プロローグ:澱(よど)んだ銀の輪
午前二時。換気扇の下で、佐藤健一はひとり、冷え切った発泡酒を煽っていた。
蛍光灯の微かな羽音だけが、静まり返ったキッチンに響いている。
一口飲んでは、深いため息をつく。その繰り返しだ。
今日の営業回りでも、上司からは「覇気がない」と罵倒され、追い打ちをかけるように後輩のミスを押し付けられた。銀行の通帳を開けば、あと三十年も残っている住宅ローンの数字が、まるで逃れられない死刑宣告のように自分を睨みつけてくる。
「……はぁ。」
健一の視線は、無意識にリビングへと向けられた。
そこには、脱ぎ捨てられた自分の靴下を片付けることもしなくなった、冷え切った夫婦の成れの果てがあった。
かつては「おかえり」の一言に安らぎを感じた時期もあったはずだ。しかし今、妻・美紀との会話は、事務的な連絡か、さもなければ互いの欠点をつつき合う小言の応酬でしかない。
「あー、また洗い物残してる。明日早いって言ったじゃない」
夕食時に浴びせられた美紀の尖った声が、鼓膜の奥でリフレインする。
労いも、歩み寄りもない。ただ、日々の生活を維持するための「共同経営者」という名の義務感だけが、首を絞める縄のようにじわじわと健一の自由を奪っていた。
ふと、左手の薬指に視線を落とした。
安物のシルバー。かつては永遠の愛を誓った証。
それが今では、むくんだ指に深く食い込み、血の巡りを止める呪具のように見えた。
皮肉なものだ。この小さな輪っか一つで、男の人生はこうも「不自由」に固定されてしまうのか。
「……これさえなければ。」
指先で、いっそ忌々しい指輪をなぞる。
「これさえ、なかったら。俺はもっと、どこへだって行けた。誰に縛られることもなく、自由になれたはずなんだ……!」
その言葉が、澱んだ夜の空気の中で輪郭を持った。
瞬間。
指輪が、生き物のようにドクンと脈打った。
「え……?」
健一が目を見開いたのと同時、薬指からどす黒い光が溢れ出す。




