第4話:影の暗殺者と、消えない「髪の毛一本」の絶望
第4話:影の暗殺者と、消えない「髪の毛一本」の絶望
軍師ザルガスが「生活感の重圧」で廃人同様となり、泡を吹いて倒れた後。健一は、魔王城の第二エリアである『沈黙の庭園』へと足を踏み入れた。
そこは、色とりどりの毒花が咲き乱れ、一見すると美しいが、空気そのものが猛毒という死の園だ。レベル999の健一にとって、そんな毒は肺を少し刺激する程度のミントタブレットのようなものだったが、背後に続く聖女リリナたちは防護魔法を何重にも展開し、必死の形相でついてくる。
「勇者様! 止まってください! ここには魔界一の速度を誇る暗殺者、四天王のカミラが潜んでいます! 彼女の姿を捉えた者は、誰一人として生きて――」
リリナの叫びが終わるより早く、健一の背後の影が、どろりと鎌のような形に盛り上がった。
「見ぃーつけた。無防備な背中……死ね、勇者!」
影から飛び出した美貌の暗殺者、カミラ。彼女の放つ超振動の短剣が、健一の無防備な首筋に深々と突き立てられた。本来なら、ドラゴンの鱗すら紙のように切り裂く一撃だ。
「……ッ、ぐぅ……!」
健一は短剣を刺されたまま、足を止めた。だが、倒れはしない。ゆっくりと首を回し、自分の肩越しにカミラをじっと見つめる。
「……やった! 毒は回ったはずよ! 苦しみ、悶え、命乞いをなさい!」
カミラが勝ち誇った笑みを浮かべた。しかし、健一の瞳には、死への恐怖など微塵もなかった。そこにあるのは、どこか遠い空を見つめるような、深淵よりも深い「虚無」だった。
「……なあ、カミラ。お前、掃除機をかけた直後に、リビングのど真ん中に『髪の毛一本』が落ちてるのを見つけた時の絶望って、知ってるか?」
「……え? 髪の毛……? 何を言っているの、死に際の間男が」
カミラは困惑し、さらに数本の短剣を健一の背中に叩き込む。だが、健一はそれを無視し、ぼそぼそと独白を続けた。
「俺はな……日曜日の貴重な一時間を削って、美紀に言われるがまま、這いつくばって掃除機をかけるんだ。ソファーの下、テレビの裏、ミリ単位の埃も許さない執念でな。そして、完璧だ、これで文句は言わせない……そう確信して立ち上がった瞬間だ」
健一の左手の指輪が、鈍く、禍々しい輝きを放ち始める。
「美紀がやってきて、何もしゃべらず、ただ一箇所を指差すんだ。そこにはな、俺が今さっき掃除したはずの場所に、一本だけ……スゥーッと、不敵に横たわる髪の毛があるんだよ。……その時の、自分の人生そのものが否定されたような、全存在がゴミ箱に放り込まれたような感覚……。お前のその毒短剣、それに比べれば、ちょっと冷たい清涼シートを貼られたくらいの清々しさだわ」
「……な、何なのよ、この人。何で刺されてるのに、そんな『悟りを開いた直後の敗北者』みたいな顔をしてるの……?」
カミラは本能的な恐怖を感じ、距離を取ろうとした。だが、健一の動きの方が速かった。彼はレベル999の反射神経でカミラの腕を掴むと、彼女の耳元で囁いた。
「『ねえ、ここ。見えてないの? あんたの目は節穴なの? それともガラス玉?』……美紀にそう言われた時、俺は思ったんだ。ああ、俺はレベル999の勇者でもなんでもない、ただの『掃除機のノズルが甘い無能』なんだってな。……カミラ、お前にその絶望が耐えられるか?」
「ひっ……! やめて、来ないで! 触らないで!」
カミラは必死に腕を振り払い、後退した。彼女がこれまでに屠ってきた王や英雄たちは、皆「死」を恐れていた。だが、この男は違う。「死」よりも恐ろしい「日常の叱責」を背負い、それをガソリンにして動いている。
「勇者様! もう十分ですわ!」
リリナが駆け寄り、健一の首の傷を癒そうとする。だが、健一はそれを手で制した。
「治すな、リリナ。この傷の痛みは、美紀に『あんたの洗った皿、油汚れが落ちてないんだけど』って言われた時の、胸を締め付けるような不快感に比べれば、もはや快楽だ」
健一はさらにカミラに歩み寄る。その足取りは重く、生活の重圧をそのまま物理的な圧力として放っていた。周囲の毒花が、勇者の放つ「家庭内ストレス」という名の猛毒に耐えきれず、次々と枯れ落ちていく。
「カミラ、お前は自由でいいな。誰にも掃除の仕方をチェックされず、誰にも賞味期限切れのドレッシングを捨てたことで怒られない。……そんなお前に、俺を倒す資格なんてないんだよ。俺を殺したければ、まずは美紀の代わりに『家計簿の赤字』を俺に突きつけてからにしろ!」
「……っ、うわあああああん! 意味わかんないわよ! 気持ち悪い! 帰りなさいよ、自分の家に今すぐ帰りなさいよおぉ!」
魔界最強の暗殺者カミラは、プライドも戦意も、そして女性としての何か大切なものも全てズタズタに引き裂かれ、涙を流しながら闇の中へと逃げ去っていった。
二人目の四天王、カミラ。物理攻撃ではなく、「家事の不条理」を説かれるという精神レイプにより、再起不能。
健一は、逃げていくカミラの背中を見送りながら、左手の指輪をそっと撫でた。
「……待ってろよ、美紀。掃除機のノズル、次は『隙間用』もしっかり使うからな……」
背後でその光景を見ていた魔導士メイは、震える手で魔導書を閉じた。
「……勇者様。今の戦い、歴史書には『高潔なる精神のぶつかり合い』と書いておきますが、よろしいでしょうか?」
「好きにしろ。……さあ、次だ。あと二人。俺の『帰宅の執念』が尽きる前に、魔王の首を獲る」
健一の瞳には、もはや魔王すら見えていなかった。彼が見据えているのは、次元の彼方にある、安物のアパートの扉。そして、その向こうで待っている(であろう)最強のラスボス、美紀の姿だけだった




