第212話:閉ざされた巨大水門と、流路の閉塞
歴史の闇に埋もれていた旧王都『レムリア・フォール』の防衛システムを完璧に正常化し、大陸の交通を阻んでいた魔力濃霧の不備を解消してから、四輪駆動車はさらに西へと進路をとっていた。
白銀の装甲をまとった高級キャンピングトレーラーを滑らかに牽引しながら、漆黒の移動要塞は、大陸随一の広さを誇る大穀倉地帯へと差し掛かっていた。
本来であれば、どこまでも豊かな緑の畑が広がっているはずの土地。
しかし、フロントガラスの向こうに見える景色は、見る影もなく荒れ果てていた。
上流側は逃げ場を失った大量の水によって広大な湖のように冠水し、逆に下流側の農地はカラカラに干からびてひび割れている。ひとつの領域の中で「氾濫」と「大干ばつ」が同時に発生するという、極めて歪な光景が広がっていた。
「……判定。大穀倉地帯を潤す古代の水利インフラ『アクリア運河』の領域へと進入。……ナビゲーションの構造解析によれば、大霊峰からの魔力循環が正常化した影響により、運河の巨大水門に設置された自動開閉システムが異常連動を起こしている。水門が完全に閉塞状態で固定され、流路が遮断されている環境不備を感知」
カイトは衣服に汚れ一つない漆黒のジャージを纏ったまま、無表情でハンドルを握っていた。
外界は濁流の羽ばたきと乾燥した砂嵐が交互に吹き付ける劣悪な環境だったが、四輪駆動車の最新鋭サスペンションが路面のぬかるみを完璧に捉え、車体は微塵も揺れることなく安定して進んでいく。
車内はエアコンディショナーの正確な働きにより、外界の湿気や熱気を完全にシャットアウトした、常に快適な二十四度の冷気と極上の静寂が維持され続けていた。
「カイト様! あっちのお水は溢れてて、こっちの地面はカチカチです! お野菜を育てるお水が、あのおっきな鉄の壁のせいで止まっちゃってるんですね。……あ、もぐもぐ。ジャージのポケットから出た『チョコレートバー』、甘くてすっごく元気が出ます!」
助手席のリアが、ジャージの袖をパタパタと揺らしながら、口元にチョコレートを運びつつ窓の外を指差した。
一日二回提供される簡易食料による完璧な栄養補給と、トレーラー内の贅沢な宿泊設備。その恩恵により、彼女の獣人としての五感と身体能力は、この過酷な二面性を持つ環境下にあっても、常に限界突破の数値を維持している。
「ふふ、人間たちの命の源を預かる設備だというのに、随分とお粗末な管理体制ね。中にいる防衛システムの人形たちが、流れの変化についていけずにパニックを起こして、とりあえず門を閉めて引きこもっているのかしら。カイト、あの頑強な水門の前に、何か動くものが集まってきているわよ」
本革のローソファに深く腰掛け、優雅に冷えた果実水を喉に流し込んでいたエルザが、調律杖の先端で前方の濁流を指差し、赤い瞳を細めた。
外界のノイズを完全に排除した最上のラグジュアリー空間のおかげで、真祖である彼女の魔力は一滴の目減りもなく、いつでも世界を初期化できる「満床」の状態に達している。
カイトの視線の先、運河を堰き止めている巨大な黒鉄の水門の前に、ゴボゴボという不気味な泡立ちと共に、水が凝縮して形成された大型の『水流防衛機構』の集団、数十体が出現した。
彼らは周囲の氾濫した濁流から無限にエネルギーを吸い上げ、侵入者を押し流すための高圧水流の弾丸をその体内に充填し始めている。
『――侵入者を感知。運河管理領域への接近を拒絶する。……水門の開放要求は不法と断定。高圧水流をもって瞬時に排除しろ――』
水流の人形たちの核が青黒く発光し、大気が出力によって激しく震え始める。次の瞬間、大木をも容易にへし折るほどの破壊力を持った高圧水流の槍が、全方位からカイトたちの車両へと一直線に射出された。
「……判定。敵個体の流体密度、および射出圧力が車両の装甲許容値を圧迫。さらに、水門の周囲には、近づくものを水圧で圧殺する『高圧水流トラップ』が常時展開されている。……単一の機能停止手順では水門の駆動部に近づけない。三人による、段階的な流路デバッグの手順を開始する」
カイトが冷徹に告げると、助手席のリアと、ソファから立ち上がったエルザの目が同時に不敵に輝いた。
「はいっ! リア、あのお水の鉄砲に負けないように、お仕事がんばります!」
「ふふ、私の美しい調律で、あの品のない濁流をただの水溜まりに変えてあげるわ」
カイトは無表情のまま、懐の財布から輝く金貨を三枚取り出し、正面の空間へと静かに提示した。
「……等価交換」
提示した確かな財貨の価値と引き換えに、カイトの知識にある現代の物品をそのまま具現化する絶対の能力。金貨がまばゆい光の粒子となって消滅した直後、カイトの前に現れたのは、強力な盾や魔導具では断じてなかった。
現代の地球において、荷物の梱包や建築現場の防水養生として広く使われている、極めて高密度に織られた、ごく普通の青い『工業用超厚手ブルーシート』の大きなロールだった。
「……エルザ。この現代の均質な樹脂繊維の構造に、お前の魔力を同調させろ。あらゆる高圧水流の圧力を弾く『絶対の防水壁』へと機能を拡張する」
「いいわ、ただの青い布きれかと思ったら、随分と目が細かくて綺麗な構造をしているのね。真祖の魔力の波長を、この繊維の並びへと完璧に噛み合わせてあげる!」
エルザが愉しげにクスクスと笑い、調律杖の先端をブルーシートへと向けた。
彼女の満床の魔力がシート全体の分子構造へと正確に流し込まれ、現代の優れた防水技術の論理が異世界の魔導として上書きされる。放たれた数万の高圧水流の槍は、具現化されたブルーシートの表面に触れた瞬間、その圧力を綺麗に均質化され、ただの心地よい霧雨へと強制的に初期化されて四方へと散っていった。
「よし、前面の防水シールドを維持する。――リア、そのシートを掲げて水門の駆動ギミックへと突撃しろ。邪魔な水流の噴出口を物理的に塞ぎ込め」
「了解です! リア、いきますっ!」
カイトの指示とともに、リアが四輪駆動車のドアを開けて濁流の中へと猛然と飛び出した。
最高級のベッドで完璧な状態を維持している彼女の超人的な脚力が爆発する。リアは魔力が上書きされたブルーシートの端を両手でガシッと掴むと、荒れ狂う高圧水流の渦の中を、まるで平地を走るかのような速度で突き進んでいった。
ドガァァァン!!!
「そこ、そこ、そこぉっ! この穴、閉まりなさい!」
リアはジャージの袖をパタパタと揺らしながら、水門の基部にある、高圧水流を噴き出していた古代の制御弁の隙間へと、ブルーシートを強引にねじ込み、その怪力で一気に押し潰した。
現代の均質な耐候性シートの強度とエルザの調律、そしてリアの圧倒的な物理的閉塞。その三位一体の論理の前に、数百年無敗を誇った古代の水流トラップは完全にその逃げ道を失い、ガガガと内部の歯車を悲鳴を上げさせて、その駆動を完全に停止した。
水門の前に、安全に立ち入ることができる「完全な空白地帯」が理詰めで作り出された瞬間だった。
「ふふ、完璧な連携ね。カイト、これで水門の心臓部は丸裸よ。でも、あの巨大な鉄の門、長年の湿気と過負荷で、駆動部が完全に錆びついて固着しているわ。ただ引っ張るだけでは動かないわね?」
エルザが調律杖を美しく回しながら、前方の巨大な黒鉄の歯車を睨みつけた。
「……想定内だ。構造の固着というバグを解消する。……金貨二枚を提示」
カイトは再び財布から金貨を取り出し、等価交換を発動させた。
空間に現れたのは、現代の地球において、錆びついたネジを緩めたり機械の滑りを良くするために広く使われている、ごく一般的な缶スプレー――『工業用強力浸透潤滑剤』だった。
「……エルザ、この潤滑成分の粒子を、お前の魔力で気化・増幅させ、歯車の深部へと精密に浸透させろ。リア、バールを用いてテコの論理でこじ開けろ」
「いいわ、その奇妙な金属の缶の液体、一滴残らずあの錆びついた隙間へと調律してあげる!」
「はいっ! リア、力いっぱい引っぱります!」
カイトがスプレーのノズルを押し込むと同時に、エルザの魔力がその成分を何万倍もの浸透力へと強化し、水門の巨大な歯車の噛み合わせの奥深くへと霧状にして一瞬で送り込んだ。
数百年分の頑固なサビと摩擦抵抗が、近代科学の極めて滑らかな潤滑論理によって一瞬にして融解し、均質化されていく。
そこへ、リアが超硬バールを歯車の隙間へとセットし、その圧倒的な怪力を込めてレバーを押し下げた。
ギィィィィィィィィィィィィィッッッ!!!
鈍い金属の鳴動とともに、完全に固着していた黒鉄の水門が、滑らかに、そして劇的に上方向へとその巨体を持ち上げ始めた。
行き場を失って氾濫していた上流の莫大な水が、綺麗に最適化された流路に沿って、下流の干上がった大農地へと、ゴォォォという心地よい重低音を立てて美しく流れ込んでいく。
大地を脅かしていた氾濫と干ばつのバグが、日常の資材と三人の完璧な連携によって、何一つ設備を破損させることなく完璧に最適化された瞬間だった。
「ぷはぁっ! カイト様、エルザの姉様! 水門、すっごく軽くなってポンとお空に上がりました!」
リアがバールを掲げ、満面の笑みで戻ってきた。
「ふふ、あの青いシートと油の缶詰、本当にいい仕事を成し遂げるわね。交通の障害もこれで綺麗に帳簿から消し去られたわ」
エルザが可笑しそうにクスクスと笑い、ソファへと戻って冷たい完熟ジュースを喉に流し込んだ。
「……アクリア運河の水門インフラにおけるデバッグ、および両領域の環境均質化作業を完全に完了した。……これより車両の進行速度を維持し、次の構造不備の座標へと直進する」
カイトは表情一つ変えずに汚れ一つないジャージの袖を正し、再び四輪駆動車のアクセルを滑らかに踏み込んだ。
潤いを取り戻し、本来の美しい緑の姿へと蘇り始めた大穀倉地帯を後にし、白銀のトレーラーを牽引する漆黒の移動要塞は、次なる世界の不備を最適化するため、新たなる地平へと向かってその車体を滑らかに滑らせていくのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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