第三回
三
長篠を始めとする奥三河は、三河の中でも特異な存在であった。三方を山に囲まれた狭い土地に小さな村々が散っており、これといって栄えているわけでもなく、商業に於いても農業に於いても重要な土地ではなかった。併し、この土地は重要であった。奥三河は田峰菅沼氏、長篠菅沼氏、奥平氏という山家三方衆と呼ばれる小領主がそれぞれの領地を治めていたが、三河の松平氏、遠江の今川氏、信濃の武田氏が激しく争う場所に位置していたために、ある時は今川氏が、ある時は松平氏が、またある時は武田氏がかかる土地をその勢力下に置き、そのため山家三方衆の諸家は頻繁にその主を変えなければならなかったのである。奥三河は滋味に乏しい土地であったが、他国へ攻め込む前線基地として重要な役割を担っていたのである。
このような土地であったため、戦は絶えなかった。主は事ある毎に変わり、忠義を尽くすという言葉が空虚なもののように聞こえる程であった。強右衛門にしても、主君に忠義を尽くそうなどという強い気持ちは持っていなかった。忠義を尽くしたところで、主などすぐに変わってしまうからである。
奥三河に於いては何もかもが急激な変化を起こす。併し、強右衛門にとって一つだけ変わらないものがあった。主が誰であろうと、戦が起きれば強右衛門は長篠城に篭るのである。ただそれだけが、はっきりとした変わらぬものであった。
強右衛門の住む作手村は渓谷の中にあった。細い川沿いに長く細い田畑があり、強右衛門は鍬を高く振り上げては地面へ下ろす作業を延々と繰り返していた。
そこへ駒六という男がやって来て、
「やい、のろ牛、今日ものら仕事に精が出るじゃねぇか」
と強右衛門に声をかける。
強右衛門は村人からのろ牛と呼ばれている。図体はでかいものの鈍重で風采が上がらない強右衛門は、確かにのろまな牛と言われればその通りであった。
一方の駒六は強右衛門より三つばかし年長の齢三十九、身体は小躯であるものの俊敏で、喧嘩には滅法強かった。その昔、姉川の戦いに参加して功を立てたために、寄騎二名の足軽頭となっており、作手の村の中では出世頭であった。今日は川で魚を取った帰りであるのか、魚のぶら下がった身の丈よりも長い笹の木を担いでいた。
「のろ牛、おめぇもいい歳だ。そろそろ戦なんて行くのはやめちまえ」
「そうは言っても、俺だって出世したいんだ」
「おめぇが出世? 阿呆なことを言うのも大概にしとかなかんぞ。だったらおめぇの取り得を言うてみいや」
「俺は、そうだな、体力と泳ぎには自身がある」
「だったら農民か漁師になるのが一番だがや」
強右衛門は鍬を高く振り上げて止まった。確かにそうかもしれないな、と強右衛門は思った。このまま鍬を握り締めて田畑を耕し続ける方がいいのかもしれない。川に潜って魚を取る方が賢明かもしれない。戦に赴いても出世の目処など全く立っていないのである。自分が選ぶべき道は何であるのか……。
「それでも、俺は出世したい。立派な武士になるんだ」
強右衛門は鍬を振り下ろし、やはり黙々と田畑を耕し続けた。
駒六は呆れたものを見るような表情をしていた。溜め息を一つつくと、葉から魚を一匹もぎ取って強右衛門へと差し出した。
「おめぇんとこの息子に食わせてやりん。親父がこんな阿呆ではろくなものも食えんだろう」
強右衛門が魚を受け取ったその時、遠くでほら貝の音が聞こえ始めた。駒六が平野の見渡せる高台まで走って行くので、強右衛門もその後を追った。
高台まで来ると、丁度平野の中程を三つの騎馬武者と思しき黒い点の走っている姿が目に入った。一つが立ち止まり、ほら貝を鳴らす。すると、他の二つはそのまま先へ走っていき、そのうちの一つが立ち止まってほら貝を鳴らす。三つの黒い点が順々に立ち止まってほら貝を鳴らすため、実に迅速にほら貝の音は領地一帯に広がっていった。
騎馬武者の鳴らすほら貝の音は、戦の始まりを示していた。強右衛門は、己の手に握られた鍬と魚を見た。
戦なんて行くのはやめちまえ。
駒六の言葉が思い浮かばれた。次の瞬間、強右衛門は鍬と魚を投げ捨てて走っていた。
家に辿り着くと加乃に、戦だ、と声をかけ、具足を身に付けるとすぐに表へ飛び出した。道の先を見ると、駒六が郎党二人を引き連れて走っている。再び高台に出て平野を見ると、いくつもの黒い点が長篠城に向かって酷くのろのろと走っているのが分かった。強右衛門は、それを認めると、丘を一気に駆け下りんとして再び走り始めた。
武田勝頼率いる一万五千の大軍が、突如長篠城を攻略せんとして進軍を開始したのは天正三年(一五七五年)五月六日。強右衛門が命を落とす十日前のことであった。