その15 テルル
冷たい風が空を曇らせる。まるで自分の心を見ているような気分になって、ポセットは視線を下ろし、テルルの背中だけを見つめた。
「こっちこっち、早く早く!」
テルルは生き生きと走って行く。元気。そう、元気という言葉がふさわしい。
「昨日も思ったけど、テルルくんは本当に病気なのかな」
「でも、体温がないんでしょ? 病気なんじゃないの」
「そうだ、動けば熱をもつだろう。うんと走って、確かめてみよう」
ポセットはテルルを追い越し、走って行く。テルルも負けじとスピードを上げる。
しばらくして、植物の迷路を抜けた。崩れた町を駆けて行くと、先日テルルと初めて会った広場に出た。テルルが膝に手をついてぜぇぜぇと荒い息をする。
「ポセットくん……、はやいよぉ……」
「テルルくんも速いじゃないか。ちょっと意外だったよ」
そしてさりげなく、テルルに手を差し出した。テルルはポセットの手を握り、グイッと体を起こす。
「む……」
やはり、冷たい。
硬い表情のポセットに気がついたテルルが慌てて手を放し、苦笑いをした。
「僕、ひどい冷え症でさ……」
「姉弟そろって、首まで冷たいのかい?」
「え……」
テルルの表情が、とても寂しそうに見えた。ナットはその顔を、どこかで見たことがあるような気がした。
「なんで……?」
「スズには、心音もなかった。それも姉弟そろってなの?」
ポセットは強引に話を進める。スズはきっと何も言わないだろう。話を聞きだせるのはテルルだけであり、今はその絶好の機会なのだった。
「実は昨日、建物の中で絵も見たんだ。――君たちは一体……」
「知りたい?」
テルルは精一杯の笑顔をつくったようだった。ゆっくりと歩き始めて、同時に口を開いた。
「きっと、驚くと思うよ。そして、怖がると思う」
テルルは振り向くことなく、荒廃の町を進んでいく。ポセットが呼んでも見向きさえしない。
ポセットはやむなく、テルルを追って歩き出した。
「ポセットくんが言ってる低体温と無心音。それも僕たちの身体の異常のひとつだよ」
「じゃあ、やっぱり……」
「うん、僕たちには〝心臓〟という器官が存在していないんだ。血も通っていない。だから体温も低いし、肌の色も白い」
なるほど、筋が通った話だ。納得。……などと簡単に頷ける話ではない。
「心臓がない人なんているもんか。心臓がなかったら、死んでいるのと同じだ」
「そうだね。僕は死んでいるのかもしれない」
その妙に落ち着いた態度は、不気味ささえ感じさせた。
「どの道、僕はもう駄目だ。体がもたない。お姉ちゃんは必死に隠してくれているけど、わかるんだよ。自分の身体の事だからね。毎夜飲んでる睡眠薬だって、夜中に体の痛みで起きないように、痛みを知らせないためにするものなんだ」
足が速くなる。気がつけばもう、相変わらず今にも崩れそうな、あの町の門まできていた。
「その薬だって、お姉ちゃんがわざわざ〝あいつ〟に頼んでもらってきているんだ。あんなやつに、お願いしますって……。頭を下げるんだ……」
テルルは唇をかんだ。拳を握り、怒りを抑える。
「〝あいつ〟……」
初めの日にも言っていたその人物。尋ねる暇も無く、テルルは何かに追われるように、一心に歩いて行く。
やがて、門の真下に入ると、テルルは足を止めた。
「ここから先に、僕は出たことがない。出てはいけない……」
「どうしてだい? 君は、とても元気に見えるのに」
「息が出来ない」
「息?」
テルルは深呼吸をして見せた。大きく吸って、美味しそうに深く深く吐いた。
「息が出来るのは、まだ肺が生きているからなんだ。これ以上先へ行くと、僕の肺はあっという間につぶされて、痛みは感じないかもしれないけど、呼吸はもう二度と出来なくなる。僕は多分、死んじゃうと思う」
テルルは振り返る。あの寂しそうな顔で。
「僕の身体には悪魔が住んでるんだ。悪魔が居ないと僕は生きられない。でも、悪魔なんていなかったほうがきっと、みんな幸せだったんだ」
ナットは、その寂しそうな顔をどこで見たのか思い出した。
「ポセットが、自分の話をするときの顔と、一緒だ……」
門の向こうでは、金色のススキが風に波打っていた。
「でも……。僕はそれでも、見てみたいんだ」
ふわりと風が吹いた。錆の匂いに交じって、潮の香りがした。ポセットもナットも、初めて町に来たときに見た、広い海を思い出した。
「ポセットくん、僕を連れて行ってくれない? 道わからないんだ。あと、終わったあと僕を町まで持ってきて欲しいしね」
「どこに……行くんだい?」
そう尋ねたが、ポセットはすでに答えを知っていた。テルルは振り返って笑った。
「泳ぐの、結構得意なんだよ、僕」
気持ちの重さが、そのままポセットに降りかかった。何もわからない。どうすればいいのか、見当もつかない。正解が欲しい。どうしたらいい?
葛藤は尽きない。正解はだれにもわからない。しかし、ポセットは僅かな、本当に僅かな希望に賭けた。
でもそれは、もしかしたらとても自分勝手な行動で、正しい行いではないのかもしれない。
奥歯を噛みしめ、不思議なままの悔しさを噛み砕いた。きっと期待に溢れているだろう彼の顔を見ることなく、ポセットは右手だけを静かに、的確に、有無を言わさず突き出した。
「――行こう」
乾いた破裂音。焼けた金属の臭いが不快に漂った。
つづく。