8-3 とある恋の話
ユヅルハはバーテンダーという役職上、他の乗務員よりも多くの人の話を聞く機会があった。他愛のない世間話から、その人が深く抱える悩みまで、聞いた話の数は知れない。その話に応えることもあったし、ただ気の赴くままに話させて聞くに徹した時もある。
感謝されるためにしているというよりは、ただその人が望むように道を整えている、そんな気持ちの方がユヅルハには強かった。
そもそもが人間ではないのだ、人間への寄り添い方を知る上でバーテンダーをしているといってもいい。
龍であるユヅルハは、三十年ほど前に怪我をしてフォレシアに流れ着いたところをアデーレに助けられた。その恩を返すためにラピエス社で働いているのだが、最初のうちはまともに人とコミュニケーションが取れなかった。それを見越してかわざわざアデーレはユヅルハをバーテンダーとしてラウンジに配置したのである。
ユヅルハはそれでもまだまだ人間のことはわからない、と首を横に振るばかりだが着実に人の話を聞く能力はついてきていた。
ユヅルハが促すままに、シェリーは失恋の話を語りだす。
「二年くらい、付き合っていた人がいたのよ。とても優しい、いい人だったわ」
シェリーの恋人は、三年前にシェリーの絵のモデルになったのがきっかけで、付き合うことになったのだという。シェリーはまだ駆け出しの画家で、一日の大半を絵を描いて過ごしていた。もちろんそれだけで生計が立てられるわけではない。下町の食堂で働きながらの生活だった。そんな中、シェリーの友人から、絵のモデルになりそうな人を紹介してもらった。それが先ほど出てきた恋人だ。
「その人は、とてもいい人だったわ。顔つきが穏やかで、笑うとちょっとくすぐったそうな声で笑う人。私が働いてる食堂にも来てくれて、なんでもおいしそうに食べるから、店長にひどく気に入られてた」
「ええ」
ユヅルハは短く相槌を打ってシェリーの話に耳を傾ける。シェリーは恋人との話を続けた。
「絵のモデルは初めてなんだけど、じっとしていないといけなかったりするんだよね?」
「別に、自然体で座っていてくれたらそれで大丈夫よ。よほど激しく動かなかったなら、大丈夫だから」
シェリーの恋人は、できるかどうか不安な顔をしていたが、くすぐったそうに笑って椅子に腰掛けた。
長身でスラリと伸びた手足はゆったりと組まれ、質のいい家具のように違和感なく視界に映る。健康そうな顔は少し緊張気味に引き締められるから、シェリーはもっと力を抜いてと指示を出す。体の力はすぐに抜けて自然体になるのに、顔だけは引きつっているから妙な感じだ。
「モデルになるって思わなくていいわ。もういっそ空を眺めてぼんやりしてみて」
「そういうのでいいの?」
「いいのよ、そういうので」
シェリーもくすくす笑いながらアトリエ代わりの部屋の窓を開け放した。鳥が羽ばたく音が聞こえ、日差しに目を細める。
その人も眩しそうに目を細め、それからさらに遠くを眺めるような顔で窓の外を見やった。
絵にするにはあまりに素朴で、だからこそ残したくなるような表情をその人はしていた。
シェリーはキャンバスの前に座り、じっとその人を観察する。日差しに髪の毛が透けて、明るく光っていた。そのままシェリーは下書きを始めていく。
一通り描き終える頃には、日はすっかり傾いていて、だというのにその人はずっと外を眺めていた。
「すごいわね、本当に初めてのモデルとは思えないわ」
「そう? 上手くできてたなら、それはよかったかな」
「空を見ながら、何か考えてたとか?」
シェリーが聞くとその人ははにかみながら答えた。
「空の青さって、どうしてこんな色なんだろうって思ってて」
「空の青さ? 見たままに私は見えるけど」
「絵描きからしたらそうだけど、私は絵描きじゃないから。どうして空って青く見えるのかな、って意味を考えてしまうんだよ。たとえば……海の色が写ってるから、青いんだとか、空は泣き虫だからいつも水を溜めてて青いんだ、とかね」
「細かい理屈の話はあまり詳しくないんだけれど、どういう話かもう少し聞いてもいいかしら?」
その人がいうことが少し面白くて、シェリーはもっと聞いてみたくなった。多分、自然科学的なことではない、もっと詩的なことなんだろう。シェリーにはないものだ。だから、どんなものかシェリーは知りたかった。
何よりも、その人が何を考えて、どんなことを思って、話したいと思っているのかを知りたいと思ったから。それを自分に話してくれることが、興味を持ってくれていることが嬉しかったから。




