第二章・英雄 その四
六月十三日
絃城姉妹の家を訪ねるという話をしてから約五日が過ぎた。つまり、喫茶こきりに集まる日である日曜日になったわけだ。しかし別段とすることもなく、約束の時間になる一時間前に喫茶こきりに一人で訪れていた。
一見してみれば、喫茶こきりは寂れているようにも見える。しかし、あくまでそれは一見して見ればに過ぎないのだ。実際に店内にいると分かるのだが、実は一時間に一度は人が出入りしている。その他にも僕と同じように店内でコーヒーを飲んでいる人や、読書をしている人が数人……つまり、何が言いたいのかと言うと。
―――此処は知る人ぞ知る名店なのだ。
まず、良い点を上げるのならばコーヒーが美味しい。聞く話によると、ウォータードリップと言う生成方法で、専用の機材を用いる、水でコーヒーを抽出する方法で常連のお客さんにはコーヒーを作ってくれているらしい。一度だけだが、そのコーヒーの作り方を某サイトで検索してみたら、一杯を作るのに八時間も掛かるとか何とか……一体、どうやって作りおきをしているのかがとても気になるところだ。
次に、喫茶こきりのマスターであるお姉さん―――霧咲霞さんは、昔から変わらずにとても気さくなお方であるということだ。
「あー、今神くん。べた褒めされるのは嬉しいのだがな……少し気恥ずかしいものもあるんだ」
そして、人の心をある程度読めるらしい。小学六年の頃に、先代のマスターが自慢げに話していたので良く覚えているが、喫茶こきりの現マスターである霞さんはどこぞの古武術の道場で免許皆伝を渡されたらしい。その古武術の道場が特殊な武術の流派であり―――名を畏神心眼流と言う――――人の考えを読むことに優れた武術家であるとかなんとか。
「ちなみに、先代のマスターは私よりも人と接することに優れていたが……私はまだまだだよ。人の心を読む事は出来ても、癒す方法を知らないからね」
この通り、ほぼ考えていることが筒抜けなのである。
「そのわりに恋のキューピットなんてやってましたっけ」
「今神くん……そんな昔のことを掘り起こすのはやめてくれ。アレは若気の至りと言うものだからね」
目を手で隠すような仕草をしながら、霞さんはそう言う。だが、一つだけ思うことがあったのでつい喋ってしまった。
「若気の至りって……霞さんって僕と四つしか離れていませんよね? それ以前に、まだ高校生って言われてもおかしくないような容姿ですし」
しかし、この話題は地雷だったようだ。
「今神くん……確かに実年齢より若く見えるといわれれば悪い気はしないのだがね、私としてはもっと大人としてみてもらいたいんだ。この容姿のおかげで、私は今も昔も変わらずに友人同士の間では着せ替え人形にさせられるからな………」
「た…大変そうですね……」
「ああ……だから頼む。私に対してこの話題は振らないでくれ、お願いだ」
霞さんは僕に念を押すように言うと、カウンターの奥にある冷蔵庫からショートケーキを取り出し僕の前に静かに置いた。
「あの……なんですか…これ?」
「私の奢りだ。それと、約束の時間はそろそろじゃないのかい? 注文をしてくれれば、今から人数分のコーヒーを出しておくが……どうするかな?」
そう言って、霞さんはこきりの店内にある古時計を指差す。時間は九時五十分。約束の時間の十分前である。
「そうだな、今日は人数分のコーヒー代を半額にしよう。どうだい、注文するかな?」
「いや、半額とかにしてもらう必要はないですから」
「そうかい?」
「ええ、初めから頼むつもりでしたし。それに、霞さんは昔から僕たちに良くしてくれましたから」
あの頃の六人の中でも僕以外は忘れているかも知れないが、霞さんは涼香姉さんと仲が良かった。それに、容姿から話し方、何より雰囲気が涼香姉さんと似ていた。だから、二人が入れ替わった時には誰も気がつけなかった。
だから、僕は未だに涼香姉さんと霞さんの姿が重なって見えてしまう。しかし、霞さんはそれを知っていても今までどおりに接してくれる。
この人には、返しきれないほどの恩があるのだ。
「むむ、それを理由にするのは卑怯だぞ今神くん。しかしまあ、いいかな……どうやらお友達も来た様だし、そろそろ私は店の作業に戻るとするよ」
霞さんが言うと同時に、喫茶こきりのドアに付けられたチャイムがリズム良く鳴った。その後、時間差で、入店者の顔が開けられたドアから見ることができた。
「お、ここであってたんだな」
ドアの向こうにいた相手も、僕の顔を見ることができたのか、安心したように呟いてから、真っ直ぐに僕の座っているカウンター席の隣に座った。
「おはよう、悠里。遅刻してくるかなぁ……って思ってたけど、そんなこと無かったね」
「お前さ、俺のことなんだと思ってるんだよ……」
僕の言葉に悠里はショックを受けたのか、少しグダめくように呟き返す。
「そもそも、お前が来るのが早すぎるんだよ……」
「別に遅れるよりだったらさ、早く来て待ってたほうが良くないかい? その方が相手に嫌な思いさせなくて済むしね」
「確かにそうかもな……つか、俺が遅刻する心配よりもよ、羽森のほうが遅刻しそうだぜ?」
そう言って悠里はお品書きを手にとる。
「まあ、別に良いんじゃないかな。だって、此処って見つけにくいしね」
「だったら俺も遅れてきても良かったんじゃないのかよ?」
そんなことを言いながら、お品書きに書かれたメニューを眺めている。特に『今日のオス
スメメニュー』と言う欄に書かれている『七色コーヒー』と言うところを熱心に眺めているようだ。
「それはダメ。だってさ、提案者兼発案者が遅刻ってどうだと思う?」
「提案者も発案者も同じようなもんだと思うけどな……まあ、質問に答えるなら無責任に感じる」
「そういうこと。今回の計画の発案者は悠里なんだからね」
そう言うと、悠里は納得したようにうんうんと唸りながら、まったく別な質問をしてきた。
「それよりさ、この『七色コーヒー』って気になるんだけどよ、頼んでもいいか?」
「うん、全く会話の脈絡が無いね……まあ、頼みたいなら頼めばいいんじゃないかな」
そもそも、そんな身体に悪そうなネーミングのコーヒーなんて飲みたくないと思う。霞さんは一体、何を考えてそんなネーミングをしたのだろうか?
「あ、すみません。この『七色コーヒー』って言うのお願いします」
「『七色コーヒー』……ですね、少々お待ちください」
そんなことを思っている僕をよそに、悠里は霞さんを呼び止めて注文をしている。しかし、そのメニューを注文されたことに驚いているのか、多少戸惑ったように注文の復唱をするとカウンターの奥にあるキッチンに戻っていった。
そもそも、そんなに驚くなら初めからメニューに入れなければいいと思う。まあ、そこは霞さんの遊び心なのだろうから仕方が無いのだろうけど。
確かに、あんなネーミングのメニューは誰も注文しないと思うだろうけど
「奏龍……どうしてそんなに難しそうな顔をしてるんだよ?」
そんな僕の表情を見てか、悠里は不思議そうに尋ねてきた。
「えっ…ああ、なんでもないよ!」
「そうか? まあ、別にいいんだけどよ」
「そう、なんでもないからさ」
「……?」
僕は悠里の、なんだよ、と言った視線から目を逸らし、手元に残っているコーヒーを口に運ぶのだった。
それからは、彼女が来るまでに他愛の無い会話を時々会話に混ざってくる霞さんを交えてしていた。
ちなみに、悠里の頼んだ『七色コーヒー』だが……横から見れば普通のコーヒーと変わらない黒色をしているが、真上から見ると七色に見えるという奇怪な仕組みをしていた。霞さん曰く『企業秘密だ☆』などと言ってはいたが、どう考えても人体に対して良い色ではなかった。
もっとも、それを注文した悠里は、それを飲んで別世界に旅立ってしまったようである。
「ふむ、やっぱりお客に出すものではないな……コレは」
そう言って、霞さんは悠里の前に置かれたコーヒーカップを回収して、キッチンの流し場に流してしまった。
「やっぱりって……分かっててメニューにした挙句、悠里に出したんですか?」
「いや、先代マスターはこれの美味しい抽出の仕方を知っていたようでね……見よう見まねで出したら失敗したというわけさ。しかし、先代マスターが言っていたことはこの事だったのか……いやはや、末恐ろしい飲み物だよ。コーヒーとはね……」
「霞さん……せめて美味しく作れるようになってからメニューに入れませんか?」
「………善処しよう」
苦笑いをしながらそう言う霞さんの姿はいつに無く真剣だった。
約束の時間から一時間が過ぎようとした時、喫茶こきりにチャイムの音が響く。
「お、遅くなってしまいました!」
その声と一緒に現れたのは彼女だった。
「今神くん……君のお友達と言うのはそこの少年と結衣くんのことだったのか?」
そして、意外な人物であったのか霞さんが僕に尋ねてくる。そもそも、今の言いようだと彼女と霞さんは何かの接点があるのだろうか?
「結衣ちゃんって……霞さん、知り合いか何か―――」
「あ、霞ちゃん♪ 久しぶりです、此処でまだバイトしていたんですね」
僕の発言は最後まで言い切る前に、彼女の声によって掻き消されてしまった。
「ゆ、結衣くん…その、霞ちゃんと言うのはやめてくれないか……なんか、こう…恥ずかしいから」
しかし、霞さんがこうしている姿を見ると、プライベートでの関わりがある事は間違いないのだろう。
「こんにちは結衣ちゃん。取り合えず座ったらどうかな?」
「あ、こんにちは今神さん。そうさせてもらいますね。それと……どうして悠里さんは白目を剥いてテーブルに突っ伏しているんですか?」
不思議そうにそういいながら、彼女は椅子に腰を下ろした。
「あ、うん。 ……ちょっとね」
「……ちょっと、ですか?」
「はっ!!!」
そんな会話の途中に、まるで自己主張をするかのように飛び起きた悠里だったが、すぐに首を左右に動かして状況を確認し始めた。
「俺は何処で此処は誰だ!?」
そして、使い古されたネタを言い放つと、自分の言ったことが想像以上に場の雰囲気を白けさせた事に気が付いたのか黙ってしまった。
そして一言。
「なんか…こう、ごめん」
そんな悠里の姿を見ていた,僕を含める三人は一斉に苦笑いをする。
そして思う。
―――そうだ、これも僕の日常なんだ。
長い間忘れていた、友人と笑いあうということ。それは、僕が過去を引きずり続けていた
という証拠だ。けど、遼のことを…昔の楽しかった日々を忘れることはしたくない。
それは、僕たちが過ごしてきた確かな思い出だから。
『俺達の時間も……こいつと一緒に止まっちまったんだな―――』
恭介さんはそう言った。けど、止まってしまったなら進めればいいだけのこと。多少の誤差があったとしても、その時計が壊れていない限り、時計の針は必ず時間を刻んでくれる。
時計の針が戻らないように、進まないということはありえないのだから。
もし、時計の針が進まないのなら、それは誰かが意思を持って時計の針を止めているということ。
僕はそう思う。希実香や恭介さんがどう思っているかはわからないけど、きっと僕と同じようにこの答えにたどり着いてくれるはずだ。僕はそう祈っている。
けど、時計の針は狂ったままに時間を刻むということもある。僕は、無意識のうちにその考えをこの時点では否定していたんだ。