――それに、鞄の中身が強烈すぎて緊張を緩和しているとは言えない。
他にも理由はあるのだけど、もうじき別れるので敢えて言う必要もないだろう。
名残惜しいけどそろそろ御暇しないといけない。
こういった関係の中で、解散する言葉を掛けるタイミングというのは非常に難解だ。
話が途切れたら仕掛けようとするも、彼女は堰を切ったように話し続ける。
「実は……わたしも緊張している。普段はこんなにお喋りじゃないし、男性と二人きりなんてないし」
僕には全くそう写っていないけど、ここは気を使った方がいいのだろう。
「そうなんだ。そんな財布拾った事を気に病まなくていいのに」
「違う! 財布がきっかけではあるけど……勇君が話しやすいのもあるし、それに――」
大きく否定したと思えば、急に俯きだし黙ってしまった。
そんな彼女に対し、会話のキャッチボール程度の返しのつもりだった。
僕と話しやすいと言われ気を良くしたのかもしれない。
でも特に深い意味などない台詞。
「困った事があるなら言ってね」
彼女はバッと顔を上げ、表情からは真剣味が伝わってくる。
それは緊迫感と懇願が同居した――助けを求める目であった。
だけど、口は開かない。開けない理由なんて分かっているじゃないか。
安易に他言できない僕も同じなのだから。
しかし、彼女の場合は僕とは違う部類の問題なのだろう。
安易に引き受けるのは御免だけど訊くくらいなら……。
人に話せば半分は解決すると聞いたこともある。
何が半分解決するのかは知らないのだけど。
「僕じゃ頼りないかもしれないけど、話を聞くくらいはできるしさ」
「………………いいの?」
それは時間的な「いいの?」なのか、とんでもない話の内容である「いいの?」なのか彼女はたっぷりと間をとってから問いかけてきた。
僕は首肯する。
「今日一日だけでもいいから気分転換したい」
何故か彼女は泣きだしそうな雰囲気であり、僕はそれに呑まれかけている。
こんな鞄を持っていなければ一日と言わず、何日でも付き合ってあげれる。
彼女の事情なんて想像できるはずもなく、それは彼女も同じで僕の事情なんて想像できるはずもない。
知りもしない事情を無下にしたくはないし、なにより頼られている。
引きこもっていたのだから、他人から頼られる経験がない。
煩わしいかと思いきや、どうやら僕は懇願されると引き受けやすい性格みたいだ。
今田さんの件しかり、この謝礼の食事や気分転換とやらも安易ではないが了承した。
「わかった。じゃあ今日は気分転換に付き合う」
「え? 本当に?」
「うん。そこまで驚くことじゃないと思うけど」
「やったぁ。ありがとうね」
「いいよそれくらい」
泣きだしそうだった雲行きは晴ればれとし、彼女は非常に明るい笑顔を見せた。
今田さんの時もそうだったが、他人の安心した笑顔を見るのは気分が良くなる。
気分が悪くなる鞄の件は夜でもいいかと僕は先送りにした。
「とりあえず服を買いに行きたい!」
「うんうん」
首肯しながら笑顔で僕は了承する。
「あと、有名なパスタ食べたい!」
「うんうん」
急に元気になった彼女はまるでデートのように喜んでいる。
ん?
デート?
なんだろうこの展開は。
「本当のお願いあるんだけどな……」
「うんうん」
デートというキーワードにより、僕は急に――勝手に――緊張しだした。
「香川県に行きたい」
「うんうん」
「えっ!? いいのっ!?」
「うんう……ん? んん? え!?」
デートというキーワードは一瞬にデリートされ、唐突に現れた『香川県』というキーワードにより混乱する。
「か、香川県ってなに?」
「香川県は四国にある香川県」
至極当然の答えをスズメさんは仰った。
「いやいや、そうゆう意味じゃなくて。香川県に行きたい理由、理由を訊いているの」
「ああ理由か。最近知ったんだけど、香川県におばあちゃんがいるらしいの。身内はずっといないと思ってたから、一度でもいいから会ってみたいなって」
身内の存在を知って会いに行きたい気持ちはわかる。
だけど、いるらしい? とてもあやふやな言い方だし、例え住所を知っていたとしても、今日中に往復するのは無理がある。
そもそもとても恥ずかしい話だが、香川県が四国のどこら辺なのか絵を書けという問題があれば、僕はその絵を完成させれないだろう。
関東地区から一歩も出たことがない――興味がないとも言えるが――僕には交通手段すらさっぱりだ。
飛行機? 新幹線? 船? バス? 車? どれも全くわからない。
彼女が行き先や交通手段を把握していようと、僕にはこの鞄がある限りそんな小旅行に付き合うことはできない。
女性と二人きりで遠出をするのも、僕にとっては冒険のように勇気がいることだ。
「無理無理無理無理。いきなり香川県は無理だよ」
「だよね……気にしないでいいから。ダメもとで言っちゃっただけだし。でも気分転換に付き合ってくれるだけで十分だから。さっ。そうと決まればとりあえず店をでましょ」
「う、うん」
やや強引というか、主導権は彼女にあり僕は気分転換に付き合うことになった。
食事の支払いは約束通り奢りで彼女が精算した。
半分は支払うつもりだったのだけど、彼女はそれをさせまいと一人そそくさと支払ってしまったのだ。
まるでイケてる男性が女性に気遣いさせないように会計する光景であった。
普通逆だろこれ。
「いこ」
笑顔の彼女に食事のお礼を述べると「いいの」と――トートバッグを大事そうに抱えながら――また笑顔で返されながら喫茶店を後にした。