(2)
「あ、奈緒さん。おはようございます」
奈緒がリビングに入った時、ちょうど現れたのは眠たそうな敦彦とは打って変わり、溌溂とした顔色の美少女だった。シャワーを浴びたあとのようで薄手のシャツが肌に張りついて、体のラインを明確に縁取っていた。均整の取れた目鼻立ちに艶のあるロングヘア。大きな瞳はお人形のようである。紅色に上気した頬。あまりの色っぽさに、同性の奈緒であれ思わず目をそらしてしまう。これで自分よりも一つ年少だというのだから奈緒は驚嘆を禁じ得ない。
藤堂間宵はスポーツウェア姿の奈緒を見るなり、目を瞬いて顔を明るくさせた。
「ジョギングですか? うわあ、なんかかっこいいですね! 今度わたしもご一緒させてください」
「うん! 一緒に走ろっか」
「わぁ、ぜひぜひ。奈緒さん綺麗だもん。やっぱりそういう日々の努力が必要なんだぁ。いいなぁ、わたしももっと頑張らないと」
お世辞とかではなく本当に畏敬の念を表してくれているようだった。お互いが子どもだった頃からの付き合いがあるために、間宵の発言に裏表があまりないことはよく知っている。その直線的な性格には奈緒も本気で照れてしまいそうになった。
「そんなそんな、間宵ちゃんに比べたら私なんて地味だし、怠け者だよ」
「いえ、わたしは頑張って見た目をよく見せようとしているだけです。心も……弱いですし。それに比べて奈緒さんは……なんていうんですかね、質実剛健って感じです。心が強いというのでしょうか。わたしのお姉さんになってもらいたいくらいです」
「あはは、大げさだよ、お姉さんなんて……。……それにね、私は……」
きっと、強くなんかない。
「奈緒さん、どうかしました?」
「え?」思わず暗い顔をしてしまったかもしれない。「ううん、なんでもないよ」慌てて表情をとり繕った。
◆◇◆ ◇◆◇
斉藤家の食卓を囲むのは四人。斉藤婦人の対面に敦彦、彼女の斜向かいには間宵が腰をおろした。ちなみにこの斉藤家の家督にあたる人物、斉藤武史は日曜日なのにもかかわらず仕事へ出かけたようだった。まだ八時になったばかりである。職場が遠いために出勤時刻が早い、とのことだ。
そういった事情があり、本来主人がいるべきであろう空席に座って、奈緒はトーストを齧っている。
食事は豪勢な苺づくしだった。いい加減に焦げ目のついたトースト、斉藤婦人手製の苺のジャムに気分をすっきりさせてくれる熱い珈琲。さらに食後にはテーブルの中央にカゴに入った瑞々しい苺が置かれた。これまたずいぶんと量があったことから、親戚の人は苺狩りにでも行ってきたに違いない、もしくは青果店のオーナーだ、などとへんてこな予想をする。
奈緒は口いっぱいに広がる苺の果汁を堪能しながら、何気なく伏し目がちになって敦彦の挙動を観察していた。するとここで不思議な現象が起こった。
(……あれ?)
敦彦が手に持っていた苺がテーブルの端っこへ流れて、音も立てずに消えたのである。落下したものだとテーブルの下を覗き込んでみたが、そこには苺の影も形もない。気のせいだったのだろうか。
それに敦彦の手前にある苺のヘタが多すぎる気がする。積まれた山が隣に座る間宵の倍くらいあるのではないだろうか。彼がちんげん菜と冬瓜を酷く嫌うのはよく知っているけれど、そんなにフルーツが好きだとは幼馴染みの観察眼では思えなかった。聞いたことなかったが、彼は苺を格別好むのかもしれない。
「それにしても、今日はいい天気ですねえ」と間宵が苺を頬張りながらいった。
「ええ、本当に。絶好のお出かけ日和って感じ。そうそう、あーちゃんとまよちゃん、海、行くんだよね」
「あ、そうだ! 奈緒さんも一緒に行きましょうよ! ね、いいよね、ね、お兄ちゃん」
「うん、僕はなんでもいいよ、別に」
相変わらず素っ気ない態度である。
「ね、奈緒さん、行きましょう」
「あー……、うん、行きたいのは山々なんだけどさぁ、ちょっと今日は厳しいかな。今日から夏期講習なんだ」
斉藤婦人が爛々《らんらん》と目を輝かせた。
「あらまあ! 偉いわね! ほら、あっちゃんも見習いなさいよ」
「よそはよそ。うちはうち」あっけらかんとした態度の敦彦がいった。
「明日から、まよちゃんもお友達と勉強会するのよ。ね、まよちゃん」
「はい、わたし、実はお兄ちゃんと違って優秀ですから」
「僕は僕。間宵は間宵」ぼそりと敦彦。
斉藤京子は両手の甲を天井に向け、これ見よがしに呆れたというジェスチャーを作った。しかしこの女性の場合、二人の生き方に強制はしない。信頼を置いた上での放任主義を信条としているらしい。斉藤京子とはそういった人物なのである。
それにしても……。
この半年で藤堂敦彦はずいぶんと変わった。温和になったというべきか、大人になったというべきか。第三者の視点から見たら、成長といえるのだろうか。
彼は昔から無感動な人間だといわれがちだった。なにに対しても冷めていて感情を表に出さない、そんな人。けれど幼馴染みの奈緒はよくわかっていた。感情が希薄なわけではなく、彼はなにかに怯えるように感情を押し殺していたのだということを。それが日に日に変化していった。驚くほど明るくなったわけではないが、楽しそうな顔をよくするようになった。
それともう一点。妹である間宵に対して嫉妬心を抱くこともなくなった。昨年までの彼は間宵がなにか吹っかける度に噛みついていたのに……。
まるで長年彼を苦しめ続けてきた憑きものが落ちた、そんな印象だ。
敦彦にとってはいいことなのだろうけれど、少しだけ寂しく感じるのはどうしてだろう。
きっと、自分の関与いないところで彼が変わっていくことが切ないのだと、奈緒は自己分析した。どうにもならない空模様に、「晴れろ」と念ずるのに近い、空疎な心証だった。
天に念じても雨はやまない。それと一緒だ。
「それじゃ、私はこの辺で失礼します」
妙に切ない気持ちになったので、奈緒はそろそろ退散することにした。夏期講習に間に合わなくなる。まだ八時半になったばかりだけれど、講義の始まる時間が意外にも早いため、あまり長居はできない。
「ごめんなさいね。忙しいのに呼び止めちゃって」立ち上がった奈緒に斉藤夫人が声をかけた。
「いえ、ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
「あ、そうだ。奈緒さん、なにか欲しいものあります? せっかくですしお土産買ってきますよ」間宵が楽しそうに笑う。
「うーん……じゃあ、スイカ!」
「海でスイカは採れないよ」機嫌の悪そうな敦彦はちょっと微笑んだ。「お前、やけに元気だなあ。ほんとに眠くない?」