第2話:失われた50年の家計簿
夕闇が迫るリビング。窓から差し込む斜陽は、老いた美紀の白い髪を透き通るように照らし、彼女が今や「この世の住人」というよりは、記憶の海に浮かぶ「漂流物」であることを残酷に強調していた。
「……駆さん、お茶をお出しして。この若い方、ずっと泣いてらっしゃるわ。お腹が空いているのかしら」
美紀の穏やかな、他人行儀な声。それが健一の鼓動を、魔王の呪いよりも深く抉る。かつて「あんた! ぼさっとしてないで手伝いなさいよ!」と家中を震撼させたあの雷鳴のような怒声が、今は枯れ葉が擦れ合うような静かな音色に成り果てていた。
「……母さん、いいんだ。この人は、すぐ帰るから」
50代の駆が、冷淡に言い放つ。彼は健一の腕を掴むと、リビングの隣にある、書斎とも物置ともつかない小部屋へと強引に引きずり込んだ。
「……話がある。あんたが本当に『佐藤健一』だというなら、これを見てから、もう一度『帰ってきた』なんて抜かしてくれ」
駆がクローゼットの奥から引っ張り出してきたのは、何十冊という古いノートと、茶色く変色したビニールケースに入った大量の通帳だった。
「これは……?」
「母さんの戦歴だよ。あんたが『異世界』だか何だか知らない場所で、気持ちよく魔王をぶっ飛ばしていた間の、な」
駆は一冊の通帳を開き、健一の目の前に叩きつけた。昭和の終わりから平成、そして令和へと続く、預金残高の記録。
「あんたが蒸発した翌月、口座の残高は32万円だった。来月には家賃と光熱費、そして俺の幼稚園の月謝が引き落とされる。……あんたがいない。連絡もつかない。警察に届けたって、事件性がなきゃ動いてくれない。母さんは、あんたが作った……いや、あんたがいなくなったことで生じた『穴』を埋めるために、三つの仕事を掛け持ちしたんだ」
健一は通帳の数字を追った。
10万円の入金。5万円の入金。そして、数千円単位で細かく引き出された記録。
それは、美紀が血を吐くような思いで、1円単位の節約を積み重ねてきた証だった。
「朝は新聞配達、昼はスーパーのレジ、夜はビル清掃。……俺は、母さんの寝顔を見た記憶がほとんどない。いつも朝起きたら食卓にラップのかかったおにぎりがあって、夜寝る前に聞こえるのは、母さんが台所で家計簿を叩きながら漏らす、すすり泣きだけだった」
駆の声が、怒りで低く震える。
「あんたはさっき、異世界で『美紀の説教が恋しかった』なんて言ったな。……母さんはな、説教をする相手すらいなかったんだよ! 怒りをぶつける対象も、相談する相手も、給料日の少なさを笑い飛ばす相手もいない! ただ一人、この数字の羅列と戦い続けて、50年だぞ!」
駆が次に差し出したのは、一冊の古い大学ノートだった。それは家計簿の余白を利用した、美紀の日記だった。
【1995年10月12日】
健一がいなくなって1年。今日も駆が「パパは?」と聞く。嘘をつくのが苦しい。「遠いところでお仕事してるのよ」と言うたびに、胸が張り裂けそうになる。あのバカ。帰ってきたら、絶対にタダじゃおかない。
【2005年8月20日】
駆が反抗期。健一に似てきた。顔を見るのが辛い時がある。あの日、どうしてゴミ出しを頼まなかったんだろう。もしあの時、私が引き止めていれば、彼は今もここでビールを飲んでいたんだろうか。
【2015年3月15日】
駆が結婚した。健一に見せたかった。もう、怒る気力もなくなってきた。ただ、一度でいいから、あの脱ぎっぱなしの靴下を片付けさせてほしい。それだけで、私の人生は報われるのに。
【2020年5月3日】
最近、物忘れがひどい。健一の顔が、時々思い出せなくなる。怖い。彼を忘れたら、私は何のためにここまで頑張ってきたのか分からなくなる。健一、どこにいるの。助けて。
日記の文字は、最後の方になるほど震え、乱れ、そしてある日を境にプツリと途絶えていた。
「……っ、う、あああああ……ッ!」
健一はノートを抱きしめ、床に額を擦りつけた。
レベル999。神をも凌駕する力を手に入れたつもりだった。
世界を更地にするほど、俺は「強くなった」と思っていた。
だが、そんなものは、50年間一人で生活を守り抜き、息子を育て、自分という影を追い続けた美紀の「ただの1日」の重みにすら勝てなかった。
「……駆。俺は……俺は……」
「あんたが何をしたって、失われた50年は戻らない。母さんの脳から消えたあんたの記憶も、戻らない。……あんたは、若いままだ。俺より、今の母さんより、ずっと若くて、無傷だ。……それが、俺には何よりも許せないんだよ」
駆は健一を冷たく突き放し、立ち上がった。
「母さんはもうすぐ寝る。……今夜は客間に泊まればいい。明日になったら、二度と俺たちの前に現れないでくれ。……母さんの穏やかな老後を、あんたという『幽霊』でかき乱したくないんだ」
駆が部屋を出ていく。
一人残された健一は、暗がりの小部屋で、古い家計簿と日記の山に囲まれていた。
異世界での英雄譚など、ここでは一文の価値もない。
彼が持っているのは、かつて美紀が忌み嫌った「安物のシルバーリング」と、使い道のない強大な魔力だけだ。
(……俺は、何を救ったんだ?)
世界を救った。魔王を倒した。
でも、一番救いたかった人の、一番辛い時期に、俺はそばにいなかった。
美紀が一人でレジを打ち、腰を痛め、鏡を見て増えていくシワを数えていた時、俺は魔物と戦って「レベルアップ」を喜んでいた。
健一は、左手の指輪をそっと撫でた。
砕け散ったはずの指輪が、現実世界に戻った瞬間に再生していたのは、おそらく異世界のシステムの「最後の嫌がらせ」だったのだろう。
『お前が壊した世界の残滓は、その指輪に宿り続ける。お前の望んだ日常が、お前の絶望に変わるのを、特等席で見届けろ』
「……嫌がらせか。上等だよ」
健一は、涙を拭った。
彼の瞳に、かつての「生活の執念」が、より鋭く、より静かに宿り始める。
「美紀。……50年、待たせたな。……小遣い三万円、いや、一円もいらない。……俺に、あんたの50年分の『家事』を、肩代わりさせてくれ」
健一は立ち上がり、音を立てずにリビングへ向かった。
そこには、テレビをつけたまま、ソファでうたた寝をしている美紀の姿があった。
彼女の足元には、脱ぎ捨てられた毛布が落ちている。
健一は、異世界の魔力を、殺戮のためではなく、**「究極の静寂」と「最適な温度調整」**のために練り上げた。
老いた妻の体温を奪わないよう、部屋の空気を優しく包み込み、そっと毛布を掛け直す。
「……健……ちゃん……?」
寝言のように、美紀の口からその名前が漏れた。
健一の心臓が跳ね上がる。だが、彼女の目は開かない。
「……ビール……冷えて、ないわよ……」
美紀は、50年前の、まだ若かった頃の夢を見ているようだった。
健一は彼女の傍らに跪き、そのシワだらけの手を握りしめた。
「ああ、分かってるよ、美紀。……次は、ちゃんとキンキンに冷やしておくから」
魔王を倒すよりも、世界を更地にするよりも。
自分を忘れた妻に、もう一度「家族」として認識されることの方が、遥かに絶望的で、遥かに困難なクエストだ。
だが、レベル999の勇者・佐藤健一は、初めてこの力に感謝した。
50年分の遅れを取り戻すために。
明日、目が覚めた美紀が「あら、泥棒かしら?」と叫ぶその前に。
健一は、かつて彼女が愛し、そして憎んだ「掃除機」を手に取ることを決意した。
「……まずは、この50年分の埃を、全部払い落としてやる」
家計簿の裏に記された、美紀の「血と汗の記録」。
それを一ページずつ読み解きながら、健一の「本当の第二章」が、この静かなマンションの一室で、ひっそりと始まった。




