その31 しょうたい
再び踏み入る秋色の山。しかし鮮やかだった木の葉は全て落ち、地面には湿った枯れ葉の絨毯、顔をあげればみすぼらしく痩せ細った枝々。
「ここにも、命がないみたい。オイラたちだけ、ずるいかな?」
「どうだろうね」
一歩一歩、踏みしめて行く。再び、海が見えた。黒く冷たい、石の大地のようにも見える。
やがて見覚えのある場所まで来た。太陽は高く昇っているだろう。空を見上げたポセットを、曇り空がむなしく見下ろす。
「そろそろだな」
しばらくして、山小屋が見えてきた。息を整え、扉に駆け寄り、何度も扉を叩く。
「おばあさん、僕です! ポセットです!」
ゴトゴトと音がして、扉が開く。優しい顔のおばあさんが顔を出した。
「あらまぁ、どうしたんだい?」
「あの、これ……」
ドレスを出す。おばあさんはしわ一つ動かすことなくドレスを見た。
「お孫さんは、見つかりませんでした。これ、お返しします」
おばあさんはドレスを受け取って、にっこり笑うと、家に招き入れてくれた。
温かいココアの匂いに、ナットが飛び跳ねる。バタバタとやかましいナットを掴んで、鞄に納めた。鞄が生きているようにモゴモゴ動く。
「あらあら、ケンカはダメよ。ココアはたくさんあるの。飲んでいくといいわ。今日は雨になりそうよ」
おばあさんはお盆にカップを二つ乗せてやってきた。
「前もこうやって、ココアを頂きましたね」
「ええ。美味しかったでしょう? 猫ちゃんは大好物だったわよね? まだあるから、たくさん飲むといいわ」
「いえ、今回はご遠慮します」
スクッと立ち上がり、おばあさんと向かい合う。
「どうしたの?」
「あなたは、杖をついて移動しておられますね」
「ええ。歳をとると足腰が弱くなってねぇ」
「でも、ココアのカップはお盆に乗せてもってきましたよね。杖を使わず。そういえば、この前もそうだった」
「ちょっとくらいなら使わなくてもたいしたことは無いのよ。それより、ほら、お座りなさいな。疲れたでしょう? 昨日は大変だったわねぇ。見えたわよ、炎が上がってるの。酷い火事になったのね。あなたもあそこに居たんでしょう? 心配だったの」
ポセットはそっと座った。おばあさんはニコニコと話しかける。
「怪我もないみたいで、よかったわ」
「これを」
ポセットは書類を机に並べた。
「緑化病と言うものはご存知ですか。ふもとの町で五十年ほど前に流行ったそうですが」
「ああ、それなら聞いたことがあるわね。なんでも、体が植物に乗っ取られてしまうんでしょう? 怖いわねぇ。でも、ここに居れば安全よ。そんな病気怖くないわ」
「あなたは確か、娘さんと一緒にこの山小屋に移ってきたんでしたよね?」
「そうよ。それがどうか――」
おばあさんに手を差し出す。手には緑のネックレスが握られていた。おばあさんの顔が、一瞬険しくなった。
「あなたの、娘さんのものですよ。――ローザ=リメルヒさん」
曇天の空から、冷たい雨が降り出した。
嫌いな雨も寒さも忘れ、ナットはひたすら走っていく。枯れ落ちた葉の上に、いくつも小さな水溜りが出来ている。
「どこまで行ったんだろう……?」
ポセットの強さは常人とは比べようのないほどのものである。ナットもよく知っていることだ。しかし、それは僅かな時間だけ。ポセットに備えられた機能である〝アクセル〟は凄まじい力を生み出すが、力を出せば出すほど、使っていられる時間は限られてしまう。最大まで発動したなら、十数秒までもつだろうか。何より、ポセット自身の体がもたないだろう。ポセットが強力な相手を倒すときは、一撃で仕留めなくてはいけない。
本人はもちろん、ナットすら百も承知のその制約。しかし、先ほどのポセットは油断していた。相手の姿形に惑わされ、アクセルの出力を抑えたままで、しかも先手ではなく、迎え撃つ形で戦闘に入ってしまった。最悪。
「死んでなきゃいいけど、ポセット……」
走るナット。木々をかわし、ポセットの匂いを追う。まもなくして、ドゴン、ズドン、と何度かすごい音がした。遠くは無い。
「ポセット!」
音の方へ向かう。木々がなぎ倒され、地面にはえぐったような跡がいくつも付いている。
一方、ポセットも山の中を駆けまわっていた。手にはトンファー。仕込まれたスタンガンが喉を鳴らす。しかし、ポセット自身にそれほどの闘志と元気は無い。
「くそ……」
激しい運動をしたように、苦しく息が切れる。思わぬ展開に、アクセルを全開近く発動させることでしか、あの場をやり過ごすことが出来なかった。ポセットの決定的な弱点である、アクセルの反動が全身を襲う。再び使えるようになるまでは、少し休まなくていけない。
ふと、背後に気配を感じる。見る前に、体でかわした。大木がへし折れ、倒れこんできたのだった。ポセットが抱えてもまだ足りないほど太く、逞しい巨木。
ポセットはゆっくりと立ち上がり、へし折った犯人と向き合った。距離は十二メートルといったところだろうか。互いに姿が見え、互いに臨戦態勢。
「鬼ごっこは終わりかい。さぁ、大人しくお眠り」
目の前のそれは、すでに人の形をしていなかった。体中を緑青色の太いツタが覆っていて、異様に盛り上がったその体に、元通り変わりない頭部がやけに小さく見える。
「まさか、自身にまで薬の投与を行っていたとは、驚きましたよ。ローザさん」
ローザは木々を蹴散らし、悠然と向かってくる。いとも簡単に根元からへし折れる巨木の群れが、その出鱈目な力を見せつける。
つづく。