第148話:境界の霧と、異臭の沼
ガルドヘイムの黒鉄の門を後にした四輪駆動車は、赤茶けた岩山を下り、次第に不気味な灰色の霧が立ち込める平原へと差し掛かっていた。
エルフの里で得た緑の結晶に加え、ドワーフの国で獲得した最高品質の『黒鉄の魔導結晶』が、カイトの背負い袋の中で等価交換の潤沢なエネルギー源として蓄えられている。
ズズズ……と、タイヤが湿った泥を掴む感触が、ハンドルを通じてカイトの手に伝わってきた。
「……判定。地形の急激な変化を確認。地盤の水分量が限界を超えているな。……これより先は湿地帯だ」
カイトはワイパーを動かし、フロントガラスにこびりつく粘り気のある霧を払った。
車窓の外には、どす黒い泥水が広がる底なしの沼地が延々と続いている。大気には、生き物の腐敗臭と、何かが焦げ付いたような鼻を突く異臭が混ざり合っていた。
「うわ……何よこの臭い。ドワーフの炭鉱の煤煙の方が、まだマシだったわね」
後部座席のエルザが、不快そうに窓の隙間を閉めながら調律杖を抱え込む。
「カイト様、前方に何か動くものがいます! ……数が、すごく多いです!」
助手席のリアが、霧の奥を凝視しながら鋭い耳をピンと立てた。
カイトが車のヘッドライトをハイビームに切り替えると、白い光の中に、沼地から這い上がってくる無数の「青白い影」が浮かび上がった。
それは、半透明の粘液でできた身体を持つ魔獣『スライム・ムスタング』の群れだった。ただの粘性生物ではない。沼の有毒ガスを体内に溜め込み、触れるものすべてを腐食させる凶暴な変異種だ。
「……判定。まともに突撃すれば、いくら現代の4WDとはいえ、足回りの金属パーツが酸で溶解する。……等価交換」
カイトは運転席に座ったまま、頭の中で所持金から対価を支払い、必要な元素の結合を強くイメージした。
ジャージのポケットから引き出したのは、現代の災害現場などで使われる、高強度の『耐酸性コーティングスプレー』の特大ボトルだった。
「リア、これを助手席の窓から受け取れ。……車のボンネットと前輪のサスペンションに向けて、容赦なく全量を吹き付けろ。エルザは、霧を払うために微弱な風の魔力を車の前方に維持しろ」
「了解です、カイト様! 窓を開けます!」
リアが身を乗り出し、走行する車のボンネットに向かってスプレーを豪快に噴射していく。薬品が鉄板に触れた瞬間、パチパチと音を立てて無色透明の強固な保護膜が形成されていった。
「風を固定すればいいのね? ……私の魔力を、そんな扇風機代わりに使うなんて!」
エルザが文句を言いながらも調律杖を前方に突き出すと、車の前に渦巻く突風が発生し、有毒な霧が左右へと割れていく。
「……準備完了だ。……蹴散らすぞ」
カイトはアクセルペダルを床まで踏み込んだ。
魔石の熱量を吸い込んだV8エンジンが狂ったように吠え、四輪駆動車は泥水を激しく跳ね上げながら、青白いスライムの群れへと文字通り突っ込んでいった。
ドゴォォォン!!
コーティングされたフロントバンパーがスライムの核を次々と粉砕し、強靭なオフロードタイヤが有毒の粘液を容赦なく踏み潰していく。酸の液体が車体に激しく降りかかるが、カイトの等価交換によって施された防護膜は、その腐食を完璧にシャットアウトしていた。
バックミラー越しに、完全に圧殺された魔獣の残骸が沼に沈んでいくのが見える。
「すごい……! 全然スピードが落ちません!」
リアが歓声を上げる中、カイトは無表情のままハンドルを固定し、霧のさらに奥――不気味な紫色の光を放つ、湿地帯の「心臓部」を見据えていた。
そこには、この広大な沼地を腐らせている、さらなる巨大な「不備」の気配が漂っていた。
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