最終話「私の大切な人達」 5
「……え?」
最初、私は女神様の発した言葉の意味を全く理解出来ずにいた。いや、心の奥底では分かっていたけれど、それを私自身が認めたくなかったのだ。
戸惑いを呟いて、一時の沈黙。だんだんと時間が経っていくに連れて、私の胸中にじわじわと、残酷な現実が突き刺さってくる。
「あ、あのっ」
慌てて開いた口から飛び出す声は、どこか上擦っていた。
「それって、どっちの世界で暮らすか選べって事ですか?」
――簡単に言えば、そうなります。
「どっちもって選択肢はないんですか?」
――ありません。
「そこを何とかお願いしますっ」
――無理です。
縋るような頼みは、事務的な口調で却下された。
――貴女にあの魔法を与えたのは、あくまで私達の実験に必要であると判断したからです。両方の場所で無理なく生活していくとなれば、二つの世界を自由に、尚且つ時間の不備を調整して行き来するだけの能力が必要となります。それぞれの世界にとってそういった力は大きな負担となりますし、管理者である私達にとっても脅威と成り得ます。そんな強大過ぎる力を、世界に住まう一個の生命に過ぎない貴女へと授けるわけにはいかないのです。
「じゃあ、せめて一ヶ月くらいの間隔で行ったり来たり出来る魔法だけでも」
――それではお聞きしますが。
私が食い下がり続けたせいか、女神様の声色が心なしか冷淡になったように感じられた。
――そのような力を仮に私が与えたとして、貴女は両方の世界で普通の生活を送れるのですか?
「……ううっ」
問いかけの裏にある強固な確信を感じ取り、私は言葉に詰まった。彼女は暗に無理だと言いたいのだ。そして残念ながら、私もその意見に反論する事が出来なかった。一ヶ月毎に過ごす世界を変えれば、学校の授業にも城での仕事にも支障をきたしてしまうだろうし、両方の世界に住まう人々に心配を掛けてしまうだろう。例え本当の事を告げたとして、少なくとも現実世界では信じてもらえない事は明白だ。城の方では間違いなく職務怠慢でクビになってしまう。受験が迫っているけれど、仕事だってしなくてはならないのだ。そして、その両方をしっかりとこなす自信が、今の私には全く無い。
けれど。
「……でも、だって」
自然と言い訳がましい言葉を呟く私の脳裏には、両方の世界で過ごした数々の思い出が走馬燈のように浮かんでいた。道で転び、泣き出した幼い私の頭を優しく撫でてくれたお母さん。私がコンテストで優勝したと知り、まるで自分の事のように喜んでいたドーサックさん。町が見下ろせる公園で肩車をして、私に最高の光景を見せてくれたお父さん。王様の口に合うアイスを作る為、私を数々の面で助けてくれたクラールさん。両方の世界で親しくなった、掛け替えのない様々な人達。
「……もし、私が住む世界を選んだら、どうなるんですか?」
――貴女には、貴女が選んだ世界で生活してもらいます。
女神様の返答は、予想していた通りのものだった。
――世界を渡る事は出来ませんし、そこに住まう人々とは二度と会えなくなります。彼らからすれば、貴女は忽然と姿を消したように思われるでしょう。
彼女の言葉が、私の心に重くのし掛かる。片方の場所で生きていく事を決心すれば、もう片方の場所で生きている人達を置き去りにしなくてはならないのだ。残された人々の感じるだろう気持ちを思い、胸がキリキリと痛む。
――決まりましたか?
再び黙り込んだ私に、女神様は遠慮なく答えを迫ってくる。しかし、すぐに返事など、出来るわけがなかった。
元の世界には戻りたい。けれど、私がこっちの世界で過ごしてきた日々だって、それはそれは掛け替えのないものなのだ。
勿論、こちら側で望郷の念を募らせた事は何度もある。けれど、そんな時はいつだって、どっちの世界でもこれまで通りの生活を営む前提が気持ちの中にあった。今にして考えると、自分があまりに浅はかだったのかもしれない。別の世界に移されたとなれば、元の世界に戻される事だって有り得るのだから。誰とも親しくせず、ただひっそりと暮らしてさえいれば、こんな苦しみを味わう事もなかったのかもしれない。
だが、後悔の感情は全く無い。有る筈が無い。温かい人達に出会えて、色々な事を知って、誰が悔やむ事なんてあるだろう。嬉しかったから、楽しかったから、こんなにも辛いのだ。王様の所で働く事が決まり、ドーサックさんの家を離れる時、私は同じような気持ちを抱いた。その時、ここまで苦しまずに済んだのは、例え城に済むするようになっても、おじさんにはいつでも会いに行けると思っていたからだ。ただ、少しだけ離れた場所で生活する事になるだけで。
けれど、今回は違う。元の世界に帰れば、どんなに歩いたって、どんなに走ったって、ドーサックさんには決して会いにはいけないだろう。けれど、逆でも同じだ。この世界に留まれば、私は二度と、自らを産み育ててくれた両親の下へは戻れない。
決断するのが身を引き裂かれるように、辛くて。
苦しくて。
心が、震えて。
堪えきれずに溢れ出した涙と共に、私はようやく気がついた。
既に、どちらの世界にも、私が心から大切に想っている居場所があるのだと。




