3-6 エーヴェルの過去
そんなエーヴェルは、ふと昔のことを思い出す。アデーレに拾われた頃の記憶だ。どこの世界だったか、今はもう訪れることのない世界でエーヴェルは暗殺稼業に手を染めていた。そもそもが孤児で身寄りのないエーヴェルは、裏路地で金を稼ぐ仕事をしていくうちにいつしか人を殺める仕事をしていた。
借金を踏み倒したいから、高利貸しを殺す。商談に邪魔だから、競合相手の商人を殺す。そんな都合の悪い連中の都合をよくするための仕事ばかりを請け負っていた。どれもこれもエーヴェルを体良く使いたい連中の差金だ。そういう奴らの手のひらの上でいいように踊っていれば飯を食いっぱぐれることもない。そういう生き方で今まで生活してきた。
だが、何事にも終わりはくる。とある要人の暗殺でしくじってしまった。怪我を負ったエーヴェルは頼るところもなく橋の下に身を隠していた。
捕まれば死、雇い主は成功以外を認めない人間で、失敗したらそもそも足がつかないようにエーヴェルごと始末する算段をとっていた。結果的に、エーヴェルは一人で野垂れ死ぬか捕まって殺されるかのどちらかしかなかった。
「ひどい最期だな……」
夜の街、暗い橋の下でエーヴェルは自嘲する。結局日の目を見る前に死んでしまうのだから、碌でもない人生だ。石ころのように扱われ、石ころのように忘れさられる命だった。
諦めてナイフを喉元に突き立てようとして、凛とした女性の声に制止される。
「こんなところでお怪我とはめずらしい。早まる前にお話しを聞かせてはいただけませんか?」
暗がりでも目立つ空色の髪ときっちり着こまれたスーツ。
エーヴェルがアデーレに拾われた夜のことである。
そんな過去を持つエーヴェルだから、今のプリムローズの考えには納得ができない。
利害のためだけに人付き合いをしていたばかりだから、いつも自分の感情の赴くままに動くなんてできっこなかった。
理解に苦しむとともに、そんなプリムローズの感覚に少し羨ましくもなった。こんな風に感情の赴くままに行動すると言うことをエーヴェルはまだ一度もしたことがなかった。一度でもそう振る舞ってみれば、何か変わりもするのだろうか。
横にいるプリムローズに、エーヴェルは声をかける。
「なあ、あんたは、どうしたいんだ?」
「私が、ですか?」
「このまま逃げるのか、それともおとなしく月の国まで連れてかれて婚約者に会うのか、どっちにするんだ」
エーヴェルの問いにプリムローズは静かに窓の外を見つめて答えた。
「まだ迷っていますの……エーヴェル様が好きなことは確かですわ。でもそれと同じくらいにローカス様も慕っておりますの。こんな気持ちのままローカス様に会っても、きっとローカス様には失礼だと思うんですの。そもそも、こんなに移り気な私でいいのかとも思い始めて……」
「要は一人を愛することができないのか」
「その通りかも知れませんわ。私、自信がなくなって参りました」
「責めてるわけじゃないんだけどな」
しょぼくれるプリムローズにエーヴェルはまた頭をかいて首をひねる。
プリムローズはローカスを愛していることは本当だろう。本人の言葉を信じるならきっと運命的な人であることは間違いない。だが、そこにエーヴェルが現れてしまった。移り気気質なこともあり、ローカスへの恋情が見えなくなっているのだろう、そうエーヴェルは推測する。
「誰かを好きになることは結構なことだが、博愛でもない限りはちゃんと選んでやるのがそいつに対する筋ってもんだと俺は思うけどな」
エーヴェルはそう言って展望室に向かう。プリムローズが楚々と後ろをついてくるが、あまり気にせずに歩いて行った。
「おいユヅルハ、ちょっといいか?」
「おや、どうされました」
船首の展望室に入るなりエーヴェルがそう呼びかけると、ユヅルハがおやと磨いていたグラスから視線を上げる。
「ちょっとお嬢さんに元気になれそうなものを頼む。ちょっと話し込んで疲れちまったからな」
「構いませんが。プリムローズ嬢、どうぞこちらへ」
ユヅルハが席を勧めるとプリムローズは上品に礼をしてカウンターに着いた。
「花人でしたら、こちらのミネラルウォーターがおすすめかと。純度の高い澄んだ水ですので」
「ええ、お願いたしますわ」
「かしこまりました」
ユヅルハは手慣れた動作でミネラルウォーターの瓶を開け、丁寧にグラスに注いでいく。それをエーヴェルはカウンターの隅で寄りかかりながら見ていた。
展望室の窓から見える景色は花の国の端まで来ていて、花びらの舞う温かな光景から紙を破いたような世界の狭間が遠目に見える。
「こちら、極北のミネラルウォーターでございます」
滑らかな所作でユヅルハが差し出したグラスを受け取ったプリムローズは、早速一口飲んで息を吐く。
「涼やかな味ですわ。とてもおいしい」
「恐縮です」
一礼するユヅルハを見やった後、エーヴェルはプリムローズに言った。
「それで、なんだが。俺を諦めるって気分にはなったか?」




