第173話:黒い軍勢の進入
大砂海が、不気味に脈動していた。
北西の地平線から湧き上がったのは、砂嵐ではない。
歪な鉄の鎧に身を包み、鋭い槍を林立させた悪魔族の正規軍――その数、およそ二千。
彼らは一糸乱れぬ隊列を組み、ガル・ラサームの街を文字通り干上がらせ、一撃で踏み潰すべく進軍を続けていた。
しかし、本隊を率いる指揮官が、手前の地形でその手綱を引いた。
「……報告! 前方、街へと続く側道の砂丘が完全に崩落しております! これほどの規模、自然の崩壊とは思えませぬ!」
「何だと……? 斥候隊からの連絡はどうした」
「オアシスに向かったきり、定時連絡が途絶えております!」
指揮官の顔が、忌々しげに歪んだ。
作戦が漏れている可能性が、その脳裏をよぎる。しかし、すでに軍勢は街の目と鼻の先まで到達しているのだ。ここで進軍を止める選択肢など存在しなかった。
「フン、小細工を。側道が埋まったのなら、目の前の谷を抜けるまでだ。あの狭隘部を抜ければ、街の防壁は目の前だ。全軍、突撃隊列のまま『断頭谷』へ進入せよ! 一気に駆け抜けるぞ!」
指揮官の号令とともに、二千の軍勢が轟音を立てて谷へと流れ込んでいく。
道幅が狭まるにつれ、兵士たちの距離は密着し、逃げ場のない高密度の塊へと変わっていった。
その様子を、谷の最狭部を見下ろす切り立った岩盤の上から、カイトたちは冷徹に見下ろしていた。
「……判定。敵本隊の進入速度、および密集度。事前に弾き出した計算式と一の狂いもない最適値だ」
カイトは漆黒のジャージのポケットから静かに両手を引き抜いた。
吹き付ける熱風に黒い布地が微かに揺れるが、その表情には一片の動揺も、戦いに対する高揚感すらもない。ただ、目の前の歪みを処理するための冷徹な光だけが、その瞳に宿っていた。
「うわぁ……本当に凄い数です。カイト様、あいつら完全に一本道に固まっていますよ」
リアが岩陰に身を潜めながら、鋭い耳をピクリと動かして谷底の足音を正確にカウントしていた。彼女の身体は、いつでも飛び出せるように極限まで引き締まっている。
「待ち伏せとしては最高の舞台ね。ねえカイト、そろそろ私の出番かしら? これだけ固まってくれているなら、私の魔力を少し流し込むだけで、面白いように吹き飛ぶと思うのだけれど」
エルザが調律杖の先端を谷底へと向け、赤い瞳を妖しく輝かせた。彼女の内に眠る真祖の強大な魔力が、主の合図を今か今かと待ちわびて大気を震わせる。
「……否。エルザの広域魔術は、この不安定な岩盤そのものを崩落させ、こちらの退路まで埋めるリスクが残る。まずは私の術式で、敵の機動力を完全に根絶する」
カイトは前方に右手をかざし、体内の魔力を谷の空間全体へと一気に同期させた。
「……術式発動。広域重力操作」
パシッ、と空間が爆ぜるような不可視の衝撃が谷底を駆け抜けた。
直後、進軍していた二千の軍勢の頭上に、通常の数十倍に達する凄まじい下方指向性の重圧が垂直に叩きつけられた。
「ガ、ハッ!? なんだ、この重さは……っ!?」
「身体が……地面にめり込んで、動かん……!」
先頭を走っていた騎馬が悲鳴を上げて崩れ落ち、それに続く兵士たちが次々と、まるで見えない巨大な足で踏みつぶされたかのように石畳へと圧着されていく。
あまりの重圧に、鎧の噛み合わせがギチギチと悲鳴を上げ、谷全体の進軍が完全に停止した。
「……リア、前線の維持。エルザ、術式の収束を開始しろ。ここから、不備の完全な排除へと移行する」
完全に動きを止め、一本の巨大な標的と化した悪魔族の軍勢を前に、カイトの冷徹な声が断頭谷に響き渡った。
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