表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レベル999の最強勇者になったのに、左手の結婚指輪(呪い)が嫁の説教を再生し続けてくる件  作者: セルライト
最終章:浦島勇者の帰還

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/19

第1話:50年後の玄関先、見知らぬ「息子」の眼差し


第1話:50年後の玄関先、見知らぬ「息子」の眼差し

光の渦が消え、網膜に焼き付いていた異世界のノイズが、ゆっくりと現実の色彩へと収束していく。

健一は、アスファルトの冷たさと、排気ガスの混じった懐かしい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

「……帰った。帰ってきたんだ、美紀、駆……!」

膝をつき、地面を叩く。そこには、魔王城の冷酷な石床でも、システムが作った無機質なグレーのテクスチャでもない、ひび割れた本物のアスファルトがあった。

だが、何かがおかしかった。

目の前にあるはずの安アパート『コーポ緑ヶ丘』がない。

そこには、見覚えのない小綺麗な低層マンションが建っていた。周囲の空き地はコインパーキングに変わり、遠くに見えるビル群の形も、記憶にあるものより遥かに高く、歪に見える。

「……なんだ? 住所を間違えたか? いや、そんなはずは……」

健一は自分の手を見た。

魔王を倒し、世界を更地にしたあの筋骨逞しい「勇者の体」ではない。安物のスーツに身を包んだ、少し猫背気味の、あの冴えないサラリーマンの体に戻っている。

だが、左手の薬指には、砕け散ったはずのあのシルバーリングが、鈍い光を宿して張り付いていた。

「……おい、そこの君。人の家の前で何をシクシク泣いているんだ?」

背後からかけられた声に、健一は跳ねるように振り返った。

そこに立っていたのは、一人の男だった。

年齢は50代半ばだろうか。仕立ての良いグレーのジャケットを着こなし、白髪混じりの短髪を整えた、落ち着いた雰囲気の紳士だ。

だが、健一はその男の「目」を見て、心臓が止まりそうになった。

垂れ下がった目尻。少し横に広い鼻。そして、困った時に右眉を上げる、その独特の癖。

「……か、……かける……?」

健一の口から、無意識に息子の名前が漏れた。

目の前の紳士は、一瞬だけ怪訝そうに眉をひそめ、それから自嘲気味に笑った。

「私の名前を知っているのか? 驚いたな。……だが、君のような若い男に呼び捨てにされる筋合いはないんだがね。……それにしても、君……。どこかで会ったことがあるような……」

紳士――50年後の駆は、健一を値踏みするように見つめた。

健一の頭の中で、異世界のシステムが最後に嘲笑った声がリフレインする。

『時間の流れは次元ごとに異なる。お前が掴み取った一瞬は、こちらの「半世紀」だ』

「……50年。……まさか、そんな……」

健一は震える足で立ち上がった。

「美紀は!? 駆、お母さんはどうしたんだ! どこにいるんだよ!」

「……母を知っているのか!? 君、一体何者だ。その汚れたスーツ……そして、その指輪……」

駆の目が鋭く光る。彼は健一の胸ぐらを掴もうとして、その顔を間近で見た瞬間、絶句した。

仏壇に供えられている、古ぼけた写真。

35歳で失踪し、死体も見つからないまま「認定死亡」となった、若き日の父の面影。

「……嘘だ。父さん……なのか? バカな。父さんは50年前に死んだはずだ。蒸発したのか、事件に巻き込まれたのか……母さんは、ずっとそう言って……」

「駆! 俺だ、健一だ! 信じてくれ、俺は……俺は今まで、ずっと戦ってたんだ! お前たちのところに帰るために、世界を一つぶち壊してまで……!」

健一の叫びは、虚しく高級マンションの壁に反響した。

駆の手が震えている。怒りと、混乱と、そして50年分の蓄積された「捨てられた子供」としての恨みが、その瞳に渦巻いていた。

「……戦っていた? 帰るために? 笑わせるな! 50年だぞ! 母さんがどれだけ苦労したと思っている! あんたがいなくなった後、借金取りが来て、母さんは夜も寝ずに働いて、俺を一人で育て上げたんだ! 今さら、そんな若い姿で現れて、何の冗談だ!」

「借金……? 俺、そんなもん作って……っ!」

健一は言葉を失った。自分が消えた後、残された家族がどんな地獄を見たか。魔王軍の侵攻よりも、家計の崩壊の方が、美紀を、駆を苦しめていたのだ。

「……母さんは今、あの中だ」

駆がマンションのインターホンを指差した。

「だが、もう手遅れだよ。母さんは……あんたのことも、俺のことも、もうほとんど覚えていない」

「……え?」

「認知症だよ。もう5年も前からだ。……あんたがどんなに叫んでも、あの人はもう、あんたを『旦那』だとは認識できない」

健一は崩れ落ちそうになる体を、壁に預けた。

世界を更地にしてまで守りたかった「美紀に怒られる日常」は、時の流れという残酷な魔法によって、修復不可能なほどに風化していた。

「……会わせてくれ。駆、お願いだ。一目だけでいい。……謝らせてくれ」

駆は、憎しみのこもった目で健一を見下ろしていたが、やがて深く、長くため息をついた。

「……ついてこい。……母さんは、あんたが帰ってくるのを、30年待ってた。……40年目からは、待っていることさえ忘れていった。……その最後を、あんたのその若々しい目で、しっかり見ておくといい」

健一は、鉛のように重い足を引きずり、マンションのエレベーターに乗り込んだ。

50年。

彼が失ったのは、単なる時間ではない。

妻の若さ、息子の成長、そして、自分がそこにいたという「居場所」の全てだ。

部屋の扉が開く。

そこには、夕陽の差し込む静かなリビングがあった。

ソファに座り、窓の外をぼんやりと眺めている、小さくて、真っ白な髪をした老女の姿があった。

「……美紀」

健一の声が、震える。

かつて般若のように自分を怒鳴りつけ、掃除機のノズルを武器に戦っていた、あのエネルギーの塊のような女性の面影は、そこにはなかった。

ただ、静かに、枯れ木のように佇む一人の老人がいた。

「母さん。……お客さまだよ。……お父さんに、よく似た……お客さまだ」

駆の声に、老女はゆっくりと顔を向けた。

その瞳は濁り、健一の姿を捉えているようで、その実、遥か遠くの虚空を見つめているようだった。

「……あら。……お客さま? ……駆さん、この方は……どなたかしら?」

美紀の口から漏れたのは、健一が一度も聞いたことのない、お淑やかで、それでいてひどく冷たい、他人のための声だった。

健一の視界が、一瞬で涙に濡れた。

レベル999の勇者は、魔王を倒すことはできても、妻の記憶から消えた自分を、取り戻す術を持っていなかった。

「……俺だ。美紀……。健一だよ。……帰ったんだ。遅くなって、ごめん……ごめんな……っ!」

健一は床に膝をつき、子供のように泣きじゃくった。

だが、老いた美紀は、ただ不思議そうに首を傾げ、皺の刻まれた手で健一の頭を、まるで見知らぬ迷い犬を撫でるように、優しく、空虚に撫でるだけだった。

「……健一さん? ……いいえ、私の主人は、もっとずっと前に……星になったのよ。……あなたは、その方の……親戚かしら?」

50年越しの「ただいま」は、乾いた風に吹かれ、かつての「地獄のような幸せ」の破片さえも拾い集めることができなかった。

健一の本当の戦いは、ここから始まる。

失われた50年を埋めるための戦いではない。

自分を忘れた妻に、もう一度「あんた! また掃除が甘いわよ!」と言わせるための、絶望的な、しかし彼にとっては唯一の希望の物語が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ