第5話:鋼の守護者と、小遣い3万円の壁
暗殺者カミラが「家事の不条理」という概念攻撃によって精神を崩壊させ、泣きながら闇に消えた後。佐藤健一の足取りは、さらに重く、そして確かなものとなっていた。
魔王城の第三エリア、『不落の禁域』。
そこは一歩足を踏み入れるだけで、侵入者の体重を十倍に跳ね上げる重力魔法が常に展開されている。だが、健一にとってその重圧は、仕事帰りにスーパーで「特売の酒瓶」と「重い米袋」を両手に下げ、駅から十五分歩くあの地獄の帰り道に比べれば、羽毛のような軽さだった。
「止まれ、勇者。ここから先は一歩たりとも通さん」
重厚な金属音が響き、回廊の奥から巨大な影が姿を現した。
魔王軍四天王の三人目。鉄壁の防御力を誇る重装騎士、鋼鉄のハルバート。
全身を魔界の深層でしか採掘できない超硬度金属の鎧で固め、その巨体は三メートルを超える。彼が一歩踏み出すたびに、城の床が悲鳴を上げて震えた。
「我は魔王様を守護する盾。貴様のいかなる聖剣の輝きも、我が装甲を貫くことはできん。……ん? 貴様、何を見ている?」
ハルバートが怪訝そうに問う。健一は聖剣を構えるどころか、ハルバートの重厚な鎧の継ぎ目を、鑑定士のような鋭い目付きでじっと見つめていた。
「……なあ、ハルバート。その鎧、いくらしたんだ?」
「……何だと? これは魔王様より賜りし、国家予算三期分に相当する至宝だ。金銭に換算することなど愚行の極み……」
「国家予算か。いいよな、お前は。自分の命を守るための装備に、そんな大金がポンと出るんだから」
健一は自嘲気味に笑い、左手の安物シルバーリングを親指で弄んだ。
「俺を見てくれよ。レベル999の勇者。世界を救う希望。……なのに、俺の財布の中身は、月々三万円(固定)だ」
「……サンマンエン? 何の単位だ、それは。貴様の魔力量の数値か?」
「小遣いだよ。ランチ代、コーヒー代、たまの飲み会、それから隠れて買う趣味のフィギュア……全部ひっくるめて、一ヶ月で銀貨三十枚程度だ。美紀は言うんだ。『あんた、これ以上何に使うの? 昼はお弁当作ってあげてるでしょ。家賃も光熱費も私が管理してるんだから、これだけあれば十分でしょ』ってな」
健一は一歩、また一歩と、重力魔法を無視してハルバートに近づく。
「……ハルバート。お前は、給料日の前日に、どうしても喉が渇いて自販機の前に立った時、財布の中に百円玉一枚しかない絶望を知っているか? その一枚を使えば、明日の通勤電車の喉の渇きが癒せない。だが今使わなければ、この渇きで死ぬかもしれない……。そんな、世界の運命よりも重い選択を、お前はしたことがあるか!?」
「な、何を言っている……! 我は戦士だ! そのような卑小な悩みなど――」
「卑小だと!? 笑わせるな!」
健一の怒声が、回廊の重力魔法を霧散させた。レベル999の魔力が、健一の「金銭的困窮」という名の呪いと共鳴し、物理的な衝撃波となってハルバートの巨体を揺らす。
「お前は、自分の鎧が傷つけば魔王に直訴して直してもらえるだろう。だが俺はどうだ!? 飲み会で会費が五千円だった時の、あの絶望的な計算式! 残りの二十五日間を、一日何円で過ごせばいいか、お前にその高度な算術が解けるのか! 美紀に『今月、ちょっと冠婚葬祭が重なって……』と、一世一代の嘘をつく時の、心臓が口から飛び出しそうな緊張感が、お前に耐えられるのか!」
健一は、ハルバートの胸部装甲に、指先を突き立てた。
「お前の鎧は硬い。だが、美紀の『今月、もうこれだけしか残ってないんだけど。あんた、無駄遣いしてないでしょうね?』という言葉の鋭さには、到底及ばない。あの言葉はな、どんな防御魔法も貫通して、俺の心臓を直接握り潰してくるんだよ」
ハルバートの巨大な盾が、ガチガチと音を立てて震え始めた。
彼は気づいた。目の前の男が放っているのは、魔力ではない。それは、何十年という時間をかけて蓄積された、**「抑圧された購買欲」と「家計への恐怖」**という名の、魔界にも存在しない未知の負のエネルギーだ。
「……勇者よ。貴様は、それほどの苦行に耐えながら、なぜ、なぜそこまでして帰ろうとするのだ。ここなら、我が魔王様に進言し、貴様に無限の財宝を与えよう。好きなだけ金を使えばいいではないか!」
ハルバートの必死の提案に、健一は静かに首を横に振った。
「……無限の財宝? そんなもん、ちっともワクワクしねえよ。ハルバート、お前には分からないだろうな。一ヶ月間、美紀の監視の目を盗んで、一円、十円とコツコツ貯めた『へそくり』で、ようやく欲しかった中古のゲームソフトを買う時の、あの脳が震えるような達成感を」
健一の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……あいつにバレたら即没収、お説教三時間のコンボだ。そのリスクを背負ってでも手に入れたいものがある。それが人間なんだ。お前みたいな、魔王に養われてるだけの高級ペットには、一生かかっても理解できない喜びなんだよ!」
「……高級、ペット……」
ハルバートの誇りが、音を立てて崩れ去った。
彼はこれまで、自分こそが最も気高く、最も強い守護者だと信じていた。だが、目の前の男が語る「三万円の攻防戦」に比べれば、自分の戦いなど、ただの恵まれた環境でのごっこ遊びに過ぎないのではないか。
健一は、ハルバートの横をすり抜けようとして、ふと足を止めた。
「……ハルバート。いい鎧だな。でもな、それ……美紀に言わせれば『こんなデカい粗大ゴミ、場所取るから捨ててきなさいよ!』って一言で終わりだぞ」
「……ッ、ぐあああああああああ!」
三人目の四天王、ハルバート。
勇者の放つ「現実的な断捨離の恐怖」と、自分の存在全否定の前に、ついにその巨体を屈服させ、回廊に崩れ落ちた。鎧の隙間から漏れるのは、もはや威厳ある戦士の声ではなく、己の価値観を根底から覆された者の、すすり泣くような音だった。
「……強すぎる。この男の、日常に対する『耐久値』が、我らとは桁が違いすぎる……。もしやこの男、魔王様すらも……」
健一は、ハルバートの慟哭を背に、ついに最後のエリアへと続く大扉の前に立った。
背後では、リリナとクロエが、もはや健一に近づくことすら躊躇うような、神聖なものを見るような目で彼を見守っている。
「ケンイチ様……あなたは、世界を救うために魔王を倒すのではありませんわ。……『不自由な自由』を、あの方(美紀)の元へ返しに行くのですね」
「……かっこいいこと言うなよ、リリナ。俺はただ、あいつの小言を聞きながら、ぬるくなった発泡酒を飲みたいだけなんだよ」
健一は、最後の大扉に手をかけた。
残る四天王は、あと一人。そして、その奥に潜む魔王。
健一の左手の指輪は、かつてないほど激しく、そして「生活感溢れる」光を放ち、魔王城全体を飲み込もうとしていた。




