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第五回


 武田軍の攻勢を前に、長篠城を守る奥平勢は憔悴し切っていた。体力だけならいざ知らず、心理的にも相当追い込まれていたことは想像に難くない。援軍が来ることのみが拠り所であったが、それすらも確信を持てぬものであったため、日に日に状況は悪くなる一方であり、貞昌もそのことをよく理解していたわけである。援軍が来るか否か。それだけはどうしても確認しておきたいことであった。そこで貞昌は援軍の有無を確認すべく、敵中を突破して岡崎に向かう決死の者を募ったわけである。貞昌にしてみれば苦肉の策であるが、外部と孤立している長篠城に於いては、そうするより他に手立てはなかったのである。そして、その決死の者として応じたのが強右衛門であった。

 川に面する野牛郭より密かに出て、宇連川を下って有海村の南部に上陸し、脱出に成功したならば雁峰山に狼煙を上げる手筈になっている。狼煙を上げた後は、岡崎までの二十里を只管走り続けることとなる。

 あと一刻もすれば夜明けを迎えようかという頃合、強右衛門は野牛郭に通じる門まで来ると、立ち止まって背後を振り返った。貞昌の他に重臣が数名、そして駒六の姿もあった。

「のろ牛、武田に見付かれば命はねぇぞ」

「分かっている」

 武田に見付かれば命はない。決死の任務であるのだから、命が懸かっているのは当然であるが、併し、強右衛門はどういうわけか、命が懸かっているとは思えない程に冷静になっている自分の存在に気が付いた。

 ――これが俺の命の重さか。

 強右衛門は貞昌に礼をすると、僅かに開けられた門の隙間から本丸を後にした。野牛郭には強い風が吹いていた。風は湿り気を帯びていたため、雨が近いように思われた。塀際を静かに進むと、すぐに崖へ突き当たる。崖を下り、岩陰から宇連川の中へと身を沈めた。すると、ぽつぽつと雨が降り出したかと思うと、すぐに大降りになり、川面は荒れて波打ち始めた。

 ――俺は運のいい奴だ!

 そう思うと、顔を水に付け、一気に深く潜った。

 上流で雨が降っているため、流れは急であった。大きく息を吸って潜れば、その一息で三十丈は進む。雨で視界が悪く、流れが急であったことが幸いしたのか、瞬く間に武田の陣所の脇をすり抜けて、有海村の際まで来た。武田軍のものと思しき篝火がいくつも見えていたが、強右衛門はそれに恐怖というものを感じなかった。

 有海村の南部、広瀬というところまで来た時、東の空に光が射し始めた。強右衛門は川から上がり、周囲を見回して敵兵の姿がないことを認めると、すぐに走り始めた。山道を通って雁峰山まで辿り着き、示し合わせた通りに狼煙を上げた。煙が空へ昇っていくのを確認し、これもまたすぐに走り出し、その場を離れた。山道を西進し、本宮山の麓まで来ると、北に向かって伸びる山脈を横断して、くらがり渓谷へと進んだ。くらがり渓谷を流れる男川は岡崎城の目の前を流れる川である。ここまで出れば、あとは男川に沿って走り続ければよいのである。

 強右衛門は川の水を何度か掬って飲み干すと、近くの岩場に腰を下ろした。辺りは鬱蒼と繁った密林で、空は無数の木々の葉に覆われ、渓谷に降る光はそこらかしこで切り刻まれて、その姿を川面に散らせていた。

 鳥の鳴声が森の深い場所で重く響いている。川のせせらぎの音が渓谷に充満し、風に揺れる葉の音が時折頭上から聞こえてきた。大小いくつもの岩が転がり、その岩と岩の間を白い水が流れていく。

 深い渓谷の底に置かれた午後の風光が、強右衛門には不思議なもののように思われた。つい昨日までは、城壁や土塁に囲まれた場所で激しい攻防が行われていたわけであるが、今の自分の見ているものは、それらと全く別のものであった。

 自分だけがあの修羅場から離れているという優越感にも似た思いが強右衛門の中にはあった。そして又、同時に、その優越感を不謹慎にも思っていた。強右衛門は岩から立ち上がると、足元の水が下っていく方向へと一歩踏み出した。

 足下を気にしながら岩から岩へと飛び移る。谷底はごつごつとした岩ばかりで歩き辛かったが、くらがり渓谷を抜けると次第に川幅が広くなり、足下を気にせずに済むような川原が現れた。強右衛門は足下の憂いがなくなると走り出していた。

 太陽は中天に昇り、落下陽光、地を照らして明るかった。宇連川の川面を打った雨は一体何であったのか。

 ――俺は運のいい奴だ!

 強右衛門の中に、いくつかの思いが浮かんでいた。選ぶとするならば、走る気力を生むものがよい。

 ――兎にも角にも、まずは出世だ!

 強右衛門は、己の出世に思いを巡らせた。決死の任務で敵陣を突破し、今まさに援軍を求めるべく岡崎城まで向かっている。難所は既に越えており、かかる任務の完遂はほぼ間違いないと言ってよい。褒美も思うがままであろう。駒六が二人扶持であれば、自分は四人扶持の侍大将か。作手の村で一番の出世頭になるだろう。何にせよ、名のある武士になれるはずである。そのようなことを思っていると、自然と走ることに疲れを感じなかった。

 陽が赤味を強く帯び始めた頃、少し大きな川と合流する地点へ出た。この川は乙川と呼ばれており、男川と合した乙川は岡崎城の前を通って矢作川へと注がれることになる。二つの川の合流地点から岡崎城までは丁度二里の距離にあり、最早目と鼻の先であった。

 陽が沈み切り、ついに平野へ出た。平野の中に、一際赤く光る点を見付けた。強右衛門は、その光に向かって無心に走り続けた。一つの点はいくつもの点になり、無数の点になり、やがて二本の篝火となった。

「長篠城からの急使である!」

 強右衛門は門番にそう伝えると、暫く待たされた後、城内へ通された。

 奥へ奥へと進んでいく傍ら、強右衛門は城内の様子を眺めていた。岡崎城の中は、想像以上の人の塊で埋められていた。又、広い城郭は見渡すことができず、石垣は整然と高く積み上げられ、城壁一つ取っても長篠城とは比べものにならない程に立派であった。

 ――このような強い城であればどれほど良かったことか。

 強右衛門は、岡崎城に対して頼もしさを感じると共に、どこか寂しさと悔しさを覚えていた。

 いくつかの門を潜り、漸く立ち止まることを許された。目の前には、一際豪奢な幕が張られている。幕の内にいる者は随分な派手好きと思われた。強右衛門は呼ばれると、幕の内へ入った。一見して荘々たる大将が居並ぶ中、中央に座る四十に届くかどうかの大将と、その横に座る三十かそこらの若い大将の二人が一際目を引いた。強右衛門は、それが織田信長と徳川家康であろうと思った。事実、その通りであった。

 強右衛門は貞昌からの封書を差し出し、二人へ事の仔細を報告した。

「城兵は皆、援軍が来ることのみを頼りに戦っております。一刻も早く援軍をお出し下さいませ」

 強右衛門は、そう深々と頭を下げ、地面に額を擦り付けていた。すると、信長は神経質そうな甲高い声で応えた。

「いいだろう。全軍三万、鉄砲三千挺を以って援軍に参る。猿! 出陣の用意をせい!」

 猿と呼ばれた小男が立ち上がり、その場から去ると、城内は俄かに慌しくなった。信長は続けて言う。

「強右衛門、此度は大儀であった。褒美を取らすから遠慮なく申せ」

 強右衛門は、褒美について思いを巡らせた。併し、長篠城からここまで走って来る間に考えていたはずのことが、不思議と声になって現れなかった。そして、どのように答えてよいものか、全くと言っていい程に思いつかなかったのだが、自然と一つの声が出た。

「粥を一杯、頂ければと」

「そうか、走り詰めで腹も減っていよう。粥を食わせてやるから、まぁ休んでいけ」

「いえ、粥を頂きましたら、すぐにでもここを発つつもりであります」

 強右衛門は、自分でも自分が不思議なことを言っていると思った。

「何故だ?」

 怪訝に思ったのか、家康が強右衛門に質問すると、強右衛門は家康の方に向き直り、頭を下げて言う。

「まだ長篠城では多くの仲間が援軍を待ち侘びて戦っております。信長様は援軍をお出しになるとおっしゃられましたので、そのことを早く皆へ伝えてやりたいと思っております」

 幕舎の中が一瞬、騒然としたように思われた。信長も家康も、それ以上は何も言わなかった。

 強右衛門は冷静であった。併し、幕舎の一瞬の静けさの中に、己の強い鼓動が音となって聞こえていた。


 粥を食い終わると、すぐに給仕の者へ礼を言い、岡崎城の門を潜った。辺りは深い夜の闇で、火がなければ足下も覚束ないように思われたが、いくらか歩くと夜目が利いてきたので、強右衛門はやおら走り始めた。併し、すぐに足を止めた。道が見えないわけではない。走る理由が見えなかったのである。

 ――何故俺はあのようなことを言ってしまったのか。

 強右衛門には、強右衛門の言葉が不思議であった。あの時に突いて出た言葉は、強右衛門も予期せぬものであったからである。

 最早自分の手柄は確実なものであったし、何も自分が長篠城へ戻らなくともよいように思われた。援軍の大部隊と共に行けば身柄の安全も確保されている。敢えて危険を冒す必要はなかったはずである。

 ――岡崎城から出てしまったものは仕方がないのだから走るより他にない。

 強右衛門は再び走り始めた。走りながら考えることがあるが、選ぶとするならば、走る気力を生むものがよい。

 ――兎にも角にも、まずは出世だ!

 強右衛門の足はすぐに止まった。一歩も前に進まないといった態である。強右衛門は意外に思った。

 ――では、主君に対する忠義か!

 足は、やはり一歩も動かなかった。直上の主である奥平貞昌は、血気盛んではあるが裏表のない性格で、確かに主として仰ぐには申し分ないように思われたが、だからといって取り立てて恩顧のない自分が命を賭けてまで仕える人物とも思われなかった。又、貞昌の主君である徳川家康にしても、見たところ信長の機嫌を窺うばかりの小男で、何にしても姑息羈縻の風があり信用できず、かかる家康に忠義を尽くすというのも馬鹿らしく思えてならなかった。そして何より、主君など戦が起きればすぐに変わるのである。

 いくらか思いを巡らせても足が動くことはなく、何をどうすることもできない自分に強右衛門は愕然とせざるを得なかった。そして、背後を振り返った。赤い無数の点が見えていた。強右衛門の足が動き始めた。

「畜生! 畜生!」

 気が付けば、強右衛門は走りながら大声で叫んでいた。

 ――どうだ、あの広い城郭は! 整然と積み上げられた石垣は! 城壁一つとっても立派なものであろう!

 その一つ一つが、強右衛門に大声を上げさせていた。そして又、強右衛門の脳裏には長篠城の姿が思い浮かばれていた。立身出世、名誉栄達、そういった類のものは既に掻き消え、崩れかかった石垣、焼き払われた兵糧庫、所々崩落しかかった土塁の隙間に、強右衛門の心は囚われていた。

 ――どうしたところで弱い城だ! そして俺はどうだ! 俺は……俺は弱いぞ!

 強右衛門の心の内にある激しい感情の凝集が、長篠城を強右衛門自身のことのように思わせていた。

 夜空の黒さはより一層深まりを見せ、川沿いの僅かな平地は森閑として時折葉叢の掠る寒い音が聞こえていた。強右衛門だけが、風景の中で唯一の異形であった。本来の人ではなく、野獣よりも野獣らしく、木石よりも木石らしい、併し、人よりも人らしいものを強右衛門は持っていた。


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