第四章・英雄Ⅱ その一
まるで頭を鈍器で勢い良く叩きつけられたような痛みを感じ、恭介は飛び跳ねるように目を覚ました。
やけに空気が冷たく感じる。たった今、手を付いている床もざらざらとした手触りをしており、自室の床とは大違いである。
「どうして床がこんなにざらつく………?」
再び、手触りの元を確かめるために恭介は自分の手の付いている床だと思っていた部分を目視する。
そこには冷え切ったアスファルトがあり、暗闇の中に自分の手を確認できるだけだった。
「俺はなんでこんなところで………痛ッ―――」
瞬間的に全身に痛みが走る。特に背中から強い痛みを感じたということは、おそらく固いアスファルトの上で寝ていたせいで筋肉痛になったのであろう。
恭介は身体に感じる痛みの原因の解析を終えると、どうして自分がこんなところで眠っていたのかと言うことを思い出そうとする。
「希実香と遼の見舞いに行って、久しぶりに奏龍と会ったような……それから―――ん?」
自分の記憶を思い返している間に、どうやら手を強く握り締めていたのか、手の中に何かがあることに気が付く。
恭介は手に握り締めていたものを見るために握り締めていた手を開く。そこには小さな袋に入った錠剤タイプの薬がいくつか入っていた。
「『AS』? コレは……」
今までに一度も服用のした事のない薬品名に恭介はどうしてこんなものを持っているのだろうかと考えはしたが、それよりも現在自分が何処にいるのかと言うことを確認するために手に握っていた『AS』をポケットに入れる。
「ここは喫茶こきりの近くの路地裏か?」
周りをきょろきょろと確認すると、余り見覚えはないが記憶には残っている程度に此処はどこと言うことがなんとなくだが分った。
時間を確認するために胸ポケットに入っている携帯電話を取り出し、携帯の画面を見る。
「新着メールが八件………いや、まて――――俺は何ヶ月眠ってたんだ?」
最後に記憶に残っているの日付が三月十六日。そして、今日の日付が六月十二日。何より気に掛かることは、それだけの間の記憶が無いのにも拘らず、メールの件数が八件しかないということだ。
約三ヶ月もの間の記憶に齟齬が生じている。だが、三ヶ月もの間眠り続けていたのだとしたら、身体機能がこうしてまともに機能しているはずが無い。
つまり約三ヶ月もの間、意識もないままに活動をしていたとでも言うのだろうか?
「いや…そんなはずはないだろ」
恭介は頭を横に振り、ありえない推測を頭から追い払う。
「取りあえず……」
そう呟き、尻ポケットに感じる財布らしきものを手に取る。手に取ったそれは予想通りに財布であり、恭介は財布の中身を確認する。
残金は二千六百五十五円。
「こきりの近くのようだし霞のコーヒーでも飲んでゆっくりと考えるかな……」
おそらく筋肉痛であろう痛みを全身に感じながらも背伸びをするように身体を大きく反らした後、恭介は既に明るくなった路地裏を歩いて喫茶こきりに向かう。
その間にも様々考えては見たものの、コレと言った記憶が無いために結局何も分らずじまいである。
数分も立たないうちに恭介は喫茶きこりに到着し、営業中の札を確認してから喫茶こきりの中に入っていった。
すると店内に人が入ってきたことを伝えるためのベルの音が鳴り響き、カウンターの向こうで何かの作業をしていた霞が来店者に向かっての言葉を口にした。
「いらっしゃま……恭介?」
だが、その人物が来たことがあまりにも意外だという風に、途中で確認を取る始末である。
「久しぶりだな霞。なんだ、俺が来ることはそんなに珍しいのか?」
「いや、別にそう言う訳じゃないんだけどな……いつもと雰囲気が違ってだな、こう、なんていうか」
そう言って、霞は次に繋げる言葉が出てこないのかあわあわとし始める。恭介はそれを別段気にするわけでもなく、カウンター席に座り微笑む。
そして、霞を落ち着かせるように優しい口調で言うのだ。
「でも、なんていうか……此処にくるのも随分久しぶりな気がするよ」
その優しい口調でようやく落ち着くことができたのか、霞の表情が少しだが和らぐ。
「ああ、私も反転して無い恭介がここに来てくれたのは本当に久しぶりに思うよ。注文は何か決まっているかい?」
「そうだな……霞のオリジナルブレンドで頼むよ」
「ホットとアイスどっちにする?」
「そこも霞に任せるよ」
そう答えると霞は少し悩んでしまったのか、数瞬だが間を空けてから答えた。
「分ったよ、少し待っててくれ」
それだけを言い残して、霞はカウンターの奥のほうに消えていった。そこであらためて恭介は今の状況を把握するために、今までの情報を纏め始める。
(俺には約三ヶ月間の記憶が全く無い。なのに身体はほぼ健康そのもの……)
カウンターの奥のほうから来るコーヒーの匂いが恭介の鼻をくすぐる。
(そして、霞の反転と言う言葉……反転ってのはどう意味なんだ?)
カウンターテーブルの上で手を組み、恭介は己の空白の三ヶ月間のことを必死に思い出そうとする。
(反転…二重人格における裏表の反転のことか?)
だが、判断材料になるものが少なすぎるために結論に一歩とどかない。
「お手上げだな……」
「何がお手上げなんだ?」
ことりと言うコーヒーカップが置かれる音と共に、霞の声が恭介の耳に入ってきた。
「いや、何……そうだったな、霞に隠し事はできないんだったっけな」
恭介は言うか言わないかを迷った結果、霞の能力について思い出し、諦めたかのように呟く。
「畏神心眼流免許皆伝、『隠された真実』霧咲霞にさ。けどまあ、本当に厨二病の極みだよな……その二つ名って」
「恥ずかしい限りだよ……できるなら思い出したくすらなかった」
少し顔を赤らめて顔をそらす霞の表情は、恭介には涼香と重なって見えた。
「で、俺の考えていることは分ってるんだろ?」
恭介は涼香の面影が重なって見えてしまった霞の顔を直視しないようにして、苦し紛れに尋ねる。
だが、霞は一瞬口ごもってから静かに言った。
「……見えないんだ、恭介。君の考えは」
その言葉、その表情、恭介の中で一致するはずの無い二人の人物像が完全に一致してしまう。
その瞬間に強烈な吐き気と頭痛、全身に電撃が走ったかのような痛みが身体を蝕み始めた。
「悪…い、金はいつか払いに来る―――」
「分った。久しぶりだったけど楽しかったよ恭介」
「感謝するよ……」
何故だか分からないが、この痛みと共に意識を手放してしまったら二度と自分が目を覚ますことはないような気がした。
だから、今此処で意識を手放すわけには行かなかった。この短い時間の間にも知ることができたことは少なくなかったから。
(霞と涼香……君たちはあの日に入れ替わっていたのか?)
殺されてしまったのは死なないはずの人間で、生き残ったのは殺されるはずだった人間。ならばどうして霞は自分が涼香だと公言しないのか?
(それは、あの日に入れ替わりをした自分自身を許すことができなかったから……)
その結果、恭介と言う人間に秘められていたもう一つの人格が、元々存在していた人格を侵食し始めた。
(そして、その結果に俺と言う人格が歪んでしまった……だから霞には俺の考えを、心を読めない)
喫茶こきりを飛び出し、目を覚ました路地裏に走る途中、目を覚ましたときには気が付くことのできなかった『朱・赤・紅』そのどれもが当てはまるそれに気が付いた。
(今此処にいる俺と言う人格は歪んだ人格に支配されかかっている)
目を覚ました場所に近づくにつれて、その臭いはより一層強いものに変わって行く。
(そして、その人格は―――完全に間違えてしまった)
そして、たどり着いた場所には熟れたトマトがグチャグチャに潰されたような大きな物体が幾つかぶちまけられていた。
それを見た瞬間に強烈なノイズが耳を劈き、自然とポケットに手が伸びていた。
『その結果、お前と言う不必要な人格を消す必要があったんだ』
(そのためのASか―――)
『そうさ、お前は此処で消える。お前がいたら邪魔なんだよ。余計な良心なんか残っていたら還せなくなるだろ』
手に取った錠剤タイプの薬を口に入れた瞬間、今まで表に出てきていた恭介と言う人格は思考を保てなくなった。
(還すって……コロスって…ことか)
「ああ、還すんだよ。あの時のようにみんなで笑い会えるようにさ」
(……めろ…涼…は……きている)
「涼香……俺は還す。もう後には下がれないんだ」
(――――)
「だって、こんなにも綺麗なんだ」
先ほどまで認知をすることを拒んでいた脳が、グチャグチャになっている物体を人間だったと認識を始める。
その瞬間に、気持ちはとても心地よいものに変化した。
「さあ、始めよう―――俺が機械仕掛けの神だ」
その言葉は自然と溢れ出たように聞こえた。