第四回
四
長篠城内は既に人でごった返していた。強右衛門や駒六同様、近住の足軽や雑兵がほら貝の音を聞き、次から次へと集まって来ていた。寡兵であるため、野戦に打って出る余地はなく、端から篭城戦である。城内には鉄砲三十挺、兵糧三ヶ月分が運び込まれており、一昨年からの増築で準備は万端であると言う。一ヶ月は持ち堪えられるだろうというのが守将奥平貞昌の見立てであった。
奥平貞昌は齢二十の若い武将であるが肝が据わっている。
「徳川殿は援軍をお出しになるとおっしゃった。そう遠くないうちに全軍を率いて救援に来るはずである。それまでこの城を落とされるわけにはいかない。皆の者、心してかかれ」
徳川の援軍が来るという言葉が、城内の将兵に影響を与えたのは言うまでもない。これは勝てる、援軍が来るまでの辛抱だ、だのと声が上がり、どこか前向きな雰囲気が流れていた。併し、強右衛門だけは違った。
――そう上手くいくものか。この城を守り切るのは容易いことではない。この城はどうしたところで弱い城だ!
そのような不安な思いが、強右衛門の中にはあった。
そして、強右衛門の不安は的中した。
五月八日、武田軍は長篠城の南岸、有海村に陣取ると、山県昌景、高坂昌澄の両隊をして長篠城へと攻撃を仕掛けてきた。川向こうより矢を放ちつつ、竹束を持った部隊が川を渡り始める。貞昌の部隊は、これをよく引きつけたところで鉄砲を浴びせるのだが、山県・高坂隊は暫く力押しした後、勝機なしと見るやすぐに兵を岸の上に引き揚げさせてしまった。そして遠矢を放ちつつ様子見を始めたところで、貞昌は武田軍の目論見を理解した。気が付けば東岸の乗本に武田信実、三枝守友、西岸の岩代に内藤昌豊、長篠城の北に位置する医王子山に武田勝頼の本隊が進軍していたのである。山県・高坂に攻撃をさせている間に川を渡り、長篠城の包囲を完成させていたのであった。
「おのれ! 山県、高坂は囮であったか!」
貞昌の怒号が城内に木霊した。
包囲を完成させた武田軍は三日程動きを見せなかった。併し、十一日から断続的に遠矢による攻撃と強襲を始め、十三日には医王子山に陣取った勝頼本隊による総攻撃が始められたのである。武田軍の激しい攻城は苛烈を極め、貞昌は必死の防戦を強いられた。城と平原の間に置かれた空間は、鉄砲と弓矢の応酬、喚声と絶叫の連続で埋められていった。
強右衛門は、武田の激しい戦いぶりを目の当たりにしていた。これまでいくらか戦に参加したことはあるが、武田軍程に強い相手は見たことがなかった。常に想像を上回る戦略を持ち、秩序の取れた部隊が計画的に動く、そして一人一人が怖ろしく強かった。強右衛門自身は弾薬や石を運ぶことに終始していたが、運ぶ先々で城兵の絶望的な叫びを耳にした。
――これは負けるな。
強右衛門はすぐに合点した。この弱い城が、武田軍のような強い相手と戦ったところで勝てるはずがない。負け戦は火を見るより明らかであった。その時、強右衛門は火が上がるのを目にした。
兵士の一人が貞昌の前に飛び込んで来たかと思えば、武器庫と兵糧庫が焼かれたという事の次第を伝えた。
武田勝頼の本隊は長篠城の北にある医王子山に陣取っていたわけであるが、陣地構築の間に高見より長篠城を窺い、配置を読み取っていたようである。そして、武器庫、兵糧庫に中りを付けると、勝頼本隊によって攻撃を仕掛ける間に、背後の山県・高坂の部隊に命じて火矢でこれを焼き払わせたわけである。
勝頼の部隊は瓢丸を占領し、貞昌の部隊を巴城郭に押し込むと、無理攻めをせずに早々と引き揚げていった。元より武器庫、兵糧庫を焼き払うのが目的であったようである。
かかる十三日の総攻撃により、状況は一変していた。三ヶ月の篭城に耐えうるだけの武器兵糧を蓄えていたわけであるが、これが焼かれてしまったがために計算は大いに狂わされることとなった。武器はまだしも、兵糧が焼かれてしまったのは致命的であった。兵糧はもって四、五日とのこと。長篠城は、全く余裕のない窮地へ立たされたわけである。そして、俄かに焦点は援軍の有無へと移っていった。
「援軍は本当に来るのか!?」
「徳川殿は我らを見捨てたのではないか」
そういった言葉が、強い口調で飛び交った。
貞昌は、援軍は必ず来る、と豪語するが、援軍の来ない可能性も低くはなかった。以前、三方ヶ原に於いて徳川軍が武田軍と刃を交えたことがある。その際、徳川軍は散々に討ち破られており、野戦に於いて武田軍に勝てるとは誰も思わなくなった。そしてこの戦であるが、徳川軍は多く見積もっても一万足らずであり、一万五千の武田軍と戦えば三方ヶ原のように討ち破られるのが関の山であろう。それならば長篠城を見捨てて吉田城や岡崎城での篭城戦を選択するのが得策とも考えられる。
城内の誰しもが、そのようなことを薄っすらと考えていたため、不安はすぐに伝播し、落ち着きがなくなっていった。貞昌も、城内の空気を察してはいたが、城は外部と遮断されているがために援軍の有無を確認することができなかった。援軍が来るのか来ないのか。ただそれだけが、長篠城に篭った全ての者の関心事であった。
「援軍が来ないのであれば降服する他あるまい!」
闇夜の中で誰かがそう言った。それを咎める者は一人もいなかった。
明くる十四日も武田軍は総攻撃を仕掛けてきた。巴城郭、弾正郭と落とされ、ついに本丸と二の丸、川に面した野牛郭を残すのみとなった。
夜、城内の将兵は皆疲れ切っていた。強右衛門は土塁に背を預け、じっとしていた。
暫く目を瞑っていると、若い男の声がやってきた。
「命のいらぬ者はおるか!」
声は強右衛門の前を通り過ぎていった。強右衛門は目を開けた。
城内は殺気立っていたが、それが武田軍に対するものだけとは言い切れなかった。不信感。そういった類のものが辺りを蠢いていたのである。そうであるからか、先の若い声は多くの苛立ちを生んだ。
「命のいらないわけがあるか!」
いくつもの声が、そう口にした。
強右衛門は何も言わず、再び目を瞑った。すると、先程と同じように、
「命のいらぬ者はおるか!」
という若い男の声が現れた。
何かその時、強右衛門の中に形容し難い感情が沸き上がってきた。怒りとも違い、自棄を起こしたというわけでもない。嫌に冷静で、それでいて熱い、居ても立ってもいられないという感情であった。
「応!」
強右衛門は大声を上げて立ち上がり、目を見開いた。そこには、奥平貞昌の姿があった。
どす黒い雲が長篠城の空を覆い、明月は隠れ、北方に聳える山々の稜線は黒色が深まりつつあった。遠くで林を打つ雨の音が、俄かに騒ぎ始めていた。