2.ひび割れる空
「よくわからないおじさんだったな……」
船室に戻った後、シエラはぼんやりとおじさんのことを考えていた。狭いベッドだけ置かれた小さな船室はほとんど寝るためだけの場所だ。
ベッドに転がり煩悶賭している内にすっかり日も暮れてしまい、今は備え付けのランプで灯りを賄っている。
暗い船内にランプの灯り一つで少しだけ心許ない。
昼に言われたことをずっと考えているが、シエラにはどうしても素直に肯定できなかった。
「どこにも行けずに迷って、何にもなれなかったらそれって意味のある人生じゃない気がする……でも、そうできたら何か違ってくるのかな……」
おじさんに言われたことをぐるぐると考えてしまい、中々寝付けない。ランプは変わらず灯っているだけに、時間が一向に進んでいないようにシエラは感じる。
「外、出てみようかな……」
少し夜風に当たれば気持ちも紛れるかもしれない。シエラはそう思ってベッドから起き上がった。
甲板に出てみれば、潮風が強く吹き付けシエラは目をつぶる。船尾のホールはまだ賑わっているようで、甲板にもシエラと同じく夜風に当たりたい人達がぽつぽつと歩いていた。
夜の海は影を吸い込んだように黒く、それでいて波が立つとぬらりと光る。夜空は満天の星が瞬いているのに、その下の海はまるで生き物のように蠢いているように感じられた。
手頃な場所がないか探していると、ふと見覚えのある人影を見つける。昼間に会ったおじさんが手すりに寄りかかって海を眺めていた。
気になったシエラはそのままおじさんの側に歩み寄って声をかける。
「こんばんは」
「おや、こんばんは。昼間のお嬢さんか」
シエラはおじさんの隣まで来ると同じように手すりに寄りかかった。
「あの、昼間のことなんですけど」
「変なことを言ってしまったかな。気分を悪くしたなら謝るよ」
「いえ、そうじゃなくて……」
シエラは首を振って続ける。
「私にも旅ってできるのかな、って」
どこへ行きたいかも、どこに行くのかもわからない自分が旅をしたらどうなるのか。シエラは気になっておじさんに聞いてみる。
「旅は誰にだってできるものさ」
おじさんはシエラに微笑んで言った。
「でも、どこに行きたいのかもどこへ行けばいいのかもわからないです」
「つまり、どこにでも行けるってことだよ」
「どこにでも……」
「だから、自分の好きなところに行きなさい。行ってみて違うと思ったなら、また別の場所に行けばいい。そうして旅は続いていくものさ」
そしておじさんは両腕を大きく広げて空を見渡した。
「人生は旅さ! 大いに楽しもう!」
おじさんのおおらかな手振りを見て、シエラはほんのりと胸の奥に思いが生まれる。どこか、知らない場所を旅してみたい。という思いが。
「だったら、私も旅、してみようかな」
胸をきゅっと握るシエラに、おじさんは懐から万年筆を取り出してシエラに差し出した。
「それなら、おじさんから旅の餞別を。何かを書くのに使ってもいいし、ただ持っているだけでもいい。君がたくさんの景色を見て、それを心の中に記せるように」
「この万年筆って、あなたの大切なものじゃないんですか?」
昼間転がってきた琥珀色の万年筆を差し出すおじさんに、シエラは戸惑いがちに首を横に振る。いくら餞別といっても、大切なものをもらうなんてできない。
「きっと昼間君のところに転がっていったのも、こいつが君のところに行きたがってからかもしれない。だったら、私は独り占めするより縁を紡ぐためにこいつを渡した方がいいと思うんだよ」
さあ。と万年筆を手渡され、シエラはおずおずとその万年筆を受け取る。
とても変な人だ。でも、そんな人だから自分のことを話せたのかもしれない。
シエラは受け取った万年筆を手におじさんにお辞儀をした。
「ありがとうございます。あなたも、いい旅ができますように」
「ありがとう」
そんなやりとりをする中で、海が少しずつ荒れだしてきた。満天の星空もいつの間にか雲に覆われ、雲行きが怪しくなってきている。
「甲板に出てるお客様は船室に戻って! 嵐が来るかもしれない」
船員が甲板に出ている客達に戻るよう声をかける。シエラもおじさんと船内に戻ろうとしたとき、耳をつんざくような雷がすぐ側に落ちた。
稲光と空にヒビが入るような轟音に、一瞬シエラは思考が止まる。船員は焦った様子で客を呼び戻し、嵐を察した船員が次々と嵐に耐えるため持ち場に着いていく。
「ほら、お嬢さん。早く戻ろう」
おじさんが手を引きシエラを船内に連れていこうとする。シエラは気付いて手を握り返そうとする。直後に、視界が真っ白に塗りつぶされた。
そして、二度目の雷。
マストに直撃した雷は船を破壊し、バキバキと大きな音を立て船体が真っ二つに折れていく。
「きゃあっ」
傾いた甲板で足を取られた人々が次々に海に落ちていく。シエラも同じで、おじさんの手を握ろうとしたが間に合わなかった。
崖のようにそりたっていく甲板でシエラは為す術もなく海に投げ出される。
必死にもがいて海面に出ると、雷で燃えさかる船が見えた。そして、ヒビの入った空が赤いオーロラに包まれているのが見える。
こんな光景は今まで見たことがない。
明らかに何か異変が起こっているのだとシエラは感じたが、それが何なのかも、どうして起こっているのかも考える暇がなかった。
シエラは再び波に呑まれ、もがくこともできないままに意識を失ってしまった。




