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ありふれた夏の一日  作者: 甘味処
避ける・蹴る・駆ける
6/23

(6)

 午後からますます雲行きが怪しくなり、講義を終えて帰宅する十六時には本降りになっていた。十三時ごろから雨はぽつぽつと降り出していた。こんな気ままな空模様は誰もが予想していなかったのではないだろうか。一種の天変地異である。


 奈緒は傘を持ってきていなかった。最寄りのコンビニで傘を購入したいところだったが、財布の中にはすでに百円玉が二枚しか残っていない。100円ショップに行けば持ち金でも買えるけれど、駅とは逆の方向であり結局濡れてしまうことになる。それならば本末転倒だ。いつもの奈緒ならば雨がやむまで学校にいるか、もしくは喫茶店に居座り時間を潰しているところだ。そういった気分でもないし、一緒に帰ると約束した麗華のこともある。麗華の傘に入れてもらおうか。


 クラスメイトの傘にいれてもらい校門から学外に出て、メールで指定された場所まで足を運んだ。麗華のメールいわく、高架橋の下で待ってるよん、とのことだ。同じ学校にいるのだから学内で直接会えばいいのに、と思いながらも渋々彼女の意向に従うことにした。


 奈緒は嫌な予想を払拭できないでいる。校門を出てからクラスメイトに別れを告げ、屋根から屋根へと駆け込むように雨をしのぎながら、高架下へ向かった。


 嫌な予想は的中した。


「……どういうこと?」


 湿っぽい高架下に麗華の姿はなかった。彼女の代わりにいたのは見たことのある男だった。


「あのさ、俺のこと覚えてるかな? 俊介っていうんだけど。前に一度会ったことあるよね」彼は愛想良く微笑んでいる。


「うん。それでどうしたの? 麗華は?」

「どうしても一度二人だけで話してみたくって、麗華に頼んで呼び出してもらったんだ。これから暇? よかったら色々と話さない?」

「あ……、ごめんなさい……私、もう、帰るから」

「え、ちょっと待ってよ」


 冷たくあしらおうとするのだが、どうしてもそれができない。呼び止められると反射的に足を止めてしまう。


「早く帰ってくるようにお母さんにいわれててさ……」

「はは、でも奈緒ちゃん、傘ないじゃん。ほら見てこれ、じゃじゃーん、俺大きい傘持ってるし。よかったら一緒に帰ろうよ」

「でも……私」

「傘ないと困るでしょ? コンビニまででいいからさ。ほんと、ちょっとだけ、ね」


 なんなんだろう。

 どうしろというのだろう。

 どのように断れば、この人を傷つけないですむのだろう。


「いやあ、運良く傘を持ってきてよかった。持ってこなかった人多いよね……」


 この人はなにを望んでいるのだろう。

 どうして巻き込むのだろう。


「それにしても突然の雨にはびっくりだよな。俺が傘を持ってきたのも偶然なんだ、お袋が持っていけっていうから……」


 わからない。

 放っておいてほしい。


「うちのお袋は天気をぴしゃりと当てるんだぜ。そりゃもう、ほんとうに天気予報いらずって感じで……」


 そんな話どうでもいい!


「ごめ……私、帰るから」


 彼女の中でなにがか吹っ切れた。

 奈緒は駆けだす。


「あ、ちょ! 奈緒ちゃん!」


 大通りをまっすぐ進んでいけば駅がある。とりあえずそこまで走ろう。


 湿ったコンクリートの香りがする。全身の血液が弾ける。

 腕を振りきり。走る。走る。

 駅までの道のり。商店街に生成された人の波を切り裂くように走る。

 一歩、一歩。踏み出して走る。


 水たまりを踏む。

 地面を蹴る。駆ける。

 まるで宙に放り出されたような気分。

 自分の筋肉なのにどこかよそよそしい。


 膝に痛みを感じるのは気のせいだ。

 心臓が早鐘を打つ。体中に緊張が張り詰める。

 見ている。見られている。

 大丈夫。まだ走れる。


(馬鹿みたいだ、馬鹿みたいだ、私……!)


 どうしてこんなに気が滅入ることがあるのか。ちょっとばかり時間を無駄にしただけではないか。きっと麗華は奈緒に気を利かせてくれたのだろう。俊介という男も好意をもって奈緒に接してくれたのだろう。多少馴れ馴れしかったけれど、決して意地の悪そうな男ではなかった。少なくともあれほど邪険じゃけんに扱う必要はなかったはずだ。


 なにを陰鬱いんうつとした気持ちになる必要がある。いつもの奈緒はすぐにポジティブな思考を呼び覚ますことができた。今日はどうもうまくいかない。きっと雨のせいだ。


 しっとりと降る雨。

 なにひとつ変わらない、臆病な心。

 やっぱり……強くなんてない。

 弱い。弱い。

 こんなにも脆弱だ。


 駅についた奈緒は荒い呼吸を吐き出して、プラットホームの端っこでうずくまった。周りの人から声をかけられているようだが、それらの音は彼女の耳にはほとんど届かなかった。目の前で電車が停車した。立ち上がって車両の中へ。


 目的地に向かうにつれ、頭の中が真っ白になる。反面、鼓動は平常を取り戻していく。どうしようもなく彼に会いたくなった。


 階段を上って地上に出た。あれだけ全力疾走したのに痛みを全く感じない。


 間違いなく完治している。完治していないのは膝ではない。

 空気を吸い込み、一度息を止めて、ゆっくりと吐く。

 地上に出ると勢いは衰えたものの、未だに雨は降っている。


 奈緒の周りで響く、一斉に傘が開く音。

 奈緒は雨の中を走った。

 異様なものを見るような視線が注がれる。

 それらの視線を避けるように奈緒はまっすぐに駆ける。地面を蹴る。


 公園には誰もいない。雨音のリズムに乗せて足を踏み出して行く。

 体を濡らす雨。冷たくのない温い雨だ。

 邪念を振り払うようにして、帰り道の急勾配を駆けあがる。


 帰ったらマロンに抱きつこう。水を怖がるあの子は嫌がるかもしれない。シャワーを浴びて体をしっかり乾かしてからにしよう。そして今夜はゆっくり眠ろう。


 駆ける。


 これから少しずつ自分を変えていこう。臆病な心を磨いていこう。その第一歩として体育祭では徒競走に出よう。捨てる必要なんてない。ありのままの姿を彼に見せつけてやろう。


 蹴る。


 走らないと雨に濡れてしまう。

 そうだ。そう思い込むようにしよう。


「私だって……君の知らないところで成長していくんだよ」と誰に向けるでもなくぽつりと呟いた。


 雨。夢想。願望。そして視界。

 駆け足な体を反転させたようなスローテンポでの思考。

 認識。認識。認識……。


 坂の最上部に立って一息ついた。この場所からは町の景色が見渡せる。


 霧状の雨にゆらり揺らめく木々の影。そっと覗ける屋根瓦。遥か遠く、陽炎に行方晦ました叢林そうりん。そのどれもがきめ細かく加飾された、ありふれた夏の織りなす風景だった。


(了)


2幕「久しく・空しく・麗しく」7/10


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