第6話:絶望の「長電話」と、サキュバスの涙
第6話:絶望の「長電話」と、サキュバスの涙
鉄壁の守護者ハルバートが「小遣い3万円」という経済的絶望の前に膝を突き、その場に頽れた後。佐藤健一は、魔王城の最深部、魔王の間を隔てる最後の関門『享楽の園』へと足を踏み入れた。
そこは、これまでの禍々しい雰囲気とは一変し、甘い香りの漂う桃源郷だった。ピンク色の霧が立ち込め、どこからともなくハープの調べが聞こえてくる。レベル999の健一の視界は、本来ならここで「理想の女性たち」に囲まれるはずだった。
「……うわぁ、いい匂い。洗濯機の洗剤、これに変えようかな……」
健一が鼻をひくつかせていると、霧の中から、四天王最後の一人、淫魔のエルゼが姿を現した。彼女は透き通るような肌に際どい衣装を纏い、妖艶な微笑みを浮かべて健一に歩み寄る。
「ようこそ、勇者様。ここまでよく頑張ったわね……。でも、もう戦わなくていいのよ。私の腕の中で、永遠の安らぎに溺れてしまえばいい。あなたが望むもの、何でも与えてあげるわ。……さあ、あなたの理想の女性は、どんな人かしら?」
エルゼが健一の首筋に手を回し、精神操作の魔力を流し込む。彼女の術にかかれば、最強の戦士ですら「理想の嫁」の幻影に抱かれ、二度と現実には戻ってこられない。
「理想、か……」
健一の目が、とろんと虚ろになった。エルゼは勝利を確信し、その耳元で甘く囁く。
「そう、あなたの望む姿を思い浮かべて……。優しくて、いつもニコニコしていて、あなたの脱ぎっぱなしの靴下を笑顔で拾ってくれる……そんな聖女のような存在を――」
だが、その瞬間。健一の左手の結婚指輪が、これまでの比ではない**「緊急事態」**を知らせる激しい振動を開始した。
「……ッ!? な、何だ、この異様な殺気は!」
エルゼが飛び退く。指輪から放たれたのは、美紀の怒声ですらなかった。それは、もっと根源的で、もっと回避不能な、**「実家の母親からの長電話」**という名の、全日本男子が恐れる精神干渉だった。
(……あ、健一? 元気にしてるの? あんた、美紀さんにちゃんとお礼言ってる? ほら、この前送ったリンゴ、お礼の電話が美紀さんからしか来てないわよ。あんたは本当に昔から気が利かないんだから。そういえば、隣の家のタカシ君、結婚したんですって。あんたも二人目とか考えなさいよ。それからね、お父さんの腰がまた悪くなって……)
「ぐわあああああああッ!! やめろ! その、結論のない近況報告と説教のハイブリッドはやめろぉぉぉ!」
健一は頭を抱えてのたうち回った。
エルゼの精神操作は、健一の脳内に割り込んできた「母親の2時間コースの雑談」という巨大なデータ量に押し潰され、一瞬でクラッシュした。
「な、何なのよ!? 私の究極の誘惑が……『親戚の近況報告』に負けたというの!?」
エルゼは信じられないものを見る目で健一を凝視する。健一は涙を流しながら、虚空に向かって必死に相槌を打っていた。
「……分かった、分かったから! リンゴは後で食べるし、タカシ君のことはどうでもいいだろ! そもそも俺、今、魔王城なんだよ! ……え? 晩ご飯のおかずは何かって? 知るかよ! 火竜の肉だよ!」
(……何よ、その言い方。親に向かって。美紀さんに言いつけるわよ。あんた、あの子に捨てられたら終わりなんだからね)
「ひぃっ! それだけは……それだけは勘弁してください……っ!」
健一は魔王城の床に額を擦り付け、必死に土下座した。その姿に、エルゼは戦慄した。この男は、世界を滅ぼす魔王の軍勢を一人で壊滅させてきた「人類の希望」のはずだ。それが今、見えない「年老いた女性の声」に怯え、震えている。
「……勇者よ。あなた、そんなにまでして帰りたいの? 帰ったところで、待っているのはその恐ろしい母親と、さらにおっかない奥さんなのでしょう? ここにいれば、私はあなたのどんな我が儘も聞いてあげるのに……」
エルゼが哀れみの色を浮かべて問いかける。健一は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を上げ、きっぱりと言い放った。
「……エルゼ。お前は、何も分かってない」
「……え?」
「いいか。……確かに、美紀は怖いし、母親の電話は長い。でもな……あいつらが俺を叱るのは、俺が『最強の勇者』だからじゃない。世界で一番、俺に『普通に生きててほしい』と願ってるからなんだよ」
健一は立ち上がり、指輪から溢れ出す「生活の重圧」という名の黄金のオーラを全身に纏った。
「俺が英雄になろうが、無職になろうが、あいつらは変わらない。脱ぎっぱなしの靴下を怒り、食べ残しの皿を指差し、適当な相槌にキレる。……そんな風に、俺を『記号(勇者)』じゃなく、『個人(ダメな夫)』として扱ってくれる場所が、あっち(現実)にしかないんだよ!」
健一の咆哮が『享楽の園』を揺るがし、桃色の霧を吹き飛ばした。
エルゼは、その圧倒的な「家族愛という名の呪縛」の前に、戦う気力を完全に失った。
「……負けたわ。私たちが提供できる『快楽』なんて、その泥臭い『絆』に比べれば、ただの空虚な幻影でしかないのね」
エルゼは静かに道を譲り、健一に背を向けた。
「行きなさい。……あなたの愛する『地獄』へ。でも、魔王様は私ほど優しくはないわよ」
「……ああ。美紀の説教に比べれば、魔王の最終奥義なんて、ただのクラッカーの音だ」
健一は、ついに魔王の間の巨大な扉の前に立った。
四天王は全員沈没。残るは、この世界の主、魔王のみ。
健一は左手の指輪を力一杯握りしめた。指輪からは今、美紀がキッチンで鼻歌を歌いながら、健一の嫌いなピーマンを細かく刻んでいるような、最高に不穏で幸せな生活音が聞こえてくるような気がした。
「……待ってろ、美紀。今すぐ、そのピーマン、完食しに行ってやるからな」
扉が、レベル999の「帰宅したい」という衝動によって、粉々に砕け散った。




