その17 町へ
朝方、気がつくとリビングは温かい香りでいっぱいになっていた。ぼさぼさになった灰色の髪の毛。肌寒さから、ソファに掛けた上着を羽織った。テーブルには毛むくじゃらの黒い塊がぶよぶよと息をしている。そして、スズが入れたのだろうか、湯気を立てるコーヒーが置かれていた。
「いい匂い」
ポセットは一口それを飲んだ。苦い。
寝室の扉が開き、スズが出てきた。神妙な面持ちで、静かに、扉を閉める。
「おはよう、スズ」
「あら、早いのね。――ようやく、日が出てきたわ」
どうやら、眠れなかったようだ。スズの目は赤く腫れているようだった。
「とてもいい天気よ。――今日は、長い日になりそうね」
スズはそう言って、椅子に腰かけた。軋む椅子の音が、どこか悲しく聞こえた。
「テルルは、まだ起きないわ。薬を嗅がせたからね」
「――なんでも持ってるんだね」
「なんでも持っているのは、〝あいつ〟の方よ。前に頼んで持ってこさせたのよ。ろくなことに使いやしないわ」
〝あいつ〟という言葉に、ポセットが反応した。
「その……、〝あいつ〟っていうのは誰なんだい? テルルくんも何度か言っていたけど……」
スズは何か言いかけたがやめて、ポセットの手元からコーヒーをひったくった。
「教えてあげるわよ、後でね」
ズズッとコーヒーを飲む。
「今は、朝の一時を楽しみましょ。何か、お話ししてくれる? そうね、楽しい話が良いわ。あなたの苦労話でいいから」
「苦労話って……。じゃあ……」
旅の話をした。毒キノコを食べてしまった時の話だ。
ナットが空腹のあまり奇妙なキノコを食べて、それが毒キノコだと分かった時にはすでに、ナットはピヨピヨとひよこの真似をし始めた。
「ナットは自分が鳥の子だと思い込んでいて、しきりに空を飛ぼうとするんだよ」
それを、ポセットも食べてしまったのだった。しかし幸運ながら、その毒を消す薬となる花があることを知っていた。その後、自分がミミズの子だったような不思議な気分と、土を頬張って地面に埋まりたい衝動と闘いながら、その花を探しまわったのだった。
「あっはは、それで? 花は見つかったの?」
「見ての通り、完全にミミズになるまえに花を摘めたよ。気がしっかりしてきたら、口の中が土だらけになってて大変だった」
本当に苦労話だったが、彼女は笑ってくれた。風に揺れる植物の迷路の声が、優しい歌を歌っているように聞こえる。
温かい時間が過ぎ、外は朝の清らかな冷気でしんと静まっていた。ポセットは寝ぼけるナットを肩に乗せ、スズはテルルの額にキスをして、二人と一匹で町へと出かけた。
町への道は、相変わらず複雑に入り組む迷路を通る。この迷路を作り出す植物たちは一体なんなのだろうか。秋風にうねるその姿は、入ったものを逃がさない、生きる迷宮のようだった。
迷路を抜け、町へと出る。スズはさっきから一言も話さない。
「オイラ、なんだか怖いよ」
「大丈夫。スズを信じて、着いて行こう」
スズは真っ直ぐに広場へと歩いて行った。到着するとピタリと立ち止まり、颯爽と振り返った。
「あなた、私が今何歳か分かる?」
「え?」
見た目はポセットとあまり変わらなく見えるが……。しかし、絵に描かれていた五十年の月日を、ポセットは知っていた。
「その顔、どうやら、絵は見たようね。そして、大体感づいたってところかしら? そう。私は、本来この姿でいられるはずのない年月を生きてきたわ」
自らの胸に手をあて、苦しそうに服を握りしめた。
「心臓が止まってから、どのくらいたつのかしらね。体は腐りもせず、衰えもせず。――きっと、心臓と一緒に、私たちの時間も止まってしまったんだわ。痛みもなく、ゆっくりとゆっくりと、私の身体は、私のものではなくなっていく。時間を感じさせてくれるのは、思い出が詰まっていたはずの故郷が、朽ちていく姿だけよ」
スズはくるりと回転し、町を一瞥した。その瞳には、もはや涙すら浮かばない。
「この像、知ってる?」
そう言って、スズは人の形をした銅像を指さした。それはここへ初めて来た日、ポセットたちが見つけた銅像だった。そう、かつての町長、レパードさんを讃える像。
「知ってるよ。確か、レパード=リメルヒさんの像だよね」
「そう、レパード=リメルヒ。彼が、私の……そしてテルルの、父親よ」
「レ、レパードさんが……?」
「そう、私の本名は〝スズ=リメルヒ〟。お父様は、偉大な政治家だったわ。家族を愛して、町を愛して、そして……、死んだわ」
スズはすたすたと歩き始めた。昇りきらない太陽が崩れた建物から僅かに光を漏らし、夜露に濡れた像を照らした。
「…………」
ポセットには、レパードさんが泣いているように見えた。
つづく。