第3話:魔法の家事代行(プロフェッショナル)
翌朝。50代の駆が重い瞼を開けた時、リビングから聞こえてきたのは、およそこの家には似つかわしくない「規則正しく、かつ凄まじい速度の家事の音」だった。
「……なんだ? ヘルパーさんはまだ来ない時間のはずだが」
駆がリビングへ足を踏み入れると、そこには異様な光景が広がっていた。
昨夜現れた「若き日の父」こと健一が、ワイシャツの袖をまくり上げ、掃除機……ではなく、ただの「雑巾」を手に、床を這いつくばっていたのだ。
だが、その動きが常軌を逸していた。
シュババババッ! と残像が見えるほどの速度で床が磨かれ、健一が通り過ぎた後には、50年分の蓄積されたくすみや汚れが、まるで消しゴムで消されたかのように消え去り、新築のような輝きを取り戻している。
「あんた、何を勝手に……!」
「あ、駆。おはよう。……ここ、ワックスが剥げかけてたから、魔力で分子構造を定着させておいたよ。あと、換気扇の油汚れ。あれは美紀の膝に負担がかかるからな、高周波振動で分解しておいた」
健一は、息一つ切らさずに立ち上がった。
レベル999の魔力。それは今、世界の破壊ではなく、「完璧な住環境の構築」のために全振りされていた。
「勝手なことをするなと言っただろ! 母さんが混乱する……」
「あら……。駆さん、この人、誰かしら? なんだか、家の中が……とっても明るいわね」
寝室から出てきた美紀が、目を丸くして立ち尽くした。
彼女の視線の先には、磨き抜かれたフローリングと、50年前のあの日に美紀が「買い換えたい」と言っていた、色褪せたソファ。その布地までもが、健一の細やかな魔力操作によって、新品同様の発色を取り戻していた。
「……ええ、母さん。これは、その……昨日来た、親戚の……」
「おばさん。……俺、掃除が得意なんだ。今日はお礼に、朝飯を作らせてくれ」
健一は、美紀を「妻」ではなく「おばさん」と呼んだ。その胸を引き裂くような痛みを感じながら、彼はキッチンに立った。
駆は呆れ果てていたが、美紀が嬉しそうにダイニングチェアに座るのを見て、止める言葉を飲み込んだ。
健一が作るのは、50年前、彼が失踪したあの日……美紀が「あーあ、明日の朝は和食にするからね」と予告していた、ごく普通の朝食だった。
焦げ目のないだし巻き卵。
少しだけ砂糖を多めにした、美紀の実家の味の味噌汁。
そして、米の芯まで均一に熱を通した、究極の白飯。
「……どうぞ。召し上がれ」
美紀が箸を取る。一口、味噌汁を啜った瞬間、彼女の動きが止まった。
その濁った瞳が、一瞬だけ、力強く見開かれる。
「……これ。……これ、私……知ってるわ」
「母さん?」
「駆さん……このお味噌汁。……私の、お母さんの味にそっくりなの。……それから、あの方の……あの人が、好きだった味……」
美紀の手に、力がこもる。
彼女の記憶の地層、50年分の埃に埋もれた奥深くで、健一という存在が放っていた「日常の断片」が、味覚という鍵によって解錠されようとしていた。
「健……ちゃん? 健一さんなの? ……ねえ、あんた……。ゴミ出し、行ったの? 1974年の、あの木曜日の……ゴミ、出したの……?」
美紀が、震える手で健一の袖を掴んだ。
健一は、そのシワだらけの手を、自分の若々しい手で包み込んだ。
「……ああ。今、出してきたよ。……遅くなって、ごめんな。美紀」
健一が微笑んだ瞬間。
左手のシルバーリングが、現実世界の物理法則を無視して、激しく脈打ち始めた。
異世界のシステムが残した、あの「嫌がらせ」の指輪。
それは、健一の絶望を吸うための装置ではなかった。
健一が**「失われた50年の家事(生活)」**を魔力で完璧に補完した時、その「生活の密度」が臨界点を超え、時の歪みを逆流させるエネルギーへと変わったのだ。
『……警告。因果律の補完を検知。失われた「日常」の質量が、50年の空白を上回りました。……巻き戻しシーケンスを開始します』
「な、なんだ!? 部屋が……光り出したぞ!」
駆が叫ぶ。マンションの壁が透け、周囲の景色が逆回転のフィルムのように猛烈な勢いで変化していく。
50年。
美紀が泣きながら家計簿をつけた夜。
駆が父のいない寂しさを怒りに変えた日々。
それら全ての「負の記憶」を、健一の放つ「究極の愛の家事」が、圧倒的な肯定感で塗り潰していく。
「健一さん! 離さないで! 行かないで!」
老いた美紀が、健一の胸に顔を埋めた。
その姿が、みるみるうちに若返っていく。
真っ白な髪が黒く染まり、シワが消え、50代の駆の姿が小さくなり、3歳の幼い少年の姿へと縮んでいく。
「美紀……駆……。分かってる。次は、絶対に……一秒だって、お前たちを一人にさせない!」
健一は、左手の指輪に全ての魔力を叩き込んだ。
レベル999。世界を更地にする力。
それは今、**「家族を元の時間に送り届ける」**という、世界で一番小さな、そして一番偉大な奇跡のために爆発した。
ドォォォォォォォォォォン!!
「……っ、ふ、……え?」
健一は、目を開けた。
そこは、あの高級マンションではなかった。
少しカビ臭い、壁の薄い、家賃4万8千円の『コーポ緑ヶ丘』の玄関だった。
左手には、ゴミ袋。
右手には、壊れていない、ピカピカのシルバーリング。
「……ちょっと! 健一! 何やってんのよ、玄関でボーッとして! ゴミ、回収車が来ちゃうわよ!」
キッチンから響く、あの、心臓に悪いほど元気で、猛烈に怒りを含んだ、**「30代の美紀」**の声。
「パパー! 早くゴミ捨てて! 終わったら、戦隊ヒーローごっこやるって約束したでしょ!」
足元には、3歳の駆が、プラスチックの剣を振り回して突撃してきている。
健一は、ゴミ袋を地面に置き、そのまま美紀と駆を力一杯抱きしめた。
「ちょ、ちょっと!? 何!? 気持ち悪いわね、朝から! ……いいから早く、ゴミ!」
「……ああ、分かってる。分かってるよ、美紀。……今すぐ、捨ててくる。……俺、世界で一番、ゴミ出しに行きたかったんだ」
健一は、涙を流しながら笑い、玄関のドアを開けた。
50年の空白を、一瞬で駆け抜けた勇者。
彼の手にあるのは、聖剣でも魔力でもない。
ただの燃えるゴミの袋と、守り抜いた「今日という日」の重みだった。
佐藤健一、35歳。
異世界無双を終えた彼にとって、ここからの人生こそが、本当の「ハードモード」であり、そして、二度と手放さない至福の物語となる。
(完)




