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星の案内人 — The Keeper of Starlight   作者: テレン


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第3話 灯台とポケットコンパス

夜の風向きが、少しだけ南東へ傾いた。

コンパスの蓋の内側――眠らない星が描きかけの線は、昨夜よりも角がひとつ増えている。

点は三つ、間は短く、短く、長く。

呼吸ではない。呼び水の拍だ。


宵真は川沿いの道を歩いた。

堤防のコンクリートは夜露でぬるく、欄干の金属は手袋越しにかすかな塩を残す。

この街は海から遠いのに、ときどき潮の匂いがする。

その匂いがすると、灯台のことを思い出す。

街はずれの、役目を終えて久しい白い塔。

灯りはもう点かないが、階段は生きている。

足音を受け止める癖だけは、まだ古いまま残っている。


「南東」

宵真は小さくつぶやき、欄干を離れた。

眠らない星は、今夜も眠らない。

ポケットの内側でゆっくりと温度を上げ、蓋の裏に細い星座を押し写していく。



灯台が見えた。

工場の黒い屋根の向こうに、夜の牛乳のような白が立っている。

近づくと、塔の根元に小さな屋台があった。

赤い提灯ではなく、白いランタン。

凛がこちらに手を上げる。


「そっちへ行く気がして」

「読まれたか」

「案内人の足、風より正直だからね」


凛はマグにココアを落とし、紙コップではなく琺瑯のカップを差し出した。

「灯台の前は、紙がしけるから」

宵真は受け取り、湯気の上で息をひとつ合わせる。

眠らない星が胸の内で短く、短く、長くと鳴った。

それだけで、塔の影が一段濃くなる。


「登るんでしょ」

「試してみる」

「付き合う」


ふたりで塔の扉を押す。

金属の蝶番がやわらかく悲鳴を上げ、湿った空気が肩にまとわりつく。

螺旋階段は狭く、踊り場のたびに夜景が切れ切れに見えた。

遠い光が、砂糖をまぶしたように小さく震えている。


中腹で、凛が息を整えた。

「ねえ、宵真くん。案内人って、“灯りを点ける人”でもあるの?」

「灯りは、もともと点いてる。落ちたのを返すだけだ」

「じゃあさ、あなたのコンパスは――」

凛は言いかけて、唇に人差し指を当てる。

黙る合図。

宵真は頷き、階段をもう少し急いだ。


最上部。

丸い踊り場に出ると、ガラス越しに海のない水平線が見えた。

街の光と雲の暗さの境い目が、まるで古い紙の継ぎ目みたいにわずかに盛り上がっている。

ここから見える空は狭く、星は数えるほどしかない。

それでも、夜の空気は“点を探す”のに向いている。


宵真はコンパスの蓋を開ける。

眠らない星が、凛の顔をいちどだけ照らし、すぐに外へ向き直った。

南東。

塔よりさらに低いところ――街の屋根の、その下。

空ではない。地上のどこかが、光を欲しがっている。


「人?」

凛が尋ねる。

「人の拍じゃない。場所の拍でもない。たぶん――時間だ」


時間に星を返すのは、難しい。

人は胸で受け取り、場所は影で受け取る。時間は間で受け取る。

成功すると、時計の音が一瞬だけ遅れる。

失敗すると、案内人の胸の奥に長い空白が残る。

そこへ間違った光が住みつくと、迷いが削れず、ただ摩耗する。


「危ない?」

凛の問いはやわらかいが、芯がある。

宵真は短く笑う。

「今夜は、危ない方へ行く」

「なら、帰りに甘いのを二杯」

「先払い?」

「ツケでいいよ。命の次に信用できるのは、あなたのツケ」


宵真はわずかに肩の力を抜き、ガラス戸を押して外の回廊へ出た。

風がはっきり南東から吹く。

コンパスの蓋の内側で、星座の線が一気にほどけ――そこに灯台の図形を描いた。

塔の見取り図に似ているが、どこかが違う。

階段の数がひとつ余分で、窓の位置が一段下がっている。

つまりこれは、過去の灯台だ。


「時間に返すなら、塔が記憶している夜へ」

宵真は手すりに手を置いた。冷たい鉄が皮膚の下の温度を奪い、代わりに耳が敏くなる。

遠く、波のない街で、鐘の音が一度だけ鳴った。

この塔が現役だった頃の合図かもしれない。

眠らない星の拍が、その音へ重なる。短く、短く、長く。

呼び水が、向こうからもわずかに返ってくる。


「いける」

宵真は光を親指に移し、回廊の影――階段へ続く空気の角にそっと触れた。

空気が薄い膜になって震える。

見えない紙の端をめくるみたいに、夜がすこしだけめくれた。


そこへ、別の光が転がり込んできた。

小さな、弱い、しかし確かな落ち星。

眠らない星が迷いなくそれを抱きとめ、二つの光は一瞬で同じ拍に揃う。

短く、短く、長く。

凛が息を呑む音がした。


「……今、誰かの寄り道が、ここへ来た」

宵真は低く言い、二つの光を合わせたまま、ゆっくりと過去の階段へ押し返す。

塔の内部から、古い足音が上ってくる気配――誰かの息。

長い夜勤、冷えた手、ランプ油の匂い。

そのすべてが一度に目に見えない床板をきしませ、消える。


時計の音が、ほんの一拍だけ遅れた。


返った。

宵真は膝の力が抜けるのを感じ、手すりに寄りかかった。

胸の内側で、迷いがひとつ剥がれ落ちる。

代わりに、古い遠回りの輪郭が薄く残った。

それは痛みではなく、位置だった。


「大丈夫?」

凛がそばに来る。

「甘いの、三杯にする?」

「二杯でいい」

「強がり」

「案内人は、少しは強がらないと針が震える」


冗談を言い合える程度に、宵真の呼吸は戻っていた。

眠らない星は、満足げに静まる――と思ったが、まだ起きていた。

拍が変わった。短く、長く、短く。

今度は息。

時間ではなく、人を指している。


「誰か、来る」

宵真は階段の方を見やった。

扉が開きかけ、閉じた。

足音はしない。

それでも空気の弾力で、そこに立ち尽くす影があるのが分かる。


「どうぞ」

凛が先に声をかけた。

扉がためらいがちに開き、少女が半歩だけ顔を覗かせた。

灯台の下で見かける顔だ――昨夜の少年の妹に似ている、けれど違う。

もっと静かな目をしている。


「ここ、上がっていいのか分からなくて」

「大丈夫。今は点灯しないから、誰も叱らない」

宵真は言い、掌の光を隠した。

少女は胸に小さな箱を抱えている。

包装紙の角は擦れて、リボンはほどかれたまま。


「落とし物を探してて」

「何を」

「寄り道」

凛が宵真を見た。

宵真は小さくうなずく。

コンパスの針は動かない。

蓋の内側の星座の線が、少女の指先の位置に合わせてひとつだけ伸びた。

眠らない星が微かに震える。短く、短く、長く。


「渡せるかもしれない」

宵真はゆっくりと言った。

「君の寄り道、どこで落とした」

「ここで。たぶん、去年の冬。

 上まで来たのに、怖くて外を見なかった。

 それで、帰り道を早くしすぎて」

少女は箱の蓋を少し開ける。

中には、小さな手紙。破れ、テープで貼り直され、何度も折り目をつけた跡がある。

「本当は、これ渡すはずだった。

 でも、寄り道をしなかったら、渡す相手に会えなくて」


凛が息を呑む。

宵真は少女の手元に視線を落とし、言葉を選んだ。

「寄り道は、道からはみ出るためのものじゃない。

 会うはずの人に、ちゃんと会うためにある」

少女の瞳が、少しだけ動いた。

眠らない星が胸の裏であたたかくなる。

拍が短く、長く、短くへと柔らかく移る。

息と、息のあいだ。


宵真はコンパスの蓋を開け、少女の箱の上にそっとかざした。

眠らない星が自分の光を、箱の紙の繊維へうすく染み込ませる。

破れ目のテープがわずかに光り、貼り直された折り目がいちどだけ緩む。

紙が小さく呼吸した。

その呼吸の間で、塔の外の風が方向を変え――

南東の先、街の低いアパートの屋根で、別の光が一瞬だけ返事をした。


「今からでも、渡せる?」

少女の声は震えてはいない。

そのかわり、待っている音がした。

宵真は頷く。

「帰り道を急がないで。

 階段を降りるときに、踊り場ごとに一度ずつ立ち止まる。

 短く、短く、長く。その間で呼吸する。

 それで、会える」


少女は箱を胸に抱き直し、深く礼をした。

凛が小さく手を振る。

扉が閉まり、足音が拍を守って下へ消えていく。

塔のガラスが、風でわずかに鳴った。


「……うまい」

凛が笑った。

「寄り道の返し方。まるで昔からやってるみたい」

「案内人は掃除屋だって言ったろ」

「掃除、ね」

凛は宵真のポケットの位置を見て、目を細める。

「それで――その眠らない子は、満足した?」


宵真は胸に手を当てた。

光は、まだ起きている。

拍は短く、短く、長くから、短く、長く、短くへ、また戻り、行き来する。

人と時間のあいだを、行き来している。

それは、案内ではなく、学習にも似ていた。


「まだだ。もっと見たいらしい。俺の行き先を」

「あなた自身の?」

「ああ。

 灯台は道を教えるためにあるんじゃない。

 “自分の位置”に気づかせるためにある」

「その言い方、誰かの受け売り?」

「たぶん」

名前は出ない。

けれど、朔という音が胸の奥で薄く鳴って、すぐに静まった。


宵真は塔の外を見た。

街の端で、コインランドリーの灯りが三拍で揺れている。

短く、短く、長く。

眠らない星と同じ。

笑ってしまう。

世界は案外、拍に従順だ。


「降りよう」

「うん。甘いの、ツケ二杯分」

「三杯分だったはず」

「最後の一杯は、帰り道がうまくいったときのごほうびに取っとく」

凛の冗談に、宵真は肩をすくめた。

階段の一段目で、ふたりは同時に短く息を吸い、踊り場で短く止まり、扉の直前で長く息を吐いた。

拍に合わせると、夜はすこし歩きやすい。



塔を出て、屋台の明かりの下。

凛がマグを差し出す。

「お疲れ」

「助かった」

「私は階段で息を切らしただけ」

「それが助けだ」


宵真はマグを受け取り、指をあたためる。

眠らない星は、今夜いちども眠らなかった。

蓋の内側の星座は、小さな灯台の形の脇に、もうひとつ見覚えのない図形を描いている。

四角が斜めに傾き、その上に点が三つ。

凛が覗き込む。


「それ、なに」

「分からない。でも、俺のものだ」

言って、自分でも驚く。

案内人は自分のものを増やさない。

減らして、軽くして、誰かの道を運ぶ。

それなのに今夜、薄い図形が、彼の胸の奥に居場所を持った。


凛はマグをあおり、ふっと笑った。

「宵真くん。今夜のあなた、少し眩しい」

「灯台の反射だろ」

「ううん。あなた自身の灯り。

 たぶん、その星は“案内されるあなた”が好きなんだ」


宵真は何も言わず、マグの底を見た。

甘さは薄れていない。

眠らない星の拍が、やわらかく胸を叩く。

短く、短く、長く。

遠く、街のどこかで、同じ拍がゆっくり返された。


「……続きは、明日だな」

「明晩」

「甘いのは」

「ツケ、二杯」

「三杯目は」

「あなたの寄り道が終わった夜に」


ふたりは笑い、片付けにかかった。

提灯は灯台の影で小さく揺れ、風は南東から北へ向きを替える。

宵真はコンパスの蓋をそっと撫でた。

星座の線が、ほんのすこしだけ伸びる。

指先に、**会いにいくべき“過去”**の手触りが残った。


拍は、静かに続く。

短く、短く、長く。

案内人は歩く。

灯りを点けない灯台の下で、自分の場所を確かめながら。

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