1-6 コトノハ海溝を抜けて
「まさに、今航行中の情報海と合致しますね」
アデーレが夏美の言葉に答える。
「情報の海、知識の大海。堆積した情報は知識となり時に私達を助けてくれますが、今対流している情報に、お客様は流されているように感じます」
「そう、ですよね。だから見たくないのに、でもスマホ見ちゃって」
「情報を得ることは人にとって快楽ですからね、そうそうやめられるものではありませんよ。ですが、快楽にばかり飲まれているといつか爛れてしまうのも事実。情報海であれば溺れてしまうのが関の山です」
「じゃあ、どうすればいいんですか? 海の中だからうまく泳げっていうんですか?」
少し投げやりな夏美の態度に、アデーレは首を横に振る。
「結論はそう急ぐものではありません。まずは水の流れに身を任せて、体を浮かせることから始めるとよいかと」
それで流されているから苦しいのに、どんどんアデーレの言葉が抽象的なものになっていくように夏美は感じた。
「具体的にどうすればいいかとか、教えてもらえないんですか?」
「そうですね、いっそのことここから飛んでみてはいかがでしょう」
「飛ぶって、何かの例えだとしても私にはよくわからないですよ」
困ったように眉を寄せる夏美に、アデーレはまるで動揺も見せずに懐から懐中時計を取り出した。その時刻を見た後、すっと立ち上がって夏美に手を差し出す。
「そろそろ次の世界に降りる頃です。よければご覧になりませんか? 気晴らしにはちょうどいいかと」
夏美は話をはぐらかされたような気にもなったが、情報海を抜けた先は自分の行きたいところだと聞いていたから、ちょっと気になりはした。
アデーレについて行くまま、また船首の展望室を訪れると、相変わらずユヅルハがグラスを磨いている。船はどんどん海の底に向かっているようで、じりじりとノイズの走る魚も刺々しい言葉も見えず、ただ難しい漢字や図形のようなものが複雑に折り重なった岩場になっていた。
展望室に備え付けの伝声管をアデーレが開く。
「レア、今の状況を」
最初に聞いた操舵士の名前だ。少しもしない内に、レアらしき威勢のいい女性の声が伝声管から響いてくる。
「現在コトノハ海溝を沈降中、もうすぐ世界の狭間を突っ切るよ」
「だそうです。狭間を渡る際は揺れますので、どうぞご着席ください」
アデーレに促されるまま夏美は展望室のソファに腰かけるが、まだ納得したわけではない。
「飛んでみるっていったって、深海なんて水圧とかで泳ぐとかできなさそうだけど」
「堆積した知識は思考の圧をかけて知恵へと昇華されるものですよ。この水圧もまた必要なものなのです」
「説明になってないなぁ……」
夏美がどっかりとソファにもたれて展望室の窓を見やる。ノイズの魚はもはや見えなくなり、オルテンシア号のライトに照らされた深海で、ふわふわゆらゆらとクラゲが幻想的にたゆたっているのが見える。
「クラゲだ……きれい」
「知識を糧にたゆたう思考クラゲですね。思い立っては現れて、ふとしたときに消えてしまう儚い命ですよ」
アデーレが説明した矢先にクラゲはふわりと宙返りして消えてしまう。本当に消えてしまって夏美は驚きとあっという間に消えてしまった儚さに声を上げた。
「消えちゃうんだ、せっかく出てきたのに」
「出てきたクラゲを育てれば大きくなるでしょうが、そもそも育てるにも一苦労なんですよ」
アデーレも夏美の向かいのソファに腰かけ、展望室の窓を見やる。
夏美がぼんやりしていると、やがてぐらり、と大きく船が揺れた。船が揺れたのは初めてだったから、夏美は驚いてソファの肘掛けを握りしめる。
アデーレは慣れているのか腰かけたまま展望室の窓の向こうを眺めていた。
「あの、世界の狭間……ってところですか」
「ええ。コトノハ海溝の底は別の世界につながっていますからね。狭間は揺れますから、心配であればソファにしっかりと腰かけておいてください」
夏美が改めて外を見れば、先ほどまで水の中だったオルテンシア号は空ともどこともつかない、宇宙のような空間を進んでいた。ちらちらと星のように散らばる光がいくつもあり、夜空とか、宇宙空間とか、そう言われたらそのまま信じてしまいそうなところだ。
「世界の狭間って、宇宙なのかな」
「宇宙、珍しい響きです」
宇宙という言葉を知らないのかアデーレが興味深そうに夏美を見つめる。まっすぐ空色の瞳に見つめられて、夏美は少し気恥ずかしくなってしまった。
「私もよくは知らないんですけど、たくさんの星があって、空気とか重力とかがない場所で……えっと」
「しっかり知っていなくとも、認識があるだけで違うものですよ」
また、船体が揺れる。揺れるといってもそこまで揺れなかったので、夏美はしっかり座っているだけで大丈夫だった。
暗い狭間を抜けた先、アデーレはすっと立ち上がって夏美に展望室から見える景色を指し示す。
「到着です、お客様。情報海経由で訪れましたのは、空想界。あらゆる想像で象られた、思いが形となる世界でございます」




