第1話:50年後の玄関先、見知らぬ「息子」の眼差し
第1話:50年後の玄関先、見知らぬ「息子」の眼差し
光の渦が消え、網膜に焼き付いていた異世界のノイズが、ゆっくりと現実の色彩へと収束していく。
健一は、アスファルトの冷たさと、排気ガスの混じった懐かしい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「……帰った。帰ってきたんだ、美紀、駆……!」
膝をつき、地面を叩く。そこには、魔王城の冷酷な石床でも、システムが作った無機質なグレーのテクスチャでもない、ひび割れた本物のアスファルトがあった。
だが、何かがおかしかった。
目の前にあるはずの安アパート『コーポ緑ヶ丘』がない。
そこには、見覚えのない小綺麗な低層マンションが建っていた。周囲の空き地はコインパーキングに変わり、遠くに見えるビル群の形も、記憶にあるものより遥かに高く、歪に見える。
「……なんだ? 住所を間違えたか? いや、そんなはずは……」
健一は自分の手を見た。
魔王を倒し、世界を更地にしたあの筋骨逞しい「勇者の体」ではない。安物のスーツに身を包んだ、少し猫背気味の、あの冴えないサラリーマンの体に戻っている。
だが、左手の薬指には、砕け散ったはずのあのシルバーリングが、鈍い光を宿して張り付いていた。
「……おい、そこの君。人の家の前で何をシクシク泣いているんだ?」
背後からかけられた声に、健一は跳ねるように振り返った。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
年齢は50代半ばだろうか。仕立ての良いグレーのジャケットを着こなし、白髪混じりの短髪を整えた、落ち着いた雰囲気の紳士だ。
だが、健一はその男の「目」を見て、心臓が止まりそうになった。
垂れ下がった目尻。少し横に広い鼻。そして、困った時に右眉を上げる、その独特の癖。
「……か、……駆……?」
健一の口から、無意識に息子の名前が漏れた。
目の前の紳士は、一瞬だけ怪訝そうに眉をひそめ、それから自嘲気味に笑った。
「私の名前を知っているのか? 驚いたな。……だが、君のような若い男に呼び捨てにされる筋合いはないんだがね。……それにしても、君……。どこかで会ったことがあるような……」
紳士――50年後の駆は、健一を値踏みするように見つめた。
健一の頭の中で、異世界のシステムが最後に嘲笑った声がリフレインする。
『時間の流れは次元ごとに異なる。お前が掴み取った一瞬は、こちらの「半世紀」だ』
「……50年。……まさか、そんな……」
健一は震える足で立ち上がった。
「美紀は!? 駆、お母さんはどうしたんだ! どこにいるんだよ!」
「……母を知っているのか!? 君、一体何者だ。その汚れたスーツ……そして、その指輪……」
駆の目が鋭く光る。彼は健一の胸ぐらを掴もうとして、その顔を間近で見た瞬間、絶句した。
仏壇に供えられている、古ぼけた写真。
35歳で失踪し、死体も見つからないまま「認定死亡」となった、若き日の父の面影。
「……嘘だ。父さん……なのか? バカな。父さんは50年前に死んだはずだ。蒸発したのか、事件に巻き込まれたのか……母さんは、ずっとそう言って……」
「駆! 俺だ、健一だ! 信じてくれ、俺は……俺は今まで、ずっと戦ってたんだ! お前たちのところに帰るために、世界を一つぶち壊してまで……!」
健一の叫びは、虚しく高級マンションの壁に反響した。
駆の手が震えている。怒りと、混乱と、そして50年分の蓄積された「捨てられた子供」としての恨みが、その瞳に渦巻いていた。
「……戦っていた? 帰るために? 笑わせるな! 50年だぞ! 母さんがどれだけ苦労したと思っている! あんたがいなくなった後、借金取りが来て、母さんは夜も寝ずに働いて、俺を一人で育て上げたんだ! 今さら、そんな若い姿で現れて、何の冗談だ!」
「借金……? 俺、そんなもん作って……っ!」
健一は言葉を失った。自分が消えた後、残された家族がどんな地獄を見たか。魔王軍の侵攻よりも、家計の崩壊の方が、美紀を、駆を苦しめていたのだ。
「……母さんは今、あの中だ」
駆がマンションのインターホンを指差した。
「だが、もう手遅れだよ。母さんは……あんたのことも、俺のことも、もうほとんど覚えていない」
「……え?」
「認知症だよ。もう5年も前からだ。……あんたがどんなに叫んでも、あの人はもう、あんたを『旦那』だとは認識できない」
健一は崩れ落ちそうになる体を、壁に預けた。
世界を更地にしてまで守りたかった「美紀に怒られる日常」は、時の流れという残酷な魔法によって、修復不可能なほどに風化していた。
「……会わせてくれ。駆、お願いだ。一目だけでいい。……謝らせてくれ」
駆は、憎しみのこもった目で健一を見下ろしていたが、やがて深く、長くため息をついた。
「……ついてこい。……母さんは、あんたが帰ってくるのを、30年待ってた。……40年目からは、待っていることさえ忘れていった。……その最後を、あんたのその若々しい目で、しっかり見ておくといい」
健一は、鉛のように重い足を引きずり、マンションのエレベーターに乗り込んだ。
50年。
彼が失ったのは、単なる時間ではない。
妻の若さ、息子の成長、そして、自分がそこにいたという「居場所」の全てだ。
部屋の扉が開く。
そこには、夕陽の差し込む静かなリビングがあった。
ソファに座り、窓の外をぼんやりと眺めている、小さくて、真っ白な髪をした老女の姿があった。
「……美紀」
健一の声が、震える。
かつて般若のように自分を怒鳴りつけ、掃除機のノズルを武器に戦っていた、あのエネルギーの塊のような女性の面影は、そこにはなかった。
ただ、静かに、枯れ木のように佇む一人の老人がいた。
「母さん。……お客さまだよ。……お父さんに、よく似た……お客さまだ」
駆の声に、老女はゆっくりと顔を向けた。
その瞳は濁り、健一の姿を捉えているようで、その実、遥か遠くの虚空を見つめているようだった。
「……あら。……お客さま? ……駆さん、この方は……どなたかしら?」
美紀の口から漏れたのは、健一が一度も聞いたことのない、お淑やかで、それでいてひどく冷たい、他人のための声だった。
健一の視界が、一瞬で涙に濡れた。
レベル999の勇者は、魔王を倒すことはできても、妻の記憶から消えた自分を、取り戻す術を持っていなかった。
「……俺だ。美紀……。健一だよ。……帰ったんだ。遅くなって、ごめん……ごめんな……っ!」
健一は床に膝をつき、子供のように泣きじゃくった。
だが、老いた美紀は、ただ不思議そうに首を傾げ、皺の刻まれた手で健一の頭を、まるで見知らぬ迷い犬を撫でるように、優しく、空虚に撫でるだけだった。
「……健一さん? ……いいえ、私の主人は、もっとずっと前に……星になったのよ。……あなたは、その方の……親戚かしら?」
50年越しの「ただいま」は、乾いた風に吹かれ、かつての「地獄のような幸せ」の破片さえも拾い集めることができなかった。
健一の本当の戦いは、ここから始まる。
失われた50年を埋めるための戦いではない。
自分を忘れた妻に、もう一度「あんた! また掃除が甘いわよ!」と言わせるための、絶望的な、しかし彼にとっては唯一の希望の物語が。




