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ありふれた夏の一日  作者: 甘味処
避ける・蹴る・駆ける
1/23

(1)

 女が男の友達になる順序は決まっている。まずはじめが親友。それから恋人。そして最後にやっとただの友達になる。(アントン・チェーホフ)

 夏休みを迎えて一週間が経った。夏休みはまだまだ続く。


 子供の頃は平日の街の景色というものがあまりに珍しすぎて、この連休が有限であることを忘れてしまったものだが、高校生になってからはそんなことはない。四十幾日かがどれほど短いものか、頭にすっかり刻みこまれてしまったようで、急かされるような日々を送らなくてはならない。そんな気分の中で時を忘れるほど遊びほうけることなど、もはやできやしないだろう。


 小早川奈緒こばやかわなおは上下揃いのスポーツウェアを着込み、厚底のジョギングシューズを履いた。不調和な口笛を吹きながら家の外へ。燦々《さんさん》と輝く朝日に向けて、腕を思いきり伸ばし目を細めた。清々しく静謐せいひつな気持ちのいい朝だ。


 しばらくの間、陽光の眩しさを堪能していた。準備運動として足首を回し、膝を何度か屈伸させる。念入りにアキレス腱を伸ばしてから彼女はゆっくりと走り出した。


 ここ一帯の住宅地は住む分には心地がいいけれど、ジョギングコースとしては売ってつけでない。住宅が密集しているので狭い道も多ければ、走りやすく整備された道でもない。入り組んだ道を一本でも間違えれば袋小路に行き着き、ジョギング中だというのにずいぶんとげんなりさせられる。


 色々と不都合があるものの奈緒はとても気に入っていた。出発した矢先には急勾配の坂道が待ち構えていて、そこの最上部からは立ち並ぶ日本家屋が一望できる。特に坂道を下る時が一番気持ち良い。滑空する飛行機のような気分になれて、いわば刺激的で急速に頭が冴えわたる。体と一緒に心までもが弾んでいるような気になれるのだ。ヘアピンをつけてこなかったので乱れた髪に視界を妨げられることもあるが、それを許容できるほどの爽快感がこの町にはある。


 奈緒が朝早くから走るのは、このサマーバケーションをフルに活かして贅肉を絞ろうかという、裏若き乙女の抱くような欲求からではなく、彼女は走ること自体が好きなのだ。学校がある平日でも彼女は早起きをし、六時から三十分、この道を走る。


 そしてジョギングをしているという事実はこれまで誰にも話してこなかった。特に幼馴染みである彼にはいえるはずがない。理由は奈緒も思い至らなかった。きっと大切な友人に心配をかけたくないからだろう。


(心配? なんのだろう?)


 ふと湧いた疑問を早々に打ち消し、彼女は気を取りなおすように空を見上げる。規則的なテンポで呼吸すると身体中に酸素がめぐり、生きていることを実感できた。内側で響く鼓動のテンポに合わせて足を交互に踏み出していく。


 どうしてこんなに気持ちいいことを他の人たちはやりたがらないのだろう。奈緒は不思議に思えてならない。


 きっと健康に効果的だと、やたらめったら喧伝けんでんするからいけないのだ。奈緒の場合、勉学も筋トレも読書も、己のためになるからやるのではなく楽しいからする。どちらかといえば受動的ではなく能動的だ。時間がもったいないと思ったことはない。所詮日常なんてものは無駄なことの積み重ねなのだと割り切って生きてさえいれば、毎日走ることだってそれほど難儀なことではない。むしろ些細な欲求や行動に一々意味を求めていたら、続けられるものも続けられないに決まっている。根拠はない。これは彼女の持説である。


 復路の途中、近所の子供たちと年配の方々が公園を陣取って、ラジオ体操をしている光景が目についた。奈緒が幼い時にはなかった最近建設された公園である。オーディオから流れる軽快でどこか間の抜けたメロディに気分を乗せて、たんたんたんと足音を刻む。


 公園を通りすぎ、行きに通った急勾配の坂に差しかかった。ここをあがりきれば自宅はすぐそこだ。ラストスパートをかけよう。気合を入れる。下り坂よりかは爽快感に欠けるけれども、肉体的には上り坂の方が膝に負担がかからなくて楽チンだ。


(わ、なんだろ、あれ)


 その途中、細長い封筒が風によって舞いあがっていた。無視しようかと迷ったけれど、持ち前の反射神経を活かして素早くキャッチすることにした。手にとって中身を確認する。それは映画のチケットだった。誰かの落しものだろうかと、辺りを見渡したけれど誰もいない。塀の上に猫の子一匹いるだけである。三毛柄の子猫は奈緒の視線に気がついたのか、にゃあと鳴いて塀から飛びおりてどこかへ消えた。


 チケットは二枚が束になっている。右端をよく見るとシネコンの指定席券であることがわかった。日付は本日となっている。誰かが思い人を映画に誘うつもりだったのかもしれない。デートに誘う際、日時を指定すれば断られる確率が下がると聞いたことがある。どこの誰だかわからない人物の健気な姿勢がうかがえる。そう考えて奈緒は少しほっこりとした。


 映画は好きで月に二回は観に行く。ジャンルは問わず、ミステリー、恋愛もの、SF、オールマイティに興味を持てる。うがった認識さえ放棄すればある程度の作品は楽しめるというものだ。けれど、この映画に限っては興味がまるで惹きつけられなかった。チケットに描かれたパッケージを見た限り、センスのいい映画とはいえない。


 それにしても……。どうしてチケットが空を泳いでいたのだろうか。早起きは三文の徳というやつで神様からの奈緒へのプレゼントなのかもしれない。しかし神様のご配慮には申し訳ないけれど、今日は夏期講習があるために観にはいけない。とりあえず後で交番に届けようかとポケットに突っ込んで、残りの坂道を駆け上がった。


「あ……」


 ある家の玄関口にて少年の姿を発見したので、奈緒は駆け足から早足に切りかえて呼吸を整えた。ゆっくりと彼に歩み寄る。それはくだんの幼馴染みだった。


「おはよー!」右手をあげて挨拶を交わした。


 彼はしばらくゆったりとした動作で周囲を見渡し、じきにこちらへ視軸を置いた。


「おはよ……」快活な奈緒と対照的な気の抜けきった声である。「なにしてんの? まさかジョギング?」


「うん、そうだよ。まさかのジョギング」


 先の事情があり、ジョギングしているという事実をなるべく隠したかった。けれど、他の理由が思い至らなかったので正直に打ち明けることにした。すると彼は顔をゆがめて、信じられないという表情を作った。


「へえ、こんな朝早くからご苦労なことだな。知ってる? 今は夏休みだよ? 休日だよ、休日。夏休みになった途端にどうしてみんな活発になるんだろうね」


「さあ、知らないよー、そんなこと。休みの日に遊びに出かける行為はわりと当たり前のことだと思うけど」

「当たり前、か。だとしてもだよ。今日は日曜日じゃないか。どうしたら夏休みの……日曜日に……わざわざ遊びに出かけるという発想が生まれるんだ。死に急いでいるとしか僕には思えない」

「え? なんの話してんの?」

「眠くないの? 体、平気?」


 男にしては長めの黒髪をかき上げると、大きなあくびをした。なんの脈略もなく質問が飛び出すのが、虫の居所が悪いことを告げる合図である。あまりに眠たそうな腫れぼったい目を手の甲で猫のようにこすっていた。


「へへ、まあねー。私は朝と相性がいいから。なんならあーちゃんも一緒にどう?」


 幼馴染みである藤堂敦彦とうどうあつひこは片手をあごに添えて、しばらくふわふわ視線を漂わせた。のちに小さく頷く。その首肯しゅこうは「あなたとご一緒しよう」という意思表示ではなく、やっと言葉の認識に至っただけなようすだった。彼はすぐに首を横に振る。


「いや、遠慮しとくよ。ご存知の通り朝弱いんだ。間違いなくお前についていけないよ」

「見るからにだよね。ずいぶんとまぶたが重そうだけど、寝不足?」

「……うん。まあ、そんなとこ」

「それにしてもあーちゃんこそやけに早いねえ。珍しい。雨でも降るんじゃないの? まだ八時前だよ? 夏休みそうそう張り切っちゃって……というわけでもないか、なんかしぶしぶって感じだもんね。これから、どこかお出かけ?」


「そうだね。さよ……」なにかいいかけて口をつぐみ、彼はすぐに言葉を継いだ。「……間宵まよいと海に行く約束しててさ」


 その返答には少なからず驚かされた。


「え? 海? 兄妹二人だけで海にいくの?」

「あ、ええ、まあ、その……。そうだよ。いろいろ込み入った事情があって」

「二人きりで海ねえ。なぁんか、怪しいなあ、怪しいなあ」

「へ? あ、怪しいってなにが? 変な勘ぐりを入れないでくれよ」

「ふふ、なぁに慌ててんのさ? 冗談に決まってるじゃん。それにしても、二人がすっかり仲良くなったようで私は安心したよ」

「やっぱ仲悪そうに見えてた?」

「そりゃ、もち。私の洞察力を侮っちゃダメだよ」

「ほんと、お前にはかなわないなあ」


 春先、彼の妹である藤堂間宵が留学から帰ってきた時は、兄妹二人の間にどうにもならないほどの険悪な雰囲気が立ち込めていたのだ。修復が不可能なのではないかと心配していたが、それは杞憂きゆうだったようで、一週間ほど時間をかけてゆるゆると温和さを取り戻していった。奈緒の目でみれば、むしろ以前よりも仲良くなったように見える。それに二人だけで海へ出かけるだなんて、まるで恋人同士のようではないか。


 思考を中断する。彼のいうとおり、変な勘ぐりはよそう。


 そろそろ家に戻ろうかと考えていた時、敦彦の背後から女性が現れた。


「あら? 奈緒ちゃんじゃない。おはよう」

「あ、京子きょうこさん。おはようございまーす」


 斉藤さいとう京子という名の人物だ。彼女は敦彦の保護者にあたる。

 藤堂敦彦と斉藤京子、二人の姓が異なるのは血の繋がりがないからだ。いわゆる親代わりというやつで、敦彦の両親はすでに他界している。


「明朝のジョギングか。偉いな~」斉藤夫人が感嘆した。

「いえ、偉くなんてないですよ。趣味のようなものなので」


「今度、この子も誘ってやってね。夏休みが始まってからというものの、全然運動しようとしないのよ」と敦彦の肩に触れながらいい、彼女は年甲斐もなくウインクをした。奈緒の記憶が確かなものならば、彼女の年齢は三十代後半だったはずだ。しかしこの女性の場合、年相応に見えてしまう。


「か、勘弁してくださいよ、京子さん。僕、朝弱いんですってば」


「なに若いくせに情けないこといってんのよ」斉藤夫人は奈緒の方へ目を向けた。「あ、そうだ。奈緒ちゃん、私たちこれから朝食なんだけど、良かったら一緒にどうかしら?」


「うーん……。お誘いは嬉しく、とっても魅力的なんですけど、うちのお母さんも作って待ってるだろうからなあ……、えーっと、どうしようかなー……」


 といっても、奈緒の心の半身は傾いている。


「親戚の人にねえ、美味しい苺を貰ったのよ。だからぜひ! ね!」

「わあい! ごちそうになります!」


 決定打をち込まれ、ほぼ無意識に奈緒は満面の笑みで承諾していた。


 母にはあとで電話しておくとしよう。



iPadでも無事に投稿できるか確認のための先行投稿です。

続きは本日中に投稿します。


・更新予定日


「避ける・蹴る・駆ける」7/3

「久しく・空しく・麗しく」7/10

「観る・視る・満ちる」7/17

「愛し・恋し・難し」7/24

「遥か・微か・密か」7/31


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