16.出立2
そこに思い至らなかった、という様相だった。
この政略結婚の成就に思いを馳せるあまり、アデラインが病弱でか弱い乙女だということを失念していたか。
エレノア自身は北部の魔獣討伐など何度も参戦したし、雪の中の行軍や野営なども手慣れたものなのだが。
――もちろん、本当に必要であれば、アデラインは己の身を犠牲にしても、黙って従うだろう。
「申し訳ありません。私の思慮が足りませんでした。アデライン殿の身を危険にさらすのは本意ではありません」
思いのほかあっさりと、ルヴィンは矛先を納めた。落ち込んでいるようにすら見える。
「あなたをお守りしたい気持ちは本心です。インセクレムへ向かおうとしたのも、あなたを守るためです」
エレノアは、過日にメルと名乗っていた少年を思い出した。傷を負い、疲れ切って、すさんでいた。
魔獣討伐の陣中で叱咤激励して――叱咤の方が多かったが、共に戦ったエレノアになついて、笑顔を見せるようになった様子は、捨てられた子犬のようだった。
彼は帝国で生き抜き、皇太子として立場を強く確立するため、多くの理不尽や危険に立ち向かってきたのだろう。
エレノアがあの頃のままではないのと同じように、彼も当然あの頃のままではない。だが、あの頃の子供は心の内に住んでいる。
ふと懐かしくなり、切なくもなり、エレノアは微笑んだ。
「人目を欺いて去り、遠くで結婚式を行おうとなさるなんて。まるで駆け落ちですね」
ルヴィンは目を見開き、それから苦笑した。
「確かに、そうですね」
そして穏やかに続ける。
「アデライン殿がこの停戦を願っておられることを確かめることができ、幸いでした。必ず無事に帝都へお送りいたします」
ガタン、と大きく馬車が揺れた。
急いで走る馬車が通る道は、大きな街道ではないようだった。道が悪く、馬車の揺動が大きい。
ついエレノアは、馬車の揺れなどものともしない自分の体幹に従ってゆったり座っていたが、アデラインがこんな揺れに耐えられるはずもなかった。それにもうこれ以上話すことはなさそうだ。
ボロがでないうちに、この密室を離れたい。何があっても、この目撃者だけは消すわけにいかないのだから。
「うう……」
エレノアはハンカチで口許をおさえ、うつむいた。反対の手でこめかみをおさえる。
「いかがされました!?」
慌てた様子でルヴィンが腰を浮かす。
再び、ガタン、と馬車が揺れた。
エレノアはわざと体勢を崩してよろける。壁にもたれるつもりが、うっかり力加減を間違えてルヴィンの胸の中に倒れ込んだ。
人のぬくもりが頬に触れ、思いのほか厚い胸板に少しばかり感心する。
端整な顔立ちと、魔道士という肩書きで侮りがちだが、そこらの騎士には負けないほどに鍛えているようだ。
戦場のエリック公子とは剣を交えた事もあり、それなりに剣技もこなすことは知っていたが。
「ごごごご無事ですか!?」
先ほどまでの落ち着いた姿はどこへやら、哀れなほど動揺した声が、耳を寄せた胸に響き、上から降ってくる。心臓が早鐘を打つ音が響いている。
見上げると、顔を真っ赤にしたルヴィンが、その赤い目でエレノアを見ている。
助け起こしたいようだが、エレノアに触れるのはためらわれるようで、おろおろと手をあげ、またおろしてを繰り返していた。
予想以上の慌てぶりにエレノアのほうが動揺してしまった。しかも、うっかり剣技に思いを馳せて、すがりついたままだった。
「申し訳ありません」
エレノアは身を起こして座り直した。揺れる馬車で、ひとりで体勢を立て直せるのは明らかに不自然なのだが、ルヴィンが手伝ってくれないのだから仕方がない。
「このあたりは道が悪いものですから」
ルヴィンはとりつくろうように言った。手を貸さなかったことに今更気づいたようで、壁にもたれて座るエレノアを不安そうにうかがっている。
「お加減がお悪いのでしょうか? 配慮が足りず申し訳ありません」
具合が悪いふりを束の間忘れて、ルヴィンを観察した。
彼はさっきよりは落ち着いた様子で、心配そうにまっすぐエレノアを見ている。目があって、慌てて顔を伏せた。
「なんでもありませんわ。慣れぬ長旅で少し疲れたようです。お気になさらないでください」
とてもものすごく疲れて具合が悪い。というのを押し隠しているけなげな表情に見えるよう、エレノアは弱々しく微笑んだ。
再び、ガタンと馬車が揺れる。




