プロローグ
肌を刺すような寒風の中、エレノアは見た。
聖地インセクレムの北の果て、魔獣達の住み処の奥で、異界の切れ目が大きく広がっていく。雪の降りしきる曇天を、さらに暗黒に染めていった。
まがまがしくも強大な気配がやってくる。
雪に覆われた森の中、エレノア達は魔獣に取り囲まれていた。裏切り者に襲われ、騎士達は傷つき、立っている者はわずかだ。
エレノアはひどく腹が立っていた。
どこまで正体を偽り、どこまで、誰を犠牲にすべきなのか。
「アデライン……逃げてください」
エレノアの前に立っていたルヴィンが振り返る。魔力を使い果たした顔は青ざめ、赤い瞳は生気が無い。この北の地に体力を奪われているのは明らかだった。
並外れた魔道士でありながら、騎士としても秀でる皇太子は、決して軟弱な男ではない。身も心も。
彼はこれほど追い詰められてもなお、アデライン皇女になりすましたエレノアの前に立ち、盾になろうとしていた。
しかし皆を守っていた結界が途切れる。
彼の意志とは裏腹に、魔力が尽きたのだろう。寒風が、魔獣たちの瘴気が、さらに兵たちを襲った。
ただエレノアは、守られたままなのが分かる。ルヴィンは力尽きようとも、エレノアを――アデライン皇女を守るためだけの結界を残していた。
「ルヴィン!」
エレノアは慌てて駆け寄り、ルヴィンを支える。
「しっかりしてください、ルヴィン!」
黒髪の青年は、立ったまま意識を失っていた。目を閉ざしたまま動く気配がない。
エレノアは、ルヴィンの手の剣を見る。
聖剣と謳われる、北部辺境伯家の宝。救国の英雄が手にすると言われる剣だ。
誰もが使うことのできるものではない。
その鞘を抜くことができるのは、剣に選ばれた者だけだと言われている。むしろ、不遜な者が手に取れば、手ひどく罰するのだとも。
本来ならばその持ち主は、吟遊詩人の歌の主人公になるべきだし、皇家からも貴族からも敬意を持って接せられるべきだ。
その剣を手にしてもなお、赤い目のせいで「魔獣の皇子」と貶められてきたルヴィンの、国での立場を考えると胸が痛む。
果たして、その聖剣は何を考え、何のためにこの皇子を選んだのか。そしていま、この追い詰められた状況で、どうするつもりであるのか。
いま武器と呼べるものはこれしかない。
エレノアはルヴィンを支え、彼が握ったままの聖剣の柄に手をかける。触れただけで拒絶されることは無かった。握り込むと、不思議なほど手になじんだ。
「聖剣よ、気が向いたら力を貸してほしい。ルヴィンを守りたいだろう」
抜き身の剣が、金色に輝いた。神官が扱う神聖力のような美しい光が、揺らめいて立ちのぼる。ルヴィンの扱う魔力のようだ。
応、だと受け取った。
ルヴィンを救うためか、危機的状況を抜け出すためかは分からないが。
エレノアは意を決して、ルヴィンの手の上から聖剣の両手で掴んだ。地面に突き立てる。
それから大きく息を吸い込む。全身の気の巡りを強く意識して、腹に力を込めた。青い剣気が、炎のようにエレノアを包み込んでいく。
ドレスの裾が、金の髪があおられて踊る。降り積もった雪が舞い上がり、吹き付ける風雪が煙のように散っていく。エレノアの紫の瞳が、青く輝く。
七本の、実体無き青い剣が、エレノアの周りを取り巻いた。
残された兵達のどよめきが聞こえる。動揺が広がる。
「あの青炎……!」
「まさか、剣気!?」
追い詰められた状況に加え、あり得ない事態に、兵達の気が散じている。隙を魔獣に襲われたか、どこかから悲鳴が聞こえた。
吹き付ける風雪に負けじとエレノアは声を張り上げる。
「よそ見をするな! 目の前の敵を倒すことにだけ集中しろ!」
こんな風、子供の頃の魔獣討伐の折、吹雪の中で川に落ちて、軍とはぐれた時に比べればどうと言うことはない。
「血路を開く。戦える者は剣を持て。動けぬ者は、より動けぬ者を守れ。必ず私が連れて帰る」
正体がばれようとも、気にしている場合ではない。ごまかす術は、後でいくらでも考える。
やられたことに力でやり返していいなら、いくらでもやれるのだ。
この世のほとんどの者に対して、エレノアは力で駆逐し、ひれ伏させる事ができる。
しかしそれは、理不尽というものだ。たまたま強く生まれ落ち、力を持っている者に、そうでないものが従わされるのは。
エレノアにそれを特に思わせたのは、アデライン皇女だった。
病弱だが聡明な彼女は、その存在で、ただただ力で人を従えることの意味のなさを、エレノアに教えてくれた。
大事なものは力ではない。
だが、力が何より必要な時も、確かにある。――今のように。
エレノアは心底腹が立っていた。
ルヴィンを、兵達を、彼女自身をこのように追い込んだ状況に。それをやってくれた者に。
そしてここまで、何もしなかった自分に。もっと早く決断すべきではなかったか。いくら政治的な問題が起きると言っても、国際問題に発展すると言っても、戦が再び起きるかもしれないと言っても!
力を隠していなければ、今まで犠牲になった者のどれだけが救えたか。
エレノアは、気を失ってなお、エレノアや兵達を守ろうと立ったままの夫を支えて、その手と剣を強く握る。目前に広がる不穏の気配を強く睨んだ。
つまるところ、ルヴィンを驚かせたくなかったのだ。騙したと軽蔑され、失望され、拒絶されたくなかった。それが一番情けなくも腹が立った。
死なせてなるものか。
ルヴィンの施してくれた結界と、聖剣の神聖力と、エレノア自身の剣気と。
これだけあれば幾ばくかは戦えるだろう。
「この青炎の暴君の剣の犠牲になりたければ、いくらでも来るがいい」
腹いせでかまわない。目の前の理不尽に鉄槌を下してやる。




