(2)
頭上で耳障りな音が鳴っている。聞き慣れない音だ。耳にはりつくようなその音は、地獄の底から響く閻魔の声であるように聞こえた。鈍い頭を無理やりに起こして、藤堂間宵は普段よりも十分早くセットしておいた携帯のアラームを止めた。それは昨日変更したばかりのアラーム音だった。いくら騒がしい音であっても耳慣れてしまえば起きられなくなる危険性があると考え、彼女は定期的にアラーム音を変更するようにしている。作戦は大成功だ。
あくびをしながら自室を出て階段をおり、左手前方にあるリビングへ続くドアを開けた。そこで間宵はひどく驚き、小さな悲鳴を上げてしまう。リビングの中央に敦彦が亡霊のように突っ立っていたからである。驚いたことに敦彦が間宵よりも早く起きていた。彼女が驚いたポイントはそこにある。何度もいうが、敦彦が間宵よりも先に起きていた事態こそが驚くべきことなのである。
「お、お兄ちゃん? お、おはよ」
「ああ……おはよう」亡霊のような姿をした敦彦から、さながら怨霊のような低い声が返ってきた。
目を何度かこすってもう一度姿を確認する。間違いなく兄の敦彦だった。
「す、凄い! お兄ちゃんって休日でもちゃんと早起きできたんだ!」
「……見直した?」
「うん! 妹として、まるで鶏が空を飛び立った時くらいの感動を覚えたよ! 豚が木を登ってもこれだけ驚くことはないかも! 青天の霹靂だよ! 驚天動地だよ!」
「そんなに口早に極端な比喩をいわれると、兄としてはかなりへこむぞ」
「ところで沙夜ちゃんは?」
「まだ寝てるよ。ぐーすかだよ、ぐーすかぴー。まったく……のんきなもんだよな。昨夜はしゃぎすぎていたから、寝れなかったんだろうな」
「昨夜、なにかあったの?」
「また僕はあいつに襲われた」
「襲われたの? 沙夜ちゃんに? また」
「いや、じゃれてきたんだ。思い切り払いのけてやったけど」
「まあそんなことどうでもいいんだけどさ。出かける準備はしてあるの?」
「ぼちぼち」
夏休みを迎えて一週間経ったこの日、今日は朝から三人で海へ出かける予定となっていた。
『私、海というものを見てみたいです!』
そのように昨日、沙夜が提案したことだ。アメリカにいたころ何度も海を見ていたが、久しく海水浴をしていなかったので、たまにはということで間宵は乗り気だった。なので沙夜の要求を承諾し、朝は二人とも早く起きたということの次第である。間宵と敦彦には海水浴は早くから行くという共通のイメージがあったようだ。間宵に限っていえばいつも朝早いけれど、敦彦が早くに起きることは珍しい。感心さえした。この時はたしかに見直しさえしたのだ。
「なんだか冴えないね。コーヒーでも淹れてあげよっか?」
「いや、いいよ。ちょっと太陽の光を浴びてくる……」
そういい残し、敦彦はふらふらと玄関まで向かっていった。
それから眠気を払うように間宵はシャワーを浴びることにした。汗でべたついたパジャマを洗濯機に放り投げて、浴室に入る。朝起きた時の不快感さえなければ、夏は彼女にとって一番好きな季節となっていただろう。ぬるい湯を浴びると、蒸し蒸しとしていた気分が晴れやかなものに切り替わった。
蛇口をひねりお湯を止め、バスタオルで念入りに体を拭いてから、替えのティーシャツとジャージを着た。そうして清々しく生まれかわった間宵がリビングに戻ると、幼馴染みである小早川奈緒がそこにいた。彼女は間宵と同じ桜下女子高等学校に通う先輩だ。話を聞けば、斉藤夫人から朝食に誘われたとのことらしい。ジョギングウェア姿の彼女と一緒に朝食を食べることとなった。
その時、かろうじて敦彦は起きていた。眠た眼をこすりながら寝坊した沙夜にデザートの苺を与えていた。また、奈緒に海へ一緒に行こうと誘ったけれど、あっさり振られてしまった。なにやら夏期講習があるらしい。来年の大学受験に向けて張り切っているようだった。
その後、敦彦は友人である坂土泰誠と電話をしているかと思えば、次の瞬間にはソファーに転がって寝息を立てていた。そこで間宵は、彼の憑きものである沙夜に敦彦を起こしておくように頼んでおいたのだ。けれど、目を離した隙に沙夜も一緒になって寝ていた。二人が重なるように眠っている光景を目撃した時は、現実が認められず呆然とさせられたものである。
こういうのなんていうんだっけと、間宵は自堕落な二人を観察しながら考えた。
そうだ、ミイラ取りがミイラになる、だ。日常生活においてあまり使われない諺が初めて適応された瞬間だ。その言葉が頭に浮かんだだけで口にしたわけではない。諺のほとんどはそういう役に立たない類のものである。
眠りこくっている二人があまりに安らいだ顔をしていたので、間宵は多々むかついた。兄も兄だが、沙夜も沙夜だ。いい出しっぺがこの調子では計画というものは瞬時に破綻を期する。ソファーをひっくり返してやろうかとも考えた。
けれど、怒りちらして起こすのも大人げない。自分はもう高校生なのだ。少し前までは支配できなかったが、最近になって大分感情の制御が利くようになった。もうちょっとだけ寝かせておいてやろうか、という善意の気持ちから間宵は二人を放置し、リビングを後にした。一度、自室に戻ってお出かけ用の服に着替えを済ませ、それから洗濯をした。
奈緒が帰ったあとすぐに斉藤京子も出かけていった。どうやら古い友人と約束を取りつけてあるらしい。斉藤夫妻は日頃から忙しく、夏休みの期間は間宵が家事を受け持つことになっていた。それは義務や責任ではなく自発的な意志だ。お世話になっている斉藤夫妻に恩を返すという意味合いと、アメリカに留学していたころの習慣が彼女を動かしている。
洗濯籠を抱えた間宵はベランダに立って、手すりに背を預けて空を仰ぐ。この太陽に焼かれながら海に入るときっと気持ちがいい、そんなことを考えて間宵は海水浴が楽しみになった。洗濯ものを全て干し終えて、リビングに戻り一息つく。そうこうしているうちにもう時刻は九時となっていた。
二人を起こすのも面倒だったのでテーブルに前身を預けて、夏休みにだけ特別放送されるアニメの再放送を見ながら、間宵はまどろんでいた。見た目だけは子どもな探偵が主人公をつとめる国民的なアニメだった。こういうのを見て探偵に憧れる年代は終わったのだろうと、ぼうと考える。
次第に目の前がぼやけ始める。なんだか眠ってしまいそうな心地よさだ。こういう時にはどんな諺が当てはまるのだろうと、間宵は朦朧とする頭で考えた。ミイラ取りとミイラが共々にミイラになってしまったせいで第三者までもがミイラになってしまう。あまりにも長いし語呂が悪い。これでは諺としては使えない。
くだらない思考に没頭している時、軽重な機械音がリビングに鳴り響いた。寝ぼけていたせいか、その音階が来客を告げるものだと認識するのにしばらく時間がかかる。わざと足音を立てながら戸口へ向かった。大きめな足音を立てたのは来客に存在をアピールするためのある種、マナーである。
鍵を外しドアを開けてから間宵は目を疑った。
玄関にいたのは一人の男だった。
シトロンイエローの逆立った髪に褐色の肌、青みがかった炯眼。
そこにアネモネがいたのである。
突然の再会に彼女は動揺を禁じ得なかった。
「よう」低く、それでいてよく通る彼の声。
「あれ、久しぶりじゃん。元気してた?」
あまりに普通すぎる言葉が自分の口から飛び出したことに間宵は驚いた。
「ああ、俺は何事もない。少々主が面倒ごとを持ち込んでくるが至って健康だ。そっちはどうだ? 異変はないか?」
「うん。息災」
「あいつらも?」
「まあね」
「ならいい」
二言三言言葉を交わして、そこで会話が途切れた。沈黙でいる時間など以前の二人にはよくあることだったはずだけれど、この時の間宵はどうにも焦燥に駆られた。このまま言葉を継がなければ彼がふうと消えてしまう、そんな気がしたからだ。
アネモネと会うのは、およそ三ヶ月ぶりだった。
「せっかくのいい天気だし、外、歩こっか」